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「風の街エレジー」  作者: 時枝 可奈
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7 「険雄」

 銀一と同じ年の幼馴染、神波春雄が朝早くに訪ねて来た。朝と言っても、まだ日の上らない四時という時間である。呼び鈴の音に何事かと起きて出た銀一の母リキは、鍵を開ける前に誰かと尋ねた。低く小さな声で、

「神波です。春雄です」

 と答える声に、リキはほっと胸を撫でおろして鍵を開ける。

「びっくりした。早くからどうした?」

 玄関の戸をガタガタと横に開けると、背筋を真っすぐに伸ばした青年が立っていた。身長は百七十五センチの銀一と同じ位で、上半身は服の上からでも鍛えられた筋肉の盛り上がりが見て取れる。しかし全てが大きい骨太な竜雄とは違って、どちらかと言えば和明に近い細身の印象である。

 春雄はリキと顔を合わせるなり、頭を下げた。

「おはようございます」

「おはよう。春雄、久しぶりじゃねえ、また男前になっちゃってさあ」

「ご無沙汰してます」

 ニッコリと笑った春雄の顔は、銀一と同じく二十一歳ながらとても大人びて見えた。美男子だがどこかにあどけなさを残す和明と違い、整った彫りの深い顔立ちには精悍という表現が良く似合う。

「朝早くにすんません。銀一、まだ寝てますか?」

「ああ、多分、どうやろう」

 言いながら家の中を振り返るリキに、「起きてる」と声を掛けて中から銀一が出て来た。物音に気付いて目覚めてはいたが、服を着ている間にリキが先に出てしまったのだ。

「おお、すまんな、銀」

「かまわん。外で話そか」

「おお」

 リキは息子とその幼馴染を交互に見やり、

「ええよ、中で話しな」

 と言ったが、翔吉の眠りを妨げる根性が、彼らにある筈もなかった。




 遠くの空で薄っすらと夜明けの気配を感じる。

 犬が鳴き、音もなく風が吹いた。

 銀一が春雄と会うのは、二ヶ月半前のお盆以来だったように思う。懐かしいというわけではないが、前回会った時の印象よりも少しだけ逞しく見える友の姿に、どこかほっとする安堵に似た感情が、じわりと銀一の胸に広がった。まだこの時点では、銀一の方から春雄に対して西荻に関する話は何もしていないが、今はただ春雄の落ち着き払った印象と、見たままの逞しさが銀一には有難かった。ビビッてんちゃうぞ。と己を鼓舞するものの、口には出せない。

 静かな路地を並んで歩きながら、二人は声を落として話をする。

「昨日の晩には帰っとったんじゃが、遅かったもんで」

 会いに来なかった言い訳を口にする春雄に、お前は女か、と銀一は思った。しかしそうとは言わず、

「ああ、構わんよ、お疲れさん」

 と笑って返した。きっと竜雄なら思った事をそのまま口にしているだろうな、と銀一は思った。

「なんでこんな時間に?」

 続けて銀一が聞くと、右横を歩く春雄は小さく頷いた。

「和明がな。昨日大分と遅なってから、夜明け前に海出んならんようなったーって、わざわざ出る前に顔見せに来たんじゃ。いるかと思って来てみたら、おるじゃないのーって、ケラケラ笑ってた」

「へえ、あいつらしいな」

「竜雄が今朝入れ違いで街を出るって聞いたもんでな。この後顔出そうかと思って」

「早えって」

「すまん。実はさっきまで和明と飲んどった」

「そうじゃろうのお、酒臭せえもん」

「なるべく小声で話しよったんやけど、おばさん気付いてるかな」

「当たり前じゃろうが」

「っはは、まあそう怒るな。何かと積る話もあってだなぁ。…ただお前、こっちはこっちで凄い事になっとるじゃないの」

 銀一は答えず、懐から煙草を出して一本銜えた。

「お、『わかば』か、ハイカラだねえ。くれや」

「家では吸えんからな。全部やるわ」

「そうか。じゃあ、遠慮なく」

 二人は立ち止まって煙草に火を点け、穏やかな早朝の時間を楽しむように、煙を吐き出して空を見上げた。

「いつ戻るん?」

 と、銀一が夜明け前の空を眺めたまま尋ねる。

「…仕事か? おお、一週間休み取れたわ」

「ほお、そうかい」

 珍しそうに、銀一は春雄の顔を見つめた。

 春雄の就いている造船業という職種について明るいわけではないが、とにかく危険で重労働という噂だけは、銀一も聞いた事がある。銀一は子供の頃から遊び感覚でと場に出入りしていた為、食肉加工の仕事をきついと感じた事はないが、一般的には環境面・作業面含めて過酷であると言えた。その銀一ですら、屋外での高所作業や休日出勤、高確率な怪我の危険性や薄給といった、悪条件の向こう側に見える船作りという仕事をあまり魅力的だと思った事はなかった。

 いつだったか春雄の語った、『とにかくバカでかい物が好きなんじゃ』という言葉だけは何となく理解出来た。見上げる程巨大な鋼鉄の塊を、職人仲間とコツコツ積み上げて行く達成感は、他の仕事では味わえないと言う。春雄の見ている風景と同じも物を見る事は出来ないが、仕事そのものに幸福を見出せる彼を、銀一は尊敬していた。

「俺もよ、ちょっと面白い話があってよう」

 と、春雄が切り出した。

「ついこないだ、ふらっと、俺の職場にケンジとユウジが来たんだわ」

「え。いつ?」

「一週間ちょっと前。びっくりしたぞお。こっちで見る事はそうそうないと思ってたからな。俺に何か用があってわざわざ出て来たんかって聞いたら、人を探してたら辿り着いたって言いよるんよ」

「…人?」

「何を言いよんじゃウソくせえって。したら、なんかおかしな奴見つけたら、しばらくこっちにいるから連絡せえ言うて、どっかの家の電話番号置いてった」

「ああ? 何じゃいそれ」

「変やろ?」

「変もなにも、お前東京やろ? あの二人がわざわざ東京顔出して、そんな可愛らしい事だけ言うて、お前にいっこも手出さんで引っ込んだってか?」

「ああ」

「はあ!?」

「あははは、俺も銀と同じ顔してたと思うわ」

 銀一は呆けたように口を開いて、閉じるのを忘れてしまった。

 春雄の言うケンジとユウジは、時和会系列の準構成員である。

 名を、黛ケンジ、花原ユウジといった。

 藤堂や志摩と違い、時和会に正式に名を連ねているわけではないが、基本的には時和会から仕事を貰って飯を食べている。その仕事が何かと言えば、喧嘩と恐喝である。

 年齢は銀一達の一つ下で、今年二十歳の筈だが誰も正確な事は分からない。全ては本人達の自己申告に過ぎず、二人とも字が書けない為ケンジもユウジもどのような漢字なのか定かではない。橋の下で拾われて来たという説もあるが、顔が全く似ていない為兄弟という線は薄いようだ。

 昔から、ただひたすらに喧嘩が強かった。名を馳せるようになってからは、ヤクザが先生と呼ぶ伊澄翔吉の再来と言われ、二人がかりで挑めば片腕の翔吉に勝てると目された逸材であった。『片腕』という鍵括弧付きとはいえ、この街においてそれは勲章だった。

 幼少期より二人が揃うと所構わず人を殴り始める為、十五歳まで二人は別々の人間に育てられた。ケンジを育てたのが時和会の元幹部・黛光哲。ユウジを育てたのが時和会とは同じ系列に位置する酒和会の元幹部・花原茂美である。二人の苗字を貰って黛と花原を名乗るが、離れて生活するようになっても相変わらず手の施しようがない悪童ぶりで、彼らを育てた二人もほとほと困り果て、十五歳になると同時に匙を投げるように元の街へ突き返した、という話であった。

 この当時、ヤクザ同士の抗争は赤江でも、その他の街においても日常茶飯事だった。暴対法施行前のこの時代、抗争は大小問わずいたる所で勃発し、堅気の近隣住民に被害を与える事件もしばしば起きていた。連日ニュースを騒がせた時期もあり、大きく問題視されるようになるまでに時間はかからなかった。懲役覚悟の鉄砲玉をいくら揃えようが、街中で派手なドンパチを繰り広げるわけにはいかないそんな時でも、ケンジとユウジは水を得た魚だった。ドスが無くとも、ピストルも持たせずとも、敵対組織の幹部をいとも容易く拉致って山の中で半殺しにする。例え街中であっても、壊れたマシンのように暴虐の限りを尽くす。刺されても、ピストルで撃たれても、死なない限り向かっていくのが生粋の喧嘩師、ケンジとユウジであった。そして何より重要なのが、逃げ足がとことん早かった。

 仕事の力量だけで言えば、組織内で重要な役職を任されていてもおかしくはない。しかしまだ年齢が若く最初から本人達が誰の下に付く気もないのと、時和会としても荒事担当の彼らをいつでも足切り出来るように、正式な構成員として積極的に迎え入れようとはしなかった。

「灰、灰」

 春雄に言われて、銀一は我に返る。煙草の灰が、文字通り一服しか吸わないうちに大分と灰に変ってしまった。

「ああ、ああ」

 慌てて吸う。

「そいで電話番号って、何」

 銀一の問いに、春雄は声のトーンを落として答えた。

「向こう出る時に響子が教えてくれた。…酒和会の番号やった」

「やっぱそっちの話か」

 酒和会は以前、花原ユウジが世話になっていた関東ヤクザである。春雄のいる東京のとある街にも、組事務所を構えている。響子とは春雄と共に東京で暮す、彼の恋人の名である。

「それで、帰って来たんか?」

 ケンジとユウジの来訪を訝しんで、赤江に戻る事にしたのか、という意味である。

「いや」

 と春雄は首を横に振る。

「休みはもともと(会社に)言うてあった。タイミングはこっちが先よ」

「そうかい。それで、怪しい奴なんかおったの?」

「おるかいや。平和なもんよ、あっちは」

「そんなもんあいつら自身が、おかしな連中じゃろが」

「全くよ。現場の人間も気が荒いからヒヤヒヤしたって」

「よお大人しい帰ったもんじゃな」

「まあ、確かにな」

「…」

「…よっぽどさ、急ぎの用でもさ、あったんじゃあ、ないのかなあ」

 何かがあったらしい事は、春雄のわざとらしい口調が物語っていた。

「あはは。へえ、春雄くんも、丸くなりましたねえ」

「昔は顔見ただけで殴り合ってたけどな」

 ユウジと離れて生活していた十代前半、ケンジは隣町の時和会で面倒を見てもらっていた。その時代、同じく暴れ者であった銀一達ともよく殴り合いの喧嘩を繰り返していた。お互い鼻血で顔面が血塗れになりながら、角材やらバットを引っ掴んで殴りあった。大抵一つ年上の銀一が勝つのだが、子供時代のケンジはよく泣きはするがそこからが粘り強かった。痛い痛いと泣き喚きながら、それでも襲い掛かって来るのをやめないのだ。銀一は段々可哀想になって来るのだが、向かってくる以上は全力で殴り続けた。

「…ふ、あのナシケンと、ハラハラがな」

 と銀一は言い、鼻で笑った。

 二人はこの街では陰で、『ナシケン』『ハラハラ』と呼ばれている。黛ケンジはその名に似合わず眉毛が全部ない。片やユウジは活舌がよろしくない上に前歯がほぼない為、花原と発音しても空気が漏れてハラハラと聞こえるのが由縁だが、面と向かっては誰も口に出せない。言うとするなら、この銀一達だけである。今でも、偶然街中でケンジと顔を合わせば『眉毛の借りは絶対返してもらうからな』と言われるのだが、彼の眉無しと銀一は無関係である。ちなみにユウジの前歯がないのは、トルエン(シンナー)が原因である。

「なあ。何かあったのか言うてみ?」

 と、春雄が聞いた。

 銀一は話すのをためらっていたが、観念したように煙草の煙を長く吐き出して、頷いた。

「危うく藤堂と揉める所やったって?」

 半笑いで春雄が言うと、銀一は首を横に振って「してやられた気がするわ」と答えた。

 春雄は声に出して笑い、

「和明もそう言うとった。見た事もない連中がいきなりちょっかい出して来たってな」

「ああ」

「『雷留』やろ? いつもお前らが出入りしてる居酒屋で、たまたま時和が飲んでる席で、向こうも四人で、笑ろてまうぐらいのチンカスやったってな。出来た話があったもんやわ」

「普通気付かんよ、そこまでは」

「俺がそこに、おったらなあ」

「よー言うわ」

「喧嘩なんか飽きる程してきたもんな。相手が時任建設で、その後ろで藤堂がふんぞり返ってるなんざ、まあ、この街じゃあ当たり前の光景やしな」

「おお」

「ただ、西荻の一件が絡んどるって? それはお前…」

 薄々、銀一も感じ取ってはいた。事実関係を知らなかった為頭で理解は出来ていなかったが、藤堂の前に座らされた瞬間、確かに嫌な予感がしたのだ。企業舎弟とも言える時任建設の若い衆を潰されて笑っている藤堂も気味が悪かったが、西荻の名前を聞いた瞬間背筋がゾっとするのをはっきりと感じた。春雄の言葉で、今それは確信に変わった。

『俺達は、動けない時和会の代わりに、何かに利用されようとしている』

 不意に、春雄が笑った。

「飲みの後、志摩がひょこひょこ付いて来て『護衛だ』って抜かしたそうやな。お前ら、クンロク入れられとるじゃないの」

「あいつマジで、ぼてくらかしたったら良かったわ。響子には悪いけど」

「あはは、俺は構わんぞ」

「はーあ。面倒くせえ!」

 銀一が本音を漏らすと、春雄は愉快そうに笑って、まあまあとなだめた。

「竜雄、平助から相談受けてるってな。人助けと思って、まあ、それでええんじゃないの?」

 銀一はギロリと春雄を睨み付ける。

「言うからには、お前も手伝えよ?」

「っはは。おお、そのつもりよ。任せとけ」

 やっと言えた、と銀一は思った。そしてやはり春雄は、信頼出来る頼れる友だった。

「…煙草一本くれる?」

「何本でも吸え」

「悪いな。…いや、俺のや」

「元な。…今は俺のや」

 やはり家で話さなくて良かったと思う程、銀一は大声で笑った。












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