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「風の街エレジー」  作者: 時枝 可奈
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6 「豚喰」

 


 志摩が側にくっ付いていたせいで、竜雄の本心を聞けないまま別れる事になった。竜雄は別れ際まで苦虫を噛み潰したような顔をしており、何かを言いたそうにしていた。銀一もそれを聞いてやりたかったが、口に出せない理由が志摩にあると踏んで、こちらから聞くことはしなかった。

 和明は志摩が偉そうに喋る度、彼の腹を殴った。傍からだといじめのように見えなくもないが、銀一達は皆、志摩がこの程度の柔な男でない事を十分承知していた。和明も当然それを踏まえた上で、自分の憂さ晴らしが相手の本気に火を点けないよう手心を加えた。

「どこまで付いてくる気じゃ」

 銀一はついに家の前までくっ付いて来た志摩を睨んだが、

「挨拶くらい、せんとな」

 と、飄々とした顔で志摩は答えた。

「誰に?」

「お前の、お母ちゃんやないの」

 竜雄、和明と別れて帰宅した銀一を、母リキが出迎えた。

 五十前のほっそりとした身体つきは、まだ女としての色気を十分残しており、志摩はすぐに藤堂の言いつけを思い出した。

 伊澄の家の近所を出歩く時は素通りせず、必ず挨拶に伺う事。そしてリキには必ず自分の事を褒めて聞かせる事。志摩は藤堂から、この二点を義務付けられていた。藤堂の年増好きは昔からだが、確かにこのリキという女性は若い女にない魅力があるように、志摩も感じていた。実際は自分の母親と変わらない年齢の筈で、口が裂けても言えるわけがないのだが。

「遅かったね。晩御飯どうする」

 とそこまで言った所で、銀一の背後からにゅっと顔を出した志摩を見て、リキは顔をほころばせた。

「あらま、時和会のニューエース、志摩太一郎くんじゃないのさ」

「あはは、藤堂兄貴のおかげですわ」

 志摩は明るく笑って返すものの、実際腹の中では「かなわんな」と思っていた。若いとは言え時和会から盃を受けた正式な構成員の自分を、明らかに子ども扱いしているのが分かった。この時以外でもリキの態度は常に同じで、他の組員達が居合わせる場所でも、志摩の頭をポンポンと叩いて「ご飯食べに来ー」と朗らかに笑う女性だった。「どえらい人やの」と志摩自身がよく銀一に零していた。愚痴ではなかったが、どこかで拗ねているように、銀一には思えたという。

 この時代、特にこの街において堅気とヤクザ者の距離は現代よりもずっと近かった。しかし貧困と差別に虐げられる住人がひしめき合って暮らすこの街においても、ヤクザ者は時に後ろ指をさされる存在と言えた。

 抗争で軽々しく命を散らす、徒花のような若者も後を絶たない。博徒系ヤクザである時和会には、流れで覚せい剤に手を出す組員も多かった。羽振りが良く小粋に決めた若い衆もよく見かけたが、一年と経たずボロボロになっていく姿を、リキは何人も見て来たそうだ。銀一は子供の頃からそんな話を聞いていたし、特別毛嫌いする事もない反面、ヤクザになる気はさらさらなかった。

「先生は、おいでですか?」

 と志摩が頭の位置を下げつつ聞いた。リキは一瞬ぽかんとなって、あやふやに頷いた。

「…なんだって?」

「父ちゃん」

 と銀一が言うと、リキは真顔で「先生?」と聞き返した。

「いや、ええんです。気にせんでください。今、外出されてますか?」

「うちの人なら今風呂に入ってるけど。上がって待ってなさいよ。ごはん食べた?」

「たらふく飲んで来たんで、お気持ちだけ」

「そうかいな。まあ、上がりいよ、汚い家で申し訳ないけども」

「すんません、待たせてもらいます」

 伊澄銀一の父・翔吉は、この街では相当名の知れた男であった。若い頃からとにかく喧嘩が強いと有名で、仕事は銀一と同じくと場で牛を「割る」職人として様々な店を転々とし、その都度重宝がられて来た。ノッキングと言って、解体する牛を気絶させる為の手段として、長い柄のついた鉄製のハンマーを振るって牛の眉間を叩くのだが、ある時新人が打ち損じて暴れ狂った牛を捕まえる最中、左腕を突き上げられて大怪我を負った。十年前の事だ。以降左肩から先を失い、片腕となって仕事をやめざるを得ないと誰もが諦めたが、なんと彼は右腕一本でハンマーを振るい、両腕の時と変わらぬ精度で牛の眉間を打ち抜いた。欠損した人体のバランスという物を考えると普通はあり得ない事だけに、とにかく荒くれ者の多いと場において、翔吉は誰もが一目置く伝説の職人となった。もちろん食肉加工の仕事は牛の眉間を叩くだけではない。数種類の包丁を用いて牛を捌き、枝肉と呼ばれる状態に解体していく。さすがに片腕となった翔吉には荷が重い仕事だったが、そこはまだ見習いにもなっていなかった銀一を傍らに置き、自分の左腕とする事でこなして見せた。捌きの頭数では腕利きの職人に敵わないが、質の良さなら以前と比べて見劣りしないとまで言わしめる程だった。とにかく何があろうと諦めない男。めげない男。そういう狂気じみた執着心で、周囲からの人望も厚い男なのである。

 それだけではない。片腕になった後も、翔吉は喧嘩において負け知らずだった。ある時喧嘩好きのヤクザ者が、翔吉を「肉屋の腕利き先生」と呼んでからかった。それが既に片腕だった翔吉の逆鱗に触れ、顎を引っ掴まれてそのまま骨を外された。生来の短気者である翔吉の力量を推し量れなかったヤクザ者が悪いと地元の人間は考えたが、運悪くその相手は四ツ谷組の若い組員だった。更に間の悪い事にはその一件は翔吉の父であり、銀一の祖父の死に目と重なった。葬儀の真最中に、聞きつけた四ツ谷の連中がお礼参りに押し寄せて来たのだ。悲しみに暮れる銀一らを残し、翔吉は単身四ツ谷の事務所へ乗り込んだ。傍から見れば完全に拉致なのだが、後に翔吉は四ツ谷組を、

「木端微塵に叩き潰してやろうと思った」

 と語った。その言葉が勢いだけのハッタリでない事は、疑いの余地がない。翔吉は、謝罪に訪れたものとタカを括っていた組員十数人と若頭の前で、腹に巻いていたサラシから肉切り包丁をすらりと抜いたのだ。一般家庭の主婦が使う細身の包丁ではない。普段翔吉がと場で解体に使用している牛刀と呼ばれるものだった。組員達は「え?」という顔でお互いを見合った。話が違うと思ったのだろう。何も言わずに包丁を手にする翔吉の仁王立ちに、誰もピストルはおろかドス一本も抜かなかったという。翔吉が片腕である事もまた怖さに拍車をかけた。捨て身のこの男が、冗談で刃物を抜くわけがない。こちらはピストルを抜けば終わる。抜けば、撃てる。だが撃てば、間違いなく撃った人間は刺される。伊澄翔吉に刺される。それはつまり、メッタ刺しにされるという事だ。全員で一斉射撃を行えば、その場から一歩も動かす事無く殺せるだろう。しかし一度脳裏に自分が刺し殺される映像が浮かんでしまうと、懐からピストルを抜く勇気は誰からも出てこなかった。牛刀を握った片腕の男が、最初で最後の犠牲者を誰にするか、今かこいつかと、じっと睨んで選別しているのだ。怖いはずである。

 ついには当時の四ツ谷組若頭・沢北自らが頭を下げて、

「今回は、うちの不手際だった。すまなかった」

 と言ったそうである。

 これはほとんど世間に出回る事のない話だったが、ヤクザ業界では広く知れ渡る事となった。

 一人の怪我人も出さずに場を収めた沢北の度量を持ち上げる話になる事もあるが、ほとんどが、伊澄翔吉という気狂いの逸話として語られた。状況だけ聞けば、どうしてそんな事までされて生きて帰すのか、帰すと見せかけて後ろからドスで一突きすれば済んだ、と強がる意見も出るのだが、考えれば考えるだけ、よほど翔吉の本気が怖かったのだろうと、誰もが思いを巡らせてはひっそりと肝を冷やした。

 それからというもの、この界隈のヤクザはこぞって翔吉を「先生」と呼び始めた。もちろん揶揄い半分の為本人の前では口が裂けても言えないが、その呼び名が広まりある程度年数が経過してくると、今度は本当に畏敬の念を込めて先生と呼びたがるヤクザまで出始めた。

 それが、藤堂義右であり、志摩太一郎であった。

 風呂から出て来た翔吉は、帰ったばかりの銀一を見つけて、「お前も入れ」と言った。

 正座していた志摩の背筋がピーンと伸びた。ガタイの良さではアメリカ軍人にも引けをとらない藤堂が、絶対に挨拶を忘れるなと釘をさす理由が分かる。体躯や顔付きだけでは説明しきれない、時和会のドンにも匹敵する貫禄の雰囲気が、匂い立つ程に翔吉からは揺らめき立ち昇っているのだ。

「こんばんわ、お疲れさまです、お邪魔してます」

 志摩は勢いよく立ち上がり、頭を下げた。

 翔吉は片手で器用にシャツを被りながら、

「おう」

 と答えた。どちらが本物のヤクザだか分からない。

 奥に引っ込んだまま出て来ないリキを目で探す志摩などお構いないしに、翔吉はどかりと座り込んで、側にあった酒瓶を引っ掴んだ。酒宴に入られては先が長くなる。やばいと踏んで、志摩は慌てて言葉を繋げる。

「ご挨拶に伺いました。兄貴も、よろしゅう言うとります」

「…」

「…用向きは、それだけです」

「なんじゃい」

「…あかんかったですか」

「貴様が直接来いと言え。なんじゃい挨拶て。下の人間寄越すんが義右の挨拶か」

「…すんまへん」

「所で志摩よ。今日帰り際に豚をパパっと捌いたんやけどな。仕入れの内訳が急に変わったようで、一頭売れ残ったわけだ。可哀想になぁ」

「…はあ」

「捨てるわけにもいくまいよ」

「はあ」

「もらって来た。ええ豚なんじゃ」

「…はあ」

「喰えや」

 志摩はゾッとしたような顔で、首を横に振る。

「今しがた銀一と飲んで来たばかりなんで、飯はもう」

「…え?」

「食います。…食いますがな。嫌やなあ、もう」

 志摩は助けを求めるように銀一を見たが、彼は風呂の支度を済ませて立ち上がる所だった。

「適当に食って、適当に帰れ。風呂行ってくるわ」

「嫌やなあ銀一君! 何言うてるの君! 一緒に頂こうやないか! 豚を! お父さんが捌いた豚を!」




 銀一が風呂から上がると既に、志摩の姿はなかった。こんがり焼いた豚の切れっぱしを一口放り込んだだけで、嗚咽を堪えながら退散したそうだ。志摩は豚肉が嫌いなのだ。翔吉は銀一からそれを聞いて知っていた。理由は上手く言えないが、リキとは違い、銀一が志摩に対しそこまで胸襟を開く気にならない事もまた、聞いて知っていた。更に言えば、急に仕入れの内訳が変わって、帰り際に捌いた豚が売れ残った、という話は機転を利かせた翔吉の嘘である。

 リキが翔吉と銀一の側にお酒の用意を済ませ「お先に」と断ってから床に就いた。

 毎晩ではないが、就寝前に父子で酒を酌み交わすのが楽しみだった。二人とも酒豪である事を自覚していたが、裕福ではない事も承知している。長くなる為、寝酒は一人二合までと決めていた。

 この日も、いつもと変わらぬ晩酌に過ぎなかったが、銀一は良い機会かもしれないと思い、父の顔を真っすぐに見つめて聞いてみた。

「父ちゃん。今、平助ん家は、どうなってる?」

「どうって、なんじゃ」

「平助のじいちゃん殺した犯人、まだ捕まってないよな」

「ああ」

「なんでやと思う?」

「なんでって、なんじゃ」

「なんで平助のじいちゃん、あんな惨い死に方せんといかんかったんじゃろうか。なんで、一年も経って犯人捕まらんのやろか」

「ワシが知ってるわけないじゃろうが。お前何言うとるんじゃ、さっきから」

 銀一は隣の部屋で寝息を立てる母を起こさぬよう声を落として、夕方竜雄から聞いた平助の話と、和明が港で耳にした噂話、そして先程藤堂から聞いた話を翔吉に聞かせた。翔吉は顔色一つ変えず黙って話を聞いていたが、藤堂の口から「黒」の名前が出た辺りから急に眉間に皺を寄せ始めた。ある程度予想は付いていたが、それでも息子の銀一ですら小便を漏らしかねない程、翔吉の形相は恐ろしかった。

 バリマツこと松田三郎。今井という名の警察官。一年前に殺された西荻平左と関係があるというその二人の死が、この街に災厄を運んでくるやもしれないと、藤堂はそう睨んでいる。何がどんな風に絡み合えばそのような流れになるのかさっぱりと理解が出来なかったが、ひとまず西荻の家へ出向いて幸助の話を聞いてみようと思う。と、銀一がそう言った瞬間、

「やめとけ」

 と翔吉が止めた。

「ろくな事にならん。やめとけ」

「うーん。まあ、相手が本当に黒の連中ならどうにもならんと思うけど。でもそれは藤堂が勝手に言うてるだけやから。俺はそこよりも、平助から相談受けて親身に聞いてやってる竜雄を心配しとるんよ」

「竜雄?」

「うん。責任感のある男じゃから、今日もなんや一人で思い詰めとった。明日からまたトラックで、そうなるとしばらくは戻られんやろうし。まあ、代わりに平助の話を聞いてやるだけでも、楽になるんならと思ってな」

「…話を聞くだけか?」

「それ以上、俺には何も出来きんよ」

「一人でうろうろせん方がええぞ」

「俺もう子供やないんで」

「ワシが笑い事言うとるように見えるんか、お前は」

「…どないした」

「勘じゃ」

「…勘かぁ」

「おお、勘じゃ」

「怖いのお。…そしたら、明日は春雄が戻って来るから、明日、二人でちょっと行ってみるわ」

 しぶしぶという顔で頷く翔吉を見ながら、銀一は内心首を傾げていた。本心では、別に西荻の家になど行きたいわけではない。しかし口では行きたいような素振りで父を説き伏せているし、どこかで、行かなくてはならないように感じていた事も、確かだった。

 竜雄と話せていない事が気がかりだったが、それでも翔吉の了解を得た上での成り行きである事は、銀一にとって大きな安心と言えた。


 



 



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