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「風の街エレジー」  作者: 時枝 可奈
28/51

27 「残影」

 

 友穂の住むアパート前、その敷地にて。

 幼馴染の男四人が輪のように向かい、立ち話をしている。 

 この日の夕刻に友穂を付け狙ったという男の正体が、響子の父『庭師』ではないだろうかと竜雄が口にした時、この何気ない時間こそが掛け替えのない幸福なのだと噛み締めていた男達の顔から、笑みが消えた。他意なく自然と疑問を口にしただけの竜雄は、場の変化に背筋を伸ばして「いや、あの」と取り繕う姿勢を見せた。

 銀一はその男の顔を見ていない。そういう意味で言えば、正直な所男かどうかも分からない。ただ、一瞬触れたその者の首の筋肉は、男の感触だった。

 友穂の視界に入らぬよう商店街の小路や裏道を選んで歩いていた時、偶然その人物が目に入った。不審な動きを見かけたわけではなかった。その逆だったのだ。裏路地の中から、表通りに立つ友穂の背中をただ見つめて動かない人影。あるいはその者が、通り抜け目的で狭い小道をそそくさと歩いていたのなら、何も思わなかったかもしれない。しかしその男は、じっと動かなかったのだ。

 足元から這い上がる怖気に駆られて、銀一は猛ダッシュで走った。病み上がりの銀一は以前ほどの速度で走る事が出来ない。ついには男が友穂の手を引いて、裏路地に引っ張り込んだ。銀一の全身を鳥肌が覆い、同時に男の首を掴んで力一杯真後ろへ引いた。空いた手で友穂の背中を押し戻すと、掴んでいた男が銀一の手の中で一回転した。宙返りを決めて銀一の背後に回り込むと、そのまま何もせずに脱兎のごとく走り去った。

 銀一がいくら思い出そうとしても、振り返って自分の目で見たはずの男の背中に、正体の鍵となるような印象は残っていない。服装も、髪型も、背格好すら、はっきりとは思い出せないのだ。

 何も答えられない銀一の顔を見ようとはせず、竜雄は俯き、和明と春雄は呼応するようにただ黙って立っていた。やがて、沈黙を破ったのは和明だ。

「煙草」

 と、ひと言和明は呟いた。

「酒」

 と竜雄が言う。

「飯」

 と春雄。

「…肉」

 と銀一が言い、乾いた笑いが起こる。

 口々に銜えた四本の煙草に火が灯いた。

 馬鹿な自分達が推測で何を語ろうにも、疑問しか出てこない。

 四人は向かい合いながら、敢えて取り留めもない言葉を口にして遊ぶ。

 誰が何を言うかは問題ではない。ここにいて声を発している、その存在が全てだった。

 光量不足の街灯の下、暗がりと頼りない光の境目で、言葉だけがぐるぐると回る。

「車?」

「…別に」

「バイク」

「いらんなあ」

「喧嘩」

「おおお」

「豚の生姜焼き」

 馬鹿にしたような、笑い声。

「なんやねんお前、腹減ってんのか」

「ピーナッツバター」

「ええのお」

「ラーメン」

「涎出るわ」

「やばい、腹減ってきた」

「なんじゃお前」

 笑い声。

「女」

「うそつけ!」

「あ、お前、言いつけるからな?」

「なはは、ガキかお前」

「トラック」

「船!」

「俺も船」

「…ハンマー」

「…え?」

「ハンマー」

「…ああ、…こわっ!」

 笑い声。

「港」

「そらまた、演歌じゃのう」

「海風」

「渋いのお」

「男はつらいよ」

「…何て?」

「なんでもない」

「なんやねん」

「映画」

「はあ!?」

 笑い声。

「…母ちゃん」

「それはずるいわ!」

「わははは!」

「…未来」

「くっさ!屁の匂いする」

「子供」

「ええがなァ」

「未来」

「何で二回言うねん」

「金」

「欲しいなあッ」

「言うて、大事なもんなんて全然ないわ」

「そんな話してへん」

「ありがとう。ほんまに、助かったわ。お前らはもう一旦帰れ」

「友ちゃんのこと大事なんはお前だけと違うぞ」

「友穂は俺のもんや。俺がなんとする」

「言うのはタダやな。けど真剣にそう思うなら、お前の安いプライドなんぞ、意味はない。満足に走れもせんくせに、お前一人でやれるんけ、病み上がり」

「水臭いのう。助けてー言えや、銀ちゃん」

「あのな、銀。一旦帰ってからまた来る方が、どえらいしんどいんやぞ、お前そこ分かってんのか?」

 笑い声。

「…そうか。ほな、まあ、好きにせえや」

「お前ほんま!」

「このボケ!」

 笑い声。

「悪い思うなら酒くすねて来いや。なんでもええから」

「俺がか」

「あと煙草とつまみ」

「それはお前が自分で買うてこい」

「なんでじゃお前」

 笑い声。

 やがて女たちの、弾き合うビりヤード玉のような笑い声が聞こえて来た。男たちは目を細めると、真顔でこれからの事を話し合った。

 まず一つ目は、藤堂の持っている情報を聞き出す事である。彼は自首する前、銀一達に向かって「志摩太一郎が黒である可能性」についての確かな情報を掴みかけていると話していた。収容されている極道者に一般市民が接見出来るかはわからないが、何としても藤堂の持っている情報を手に入れたかった。

 そして二つ目は、死んだケンジの語ったバリマツの最後である。バリマツは同系列団体の交流会で東京へ出張中、舎弟に対して「船を造る所を見て来る」と言い残して失踪し、遺体となって発見されたのだ。東京にいる間に、花原茂美を訪ねるつもりでいた。長年この地で酒和会の看板を支えて来た彼なら、何か知っているに違いなかった。

 最後に三つ目、これは成瀬秀人を頼る他に良い方法が思いつかないが、バリマツが殺された同時期、東京で目撃されたという志摩の動向を探る事である。だがその目撃証言がどこから出たものなのか、今一つ判然としなかった。

 それにもしもバリマツ殺害の犯人が志摩なのであれば、もはや銀一達に出来る事は何もないと考えていた。成瀬刑事が言ったように、志摩は罪を犯しているかもしれない。しかし、黒の巣ではないかもしれない。そこにある見えない境界線は、銀一達にとっては重大だった。

 西荻平左や松田三郎、今井正憲、難波、榮倉刑事、そして黛ケンジと花原ユウジの死にはどんな意味があるのか。志摩太一郎は、果たしてどのように関わっているのか、どうしてもそれが知りたかった。

 しかし銀一達はもちろん、事件を解決したいと考えているわけではない。可能なら忘れてしまいたいとさえ思った銀一達が、一連の事件から手を引こうとしない理由としてそこにあるのは、決して口には出来ない秘めたる熱情なのだ。

 討てるものならば、銀一の負わされた一生傷と、殺されたケンジとユウジの仇を討ちたいと、誰もがそう真剣に考えていた。もちろんお互い言葉にはしなかったが、漂って来る気配のようなものはそれぞれが感じ取っていた。

 少なくとも銀一にはそう見えたし、まず彼自身がそうだった。

『もし自分の目の前に、ケンジとユウジ、そして難波を死に追いやった犯人が現れた時は、きっとそいつを殺すだろう。その相手が志摩響子の父親なのだとしたら、自分は衝動的に殺してしまうだろう』。

 そこには、己が内に巣食う、獣じみた殺意に対する人間的な嫌悪も当然ある。しかし同時に赤江に生きる銀一にとっての、それは生まれついての燃料でもあったのだ。

 報復など、愚かな事だと分かっている。正しいなどと思った事もない。だがきっと、犯人を我が手で殺してしまったとしても、その時そこにあるものは、自分なりに前のめりな人生の終わりなのだろう、そんな風に感じていた。

 自分は抗えない衝動を抱えた狂人なのだと、銀一はそう思っている。そして怨念で凝り固まったどす黒い怒りの反対側にいる、人間・伊澄銀一が愛情を持って見据える大切な者達を思い浮かべる時、彼はこう思うのだ。

『大した人生ではなかった。

 結局赤江の外で生きる事などなかったが、別にそれも悪くはない。

 今思えば、友穂をこの腕に抱けた事が自分の人生のゴールだった。

 バカな息子だったと父も母も笑うだろうが、それでいい。

 可愛い、響子。自分と同じ狂った悪友、ケンジとユウジ。

 この命をくれてもいいと思った女、友穂。

 自分の目に映る家族や大事な友に害をなす存在など、……俺がこの手で殺してやる』。

 どう転んでも、今の銀一には殺意しかなかった。

「煙草ー、酒ー」

「ほいで…」

「来たー!」

「…何これ」

「何かの煮びたし」

「何かのってなんや!」

「知らん、暗うてよう分からん。友穂が作ったんじゃ、これしかないからいらんなら食うな」

「食うよ!」

「何かの、煮びたし…」

 笑い声。

「食うなよお前!」

「くれよ!」

「美味い!え、美味い!」

「何これ!」

「友ちゃん何これ!」

「うまーい!」

 近隣住民に通報される程のバカ騒ぎに興じる男たちの内側に、煮えたぎる殺意がドロドロと流れ渦巻いている事など、この時の女たちには知る由もなかったのだ。




 僅かな滞在を終え、仕事の為に帰郷した能登円加が勤め先であるキャバレー『イギリス』で揉め事に巻き込まれ、連絡を受けた和明が慌てて一人赤江に戻った時の事である。

 ここから先の話は、後に銀一が友穂から聞いた証言を元にしている。その友穂は円加から打ち明けられたのだが、事の真相を銀一が和明に確認した所、

「知らん」

 と一蹴されたそうだ。

 赤江を中心とした周辺地域は今、どこも時和会と四ツ谷組の抗争で危険な状態にあると言えた。しかし昔ながらの住人にしてみれば、この抗争はそれほど意外性のある敵対構造ではなく、これまでも両間で小勢り合い程度の揉め事が多くあった為に、街の空気は普段通りに近かったという。今回はいつもよりちょっと長いな、物騒な輩が多いかな、その程度の認識だったようだ。

 だが今回の抗争においてこれまでと大きく違ったのは、両組織における重要人物の不在である。

 四ツ谷組の顔役として堅気からの人気も高かったバリマツこと松田三郎が謎の死を遂げ、時和会若頭で『暴れ牛』と称された藤堂義右は、現在塀の中である。

 抗争の火種を作ったとされる時和会のニューエース・志摩太一郎は依然行方知れずであり、両間を飛び交う血飛沫の量を最小限に制御出来る実力者がいないせいで、いたずらに抗争が長引いている事は間違いなかった。

 時和会が後ろ盾として付いている『イギリス』に、四ツ谷組の構成員が出入りするようになったのはある種当然の流れだった。元来この店は藤堂義右御用達として知られていたが、その舎弟である志摩もおらず、城を守る兵隊の士気は著しく下がっていた。

 四ツ谷組の要求は、常に同じだった。

 松田三郎殺害の疑いが濃厚である、志摩太一郎の身柄を差し出せ。さもなくば、居所を言え。

 初めのうちは鼻息荒く抵抗姿勢を見せていた時和会の構成員も、やがては全く行方の分からない志摩に対して業を煮やすようになり、一年が経つ頃には組の看板を背負う事にも不満を募らせる輩が多く出始めた。

 そんな折、能登円加からの電話を受けたのは、藤代友穂だった。

「姉さん! 和明さんおりませんか!?」

 和明はこの時、友穂の住まうアパートの前で鮮魚の戸板販売をして日銭を稼いでいた。漁師である彼は当然魚の目利きが得意である。朝早く卸売市場へ出かけては一日で売り切る目安の魚を仕入れて戻り、午前中から昼間に掛けて近隣の主婦目掛けて売りさばいた。

 口が達者で、目利きはプロ、二十二歳の男前と来れば、売れない理由がなかった。

 円加から電話を受けた友穂の話によれば、『イギリス』で支配人をしていた大之木という男が、店に乗り込んで来た四ツ谷組の連中に拉致されたとの事だった。それだけ聞けば警察の仕事である。だが大之木自身が連れ去られる直前、警察は呼ぶなとボーイに言付けたのを円加は聞いていた。

 円加自身に怪我はないのかと友穂が聞くと、

「姉さんどうしよう。どうしたらええ」

 と、電話口で泣きじゃくり話にならなかった。

「和明!円加から電話!あんた、赤江に戻りな!」

 玄関を飛び出て友穂が名を呼んだ時、和明は曇り空の下で四人の主婦を相手に魚を捌いていた。和明はその時不在だった銀一達に一言も告げられぬまま、春雄の愛車で東京駅へと乗り付け、その日の売り上げを握りしめて電車に飛び乗った。

 何とか話を聞き出した友穂によると、四ツ谷組は支配人である大之木を拉致する際、勤務していたホステス二人を一緒に連れ去ったそうだ。円加が怯えていたのはこの為だと思われた。

 乗り込んできた四ツ谷組は五人いて、

「支配人とはいえ呆気なく首切りされたらこっちはかなわんものね。とりあえず可愛いのニ、三人引っ張っていきますね。こちらの要求を飲まない場合は、明日からお店開けんようにしたるさけ、そのつもりでおってよ。今日中にまた調達にきます」

 と、そのうちの一人が名刺を置いて行った。

 その名刺には、『四ツ谷組 本部長 一色博光』とあった。

 時和会における藤堂義右の肩書は、若頭である。これは通常、藤堂程の若年齢で選ばれる事のない重要なポストだが、将来的に親分の跡取りと目されている人物、という意味合いでもあった。時和会において藤堂とはそれほど将来を見込まれた傑物という事なのだが、対する四ツ谷組には現在若頭の役職に就いている執行部(組織によって名称は異なる)の人間がいなかった。異例と言えばこちらの方がより異例なのだが、その裏には亡くなった松田三郎への敬意があった噂されている。

 当時既に高齢であった四ツ谷組の親分・沢北の跡目として期待されていた松田本人が、若頭というポストに就く事を拒んだ。執行部としての任務や立ち位置は受け入れられても、肩書を背負わされる事を嫌ったのだ。ただそうなると組織としては不都合が出て来る為、松田の下に時期若頭として『本部長』という役職に一色を置く事で、舎弟である彼の上にあくまで松田を据えている、という体裁を整えた。

 つまり松田亡き今、四ツ谷組の実質的な若頭がこの一色であり、一年が過ぎた今も松田への畏敬から役職を継がぬ、ガチガチの硬派でもあった。

 察するに『イギリス』にて出された名刺とは、四ツ谷組が本気で時和会を潰しに動いたという表明である。

 円加から電話があったその日の夕方過ぎには、和明は『イギリス』に到着していた。

 携帯電話などなく、友穂からの又聞き程度で具体的な詳細を把握出来ていない和明は、とりあえず店の従業員から話を聞こうと考えた。恐らく店内には円加もいるだろう。

 しかし店前の路地に差し掛かった所で、和明を呼び止める声があった。

 店舗と飲食店の入った雑居ビルの間。既に日が暮れかかり、光の届かない暗がりの中から姿を見せたのは、いつぞやのボーイである。藤堂に酒の入ったグラスを投げつけられ、したたか蹴りを入れられていた、あのボーイだった。

 男は自分を、三島と名乗った。 




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