28 「罰明」
「誰じゃ。四ツ谷か?」
自分を呼び止める声のした暗がりを、和明は睨みつけた。
「違います。そっちへ行ってええですか?」
「おう、出て来い。暗うて分からん」
和明に声をかけた男は、周囲を伺いながらゆっくりと姿を見せた。三十代後半から四十代前半に見えるその顔には、見覚えがあった。男が着ていたのは、『イギリス』のボーイの制服のようだった。
「ああ、なんやったか、知ってるわ自分。イギリスの?」
「三島と言います」
「なんじゃい。今急いどるんじゃ」
「善明さん、お話があります。もうちょっと、こちらへ」
この三島という男は名を要次と言い、和明達はその後も親交を重ね、何かと世話を焼いてくれる友人として有難い存在となる。この場の逸話に関しても、その三島が銀一らに語って聞かせた記憶に依る所も多い。だが念の為に和明に確認を取った銀一はやはり、「覚えとらん」と一蹴されたそうだ。
三島は辺りを注意深く見回しながら、和明を路地へと誘った。
警戒心を抱きながらも和明が三島の前に立つと、三島は声を潜めてこう言った。
「店には、行かん方がええです」
「ああ? なんでじゃ。そういうわけにいかんわ、ほな」
「ちょっと待って!」
三島は思わず上げた自分の声に恐怖しながら口を押え、続ける。
「藤堂さんからもよろしゅう言われてます。それに、善明さんには他の人間もよくしてもらってますから、危険を承知の上でこうして忠告に出たんです。後生やさかい、今回はこのまま何事もなかった思うて帰って下さい」
「だから無理や言うとるやろ!頭カチ割るぞ!」
「あかんあかん!」
慌てて三島が、和明の腕を取って路地裏へ引っ張り込んだ。和明は三島の首に手の平を押し当てると、そのまま片手で三島の体を持ち上げた。三島は両手で和明の手首を握りしめ、足をバタつかせた。
「舐めんなよお前、漁師舐めとったら、このままいてまうど」
「聞いて、話、聞いて」
和明が『イギリス』の外壁に三島を放り投げると、三島はずるずると滑り落ちて尻もちをついたまま和明を睨み上げ、こう言った。
「マリーがあんさんを呼んだのは、助けて欲しいからやありまへん。あんたを騙す為や!」
その瞬間、和明の前蹴りが飛んだ。だが和明の右足は三島の顔面を逸れて、外壁を蹴った。
「なんの話しよるん、気ぃ付けて喋りや」
「今朝店に来たのは、四ツ谷の木っ端やないんです。舎弟引き連れてやって来たのは、バリマツの敵討ちに燃えるあの、一色です」
「…一色? て、四ツ谷の若頭補佐か?」
「今は本部長て名乗ってます。あいつが来たなら事態は深刻です。バリマツが死んで一年、次期跡目の筆頭株やと言われてるのがあの男です」
「別に誰が来ようが関係あるかい。そんな事で芋引く(引き下がる)ように俺が見えるか?」
「違うんです!」
三島の伝えたい話はこうだ。
四ツ谷組による『イギリス』襲撃には、建て前的な意味しかないという。報復を形どった嫌がらせという点では、時和会の藤堂御用達の店舗を潰せるこの機会を逃す手はない。だがもちろん四ツ谷組が望む本当の目的は、志摩太一郎の身柄を捉える事にある。
志摩が今現在どこに身を隠しているにせよ、兄貴分である藤堂が自首した事は耳に入っているはずだ。だからと言ってのこのこと『イギリス』に姿を見せる事はないだろうが、それでも一番繋がりの太い線は藤堂であり、この店舗の他には組事務所しか残されていなかったのだ。もちろん志摩の住んでいたアパートなど、イの一番に乗り込んでいる。
そこで四ツ谷組・一色の取った手段はこうだ。
「店内の従業員全員をフロアに集めて、情報を金で買う、一色はそう言いました」
「情報?」
「『この中には借金をようけこさえた人間もおる事でしょう。どうです、帳消しにしませんか。志摩太一郎の行方とは言いません。志摩に繋がる人間の名前、居場所、連絡先、何でもええ。それらの情報をお持ちの方は手を挙げて下さい。うちの組が、責任を持ってその情報を買います。…言い値で』」
「ほな、何か。俺は円加に、売られたとでも言いたいんか」
「そうです。真っ先に手を挙げたのが、マリーです。あの子は子だくさんの家に生まれて、職が安定せず借金で首が回らんようになった父親が身投げしよりました。母親も風俗に身を落として、その後どこかへ蒸発しました。あの子には弟妹が四人いてます。ド貧乏で借金抱えて、姉妹で心中しかけとったあの子を、私がこの店へ紹介したんです。あの子は確かにええ子です。せやけどあの子にとって何より一番大事なのは、お金です!」
「ホステスがニ、三人連れ去られた言うんは…」
「ウソです。皆中におります。支配人も、縛られてはいますが、店内におります」
和明は言葉を無くし、溜息を付いた。そして、
「そうか。よう分かったわ、教えてくれてありがとう。首、すまんな」
と言って、笑った。
「え?」
「行くわ」
「いやいや!」
三島は慌てて立ち上がり、両手で和明の体を押さえた。
「今は藤堂さんもおりません、懇意にしとったいう刑事も最近姿を見ません。無理なんです、今あの一色に盾突いて、生きて帰れるわけがないんです!」
「あはは、何やお前は」
「え?」
「好いた女に売られたかと思えば、顔見知り程度のおっさんに助けられるて。俺は今どないなっとんよ。どんな状況?」
「いやいや、それは」
「ありがとう。ほな」
「あきませんて!」
構わずに行こうとする和明を無理やり押しとどめる三島の力は意外にも強く、この男の本気が伝わって来た。
和明は呆れたように鼻で溜息をつくと、ぐいと三島の体を押し戻して言った。
「ええんじゃ。円加には、何かあったらいつでも俺に言うて来いと言い聞かせてあった。何かあったから、言うて来たんやろ。それだけの事やんけ。ほなもう行くわ、時間ない」
三島は和明の男気に観念し、力なく後退した。自分の前を通って颯爽と店へ向かう和明の背中に、三島は思い出したように声を掛けた。
「最後に一つ、忠告させて下さい」
「何」
「中に、『ペケ』がおります」
「…ほお」
聞いた事があった。名をペクだかペケだかいう韓国人の若者である。和明はまだ会った事がないが、バックに付いている四ツ谷組と言わず、この界隈で今一番の要注意人物だと騒がれている男がそんな名前だった。暴行、傷害、恐喝、薬の運び屋、用心棒。それらの仕事をまるでケンジ達のお株を奪うように、一手に引き受け名を上げていると専らの評判である。和明の職場である埠頭に出入りしている時和会の構成員が、苦々しい顔でそう話しているのを何度か耳にした事があった。
「ケンジさんとユウジさんが亡くならはった今、ペケは完全に調子付いてます。若いいうのもあるかしれんけど、けどあのガキもただモンやないですよ。相手したらあきまへん」
「…そうか。ご忠告、どうも」
和明は振り返りもせずに、表通りに出て『イギリス』店内へ入った。
受付には誰もいなかった。カウンターに置いてある呼び鈴を鳴らしてしばらく待ったが、誰も出て来なかった。確かに営業はしてないようだ。
和明は両肩を上下させ、首を前後左右にぐるぐると回すと、フロアへ通じる重たい扉を開けた。
一言で言えば、うるさかった。まるでパチンコ屋のように大音量で流れる流行歌、そして酒の入ったヤクザ者達の羽目を外した馬鹿騒ぎ。呼び鈴を鳴らしても聞こえないはずである。
フロアの隅では三島と同じ制服を着たボーイ達が、ある者は倒れ、ある者は蹲っていた。今まさに四ツ谷組の構成員たちから暴力行為を受けている者もいた。フロアの中央では、同じくスーツ姿のヤクザが三人、両脇にホステスを抱えて酒を飲んでいる。本来ボックスシートとして使用されているソファが無造作に脇へと押しやられ、何もない空間に集められたホステス達が、三人のヤクザの足元にひしめき合って座っていた。見たところ、その中に円加の姿はないようだった。ホステスとボーイを覗けば、見える範囲にいる四ツ谷組の構成員は五人である。
ヤクザ達は、和明が入って来た事に気付かず好き放題を続けている。ドレスの中に手を入れられたホステスが悲鳴を上げ、嬉しそうに笑う男達の声が演歌に混ざって聞こえて来た。
「アホくさ。だからチンピラにはなりとうないんじゃ」
和明はそう呟くと、手近にあった高級そうな洋酒のボトルを掴んで、投げた。ヤクザに当てようものなら割れた破片でホステスにまで被害が及ぶ。そう踏んで真正面の壁に向かって投げた筈が、軌道の間にふらりと入り込んだ酔っ払いの顔面に当たって、ボトルは見事なまでに砕け散った。
「あ」
一斉に悲鳴が上がり、ヤクザ達の怒号が響いた。
「ま、ええか。…一色いうのはどいつや!」
和明は気持ちを切り替えて、そう叫んだ。
顔面に洋酒のボトルを受けたヤクザを除き、その場にいた男達が次々にドスを抜いて和明を睨んだ。
店内に轟いていたBGMが消えた。
「おー。ようやくのお出ましというわけですな」
そう言いながら、一人の男がフロアの奥から姿を現した。トイレにでも行っていたのか、ハンカチで手を拭きながらの登場である。いかにも金に目がなさそうな、眼鏡を掛けた体の細い男だった。年の頃は四十代から五十代。背は百七十センチ程度だが色黒なせいか、細い割に大人しい雰囲気ではない。明らかにバリマツよりも上の年齢に見えた。それでいて年下のバリマツを慕うが故に若頭になろうとしない、こういう男こそ危険なのだと和明は分かっていた。
「お前か、一色は」
「そないだ。あんさんは?」
「善明和明や」
「…そうですか」
間を置いて答えた一色の言葉に、悲鳴が重なった。
今しがた一色が歩いて来たフロアの奥から、さらにもう一人背の高い男が現れた。
一色とは対照的な色の白い美男子である。細身の黒いズボン、白いTシャツに黒のジャンパー。一見してヤクザには見えない。しかし落ち着き払ったその佇まいは、三島の言う通り只者には思えなかった。
和明の目が細くなる。その男がペケだと一瞬で分かった。
「ちょい、おい、そこの兄ちゃん。あかんかったわぁ、便所までもたんかったー。ズボン下ろすトコまではいけたんやけどな、あかんかってん。便所にクソまみれのパンツ捨てて来たからよ、あとで始末しといてくれる」
その男は鼻にかかった低い声でボーイに話しかけると、盛大に唾を吐き捨て、一色の隣に立った。その後ろから、能登円加が歩いてくるのが見えた。彼女が着ている、スパンコールの散りばめられた緑色のドレスは左側の肩ひもが千切れ、美しい顔を彩る化粧が雑巾で拭いたような汚れに変わっていた。
和明は思わず、目を伏せた。
「おい、ペケ。あの男、分かるか?」
隣に立った背の高い男に一色が話しかけると、その男は一色の肩をドンと拳で叩いた。
「ペクや言うとるやろ。耳の穴貫通させたろか」
「知ってるか?」
「ああ?」
その時初めて、ペケの両目が和明を捉えた。
「…誰や?」
と、ペケは言った。
ああ、やばいな。和明は正直、そう思ったという。
分かりやすく言えば、同じ匂いを感じ取ったのだ。例えば銀一、竜雄、春雄、その隣に立っていてもなんら違和感のない、自然体な暴力の匂いがこのペケからは漂っていた。もっと言えば、もし髪の毛をオールバックに撫でつけていれば、一番似ているのは志摩太一郎かもしれないとさえ和明は思った。こういう男は本当にタチが悪い。顔には出さなかったが、和明は一人で来た事を少しだけ後悔していた。
だがそれ以上に驚いたのは、ペケの若さである。背が高い故に子供には見えないが、肌の質感はまるで少年のようであり、十代だと言われても信じてしまう程だった。しかしその眼光は猛禽類と同じ鋭さを持ち、切れ長で一重の目に睨まれるだけで、気が重くなるのを和明は感じた。
「和明さん」
円加が名を呼んだ。
「おお、円加。いけるか?」
「ごめんなさい」
円加はそう謝って、下唇を強く噛んだ。ぎゅっと閉じた両目から大粒の涙が零れた。
「ええよええよ。俺の事よう思い出してくれたな。気にせんでええで、すぐ帰らしたるさかい、ちょっと待っとき」
気負いのない和明の言葉に、一色を始め四ツ谷組の構成員が顔を見合わせて笑った。帰らせるわけないがな、そう言いたいのだろう。
「おいー、マリー、なにー?」
お道化た調子で言いながら、ペケが振り返って円加を抱き寄せた。
「俺という伴侶がおりながらー、なにー?」
そう言うとペケは円加の頬をベロりと舐め上げた。円加は怯えたまま声を発する事も出来ず、ただ茫然と立ち尽くした。
和明はテーブルの上からもう一本ボトルを手に取った。
「それ投げたらこの女殺すからな」
とペケが言った。先程までより、声のトーンが落ちて真剣味を帯びていた。
「ほいで、自分はどこの誰なん」
ごとりとテーブルにボトルを戻した和明を、横目で睨み上げながらペケが聞いた。
「あれやろ。志摩の関係者なんやろ? てことは、えー、先生んトコの息子? それか柔道王の息子? あ、あれか、ガキの頃時和の親分刺した言う、育ちの悪い狂犬か?」
「あはは、すまんな。そのどれでもないわ」
と苦笑いを浮かべて、和明は答えた。
「なんじゃい、ハズレか。ほなお前は何しにきてん。まさかホンマに、志摩の居所教えに来てくれたんと違うやろ?」
「志摩なあ。そんなもん、俺が聞きたいわ」
「なーんとも、この、覇気のない。…カスが」
「貫禄のないガキじゃのう。そんなんでようケンジとユウジの後釜や言えたもんや」
「おうおうおう、勝手に周りが言うとるだけやないの。お前こそ何、有名なお友達の名前出してビビらそうとしてんの? やめて、怖いから」
すると不意に、一色がペケの肘を掴んで前に押し出した。
「ベラベラ喋っとらんで、早よ行かんかい」
言われたペケは、バンと音がする程強く一色の足を踏んづけた。
「今から行くがな、せっかちピンちゃん!」
そう捨て台詞を吐いて、ペケが飛び出した。傍らの一色は、踏まれた足を抱えてぐるぐるとその場で回転した。
全速力で駆けて来る輩の攻撃パターンは主に二つだ。利き腕を思い切り振り回して来るか、ドロップキックのどちらかである。和明は右半身を後ろへ引くと、そのどちらが来ても良いように身構えた。
緩やかな階段状のスロープを駆け上がり、フロア入り口に立つ和明の前に来る直前、ペケはテーブルの上に置かれた生け花の花瓶を引っ掴んで、投げた。
ほら、ややこしい。思いながら和明はしゃがんでかわすも、次に来る攻撃の選択肢が増えた事に苛立った。
花瓶が入り口の重たいドアに当たって砕けると同時に、ペケの振り上げた踵が和明の頭上に迫った。
「そおりゃ!」
体重の乗った踵落としを見上げた和明は、一歩前に出てぺケの腿裏を右肩で受け止めた。踵さえ喰らわねばどうという事のない攻撃である。和明はそのまま右手でペケの太腿、左手で胸倉を掴んで体ごと持ち上げた。
「ええっ」
驚きの声を上げるペケが態勢を変える前に、和明はフロア中央に向かってペケを投げ飛ばした。
「うわわ!」
もんどりうって倒れ込むペケの隣に、一色が立っていた。見た目程派手なダメージはないものの、百八十センチ程もある自分の体を易々と投げ飛ばした和明の腕力に、ペケは少なからず精神的なショックを受けた。
「お前は若いから知らんけどね」
と、一色が眼鏡をハンカチで拭きながら言った。
「ああ?」
一色を見上げるペケの目には、鬱陶しい、という感情が燃えている。
「あの善明という男が、…まあ、変った名前やからからそう思って言うんやけど、恐らく時和会の秘蔵っ子と呼ばれとるのが、あの男やね」
「ああ? ひざっこ?」
「秘蔵」
「膝っ小僧?」
「それでええわ、もう」
「膝小僧がなに?」
「お前はハズレやと言うけども、表に名前が出てないのは裏で全部時和会が揉み消してるからで、赤江のあの世代で言えば、こっちの業界で一番の大物は断然あいつやわ。大当たりを引いたんじゃ」
「…早よ言えやっ」
確かな証拠は何もない。和明の過去については、その後も銀一達はよく理解せぬままだったそうだ。ただ時和会の構成員として盃を受けていたわけではない、という点だけは和明自身が証言している。
和明の働く漁港には、昔からヤクザ者が深く関わり合ってきた。そこにはおそらく密漁や武器・麻薬の密輸、漁業利権などが絡み合い、ひと口にこうだと言切れぬ複雑な事情があったと推測される。しかし和明にとっては、そこが理由ではなかった。自分達の街、自分の働く港で勤務する傍ら、同僚や時和の若い準構成員から揉め事の相談を聞いて片付けてやるうち、時和会から幾ばくかの金銭を貰い受けるようになった。ただ、それだけの事である。
しかしそれは、無関係な人間の目から見れば、ケンジやユウジと同じ種類の人間であると捉えられても不思議ではなかった。もちろんこの事は藤堂の耳にも入っており、構成員として迎え入れる腹積もりはないものの(冗談で誘う事は、以前から度々あったらしい)、目を掛けていたのは確かなようだった。三島の語った「藤堂からよろしく言われている」「他の人間も良くしてもらっている」、という言葉の意味もこの辺りと関係がある。
拭き終えた眼鏡を丁寧に耳に掛けながら、一色が言う。
「表向き、今赤江漁港を仕切ってるのは組合長のタチバナいうじいさんのはずやが、実際港に出入りしよる人間で堅気極道を問わず、現場で一番求心力があるのは、この善明や」
「この街はこんなやつばっかりか?」
「あはは、かもしれんな。若いのに大したもんやで。ほらどうした、一本ぶん投げられて、もう終いか?」
一色の発奮に、ペケは頬を膨らませて立ち上がった。
「んなわけあるかよ」




