42 「羅拳」
春雄の目は血涙が溢れたように血走っていた。
スーツの男は春雄を見上げたままシルクハットを取り、短く、呆れたような笑い声を上げた。そして、
「お前、どういう体してるんだ。車で二回跳ねたくらいじゃ、なんのダメージもないのか?」
と、言葉の意味にはそぐわぬ、驚きのない落ち着き払った声でそう言った。
「名を、名乗れ」
と春雄が言った。
この土地の者でない事は、男の口調を聞けば分かる。だがそれだけではない。本来灯っているはずのない街路灯に照らされたその男の顔を、春雄はしっかりと覚えていたのだ。
「この場合、初めまして、とでも言った方が良いのか。…志摩です」
と男は言った。理知的で抑制の効いた、耳障りの良い声だった。
だが男の言葉を聞いた瞬間、春雄は全身の血が逆流する程の怒りに打ち震えた。
自分がこれまで一度も顔を見た事がなかったのは、そういう事か?
響子の父親が、赤江の人間ではなかったからなのか。
この男がそうか。
この男が、幼い響子を…?
「おのれ」
春雄はトランクの縁に足を掛け、今にも飛び降りそうな意志を見せた、その時だった。
「春雄さん!」
ここにいるはずのない人間が現れた。
志摩響子、天童千代乃、能登円加の三名である。
春雄は彼女らをひと目見るなり、全身を爆ぜながら行く激流のような血の巡りが、一瞬にして凍り付くのを感じた。
「来るな!止まれ!」
何故響子がいるのか。何故あの女達がいるのか。春雄には分からない。分からないがしかし考えている暇などなかった。
「止まれッ!」
普段は穏やかな春雄の声に驚き立ち止まったものの、響子達はすでにスーツの男の顔が見える距離まで駆け寄って来ていた。
男がやおらゆっくりと振り返り、響子達を見つめた。その顔面の皮一枚下には、面白くて仕方がないという含み笑いが透けて見えていた。
茫然と男を見つめる響子。
車のトランクから飛び降りて、春雄が男の背中に襲いかかった。
男は気配を察して一瞬だけ振り向き、左の裏拳を春雄の頬に当てた。
春雄は着地と共に後方へ上体をのけぞらせ、開いたトランクの蓋で後頭部をしたたか打ち付けた。
「逃げろ、響子ォ…!」
春雄は激痛に音を上げそうになるのをぐっと堪えて、くぐもった声で呼びかけた。
しかし、ただ立ち尽くすばかりの響子とは対照的に、誰にも予想しえなかった行動に出た者がいた。
天童千代乃は糸が切れたようにその場で膝から崩れ落ち、驚いた円加が手を伸ばした瞬間、
「うわああッ!」
両手で顔を抑え、悲鳴に似た叫び声を上げた。
見たくない! この男の顔だけは見たくない!
千代乃の悲痛な声に弾かれたように、春雄は前かがみだった体を起こすとスーツの男に取り付き羽交い絞めにした。後頭部を打ち付けた衝撃で視界に火花の散った春雄は一瞬、その悲鳴を響子の声だと勘違いし、そのままこう口走った。
「こいつか! こいつがそうか、響子!」
咄嗟の出来事に驚き、千代乃を振り返っていた響子が、春雄の言葉に怪訝な顔をこちらへ向けた。
「春雄さん、なんです?」
「こいつがお前の親父か!そうなんか!?」
響子は真剣な目で男を見据え、全く理解の及ばない表情を浮かべたまま首を横に振った。
「…違います。誰なんですか、この人」
響子の言葉に春雄は目を見開いて、羽交い絞めにした男の横顔を見つめた。間近で見れば、この男が決して若くはない事がわかるのだ。刻まれた皺や、使い込まれた肉体の疲労度、傷、色味、全てが強者の証であると同時に、それ相応の年を経ている事が見て取れる。
春雄を車で二度引いた経緯も、これまで一度として顔を見た事がなかった理由も、突然現れた、志摩を名乗り標準語を話すこの壮年の男であればすべての辻褄が合うのだ。合う筈だったのだ。
春雄は息を呑んだ。
それでもこの男は確かに、かつて西荻平左の屋敷で見たあの『庭師』で間違いないのだから。
「…誰、て」
春雄が呟いた瞬間、男は僅かに開いた自分と春雄の身体の隙間で右手を滑らせ、肘を折り曲げて空間を作った。
とん、と突き飛ばされたように春雄の身体が後ろへ傾く。
男の右手が急激に伸びて春雄の鼻の下を痛打し、そのまま彼の首を片手一本で握り締めた。
恐ろしいまでの速さで流れた一連の動きに、女達はおろか春雄までもが、自分が攻撃されたのだとは気が付かなかった。
「迎えにきたぞ、千代乃」
と、男は言った。
その場にいる全員の目が、天童千代乃に注がれた。
男は崩れ落ちて震える千代乃に微笑みかけたまま、言う。
「会いたかった。会う、必要があった」
「お前、まさか」
と言った春雄の声が、思わず上擦る。
男は春雄を見やり、彼の首を絞める手に力を込めた。
「名を名乗れと言っておきながら、その反応か。知ってるのか、俺を」
「…天童」
「やるじゃないか」
「なんでや」
消え入りそうな春雄の声を無視して、男が言う。
「世間一般の皆々様におかれましては広く大謁教教主として我が名を御周知のことと存じます。が、今、事ここに至り言を発しますは裏神天正堂七代目を務めさせていただいております、天童権七と申します。以後、お見知りおきを」
「あ…あかん」
と言いながら響子が千代乃の身体に覆いかぶさり、その上から円加が二人を抱きしめた。
顔を覆っているように見えた千代乃の手と顔の間には僅かな隙間があり、そこから見える彼女の表情には、しかし読み取れる一切の感情がなかった。
響子が遠目に見たこの男の顔に、見覚えがあると言った理由が分かった。それもそのはずである。当時の日本で恐らくイチニを争う程の信者数を誇る最大規模の宗教団体、大謁教の教主なのだ。信者ではない響子や円加でも、テレビや新聞でその顔を見た事くらいはあるはずだった。
そして千代乃自身が語った過去が真実であるならば、彼女はこの男の娘であり、この権七の命令により八代目当主を強制的に身ごもる宿命を背負われた。そして妊娠、出産し、腹を痛めて産んだ我が子を取り上げられたのである。
だが春雄には一瞬、理解が出来なかった。もし目の前の男が天童権七だというのなら、成瀬秀人に会いに向かった竜雄が共に連れ立って出かけたという『テンケン』とは、一体誰なのか。何者だというのか。
「お前志摩やと言うたやないッ…けッ!」
威勢の衰えない春雄を冷たい目で見据えたまま首を絞め続け、天童権七は春雄の言葉に答えた。
「でありながらにして、そして志摩でもある。そういう事だ、神波春雄」
天童権七が春雄の名を知っている事にぞっとし、響子が顔を上げて立ち上がった。
「お前はここで死ぬんだ。俺はその為にここへ来た。そしてチヨを連れて帰る。お前を殺した後で」
「春雄さんを放して! もうやめて!」
響子が叫ぶ。
権七は凍てつくような微笑みで響子を振り返り、
「ああ、忘れる所だった」
と言った。
「たった今思い出した。志摩響子。お前の父上が、お前に会いたがっているぞ」
響子はその言葉を聞いただけで後退し、青ざめた顔でギュッと唇を結んだ。
「どうしてそんな顔するんだ。俺と千代乃。お前とお前の父上。感動の再会だろう」
権七に見据えられ、響子は思わず自分の身体を抱きしめて首を振った。
「嫌や…会いとうない…」
呟きながら後退る響子が、砂利に足を取られて尻もちをついた。
響子と千代乃を無我夢中で引き寄せては抱きしめ、彼女らを守るように円加が己の背中を盾とした。
「喜べよ。無理の効かない体を押してここまで辿り着いたんだ。ほら。…そこに」
権七が言うと、車の後部席が開いて、杖が空中へと突き出された。
ゴホゴホと咳き込む乾いた音に続いて、パジャマ姿の老人が顔を出した。
「いつまでかかっとる。はよ、そいつの首をへし折れ」
老人は枯れ木のような体からは信じがたい力強い声を発し、傍らの権七を睨み付けた。
「はあ」
権七は力なく適当な返事を口にし、春雄に目を戻した。
春雄の見開かれた両目から、破れた欠陥から溢れた血の涙が、糸のように顔の両側を流れていた。
「もう死んだか? 神波春…お」
権七の胸に、春雄の足があった。靴の裏が、ぴたりと権七の胸に押し当てられていた。
どすん、と音がするほどの勢いで蹴り飛ばされ、権七は片足を地面について踏ん張った。
すぐ側に響子達が蹲っており、円加が響子と千代乃の身体を抱いたまま悲鳴を上げた。
「銀を刺したのは、お前か?」
と春雄は言った。
権七は聞き逃したように顔を傾け、怪訝な表情を見せた。
「お前は、千代ちゃんだけやない。ケンジとユウジまで捨てたそうやの」
さらに首を捻り、権七は眉をひそめた。自分の情報がここまで外部に漏れている事を、さすがに訝しんでいる様子だった。
春雄はこの時既に、これまで決して明かされる事のなかったいくつかの事実を知っていた。
酒和会・花原茂美は、かつて自分が息子のように厳しく育てたユウジに己の苗字を名乗らせた時、全ての過去を彼から聞かされた。それは天童千代乃が響子達に語って聞かせたのと同じ、ケンジとユウジの過酷な出自についてであった。
ユウジは寡黙であったが、朴訥として純粋な子供であった。そして純粋であるがゆえに彼の下す判断には迷いがなく、その根幹にあるものは裏神天正堂であり、それが自らの全てであると断言していた。
裏神天正堂の施設の外で、大謁教及び裏神関係者以外の人間と接する事で、コンクリートのように無機質だったユウジの心に確かな感情は芽生えた。だがそれでも己の運命を受け入れていたユウジは、裏神として生きる事をやめない代わりに、育ての親である花原茂美に自分達の素性と、裏神の隠された秘密を話して聞かせる事で筋を通したのである。
それは、彼が知り得た時和会及び赤江に生きる『黒の団』についての秘密であり、裏神にとっては敵対する組織でもある『黒の団』の懐に潜り込む為だけに生まれて来た、ただそれだけの人間であるという悲しい存在理由だった。
電話越しに聞いた花原茂美の声がやがて震え、鼻をすすり上げる音までもが聞こえて来た時、春雄は自分の右手を噛んで嗚咽を堪えた。
響子と、そして自分のこれからを守る為に粋な一肌を脱いだ若き悪党の笑顔が、春雄の瞼にチラついて離れなかった。
すまん、とたった一言頭を下げただけで今日までを生きて来た自分を、春雄はとても情けなく思った。そしてついには心からの感謝を伝える機会を与えられぬまま、ケンジとユウジはあの世へと走り去ったのだ。
ユウジが、自分の全てであると本気で信じた組織の頭領が今春雄の目の前にいる。
…この男がか。
…こんな男がか。
春雄は血の涙を流しながら、鈴の音を響かせていたケンジを思い起こす。
春雄は言った。
「俺はお前らに人間らしい心を求めようとは思わんよ。所詮住む世界が違いすぎる。それでもただ、俺は、自分の目に映る大切なもんを見捨てるような真似だけはせんし、自分を信じて付いて来る阿呆共を臭い足で蹴散らすような畜生には死んでもなりとうない。例えお前が何千人何万人の信者の上に立つどえらい男じゃろうがなんじゃろうが、俺はお前みたいな奴には騙されん、絶対に認めん。お前は本物のゴミじゃ」
対する権七は眉一つ動かさずに、こう答える。
「あたかもこの俺が全ての元凶とてでも言いたげな顔だな。そういう所がガキなんだよ。そも、自らの継承者とする我が子を厳しく育てるやり方に、他人が口出しする事などあってはならんのだ。ましてや、教義、道義、真理、その他一切を預かり知らん卑しい下賤の子らであるお前なんぞに、連綿と受け継がれてきた崇高なる道標の当代であるこの俺の、一体何が分かる。言って見ろ、お前ごときに何が分かる」
「お前には見えとらんもんが、俺には見えとるよ」
春雄の言葉に初めて、権七が苛立ちのこもった表情を見せた。
「何が見えるだって?」
「お前はこの先、一生、誰一人、幸せになんぞせんのだろうよ。けど俺は、お前に捨てられたケンジとユウジの笑った顔を、このドブ臭い街でようけ見てきたわ。ケンジには眉毛がない。ユウジには前歯がない。せやけどあいつらがそこに並んで立つだけで、日本中の極道が顔青くして道開けよったわ。お前は知らんやろうのう。汚れ仕事でしか生きていかれん自分の生き様を嘆くでもなく、これはこれで面白い人生やったと厚かましくのたまって逝きよったわ!おお、おお、あいつらを捨ててくれてどうもありがとう!おかげでおもろい男どもと遊べたわ!」
権七は春雄の言葉を鼻で笑い飛ばし、呆れたように頭を振った。
春雄は尚も言う。
「そこにおるチヨちゃんかてそうじゃ。出会ってまだ一年やそこらしか経たんいうのに、惚れた男の前でどんだけ綺麗な顔で笑いよるか、俺は知っとるぞ。お前が蹴落として気にも止めなんだ奴らの精一杯の強がった笑顔を!俺はこの目で見て来たんじゃ!お前は一体何を見てきた!ホレ、見てみい! お前のせいで可愛い娘が泣いとるじゃないか! お前のいう教義だの道理なんぞに何一つ意…」
「耳障りじゃ!」
そう叫んだのは権七ではなく、車の後部席から顔だけを覗かせる老人だった。
「早よそいつの汚らしい首をへし折れ!」
老人は唾を飛ばして権七にそう言い、春雄の顔を恨みのこもった目で睨み付けた。
「見ろよ。お前だって、この男を不幸のどん底に蹴り落としてるじゃないか」
権七は哀れな物を見るような目で、老人に向かって手のひらを差し向けた。
春雄が顎を引いて、老人を睨み返す。
「もう気付いてるんだろ、この男が、志摩響子の父親だ。大病を患っているせいで、今は見る影もない。どうだ、少しは責任というものを、お前も感じるだろう?」
「責任?」
志摩響子の父親にしてみれば、春雄は年端も行かぬ娘をかどわかして遠方へ連れ去った憎き存在かもしれない。だが春雄にしてみれば、そもそも責任の所在を問われる謂れなどあるはずがないのだ。
お互いが相容れぬ感情を抱えて睨みあった。
志摩響子の父は名を在平良といい、誰が見ても「老人」と形容するであろう見目に反して、実はこの時まだ六十代の若さであった。
在平良は春雄から目を逸らして、能登円加の腕の中で震え続ける響子を見やった。その目には一見慈しみの愛情が浮かんでいるように思えるが、春雄にもたらしたのは吐き気だけだった。
「響子。会いたかった」
と在平良は言う。
「驚くのも無理はないな、こんな、爺みたいな姿や、そら、びっくりしたやろな。そんな所に座っとらんで、もうちょっと近くへ来てくれんか。体悪うしてな、ワシからは、よう行かんのだ」
「阿保抜かせ!」
春雄が言うなり、
「天童ォッ!」
悪鬼羅刹のような声で在平良が叫んだ。
権七が春雄に向かって歩みを進めた、その時だった。
「…くたばれ」
か細い声が聞こえた。しかしそれははっきりと、その場にいた全員の耳に届いた。
「なんぞ、言うたか、響子」
明らかに理解している顔と声で、在平良が言った。
響子が立ち上がり、涙を拭う。
「早よ、くたばってください」
「響子!」
「私はもうあんたの娘やないし、あんたを父親やとも思ってない!」
「何を言うかこの親不孝娘が!ワシがどれほどお前を可愛がっているか、それはお前自身がよう分かって」
「言うな!言うな!それ以上言うたら殺すぞ!」
ほとんど金切り声に近い叫びをあげて、それでも響子は逃げず、在平良から目を逸らさなかった。
響子は今、逃げ続けた己の忌まわしき過去と対峙していた。
「お前の事はずっと報告を受けてきた。志摩の家に似つかわしくない貧乏暮しに身をやつしてるそうやないか。こんな口先だけ一丁前なガキと一緒におってもお前は幸せにはならん!ワシのもとへ戻って来い!」
「ふさけるな!自分が何をしたか分かってんのか!」
普段の響子からは想像もつかない激しい語気と言葉使いに、千代乃と円加が青ざめている。
在平良の皺だらけの顔が、引き攣った笑みを浮かべてぐにゃりと歪んだ。
「分かってるともさ。昔のように仲良うやろうやないか。もう昔みたいに手荒な真似はせん。優しゅうしたる。神波のガキにこねくり回されたお前の身体を、元の綺麗な体にワシが戻してやろやな」
「何んにも分かってないなァッ」
在平良の言葉を遮って、響子が言った。
在平良は目を丸くして響子を見つめ、片や一方では蚊帳の外に置かれた天童権七が、つまらなそうに二人の様子を観察している。
「春雄さんとあんたでは器が違うんよ。人を思いやる心の、その器が、違いすぎるわ」
響子は言い、自分の身体を自分の腕で抱きしめた。
「私は毎晩、この人と同じお布団で眠りについてます。幸せです。そやけど、あんたが言うような事はただの一度もされた事はないのや」
「…どういう、何を言うとる」
在平良が困惑した顔で、春雄と響子を交互に見た。
「私は!東京に来てから一度として!春雄さんに抱かれた事はない!そやけどそれは!私が実の父親に犯され続けた汚い女やからとは違う!私がまだ未成年で子供やったからや!重労働でどれだけ疲れて帰って来ても!どれほどお酒を飲んで酔っ払っても!この人は冗談や勢いで私に触る事は一度としてなかった!それが!私にとってどれだけ幸せな事やったのかお前に分かるか!」
響子の足元に蹲る千代乃と円加が、両手で顔を覆って涙を堪えている。
「私は毎晩毎晩、いつかこの神波春雄という最高の男に抱かれる夢を見ながら、安らかな眠りについてます。あんたの家におる間にはたったの一回ですら、一瞬ですら味わうことの出来んかった、人から守られる事の幸せを!この人は私に与えてくれました!私はいつか必ず、春雄さんの子供を産みます!大切に大切に育てて、春雄さんと末永く暮らしていく事を想像するだけで毎日幸せ過ぎて気が狂いそうになるわ!そやからもうとっとと!あんたは早い事死んでくれッ!」
響子の悲痛な叫びを飲み込むように、在平良の言葉にならない咆哮が轟いた。そのまま勢い余った在平良の身体が車の後部席から落ちる。しかしそれには目もくれず、天童権七が春雄に襲いかかった。
春雄が半身を引いて構えたその真横から、突如走り込んで来る人影があった。
権七が軽く左腕を上げて、その突進してくる人影をいなした。
「なんのつもりだ」
権七の目が、千代乃を睨みつけた。
千代乃が両腕を上げて臨戦の構えをとり、春雄の前に立って権七と相対していた。先程取り乱したのがウソのように、彼女の顔には冷静な敵意が浮かんでいる。
「春雄さん、ありがとう。あなたのような人に出会えて、私まで嬉しいです。きっと兄もそうだと思います」
春雄が目を白黒させて、
「チヨちゃん、何や、何しとる」
と言うと、
「英雄になろうとしないで下さい。私も一緒に戦いますから」
と千代乃は微笑んで答えた。
気を削がれたように権七が溜息を付いた。
そこへ、風のない街の夜空を流れ伝うようにして、彼方からパトカーのサイレンが聞こえて来た。
全員の意識がそちらへ引き寄せられた瞬間、権七の身体が低く落ちて春雄目掛けて疾走った。
気付いた千代乃が自らの身体を差し挟んで止めようと試みるも、一瞬で弾き飛ばされた。
稲妻のような突進を受けた春雄はしかし、一歩も引かずにそれを受け止めた。そしてそのまま権七の身体に両腕を回すと、突進の勢いを殺さず後ろへ放り投げるように持ち上げた。ジャーマン・スープレックス。又の名を原爆固めというプロレスの技を、春雄はそれと知らずに権七相手に仕掛けていた。ただ本来と違うのは、春雄は権七の体を背後ではなく真正面から抱えており、所謂サバ折りに似た状態だった事だ。権七は空中でもがいて逃れようとしたものの、春雄の腕力は素人の力任せというレベルを遥に超えていた。そして何より、権七の突進してくる速度が速すぎたのだ。
権七は頭から地面に落下すると思いきや、倒れ伏せる志摩在平良の背中に頭頂部を打ち付けられ、もろともウシガエルのような声を上げた。
地面に打たれた杭のように硬直した体を真っすぐに立て、そして志摩在平良と重なり合うように天童権七は倒れた。どさりと音が聞こえた後は静寂が訪れ、尻もちをつかされた後すぐに体を起こした千代乃は、鮮やかに決まった春雄の一閃ともいうべき反撃に目を奪われ、目を輝かせて口元を抑えた。
「…すご」
「さすが春雄さんや。あなたが一番やわ」
涙を拭おうともせず、響子が精一杯強がった笑顔でそう言うと、円加が立ち上がって彼女を抱きしめた。
春雄はその場にしゃがみ込んだまま首の後ろを摩り、
「いやー、これー、ほんまに死んでたら笑い事ですまんで。ほんまに」
と言った。




