33 「岐血」
運命という言葉を憎む。
そう語った天童千代乃の話を聞いた後でさえ、やはり目には見えない導き手のような存在を、銀一達は感じずにはいられない出来事だった。
赤江周辺地域における時和会と四ツ谷組との抗争。それ以外の話を、四ツ谷組の親分である沢北から聞かされるはめになるとは、誰も予想だにしていなかったからだ。考えるまでもなく抗争の部外者であり一般人、何より二十二歳の若物達に対し、渦中の暴力団のトップである沢北自らが出向いて話を聞かせる事自体が異常なのであり、本来はありない筈だった。
その話の矛先は、銀一へと向いた。
「銀一さんは、御祖父様の事を、どのくらい覚えていらっしゃいますか」
「…誰ですか?」
お爺ちゃん、と友穂。
「爺ちゃんですか。さあ、厳しかった事くらいかな」
「それだけ?」
「いや、爺ちゃん子やったんで、そら色々思い出はありますよ。けどどのくらい覚えてると言われると、なんとも」
「ワシのこのおかしな名。ブリガンテという名前は、あんたのお爺さんがきっかけです。まあお爺さんというか、その昔あんたの祖父である伊澄翔二郎さんが付き合っていた、イタリア人女性ですがな」
「…」
決して沢北の話を聞いていないわけではなかったが、銀一としては返答のしようがなかった。全く話の内容についていけなかった。確かに銀一の祖父の名前は翔二郎である。しかし祖父と沢北に交流があった事も知らぬ上、祖父がイタリア娘と恋仲だった事も当然知らない。そんな話は相手が沢北でなければ、間違いなく担がれているとしか思わなかっただろう。
「戦争の足音がすぐそこまで来ていた昭和の十年代、クニであるシチリア島へ帰郷後しばらく、無情にも先の大戦は勃発し、言葉の通りそのまま戻らぬ人となったそうです。彼女が日本にいる間、ワシも何度か話をした事がありましてな。まあ、通訳なしで話せたものではないのやが、何かのきっかけでワシを指差して、『ブリガンテ』と言うては笑うてました。その笑顔は今思い出しても頬の緩む、かいらしい顔ではあったけれども、おそらくは阿保とか馬鹿とか、そういった揶揄いの言葉やったんでしょうなあ。照れくそうて、聞けず終いでしたが」
「うちの爺ちゃん、ヤクザやったんですか?」
「銀一!」
友穂の叱責が飛ぶ。今の話を聞いて疑問に思うのは、そこか?
「はは、いや、構わん。ヤクザ者ではなかったが、まあ、似たようなもんかな。戦争を経験した人間がみなそうやとは言いませんが、その後どういう人生を辿るにしろ、心に負うた深い傷を抱えながら右にふらつき左によろけて、迷いもって歩み行く事は免れません。その上彼も私ら同様赤江の人間ですからな、そらぁ一筋縄ではいきませんわな」
「そうですか、親分さんも、赤江の」
「そうかあ、ひょっとして思うて久方ぶりに名乗ってはみたが、聞いてなかったですか」
「父ちゃんならなんか、聞いとるやもしれませんけど」
「ん、翔吉さんな」
「はあ」
なんでそないうちの家系に詳しいんじゃ。危うく口を滑らしそうになるも、そんな銀一の心境を察した友穂が彼の尻肉を摘まんだ。銀一の背筋が伸びる。
「今日来たのは他でもない。その、翔吉さんの話です。あれはまだ、ワシが四ツ谷の若頭やったころ、とまあそうは言うても、先代であるヤジロの親分がどえらい人やったのもあって、結局ワシが跡目を継いだのも六十を越えてからです。まあ、十年やそこら、そんぐらい前の話ではあるのやが、なんでやろうか、もの凄い前の事のように感じるんですな、これが不思議と」
ヤジロとは初代四ツ谷組組長、四ツ谷甚六のあだ名である。しかし計算してみると何の事はない、それはたった九年前の出来事であった。
読み書き計算に疎い銀一ですらすぐに分かった。なぜなら沢北の語った出来事は、銀一の父である伊澄翔吉が持つ逸話と深く関連してからだ。銀一の祖父・翔二郎が亡くなった折、翔吉が四ツ谷組の構成員と揉めて組事務所に乗り込んだという例の話だ。翔吉が「先生」と呼ばれ始めた切っ掛けでもある。
沢北はテーブルの上に乗せていた両手を握りこぶしに変え、黙った。そして、
「今思い返しても、いや、恐ろしかったな」
と言った。その目はテーブルに反射した蛍光灯の光に浮かび上がる、自身の記憶を見つめているようにも思えた。
「翔二郎さんとは世代が近いのもあり、話せる仲やったという思い上がりが招いた読み間違い、とでも言いますかな。あの日、翔二郎さんの葬儀からワシらの組事務所へやって来たあんたのお父さんは、それはもう、筆舌に尽くしがたい怖さのある人やったんです」
銀一は思わず眉をひそめ、沢北の顔色をうかがうように、言った。
「親分さんよりもですか?」
銀一にとって翔吉は自分の父である。怖い男だというのは認める。しかし、どう考えても目の前に座る沢北の方が数倍は怖かった。
沢北は鋭さを宿す目を丸くして、やがて苦笑した。
「おそらくワシを怖いと感じるのは、あんた方自身に理由があるのや。堅気とはいえ時和会と縁の深いあんたらの事や、互いの立場というものもあるから、ただ近所を歩いてるジジイと同列で見れるわけやないと言うのもあるが、ワシかてもう七十超えてますからな。あんたらがなんぞ勝手にワシに貫禄いうもんを、ニ、三枚多めに背負わせて見とるだけでしょうな」
「違います」
「全然現役ですやんか」
「ちょっと俺小便出てるかもしれません」
口々に思うままを吐き出す幼馴染を横目に、さすがの銀一も気まずさを感じ、
「すんません」
と頭を下げた。
「はは。まあ、ワシの事はさておいても、確かなんは、翔吉さんという男は『実』のある怖さを持ってる人やということです」
ジツ? 首を捻る銀一を見据えたまま、沢北は続ける。
「ブラフやハッタリではない、やるとなったら必ず結果をモノにする。そういう人です。あの時彼はワシらに向かって言いました。『今ここで組を潰すのもええが、親父の命日やから目を瞑ってやる』」
友穂がさっと顔を伏せた。怖かったのだという。過去の出来事とは言え、年下の堅気がこの沢北相手にそんな言葉を吐いた事も、今それを沢北が思い出している事も、どちらも怖かったのだ。
「その代わり、と翔吉さんは言うた。その代わり、この先何があっても赤江を守れ。それが組を存続させる条件やと思え、と」
赤江を守る? ますます銀一は首を捻るばかりで、返す言葉が出てこなかった。
そのような話は、もちろん翔吉から聞いた事がない。
銀一の左隣に座っていた竜雄が、銀一の腕を肘で小突いた。「何からやて、聞け」
「なんや小声で言うとらんで、自分で聞かはったらよろしいがな」
どすの効いた沢北の言葉に竜雄は顔を背けたまま、「はあ」と頷いた。
「そのままですが、翔吉おじさんは、何から赤江を守るように、親分さんに言わはったんです?」
竜雄の言葉に続いて、和明が繋げて言う。
「それは時和会ではなく、隣県で事務所を構える四ツ谷組やないと、あかんかったという事ですか?」
二人の言葉を受け止めた後、沢北は春雄を見やり、
「あんたは?」
と聞いた。春雄は唾を飲み込み、
「翔吉おじさんが言わはったのはつまり、当時のヤジロ親分やなく、沢北の親分さんやったから、という事なんでしょうか。こんな事言うべきやないけど、翔吉おじさんの事はガキの頃から知ってます。冗談でものを言う人と違いますから、その時は本気で四ツ谷組を潰そうとしたのやと思うんです。そこを敢えて曲げてまでとなると、相当沢北の親分さんに感じ入るものがあったのかな、と」
沢北は目を閉じて春雄の言葉を聞いていたが、やがて開いた両目を細くすぼめて春雄を見つめた。
「お若いのに、なんやら含みのあるまだるっこしい言い方をされますな。ほんまに言いたい事が、他にあるのと違いますか?」
沢北にそう見抜かれて、春雄はたまらず目を逸らした。春雄としては、この沢北を『黒の団』関係者であると決めてかかっていたわけではない。しかし今や誰が黒で誰が違うのか、分からなくなっていた。この男の覇気を間近で浴び、自然と関連付けて考えてしまったとしても無理はない。もしこの沢北が『黒』であると翔吉が見抜いていたのであれば、外敵から赤江を守る人材としてはこの上ない。しかし本当に『黒の団』だとして、そこを相手に強制的な条件など、いくら翔吉とて出せるものなのだろうか?
答えられない春雄を尚も見据えたまま、沢北は言った。
「あんたか? 十三さん(時和会・親分)の弟を刺したというんは」
反射的に、春雄が目を閉じた。しかしすぐさま沢北が謝罪の言葉を口にする。責める意味ではなかった、とも言った。
「運命いうものの怖さを感じる、そういう話です。顔を上げなさい、お答えしましょう」
まず、と言って沢北が竜雄を見やった。
「翔吉さんの言うた言葉の意味やが、これはワシもその時実際に聞き返しました。一体何から赤江を守れと言うのか。すると彼はこう答えた。『人間の、悪意から』。この、哲学的ですらある返答にワシも頭を悩ませたが、子分たちの手前どういう意味やと聞き返すのも恥ずかしい。そこで一旦分かった振りをして、承知したと答えたは良いが、このカボチャ頭でどこまで理解が及んだ事やら、今もってあい分かりませんな。ただ、先ほどそちらのあんたさんも言うてたように、そもそも赤江のすぐ隣にはでーんと時和会が組を構えとります」
見つめられた和明は背筋を伸ばし、沢北を見返して頷いた。
「規模で言えば全国区。そら、時和会がおる以上おいそれと攻め込む輩はおらんでしょう。そうワシも答えた。ましてやうちは近いと言うても隣の県や。よその庭に対して意気込み、承知したと答えるにはちょいとばかし勇気がいります。そしたら翔吉さんはワシを見ながらニヤリと笑うて、『内側と外側や。数は多いにこしたことないわ、約束破るなよ』と捨て台詞を吐いて、意気揚々と帰って行きました」
「内側とそとが…」
「え、それだけですか?」
春雄が質問を口にする前に、銀一が顔を突き出して尋ねた。
「どういう意味です?」
と沢北は首を傾げる。銀一は尚も体を前のめりにし、
「…沢北さん。あんた自身に対する言葉は、なんぞなかったですか」
「どういう意味やと聞いておる」
「時和とか四ツ谷とかそういう組織の話やない。とうちゃ、うちの親父は、沢北の親分さんやから、そんな話をしたんと違いますか!?」
「っはは、買い被り過ぎや!ワシは翔吉さんの言うた言葉の意味をよう理解せなんだ男ですよ。それこそ恥ずかしいですよ、そんな事言われたら。それやのうてもたった一人でヤクザの組事務所相手に啖呵切って、無事歩いて帰ったんや。それを黙って見送ったワシなんか、ええ笑い者でしたよ」
「せやけど!」
「人間の悪意から、赤江を守ってくれと、親分さんはそう頼まれはったんですよね。あの翔吉おじさんから」
春雄の静かな言いように、尚も食い下がろうと声を上げた銀一も黙った。
沢北は伏し目がちになり、かつての遠い日々を見つめているようだった。
「確かに。…ワシも色々な人間を目にして来ました。そやけど、翔吉さんの期待したような役目がこのワシに果たせたか。この十年で何が変わったかと言えば顔ぶればかりで、とてもワシが何かを成し遂げたという実感はありません。何かを守る事よりも、人から奪う事で生きて来た、ワシは極道の人間ですから、お天道様の下を真っすぐに歩いて来たわけやない。…ただ」
沢北は一旦言葉を切り、和明を見やった。
「一色は、そない悪い男やないですよ」
そう言った、地響きのようだった沢北の声からは心なしか、彼特有の覇気が減退しているようにも聞こえた。
「奴めは三郎に心酔してましたからな。一年もの間進退を決断できず、誰を相手に戦いを挑んでええかも分からん状態で、我慢の限界を超えたのでしょう。堅気に迷惑をかけたことについては勇み足で、馬鹿な事をしでかしたと思いますが、あいつの気持ちはこのワシも痛い程に分かります。…三郎は、あんな若さで死ぬような男やなかった。そら、この世界に生きとって大往生できると思うたらいかん。しかしあの男の器は少なくとものこのワシなんぞを遥かに超えて、大きかったのもまた事実です。会うたことはありますか。三郎に。希代のヤクザと言われた、バリマツに」
銀一たちは寂しそうな顔で首を横に振り、下を向いた。
「そうか。あんたらとはおそらく十も変わらんかったはずや。別にヤクザもんと仲良うせえとは言わんけど、おそらく、気の合う人間性を持っておったと、思うんですがな。いやはや、残念無念というところです」
「…聞かへんのですか」
と、銀一が言った。
竜雄、春雄、和明の三人が同時に銀一の横顔を見た。そこには恐怖ではなく、決意のような表情が浮かんでいた。
「何をです」
と、沢北。
「志摩の事です。実際はどうや分かりませんが、バリマツを殺したと言われてる男の話を、何故聞かないんですか」
銀一の言葉に沢北は頷き、テーブルに視線を落とした。
「何故ワシが、ピストルをここへ置いたのやと思いますか」
「え?」
「時和会と縁のあるあんたらに目星を付けて、最初から殺す気でおったならば、こいつを出す事もなかったでしょう。齢七十を超えたワシにはワシの喧嘩の仕方があり、腕っぷしが強ければ必ず勝てると言えないのがこの世界の勝負です。好々爺を装い油断させたトコを一人ずつズドンとやることも出来はしましたが、ワシの最後の勝負所はここやない。志摩という男については、あんたらを頼る気がそもそもない。もしあるんなら、ワシがここへ来る事はなかったでしょう。それに…」
そう言って沢北はピストルを持ち上げ、銃口を上に向けた。絵になる親分だった。
しかし銀一達の体は緊張感に支配され、ガチガチに凝り固まっていた。
「個人的な本音を言わせてもらえば、正直うちの組も時和会も、潮時やと感じています。今日ここへ来た本当の理由は、そういう時代の終わりに似た雰囲気を、老いたワシなりに感じ取ったからかもしれません。跡目を継ぐはずやった時和の暴れ牛が自首しよった。あれはええ男やが、今回のはそこそこ長いこと食らうやろう。うちの三郎はとうにおらん。恐ろしいスピードでこの業界を飛び回ってた、あの粋の良い喧嘩師達も倒れ去り、頼みのペクはまだ若すぎる。さらには一色までもが下手を打った。この期に及んで、銀一さん、ワシは今、あんたに会うておくべきなんやと悟った次第です」
俺、ですか。
乾いた喉を無理やり開いて、銀一はなんとかそう返した。
「ワシ一人が年老いたからと言って、それが時代の終わりやなどと吹聴するつもりはありません。しかし今ここで志摩の眉間を撃ち抜き三郎の仇を獲った所で、去って行ったものは帰らず、形を変えた人の有り様が元に戻る事もない。その事に思いいたった時、浮かんで来たのが翔吉さんとの約束です。男には、正義感とはまた違った矜持たる思いが存在します。翔吉さんと交わした約束を守りたいと思う気持ちは、いまだ衰えずとも…」
沢北は銃口を自分のこめかみに当て、力なく微笑んだ。
「もう、役者が足りませんわ」
そう言って笑った沢北の顔を正面から見つめる内、、銀一達は自然と涙がせり上がって来るのが分かった。それは激動の時代を生きた男と相まみえた者だけが体験しうる、感動だった。沢北の顔に刻まれた多くの皺と、浮かんだ微笑みを前に、銀一達はどうしようもない寂しさを感じていたのだ。
見送りに出た銀一達四人の顔を順番に見つめて、
「また、会いたいな」
と沢北は言った。
銀一たちは深々と頭を下げた。沢北は最後に友穂を見つめてニコリと笑い、丁寧に頭を垂れたという。
後に分かった事だが、沢北の名乗った「ブリガンテ」というミドルネームのような異名は確かにイタリアに語源を持つようだった。しかしこれと決まった単純な意味だけではなく、「盗賊、略奪者、ならず者」といったいかにもヤクザが好みそうな解釈をいくつも含んでおり、沢北がそのどれを己に冠していたかは不明である。だが物の本によればこんな解釈も出来るそうだ。
義賊、と。
赤江に戻る事が決まったその日が、東京で過ごす最後の夜となった。
公民館の玄関側に位置する、志摩太一郎が侵入して来たというその部屋で、天童千代乃と志摩響子が並んで庭を見つめていた。
障子を開け放ち空を見上げると、二人の座る正面には月が出ていた。だが二人の視線は空には向かわず、自然と庭先へと落ち着いた。
「なんや私らぁ、もの凄い、女二人やね」
と、響子が言った。明るさを装う声ではあったが、千代乃の前だからこそ出せる悲しみが滲んでいた。
「ほんまにそう。…ほんまに、そうね」
千代乃は答え、目鼻を抑えようとした手を、ぐっと握りこぶしに変えた。
片や黒の団と思しき『庭師』の娘、片や日本最大規模の宗教法人『大謁教』当主の娘である。今同じ時間、同じ屋根の下、同じ部屋において隣合い肩を並べる姿など、誰が想像出来たであろうか。ここにもなにか、運命と呼ぶべき恐ろしい導きの力を感じざるを得ない。
「こないだね」
と響子が言った。その目は千代乃ではなく、庭を見ている。
「こないだ言うても結構前やけど、クリームシチューを作ろうと思うてね、材料を切ってね、お鍋に入れたの。火を通して、丁度ええ頃合いかなあという所で、どうしても私は、お腹が痛うなったの」
子どものような響子の口調とその内容に、頷きながら聞いていた千代乃は思わず笑ってしまった。
「ね。せやから春雄さんにね、小麦粉を全体にまぶして、牛乳をこれくらい入れてぐるぐるよくかき混ぜて下さいね、って。ね、そう伝えてね、お手洗いに行きました。帰って来たらね、春雄さん、牛乳入れてないの」
「あはは!」
「分かるでしょう? 小麦粉が全部焦げてね、何かよく分からない、茶色い何かが出来上がってね」
「あー、大変だ」
「ね、例えその後牛乳入れてもね、もう。…もう」
千代乃はお腹を押さえて笑い、何度も頷いた。
「だけど、私も春雄さんも、今の千代乃さんみたいに大笑いして。もちろん材料は勿体ないし、だけど我慢して食べるには黒焦げのものは体に毒やし、どうしようもない状況を前にもお腹は鳴るし。せやけど、今私は絶対に不幸じゃないなって、その時思ったんですよ。もちろん料理を失敗した事が不幸やなんて思いませんよ、私今でもようやりますから」
「はい。私もです」
「ね。ね、て言うたらいかんけど。でも、そう。例え自分がどういう状況におったとしても、私はこの人さえおったらええのやわって。めっちゃお腹空いたけど、それもまた楽しいわって」
「はい」
「きっと私達はそうやって、毎日をただ、そういうささやかな、幸せを…」
話し続ける響子の目から涙が溢れ、千代乃は年下の健気な彼女を右腕で抱きしめた。小さく細く漏れ出る響子の泣き声に、千代乃は歯を食いしばって耐えた。これは傷の舐め合いではない。響子は千代乃に、自分もここにいるよと教えてくれているのだ。千代乃はそれが分かって、涙を堪えた。
境遇に負けるわけにはいかない。運命に翻弄されるわけにはいかない。どこにだって、小さな幸せはある。それはこの新しい友人でもあるし、自分自身の中にだってきっとあるはずなのだ。
千代乃は響子を抱きしめる腕に力をこめ、涙を飲み下した。
遠慮がちに襖を叩く音がして、響子?と名を呼ぶ友穂の声が続いた。
「はい」
鼻をすすって返事をし、顔を上げた響子を千代乃は尚も右腕で抱きしめている。響子は笑って千代乃に持たれかかった。
襖が開き、友穂と円加が顔を覗かせた。
「よ、御両人」
友穂はそう言い、円加と二人で響子たちを挟み込んで座った。
「知ってる? 円加が持って来た鞄の中にね、詩集が入ってたの」
響子と千代乃の様子に気づきながらも、友穂はとぼけた口調でそう話しかける。
「たまたまです、ずっと入ってだけやから、別に敢えて持って来たわけと違います」
慌てた顔で弁明する円加の言葉を聞かず、友穂は畳に両手をついて力説する。
「その詩がもう、…っごい素敵やの」
「なんて?」と響子。
「す…っごい素敵やの」
改めて言い直す友穂に、響子と千代乃は声に出して笑い、円加は照れたようにもじもじと俯いた。円加のその手には、文庫本が握られている。
「これ?」
と響子が指さすと、円加は一転自信のある笑みを浮かべて、顔の前にその文庫本を掲げた。
満面の笑みに、白くなった前髪がパラリと垂れ下がる。
「『風の街エレジー』」
響子の読み上げたタイトルに、千代乃は興奮気味に息を吸い込んだ。
「ああ、素敵な題名」
「でしょ」と喜ぶ円加。
「でも違うの。私がおすすめなのはこの中に収録されてる別の詩やの」
「友穂姉さん、これは私がおすすめしたのよ?」
「それを私が、今からこの子らにおすすめしようと思って」
「ずるい!横取りや!」
「円加。今の世の中は生き馬の目を抜く、早い者勝ちの世界なんよ」
「…ああ、正論ですわ、姉さん!やっぱり姉さんは凄い!」
「いやいや、違う違う、ウソやウソや!」
あっさり折れた円加に友穂は慌てて手を振った。
響子と千代乃は涙を流して大笑いし、そっと手を握り合った。
円加が教えてくれたというその詩は、題名を『白き蟷螂』と言った。
初めは円加の手の中の詩を四人で覗き込んで読んだ。やがて既に内容を知っている友穂が側を離れ、四つん這いのまま窓際へ移動した。
この詩を紹介したいと言いながらいち早く輪から抜けた友穂の背中を、響子は視線を上げて追った。
千代乃が右腕の力を緩め、三角座りをして顎を乗せる。
円加が本を閉じると、
「読んで」
と、明るい月を見上げたまま友穂が言った。静かな声だった。
円加は入口の側で、三人の女たちの背中に向かって詩を読み始めた。
短い詩だった。
「もう一度、お願い」
そう言った友穂の顔が、下を向いた。
円加が読み終わると、響子が両手で顔を覆って泣いた。
千代乃が優しく微笑んで、円加に頷いて見せた。
円加が真っ赤な目で頷き返し、もう一度、その詩を朗読した。
『滴る命の垂れ行くを、赤きを知らず、愛とは知らず
襲い来る激流の本能の、行き先を見ず、淡さに抱かれ
アアーア オオーオ
膨れる我が腹に満ちたるものよ、その名を叫べ、語り掛けよ
戻り来る静謐を退けよ、うち震えるわが身、全ての色消え去るまで
アアーア オオーオ!
天空を駆け行く星線となる、赤き半身、愛なるすべて
その一歩をして嘆きなどなし、導きたまへ、銀色の地平線まで!
アアーア! オオーオ!
仰ぎたる我、白き蟷螂となりせば』
「白き蟷螂」『風の街エレジー』収録
著・マーガレット・レイ・リンク、翻訳・漆葉聖涯




