名前
前回の続きです。
レーアが帰ってきた。
彼女は、白いシャツと、焦げ茶色のズボン、紙袋に入った食べ物を抱えて部屋のドアを開けて立っていた。
「着替えと食べ物を買って来ました」
改めてレーアの姿を確認する。明るい茶髪の髪は穏やかに波打っていた。手に持った荷物を置くと、その髪をかきあげる。
彼女は、目鼻立ちのはっきりとした顔をしていて、美しい。しかし、近寄りがたさは感じない。それに柔らかい声や、笑顔はどこか愛嬌があった。レーアは、シャツの上に余裕があるワンピースを着ている。アクセサリーなどの飾り気の無い服装は、かえって優雅に見える。これは私情が入ってしまっているだろうか?
「おぉ、ありがとう。そうだ、紹介しよう。こちらがレーアだ」
「レーアです。初めまして。貴方のお名前は?」
私自身不思議なのだ。何故元居た世界も、言葉も覚えているのに、名前だけ覚えていないのだろう。
答えたくても答えを知らない。私しか答えられないのに私が知らないというのは何ともどかしい事か。
「あぁ、彼は名前を覚えて居ないそうだ。……しかし、名前が無いと不便だなぁ。いっそ私たちで考えてやってはどうだろう?」
「それは良い考えですね。貴方は如何ですか?」
「はい。……僕もそうして頂けるとありがたいです」
思わずそう答えてしまったが、一体何と言う名前を付けられるのか。もしも変な、しかもまるで蔑称まがいのひどい名前であったなら、私はこの家を今すぐに飛び出してしまうだろう。
「フリードリヒ·ヴァン=ファンハウゼンなんてどうだろうか? まるでどこかの貴族のように聞こえる気がするが」
「叔父さん、それは長すぎる気がします。私たちが覚えられなければ意味が無いのでは?」
「確かにそうだな……」
喜ばしい事に、先程より表れた不安は杞憂に終わったようで、しっかりと、しかも苗字までご丁寧に考えてくれている。私も何か提案した方が良いかもしれない。
「アレクサンドレとか。如何ですか?」
レーアの提案も悪く無い。しかし一つ良い名前を思い付いた。私も発言しよう。
「エリック!」
そう言った後、耳に暫し残響が漂い、私たちは顔を見合わせた。3人の発言が調和した。何よりも驚きなのは私たちが皆同じ名前を頭に浮かばせた、という事だろう。
「エリックか……」
「エリック……覚えやすくて呼びやすい、良い名前ですね」
「僕も良い名前だと思います」
エリックという名前は、どこかの国では支配者とか、勝利者と言った意味が込められた名前だったはずだ。
私は俗語としてのエリックという単語が持つ、愚か者や、間抜け、冴えない男と言った意味が、自分にしっくり来るような気がした。少なくとも一回以上死を試みた愚か者だし、見た目も頭も冴えない。そもそもそんな考えを抱いている事が間抜けそのものだろう。
「では、エリックと君の事を呼ばせてもらうよ」
「はい。名前を考えて下さってありがとうございます」
「それでは、私はご飯を作って来ます。失礼しますね、エリック」
レーアは、部屋に入ってきた時と違い、優しくドアを開けて出ていった。その際に、クランク博士の方を一瞬見て、私を一人にしてやるように促している様子が伺えた。
「では私も失礼するよ。食事の際に話を聞かせてもらうよ」
「はい。分かりました」
クランク博士も部屋を出ていき、一人になった。そこで、レーアが買ってきてくれた服に着替えることにした。それにしても、今着ていた服は酷いもので、シャツは色褪せて皺だらけ、ジーンズは傷だらけで穴まで空いていた。ボロ布もどきに見えるる。なのでまだ残っているボタンを外し、新しいシャツに袖を通した。外で売られて居たものなのか、太陽の暖かさを感じた。それに焦げ茶色の長ズボンを合わせると、20世紀始めの労働者の様な服装となり、少し、ほんの少しだけだが、この世界に溶け込めた気がしてくる。
タイムスリップした気分だ。だけど、まだこの世界には、とんでもない発見がある気がする。そうであってほしい。希望的観測に過ぎないが、この場所にまだ見たことの無い、私の少年のような好奇心をくすぐる発見が無いのなら、結局何も変わらず、きっとまた同じ事を繰り返してしまう。
少し部屋を見渡す。12畳ほどあるだろうか。すると本棚があった。装飾は無いが重厚な造りで、図鑑、辞典、歴史書、地図などが間隔を開けて並べられていた。
しかし、近付いて眺めると、一つ気付いた事がある。その本の背表紙に書かれているのは日本語ばかりで、理解できない言語は使われていないのだ。ここが日本には思えないし、レーアやクランク博士の名前からしても違う。
また、部屋を見回して、角に目をやった。すると、机の脇に青い球体が見えた。地球儀だ。本棚の側から歩いて行き、片膝を付いて手に取り、大量の埃を払って机の上に置いた。その際に思わずくしゃみが出そうなる。埃は苦手だ。
そして地球儀を回して見ると、そこに見慣れた世界は無かった。明らかに陸地と海の形が違うのだ。さらに国の形に名前も違う。これが嘘で無いのなら、タイムスリップという可能性は薄くなる。しかし謎は深まり疑問は増えるばかりだ。
コン、コンと二回、部屋の木のドアを静かにノックする音が聞こえた。その軽い音からして、レーアだろうか。
「エリック、ご飯が出来ました。もし、よろしければ私たちと一緒に夕食を如何ですか?」
「はい。是非」
「では、お皿を並べて置きますので、いつでもダイニングにいらして下さいね」
「分かりました。ありがとうございます」
レーアが階段を降りていく音が聞こえた。気が付かなかったが、窓から外を見ると、黄昏時だった。夕食の時間だったとは。しかし、ここに来てから、ありがとうございますとしか言っていない気がする。
流石にこのまま世話になり続けると言うのは、申し訳無いので、何か手伝うか、仕事を見つけるかした方が、私の精神衛生には良さそうだ。
とりあえず部屋を出て、あまり二人を待たせない様に階段を降りる。すると、匂いがした。今まで感じた事の無い香りで、興味をそそる。そしてダイニングまで行く。
ダイニングには、テーブルクロスが掛けられた、四角い大きなテーブルが中央にあり、それを囲むように椅子が四つ並べられていて、その一つにクランク博士が腰掛けていた。
「ああ、エリック。いらして下さったんですね。どうぞ、空いている席へ」
レーアがそう言うと、クランク博士が手招きをしていた。これは色々と訊かれる事になるだろう。そのまま料理が並べられたテーブルへと向かい、クランク博士の左斜めの椅子を引いて腰掛けた。
「痛っ」
ずっと忘れかけていたが、背中が痛んだ。背もたれにクッションの無い椅子に座ったからだろう。まだ夢の中に居るような、接地感の無さに気を取られて忘れてしまっていた。それについても訊かなければ。
「クランク博士。一つ訊きたいことがあるのですが」
「何だい?」
「背中がずっと痛むのですが、何かご存知無いでしょうか?」
「あぁ、その事か。私たちが市場から帰る時の事だ。あれは、2階位の高さだったか、突然君が降ってきたんだ」
「突然ですか?」
「ああ。突然だ。私が説明してほしいくらいだが」
なるほど。それならこの背中の痛みにも合点がいく。私がこの世界に来る前の、最後の位置として覚えているのは、自宅アパートの2階に居たことだから、この世界の同じ座標に転移したと考えるのが妥当だろうか。それなら私は平行世界にやって来てしまったという事になりそうだが……。
そうして会話をしていると、レーアがメインの料理をテーブルへと運んできた。
「いただきます」
3人で手を合わせてそう言った。どうやらこの文化は日本とそう変わらないようだ。
それにしても、こうして食卓を囲むのは大分久しい気がする。食べ始める。
少し脇を見ると、クランク博士が何やらポケットから、あのメモ帳と鉛筆を取り出そうとしているのが見えた。食事よりも私の話を優先すると言うのは、中々複雑な気持ちだ。そんなに気になるのだろうか。
「そう言えば、エリック。君はどこから来たんだい?」
「地球の、日本という国からです」
「なるほど。異星人では無いと推測される……と」
クランク博士はそれをメモしているが、私を何だと思っているのだろう。それかこの世界には異星人でも居るのか? いや、地球から来たと言った私も大概だろう。
「この世界には異星人が居るのですか?」
「いいや。エルフと魔法使いは居るが」
思わず耳を疑ってしまう。おとぎ話の中の存在が実在すると言うのだから、この目で確認するまでは信じがたい。
「町の中心部へ行くと、エルフや魔法使いの方々と会えると思います。もし良ければ案内しますよ?」
「では、その際はよろしくお願いします」
「はい。分かりました」
そしてスープを飲み干せばこのディナーもお開きである。
「エリック。料理の味は如何でしたか?」
「とても美味しかったです。是非ともまた食べたいです」
「ええ、もちろんです。高い物ではありませんから、いつでも作って差し上げられますよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
そこで、少し気になった事があったのを思い出した。
「あの、部屋の本棚の本は読んでも構わないでしょうか?」
「あの部屋は私が小さかった頃に使って居た部屋で、殆ど使うことはありませんから、構いません。何か知りたい事が?」
「はい。この世界の事がまだあまり分かっていないので……」
すると食事をすべて食べ終えたクランク博士が私たちの会話が終わるのを待って居た。
「エリック、まだ訊きたいことがあるんだが、良いかな?」
「叔父さん、エリックを休ませるためにここにご案内したんですから、程々にお願いしますよ?」
「ああ。もちろん分かっているさ」
そう言うとレーアは食器を片付け始めた。手伝おうとしたが、クランク博士に呼び止められた。
「それで……君はこの世界以外の所から来たのかい?」
「はい。恐らく」
「そうか、それは興味深い」
クランク博士はまた意味不明なメモを書き始めた。何と書いてあるか読めない事も無いのだが、会話と繋がりが無かったり、意味が分からない言葉が書かれていたりする。あれでも頭の中にあることを整理できているのだろうから驚きだ。
「そう言えば、どうして僕をここへ案内しようと思ったんですか?」
「常人なら怪我をする高さから落ちたから、と言うのと、私は君に深い興味を持ったからだよ。君にはまだ見ぬ何かがある気がしてね。私の中の少年が疼いたんだ」
その血走った目からは、その言葉が冗談で無いことが伝わってきた。しかし、初老の彼は、少し疲れた様子であくびを繰り返していた。なので、彼を休ませると言う意味でも、一度その場を後に、2階の部屋へ戻る事にした。改めてレーアにご馳走のお礼を言い、ダイニングを後にする。
2階への階段を登る際、レーアの肖像画に目は行かなかった。この世界に一体どんな事実が待っているのかを、知ることができるという事に、心は高鳴った。
しかし、少し、いや、かなりクランク博士に影響されてしまったかもしれない。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。不定期更新な上に、ストーリーの進展が遅いです。改善点などありましたら、教えて頂ければ今後の励みになります。