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「風の街エレジー」  作者: 時枝 可奈
24/51

23 「猩禍」

 一行が車で向かった先は、春雄がこの街でよく利用している大衆酒場だった。

 東京の街とは言え昭和四十年代のこの頃、午前零時を回っても営業を続ける飲食店の数は限られている。その為か、春雄達が近くに車を停めて店の暖簾をくぐった時には午後十一時を回っていたにも関わらず、店内は活気のある賑わいに溢れていた。

 店の暖簾には『泉食堂』『姫舞』という名が二垂れに分かれて書かれていた。どちらが屋号だろうか、銀一が首を捻りながら店内に入るとすぐ、十メートルはあろうかというカウンターが店の奥に向かって伸びているのが目に入り、更にその奥には座敷もあるようだった。銀一は『雷留』を思い出しながら、でかいし、清潔さが段違いじゃな、と感嘆の溜息をついた。

 春雄がカウンター内の大将に片手を上げて挨拶し、店の奥を指さした。大将が頷いて、カウンターを拭いていた若い女性の給仕係に声を掛ける。案内されたのは大座敷の一番奥で、衝立で隣席同士を隔ててはいるものの、個室というわけではなかった。

 酔いどれ達の大きなダミ声と笑い声、食器やグラスのぶつかり合う音がけたたましく、先程まで友穂の部屋で静かな時間を過ごしていた銀一は、席に腰を下ろしながら苦笑を浮かべた。あの部屋に戻りたいと思いながらも、自分の性には合っているなと、そう感じたのだ。 銀一は席につくなり隣に座った友穂に、「痒いから外してもええか」と頭に巻かれた包帯を指さした。「洗ってまた巻き直す」と言いながら友穂が外してやると、春雄が「ほんまはどないした」と聞いた。こめかみの傷口はまだ真新しく見えた。「なんもないわ」と言って銀一が笑うと春雄は溜息を零し、その隣では響子がニコニコと微笑んだ。銀一の為に甲斐甲斐しく手を動かす友穂を見るのが、嬉しいようだった。

 遅れてくる竜雄と和明を待つ気がないのか、春雄の仕切りで酒と食べ物が注文された。

 しかしそれ以外は誰もが無言だった。春雄はもちろん銀一はこの酒席が単なる幼馴染同士の飲み会でない事は分かっていたし、友穂も空気を読んでいた。響子は相変わらずニコニコと微笑みを浮かべていたが、元来他人が多くいる場で出しゃばるような性格ではなかった。

 頼んでいた飲み物と料理が運ばれて来て、形だけの静かな乾杯を済ませた後も、竜雄達の到着を待つ振りをして、春雄は口を開かなかった。

 口火を切ったのは、友穂だった。ビールを一息でグラスの半分ほど飲み、こう言った。

「銀一から、さっき話を聞いた。色々あったと、聞きました。春雄も響子もずっと東京やから、二人がどこまで知ってたのか分からないけど」

 友穂は一旦そこで言葉を切り、グラスをテーブルに置いた。

 銀一、春雄、響子の目が自分に注がれても、友穂はなかなかその先を言えなかった。自然と涙がせり上がって来て、乱暴にそれを拭った。春雄は俯き、響子は唇を噛んで涙を堪えた。

「なんで」

 と友穂は言った。

「どうして」

 そう続けた言葉と共に、友穂の目から大粒の涙が溢れて流れた。

「どうして銀一は刺されたの?」

「友穂、それは」

 まるで春雄と響子を責めるようにも聞こえる、友穂の熱のこもった口調とその内容に、思わず銀一が止めに入った。

「銀」

 と短く春雄が制すると、銀一は黙って俯いた。

「嫌味を言うつもりも二人に文句を言いたいわけでもないの。ただ我慢が出来んだけ」

 友穂は振り絞るようにそう言い、再び強く涙を拭うと堪えるような表情を浮かべて、顔を上げた。

「銀一が何かしたの? 悪さをして人に迷惑を掛けたのなら仕方ないよ。恐ろしく喧嘩っ早いのも知ってる。よそもんにしたらヤクザと同等タチの悪い男かもしれん。でも私の知ってる銀一は、違う」

 友穂が力強くそう言い切ると、俯いていた銀一は顔を上げて彼女の横顔を見つめた。

 友穂は自分が何も知らされていなかった事を、怒ってはいるわけではない。距離を置いていたのは友穂であり、皆の性格を思えば一度は「友ちゃんにも伝えた方がええやろな」と話をされていたであろう事は想像に難しくない。それでも春雄や響子の口から友穂の耳に入って来なかったという事は、銀一自身が拒んだに違いないのだ。恐らく友穂も、自分に何かがあったとしても銀一には伝えなかったと思う。友穂にとっての問題は、そこではないのだ。

「銀一はずっと、真面目に働きよったでしょ。今でもきっと、日の出と共に起き出して、お父さんと一緒に、と場でハンマー振るいよるんでしょ? 私ずっと前に銀一から聞いた事がある。あんたはこの街出て、よそに働きに行きたいと思った事はないの? 夢はない? そしたらこの人、なんて言うたと思う。『どこに行くとかどこにおるかはどうでもええ。家族の顔見ながら飯が食えて酒が飲めるんならなんでもええ』。それを私と一緒になって聞いとらした銀一のお母さんな、『小さい事言うとらんで、外に出てでっかい男になってくれりゃあええのに』って笑いながら、嬉しゅうて嬉しゅうて泣いてらしたんよ! 言葉だけ聞けば親離れしよらんガキ臭い話や言うて笑う奴もおるやろ!…けど、違うやろう!」

 膝の上で握りしめていた友穂の右手が、テーブルを叩いた。

「あの街でそれが言える男の凄さはあんたらも分かるやろ!…なんでや!? なんでそんな銀一が刺されて死にかけないかんのよ!」

「もうええ、ええよ友穂。やめえや、こっぱずかしい」

 低い声で銀一はそう言い、優しく友穂の腕を掴んだ。

 友穂の言葉は、同じ赤江出身である春雄と響子の胸にこれでもかと響いた。

 差別と貧困が当たり前のように付きまとう被差別部落において、現状や生活環境をそのまま受け入れる事は誰にとっても非常に困難な事だった。そういう意味では春雄だけでなく響子も、そして友穂も、故郷を出て生活の基盤を他所の街に移す事で、人としての幸福を求めた心の流れは、とても自然だと言える。

 そして長距離ドライバーの竜雄や漁師である和明のように、例え住居が赤江にあったとしても、日常のほとんどを街の外で過ごす事でしがらみや偏見から一時身をかわせる時間というものは、現実逃避とは言えないまでも、ストレス発散の場を別で設けている事に違いなく、発想としては春雄達に近い。

 もちろん銀一には、その事で友人を責める気など毛頭ない。銀一の生き方は自分が望んで決めた事だし、そもそも不満はない。そして銀一がそういう男であったが為に、竜雄や春雄達もごく自然に、それぞれの生活に向き合う形で生きて来た。

 ただ、敢えて友穂が言葉にしたように、赤江を出ずにこの場所で生きて行く、この街で幸せを築いていくのだという信念は、今となっては銀一以外誰も抱く事の出来ない非現実的な幻想である事もまた間違いなかった。彼らの故郷は『嫌悪の坩堝』『どん詰まりのふん詰まり』と呼ばれた。赤江という街は若い彼らにとって、夢や希望に溢れた陽の当たる場所である筈がなかったのだ。

 だからこそ友穂の言わんとする言葉の意味は、春雄にも響子にもよく理解出来た。自分達には真似の出来ない強さが、銀一にはある。

 それは離れていた友穂だからこそ言える、至極真っ当な意見だった。

 暴力的な街だから、暴力的な死に様が当たり前なのか。違う。銀一はきっと、自分の目に入る範囲の小さな幸せを守ろうと、必死に毎日を生きていたはずだ。友穂はそう言いたかったのだ。そして何より、理由が知りたかった。




「どうしたのお嬢さん、何かされたかい?」

「こっちに来ておじさん達と一緒に飲もうよ」

 泣いている友穂を見つけて、声を掛ける者達があった。衝立の向こうで飲んでいた、隣席の一団である。仕事帰りのサラリーマンと思しき男達が、真っ赤に染まった酔いどれ顔でビールジョッキを掲げ、隙間からこちらを伺っていた。

 言葉だけ聞けば優しい。しかしその顔には明らかな下心が浮かんでいた。

 背中を丸めて大人しくしていた銀一が舌打ちして体を起こすと、慌てた様子で友穂が彼の膝に手を乗せた。

 一瞬は何の事だか分からなかった春雄が、振り返って事態を把握し、溜息をついた。

「言うてくるわ」

 そう言って立ち上がりかける春雄に、隣の響子がさっと涙を拭いて微笑みを浮かべると、

「優しく、優しく」

 と言いながら、開いた両手の平を胸の前で上下させた。それを見ていた銀一と友穂が、思わず吹き出して笑った。

 すると笑った友穂の顔を見て、サラリーマン達が尚も高いテンションで声を上げる。酔いが邪魔して、隣の銀一や春雄の姿が見えていないと思われた。春雄は自分を落ち着かせるように「ふーっ」と溜息を付いて頷くと、片膝を立てて腰を浮かせた。すると、

「ええわ、お前の出番ないよ」

 と銀一が言った。

「あ?」

 立ち上がって春雄が振り返るのと、額にネクタイを巻いたサラリーマンの脳天を和明がペチンと叩いたのはほぼ同時だった。

「始まってるやんけぇ」

 と笑いながら、竜雄がその横を通過して現れた。

 一分程遅れて、ギャーギャーと喚くサラリーマン達をさんざん威嚇して黙らせた後、満面の笑みを浮かべながら和明が戻って来た。黙ってその様子を見守っていた春雄は、苦笑いで首を横に振って座り直した。「よお」と言って銀一が片手を上げた。

 響子の隣に竜雄、春雄の隣には壁を背にして和明が腰を下ろした。和明はまだサラリーマンの一団を睨んでいる。

「思ってたより早かったな」

 と銀一が言った。

「電話一本、二本掛けて来ただけやからな。そこらへんに車止めてた兄ちゃん捕まえて、ここの店どこや、送ってくれへん?言うて」

 竜雄の言葉に、友穂は思わず声に出して笑った。目に浮かぶ映像があまりにも生々しく、そして懐かしかったのだ。

「変わらんなあ」

 と友穂は言い、竜雄は少し照れて鼻の頭を指で掻いた。

「和明、もうええよ。ありがとう」

 友穂がそう声を掛け、仕切り直して再び乾杯し、しばらくは昔話を楽しんだ。意識的に、そういう方向へ友穂が導いた。場の空気を悪くさせた事への彼女なりの気遣いだったが、それを知らない竜雄と和明が喜んで話に乗った。

 と、ある時おかしなタイミングで響子が涙を拭ったのを、春雄と銀一が見逃さなかった。

 場が静まり、友穂が響子の顔を覗き込んだ。

「ごめんねえ、響子」

 と友穂が謝ると、竜雄と和明が顔を見合わせて首を捻った。

「違うの。友穂姉さんのせいやないのよ」

 響子は微笑んで顔を上げ、涙を拭った。そして、蒼白い顔に微笑を称えたまま話を始めた。

「銀一さんが刺されて、春雄さんから兄さんの事を聞いた時、ああ、これはそういう事なのかもしれんなあって、私なりに覚悟を決めたの。もう、一年前になるわ」

 友穂は背筋を伸ばし、

「それで?」

 と響子を見つめて尋ねた。

「向こうで銀一さんのリハビリが始まって、なんとかかんとか元通りの生活に戻れたと聞いた時、一度っきりやけど銀一さんに謝りに行きました。友穂姉さんにも知らせてないのに私だけお見舞いに通うのはアカン思うて、つい無精しました。すいません」

「何を言うとるんや」

 頭を下げる響子に、謝られる謂れなどないという顔で銀一は頭を振った。

「だからようやっと顔を見に行ったのも、ついこないだの事よ。実はその時に、銀一さんには全部喋ったんよ」

 友穂が隣の銀一を見やると、銀一は半分程ビールの入ったグラスに口をつけ、お猪口で日本酒を煽るような勢いで一息に飲み干した。

 銀一が何も言わないのを悟って、友穂が響子に視線を戻す。

「物凄く悩んだ。私がそれを打ち明ける事が、それが却ってどういう事態を招くのかが怖かったのと、これまで春雄さんが一人でずっと、胸の内に留めて来てくれた事でもあるから、これまで勝手は出来んかったの。そやけど、私はどうしても銀一さんに謝りたかったし、本当はもっと早く、皆に全部言うてしまいたかった。だから今回こうして皆が東京で集まる、顔を揃える事を知って、この機会を逃す手はないって、ここの所そればかりを考えてた。友穂姉さん、ごめんな。…もう約束守られへんわ」

 竜雄と和明の目が友穂に注がれる。

 おそらくこの場で響子の話が理解出来ないのは、竜雄と和明だけなのだ。

「響子、え、それは。それはつまりどういう事、どういう関係があるの?」

 明らかに言葉を選ぼうとする友穂の狼狽振りに、竜雄と和明が思わず身を乗り出した。

「なんや」

「なんの話しよるの」

 響子は頷き、

「竜雄さん、和明さん。もし、もしも、万が一、太一郎兄さんが赤江で起きてる事件の犯人なのやとしたら、それはきっと、兄さんというよりも、うちの父のせいやと思います」

 と言った。

「いやいや、響子それはだから、分からんて。早合点いう奴かもしれんよ」

 首を横に振ってそう言う春雄を一瞥し、竜雄が口を開いた。

「それは前も聞いたやんか。今でも響子が東京へ行った事恨んどるって話やろ。志摩がちょいちょい姿くらましよるんは、東京へ出てお前らの事監視して報告しよったっていう、その話と違うのか。こっちは時和の藤堂から志摩が突然消える理由がなんやキナ臭いて聞かされてたからよ。響子からいきさつ聞いて実際蓋開けたらそんな話かいって、拍子抜けしよったもん」

 竜雄の言葉に和明も頷いて、

「おお、聞いた聞いた」

 と言った。尚も竜雄が続ける。

「お前らの父親に会うた事はないけど、荒っぽい人やとは聞いてるよ。いくら懇意にしとる言うても、響子を取り戻して来いて直接時和の親分に話出来る人間なんかそうはおらんでな。そう考えたらそら、おっかないわな」

 すると和明が、同意の苦笑を浮かべながら割って入った。

「兄貴がおかしな事件に巻き込まれてしもたんやとしたら、誰か他の人間使ってでも監視に来よるかもしれんって、響子自分でそう言うてたやんか。そいでもってそこへ来て、銀一のお宝が消えるっていう」

「お宝?」

 和明の含みのある表現に、思わず友穂が眉を下げた。

「聞いてない? こいつずーっと友ちゃんの写真額に入れて飾りよるん」

「知ってる」

「それをつい最近盗られよってな」

「聞いた」

「でもって、『うおおお!』やんけ」

「…なんで?」

 色々な説明を端折りながら勢いで話す和明に、友穂は更に眉を下げて聞き返した。当の和明はじれったそうな声を上げて続ける。

「なんでて、こっちで響子と仲良うしてる人間調べたら、そら友ちゃんも名前があがるわな。これまでなら志摩が勝手知ったるなんやらで適当に親父に話胡麻化して済ませとった所をやな、そもそも響子自体をよう知らん人間がこっちで何やらしよう思うたら、そら手当たりしだい行くわいな。そういうタイミングで銀一の部屋から友ちゃんの写真が消えた。そらヤバイて思うよ」

「…なんで?」

「なんでて!」

「え、全然分からん! 銀一は今の説明で分かるん? 響子のお父さんと銀一の写真盗られた事には何か関係があるの? それでなんで私が危険や、みたいな話になるん」

 友穂の問いに銀一は苦笑し、

「えっと」

 とこちらは和明とは対照的に、慎重に言葉を選ぼうとした。

「春雄は? さっき電話でなんであんなに焦ってたん。結果的は銀一に会えて今こうして一緒におるけど、本当は違ったの? 部屋の外に、他に誰がおると思うたの」

 銀一の答えを待てずに訴える友穂の勢いに、春雄は複雑な表情を浮かべて、

「そら、心配はするよ。誰とかやない。普段あんまし連絡取りたがらん友ちゃんの方からこのタイミングで電話や。そら、うん」

 と言って頷いた。だがそれでは当然合点が行かないという顔の友穂を見据え、春雄は思いを語った。

「銀が刺されて、こいつら二人も滅多打ちにされた。酷いもんやったで。一般人なら障害が残ってもおかしない程の腫れようで、全身が熱を持って、火傷でもしたんかって程のみみず腫れ。それでもこいつら自身普通やないもんで、意外とすんなり退院しよったんはええのやけど、銀のリハビリは、それから一年続いた。それもまた、医者に言わせれば短い。ほんまは立ち上がる事なんか出来んと、俺ら最初に言われたからな。この一年の間でも色々あった。出会いもあったし、事件のあらましというか、その時点で分かってる事実関係なんかを色々と把握出来たり、整理出来たり。けどな、友ちゃん。実際に銀を刺したのが誰なのか。何故なのか。それは平助のじいちゃんやバリマツが殺された事件と関係があるのかないのか、肝心のそこが分からず終いなんよ。…ようけ人が、死んだ。今さっき竜雄が名前を出した、時和会の藤堂な。あいつなんか、銀が病院担ぎこまれた直後に、志摩が絡んでる事の責任感じて自分の意志で出頭したんや。もろに実刑くろうて今でも塀の中や。一年過ぎて、やっと銀が復活でけた。そのタイミングで、友ちゃんの写真が抜き盗られたんや。銀の部屋の、額の中に大事にしまってあった写真が、半分切り取られて友ちゃんの部分だけ盗られたんやで。そこはもう、響子の親父や志摩がどうこういう話やない。そら、…死ぬ程心配するよ。黙ってたのは申し訳ない。でも知らせてない筈の友ちゃんから今電話があるという事は、銀一と会うたか、あるいはいよいよ来たかって…」 

 春雄の訥々とした語りにじっと耳を傾けていた友穂は、ようやく納得がいった顔を上げて、

「そうか」

 と答えた。

「そうや!」

 何故か得意げに言う和明に、一同は無理やり笑い声を上げた。本当は笑っていられる状況ではなかったし、響子だけは笑おうとしなかった。

「銀一が私の部屋に来てくれた理由は、分かった」

 と友穂が言った。

「けど、それと今響子が言うた話は、どうつながるの」

 そう友穂が続けた所へ、銀一が言葉をかぶせた。

「響子、ほんまにええのか」

 銀一は響子を見ておらず、確認のための言葉というよりも、そこには『やめておけ』、という意思が感じられた。悲しいくらいの苦笑いを浮かべて頷く響子を横目に、

「友ちゃんの写真盗られた件は、志摩の代わりに響子を監視に来よる輩が持ってった。そういう事でええんやろ? 他になにかあるんか?」

 と竜雄が言った。竜雄の目は響子ではなく、銀一を見ていた。響子が口を開きかけたのを見て銀一は短く息を吸い込むと、

「今日、友穂の後をつけよる奴を見かけた」

 と言った。

「ほんまか!」

 誰ともなく男達が色めき立ち、響子は胸の前で祈るように両手を握りしめた。

「顔見たか!?」

 と竜雄が聞いた。銀一は首を横に振り、「いや」と答えた。

「ちょっとあってな。下手打ったんじゃ」

「何」

 と和明が眉を曇らせると、友穂が、

「あ」

 と声を発した。

「忘れてた、銀一、あんた」

 友穂の視線を受けて、銀一は自分のこめかみを指さして笑った。

「ちょっと、車に跳ねられてのう。病院担ぎこまれたんじゃ、たまたま」

 竜雄と和明は唖然とした顔で言葉を失い、店に来るなり傷を見て問い質した事を思い出した春雄は「だから言うたやんけ」と愚痴をこぼした。

「友ちゃん見失ったんかお前」

 竜雄が苦々しい顔で言うと、

「え、そこ?」

 と友穂が驚きの声を上げる。突っ込み所はそこじゃないはずだ。

「友ちゃん追いかけよる奴にいかれたんか」

 と和明が言う。

「違う、ほんまたまたまや。ただお前、運ばれよる途中ぱって目覚めたら友穂の働いてる病院でよ、焦ったぞお前。うわ、友穂おる! 思て慌てて逃げたもんな。治療されたかて金もないしな!」

 笑い事のように話す銀一に友穂は開いた口が塞がらず、

「え、何言うとるん。普通車に跳ねられたら死ぬんよ?」

 と銀一の腕を取った。

「死ぬかあ!」

 と言って銀一が笑い飛ばすと、

「死ぬわ!」

 と友穂は悲鳴のような声を上げ、

「死ぬと思いますよ?」

 と響子が冷静な声を出した。

「お前逃げるんはええけど側離れたらあかんやろ」

「どんな奴やった」

 と、竜雄と和明が続けざまに聞いた。

「ずっと病院の側にはおったんよ。仕事終わって帰る友穂の後をつけて。そしたら路地裏みたいな細い所通って友穂に近付きよる奴おって、後ろから首根っこ引っ掴んだんはええけどそのままぐるんて俺の体飛び越えてな、軽業師みたいな奴やわ。そのまま走って追っかけたけど、見失ってもうた。そこからはずっと友穂から目離してない」

 銀一の言葉に竜雄らは顔を見合わせ、ワザとらしい大きな溜息を浮いた。

「お前、あほけ」

 と竜雄が言った。

「そのまま走って追っかけたーと違うやろ、お前は一瞬たりとも友ちゃんから目を離したらいかんやろ!」

「相手が複数で、その間別の奴に手出されてたらどないする気やったんじゃ」

 竜雄と和明の指摘に、今度は銀一の口が塞がらなくなった。そこまで考えが及ばなかったのであろう事は、誰の目にも明白だった。

「ちょちょ、ちょいな、ちょっと待ってよ。側を離れるとか離れんとか何言うてるの。え、ずっと? ずっとって何? 誰が何?」

 自分なりに想定していた推測とかけ離れた事態に、友穂の思考は追い付かなかった。

 銀一が言う。

「友穂、実を言うとな」

「うん」

「響子にお前の居所を聞いて、お前の周りを見張りよったんは実は俺だけやないんよ。竜雄も、和明もこっちに出て手助けしてくれとった」

「お、え、…ほんまに?」

 竜雄と和明は頷きもせずに顔を伏せた。

「だからか!皆しておらんようなった言うてうちのお母さん心配しよったよ!なんでひと月近く連絡もせんとそんな」

「それは言うたらあかん。こいつらはこいつらで、仕事も放り投げて昼間は病院、夜はあの部屋に張り付いて見守ってくれとったんや」

 銀一の言葉を受けて、ほとんどお前やんけ、と和明がぼそりと呟く。友穂はそんな和明のぼやきすら耳に入らない程の衝撃を受けて、青ざめた。

「でも、なんで?」

 ようやく口を突いて出た友穂の言葉に、銀一は溜息を付いた。

 おそらく友穂を納得させるだけの理由が、銀一にはあるように思われた。だがそれをどうしても口にしたくない事も、銀一の顔と言わず気配からも感じ取る事が出来た。

竜雄と和明にしてみれば、彼ら自身にはひと言で終わりに出来る単純な理由しかなかった。だが口を閉じたままの銀一を見て深刻な事態を感じ取り、何も言えない様子だった。

 友穂はそんな男達を見やった後、無意識に響子の顔で視線を止めた。

「もう、話がややこしくなるだけやろうし、どこまで言うてええのか自分でも分からんけど」

 響子がそう言いかけると、銀一が項垂れていた顔を上げて春雄を睨んだ。

「やめて銀一さん。一番辛いのは、春雄さんよ」

「そうは言うがよ」

「春雄さんを責めるならもう言わない」

「言わんでもええが、別に責めてやせんよ。ほいでお前はどうなんじゃ、黙り腐りおって」

 明らかに責める口調で銀一が言うと、春雄は目を閉じたまま、

「響子に任せる」

 と答えた。

 銀一が立ち上がって叫んだ。

「もっと色々やり方あるやろ! 幼馴染とは言えなんでもかんでも打ち明けりゃあええってもんでもない! 俺は別に! お前、お前が全部抱えて墓場まで持って行けばええじゃろうが! そんぐらいの根性ものうて女幸せにでけるかあ!」

「あんたに何が分かるんや!」

 そう叫んだのは、響子だった。銀一達より四つ年下の響子は、両目に大粒の涙を溜めたまま、初めて銀一に対して敬語を忘れた。

「響子!」

 春雄が諫め、友穂は目線を下げたまま、自分が飲んだビールの入っていたグラスを睨みつけた。ぎゅっと目を閉じて、響子が続ける。

「…なんでよ。そら、もちろん感謝はしてます。皆さんの優しさに私は生かされて来ました。そやけど、春雄さんを責める資格は誰にもないでしょ!それは、例え銀一さんであっても絶対に許さない!」

 銀一が舌打ちして、どかりと腰を下ろす。友穂はテーブルのグラスを睨んで何も言わず、竜雄と和明は予想駄にしない展開と張りつめた場の空気に、息をするのも苦しそうだった。隣席のサラリーマン達が、今度は違う女?という目で衝立の隙間から覗いていた。

「竜雄さん、和明さん」

 と響子が言った。

「おう」

「うん?」

「私に監視がついているのは本当で、太一郎兄さんが行方知れずになった今、私が以前お話した通り、友穂姉さんの所にも父の目が向くんやないかという懸念は、見当違いの話ではないと思います。今日銀一さんが街で不審な人影を目撃されたのやったら、もうこれは間違いのない事です。それでも、私が東京へ来てから監視されてるのはずっと前からの話やから、銀一さんが刺された事件や今赤江で起きてる事件とどこまで密接かと言われれば、分かりません。ただ、父は絶対に関わっています。順を追って説明します。せやけどその前に、まず、これだけは言うておかないと、その先へは行けません。私は、父に、十代前半の頃から手籠めにされていました」

 ズドーンと音が聞こえたような気がした。それほどの衝撃を伴って、静寂という重みが真上から降って来た。

 我が耳を疑う竜雄と和明の狼狽振りは凄まじく、瞼が痙攣するように、激しく何度も瞬きを繰り返した。竜雄も和明も、すぐには事態を飲み込めなかった。

 確かな年齢などは響子本人にしか分からないにしても、幼い頃より実の父から性的虐待を受けていたという話を、友穂は既に響子自身から聞いて知っていた。響子が十四歳という若さで駆け落ちを画策し、友穂が笑って逃走資金を握らせた背景には、この事実が関係している。

 そしてつい最近、銀一は響子の口からこの悍ましい真実を打ち明けられたばかりだった。

「もちろん、春雄さんは知っています。私がこの人に心底惚れた時、自分から全部打ち明けました。春雄さんは私の置かれている状況を知った上で、東京で部屋を借りて、生活の基盤を築いてすぐに呼んでやるからと、言ってくれました。今すぐどこかへ行こうでも、ただ一緒に逃げようでもなく、現実的な春雄さんの計画が私には唯一の救いでした。普通は、一刻も早く家を出よう、そういう展開を期待するのかもしれません。でも、私は、そういう私でも構わないからと、焦らす事なくより良い方向へ引っ張って行こうとしてくれた事の方が、ずっと嬉しかった。子供やった私は、アホみたいにすぐに春雄さんを追いかけました。春雄さんは嫌な顔一つせず私を受け入れてくれました。私は汚い女です。自分で舌を噛み切ってでも死ねば良かった。だけど、そんな私にも春雄さんはとことん優しくしてくれます。この人と出会えて、私は自分が生まれて来た意味を知りました」 

 東京の造船所に見習い奉公として下働きを始めたのは春雄が十五歳の頃で、その後社寮ではなく本格的に自分の城を間借りし地に根付いた生活をスタートしたのは、彼が十八の歳だった。ただ、恐ろしく貧乏だった。あるいは赤江での実家暮らしの方がまだましだったと言える程生活は困難を極め、給金の安さと物価の高さに貧窮の極みを味わった。当時の春雄には、ほとんど子供のように幼かった十四歳の響子を呼び寄せるにはなんの蓄えも余裕もなく、共倒れの可能性すらあったのだ。だが春雄は、響子を迎え入れる事に躊躇いはなかったという。

「重荷になる事は分かってました。だけど、友穂姉さんに相談した時、絶対幸せになれって言ってもらえて、ああ、私がこの先生きていくにはもう追いかけるしかない、例え死んでも春雄さんの側でなら悔いなんてないと思いました。それに東京へ出られた私には、何をやってでも生きていける自信がありました。何も根拠ないんてないけれど、気持ちの強さでは誰にも負けません。そこに春雄さんがいてくれるなら、私は泥をすすってだって生きて行けます。あの街で私は、毎日死んでいました。もちろん太一郎兄さんには相談しました。だけど父は恐ろしい人です。兄さんは私に謝るばかりで、どんどん疎遠になっていきました。一時は恨みもしましたが、こればかりは血のつながった兄妹ですから、どうしようもありません。やはり嫌いには、なりきれません」

 下唇を強く噛み過ぎた竜雄の口端から、血が滴った。友穂が這って行って、ハンカチを竜雄の口に押し当てた。竜雄は引っ手繰るようにハンカチを取り上げると、力一杯握りしめたその拳を振り上げた。だが、やりきれないその力の持って行き場はなく、竜雄はガツンと自分の太腿を叩いた。銀一は何も言わずに頭を垂れ、和明は壁に背を預けたまま皆とは反対側へ顔を背けていた。

 春雄は空いたグラスにビールを三分の一注ぎ、音もなく飲んだ。

「毎日のように、二人で話をします」

 響子は零れる涙を拭おうともせず、震える声でそう言った。

「いつか、子供が欲しいと話をします。まだ結婚もしてないのに、春雄さんは笑って私の妄想に付き合ってくれます。女の子なら、春雄さんの名前を取って春子にします。せやかて冬に生まれたらどうするん言うて、二人で笑い転げました。男の子なら、誰よりも大きな男になって欲しい願いを込めて、『大成』と名付けます!神波大成!ええ名前でしょ!」

 竜雄の目から涙が溢れた。声には出さない。両手で震える足を抑えつけたまま、竜雄はボロボロと泣いた。

「すまんかった」

 と、竜雄は言った。

「え?」

 驚いた顔で響子が聞いた。

「何も知らんかったとはいえ、俺は響子に怖い思いをさせて来たと思う。小さい頃から知っとるのを良い事に、子供扱いして何度お前の体に触れて来たろうな。お前の体を持ち上げて、高い高い言うて何度も揶揄いよった。俺はどれだけ、響子、お前に怖い思いを味合わせたんじゃろうか」

「俺も同罪じゃ。やりきれんのー」

 と和明も呟いた。相変わらず和明の顔は、そっぽを向いたままだ。

 響子は鼻をすすって大きく頭を振った。そして嬉しそうに微笑むと、

「竜雄さんや和明さん、もちろん銀一さんを、そういう風に思った事は一度もないですよ」 と言った。銀一に喰って掛かった時の険はなく、いつもの響子の笑顔だった。

「怖いと思った事なんかありません。…私知ってますよ、ずっと、皆さんが赤江から私達を金銭的に援助してくださってた事。春雄さんは絶対に自分では言わんけど、いつか必ずお返しせないかんと肝に銘じてます。…前に、私の話を友穂姉さんにした時は、もう二度と誰にも言うなって口止めされました。その約束を破ってひと月ほど前、銀一さんにお話ししよった時も、同じようにめちゃくちゃ怒られて。…お前が話す事で気が楽になるんならなんぼでも聞いたる。せやけど申し訳ないとか礼儀とか、そんな下らん理由でお前が身を切るような話をしよるんなら、俺は今すぐ病室から飛び降りて全部忘れてやる。竜雄にも和明にも言わんでええ。全部春雄に押し付けてお前も忘れてしまえ。…そんな事言うてくれる人を、怖いと思うわけがない!」

 友穂が両手で顔を覆った。銀一らしいなと、友穂は感動すら覚えた。しかしそんな上辺な感想など易々と乗り越えて、涙が体の奥底から湧き上がって来た。

「それに」

 響子は涙にくれた白い顔を尚も曇らせて、友穂を見つめた。

「謝らないといけないのは、私の方やから」

 自分を見据えたままそう言った響子に気付いて、友穂は怪訝な顔で首を傾げた。

 響子は言った。

「銀一さんを刺したんは、きっと私の父です」




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