16 「唯傷」
成瀬の言う「会いたくない男」は歩いて現れた。背後には舎弟を二人連れている。
と思いきや藤堂の後ろをポケットに手を入れたまま不遜な態度で歩いて来たのは、黛ケンジと花原ユウジであった。
二人の姿を見た途端「ふぅーわ、面倒臭い奴おるぅ」と和明が目を見開いた。
成瀬はヒヒッと嬉しそうに笑った。
人気の絶えただだっ広い埠頭を、周囲を気にする素振りも見せずに一直線に歩いて、藤堂は銀一達の前に立った。
やはり、大きい。身長もさる事ながら、体の部位全てが大きく竜雄を更に二回りも膨らませたような体躯である。鍛上げられた自慢の筋肉を持つ銀一や竜雄であっても、思わず見上げてしまう程の巨漢と言えた。
ケンジとユウジは藤堂の背後に黙って立ち、気配を殺している。恐らくこの場に成瀬がいるせいで、問題事が起きた時にいつでも逃げられるよう意識を周囲に向けているのではないかと思われた。喧嘩の強さだけではない、プロの立ち振る舞いだった。
「おう」
と、その身に似合わず軽い調子で藤堂が先に挨拶を口にした。
銀一達は無言で頷く。いつもならそこで「ちゃんと声に出したらんかい」と喚き合いの手を入れる志摩の姿が、今はない。
「大変やったの。色々聞いてる。堅気のお前らにかけてええ面倒の範疇ゆうもんを越えとったな。すまんかった」
藤堂の素直な口調で放たれた言葉に、銀一は腹を立てた。
「言葉でそう言えば済むとハナっから思うとったようにしか聞こえんのお!最初っからこうなる事が分かってたんと違うんか!」
気配を消していたはずのケンジが一瞬銀一をチラリと見やり、小さく口笛を吹いた。その隣ではユウジが苦笑を浮かべて俯いている。
「飛ばすがな」
と藤堂は笑った。
銀一の両脇に、居並ぶように竜雄と和明が立った。
「やめーよ」
不穏な空気をいち早く感じ取り、三人の背後から成瀬が声を掛けた。
「お疲れ様です、成瀬さん。お元気そうで」
藤堂は視線を銀一達に置いたまま、成瀬にそう声を掛けた。成瀬も「おう」と声だけで答えた。しばらく睨み合った後、藤堂はこめかみをポリポリと掻いて、右手を上げて見せた。
「分かった。分かってるよ。すまんじゃった。利用した事は謝る。この通りじゃ。ただお前、そうは言うても俺かて遊んでたわけと違うぞ。俺かてまかさこの短期間で更に人が殺されるとまでは思ってないがな。利用した言うてもちょちょっと突いて様子見に行かせようて、その程度やで。そこをもうちょっと大人んなって考えてくれよ」
「ちょちょっと突いて?」
と和明が首を前に突き出して言った。
「藤堂さんよ。あんたが可愛がっとる志摩太一郎は今どこで何しよるの? 厄介で物騒な番犬二匹も連れてから、ビビっとるようにしか見えんよ。誰にて。誰にビビっとるてそら、志摩なんと違うの? ちょちょっと突いて? ちょちょっと突かれて死んだ難波にも同じ事言えるんかいのお!」
藤堂の目から余裕と微笑みが消えた。黙ったままの藤堂に、竜雄が言う。
「あんたあ、どこまで知っててこいつらを動かしてた? 何が起きてるのか、本当は、銀一が言うように最初から知ってたんと違うのか?」
藤堂の目が竜雄を捉えた。竜雄は無意識に拳を握りしめた。
「何が起きてるって、何がや」
感情の読めない目と声で、藤堂が言う。しかし凍えるような圧にも、竜雄は引かない。
「雷留で西荻の話を初めて俺らに振った時、その時からあんたは黒の話をしとったな。噂やなんやとか言うてたが、ある程度分かった上で、確認のためにこいつらを動かしたという事やろ。あんたは上手く志摩を使ってこいつらを操ったつもりかしらんが、実際はあんたも志摩に踊らされてんのと違うのか」
竜雄の言葉に、藤堂は思案する素振りを顔に浮かべて見せた。
白々しい、とばかりに竜雄は顔を歪め、
「後ろで手引いてるつもりがどえらいおちょくられようじゃったのお!」
と叫んだ。
藤堂の前蹴りが竜雄の腹に突き刺さった。竜雄は両手でそれを受け止め、体をくの字に折りはしたものの一歩も後ろへ下がらなかった。
「くっさいこの足首へし折ったろうかいの」
藤堂の右足を掴んだままと竜雄が言うと、さすがにまずいと思ったのかケンジとユウジが一歩前へ出た。
「ええわ」
藤堂がそう言い、無理やり右足を引き抜いた。
「俺、たまたまお前ら見つけてとりあえずは礼儀や思うて頭下げたけどよ。そもそもお前らと話をしに来たんと違うねん。だから、もう帰れ。話があるんは、そこの成瀬刑事や」
「おいおいおいー」
藤堂の居直りに、和明が突っ込んだ。
「連れない事言うやんかいさー」
すると竜二が目を剥き、
「今更そんなボケナスな言い訳通すかいや。巻き込まれた身にもなれよ。ちゃんと納得のいく説明してくれ。あと可能ならそこのウンコ二人をどっかやれ」
と二人を睨みつけてそう言った。ケンジとユウジは藤堂の背後でポケットから両手を出し、不敵な笑みを浮かべた。
「お前らやめよ! 今はそんな事してる場合やないぞ!」
と成瀬が怒鳴った。
「ほなこうしようや」
と和明が言った。
「藤堂は刑事である成瀬のおじいと話がしたい。つまりは事件に関わる何らかの情報を持ってる。おじいはその話を仕入れて捜査に役立てたい、と。藤堂がおじいに話をしてやる理由は全然分からんけど、これも何かの縁という事で。俺らもその話聞いたろうやないの。ほいで俺らがじじいの手足となって動く。これでどう」
和明の人を食ったとも言える提案に竜雄が無言で手を叩き、賛同する。思わず銀一は吹き出して笑った。
「お前、アホけ」
と藤堂が言う。
「だから俺はお前らと話しに来たんと違うて言うとるやろ。お前の提案に乗る理由がそもそも俺にはないわ」
「分からん奴やのう。そこを敢えて聞いたる言うとるやんけ。おっさん脳みそまで筋肉け?」
「誰がおっさんや、俺まだ三十前やぞ!」
「どこに喰い付いとんねん」
藤堂の言葉を受けてそう呟いたのは、ケンジだった。「フー!」「言いよった!」竜雄と和明が悪ノリしてケンジを揶揄うと、ケンジは「ああああ?」と唸りながら前へ出ようとする。ユウジが片手でそれを止める。
「お前らはいつまでたってもガキじゃのお。まあええわ、確かにこっちにも巻き込んだ責任はあるからよ。チャンスっちゅうもんをやろう。金や。この世は金。俺の持ってる情報になんぼ出せる?」
閃いたとばかりに代替案を語る藤堂に、和明は大袈裟な溜息を付いてみせた。
「頼むわ若頭、脳みそどこ行ってん。ええからその自慢の筋肉はよ使わんかい。皆まで言うたらな分からんけ」
暴力的とも言える言葉を用いて、和明が藤堂を煽りに煽った。
「いくぞ銀一」
小声で竜雄が合図すると、
「力づくで吐かしたろうと俺らは言うとるわけよ!なあ!腐れヤクザ!」
と和明が叫んだ。
銀一が拳を握った瞬間、
「調子にのるなよクソガキが!」
ついには藤堂も吠え、ケンジとユウジが後ろへ下がった。肩と首の筋肉をほぐしながら二人が間隔を開けるように広がった。
成瀬が何かを叫んでいるが、誰の耳にも彼の言葉は届かなかった。
「藤堂さん。こいつら潰したらなんぼくれる?」
ケンジが竜雄を睨みながらそう尋ねると、藤堂は眉間に皺を寄せたまま右肩をグルンと回して答えた。
「おお。十万でどや?」
「安っす。竜雄くん、十万やて」
笑うケンジに、両手を腰に置いたまま竜雄は首を傾げ、
「ほな俺はお前を脱糞と失禁が止まらん体にしたるわ。オムツ代に十万、見舞いにくれたるよ」
と言った。
ケンジは眉をハの字にし、
「ほんまに口だけは達者な連中じゃのう。ワシ、竜雄くんらと喋るといっつも調子狂うんよ、自信無くすわ」
とぼやいた。
「知らんけど」
とにべもない竜雄にケンジは苦笑を口元に浮かべ、
「まあええわ。難波の後追わしたるよ」
と言った。
その瞬間、竜雄が空を仰いだ。
「それは言うたらあかんやつやろ。お前、死なんとけよ」
二人のやりとりを横目に見ながら、和明がそう言ってケンジの側を通り過ぎた。その後ろを花原ユウジが付いて歩く。
「え、そんなんなんかノリで言うやんけ。え。あかんけ?」
ユウジが吹き出して、手で口を押えた。
和明とユウジは一団から離れて、向かい合って立った。お互いの距離は三メートル程だ。海風が強いとは言え、呟く声でも十分に届いた。
「どうせお前はよう喋らんもんな。大して情報持ってないんやろうし、やるだけやろか。ちゃっちゃと済ませたるよ」
余裕たっぷりに和明が言うと、ユウジは「イー」と口を広げて歯のない前歯を見せた。
「どういう意味やねん」
「おめへもこうひたるわ」
「全ー然分かれへん、おめへ言うとるがな。もっと魚を食えー魚をー。もろい歯ぁしやがって、頭からバリバリー行けえ。あとシンナーやめろお前、早死にすんどー」
「しゃかあっしゃい」
「前歯無うてももっと喋れるやろお前!ふさけてんのか!」
和明がそう言った瞬間、ユウジがポケットから何かを取り出して突然和明に向かって投げつけた。
石でも投げたのかと慌ててしゃがみ込んだ和明の頭上を、物凄いスピードで何かが通過した。
「痛!」
そう叫んだのは和明でも竜雄でも銀一でもなく、藤堂だった。
藤堂は自分の右足、太腿の裏側に突き刺さった小振りのナイフを引き抜くと、仁王像のような形相で振り返った。
「お前、何しよんじゃ」
ユウジは頬をポリポリと指で掻いて、それからくいっと頭の位置だけ下げた。
「お前ほんま、めちゃくちゃやな。俺が躱さんだら死んどったかもしれんぞ」
和明が言うと、ユウジは嬉しそうににやりと笑った。ユウジの足元に藤堂が投げたナイフが刺さった。
「面倒くさいのお!」
再び投げられては敵わぬと、和明は猛然とユウジに向かって突っ込んだ。
藤堂は、不意を突かれたナイフでの傷など全く意に介さない様子だった。相変わらず感情の読み辛い表情を浮かべたまま銀一を見ている。
睨みつけるでも観察するでもなく、ただ見ている。藤堂にしてみれば、銀一がどういう手段でかかってこようが関係ないと思っているのだ。 銀一はと言えば、彼は彼なりに自信があった。成瀬に語った己の腕っぷしに対する自信は今も揺るがない。切っ掛けさえあれば一瞬で片が付くような気さえする。しかし、そのきっかけを掴ませない隙の無さが、藤堂の強さであり怖さでもあるのだなと、銀一は感じていた。刃物でも重火器でも何でも揃えられるヤクザの世界にあって、純粋な肉体の暴力のみで名を上げた男だけの事はある。時代が違えば、バリマツ並みの評判を得ていたかもしれない。それどころかバリマツ亡き今、暴力団としての存在意義をその身に背負って立てるのは、この藤堂だけなのかもしれなかった。喧嘩最強を謳いながらも根無し草的な性格であるケンジとユウジは他人からの評価を嫌うし、看板を背負う事がそのまま自信と貫禄に繋がっている藤堂のような男の強さもまた、確かに手強いものがある。
銀一は小さく深呼吸を繰り返しながら、機会を待った。
「お見合いか、気色の悪い」
藤堂がつまらなそうな顔でそう言った。挑発だ。乗ってはいけない。そう思いながらも首筋が熱くなるのを銀一は感じ、務めて冷静な口調でこう言った。
「色々と聞きたい事はあるけどな。お願いします教えてください言うような柄でもないから、とりあず話はあとでええか」
「ほな、はよ掛かって来いや。俺もこう見えて暇やないからよ」
「暇やんけ」
それは思わず銀一の口を突いて出た言葉だった。彼自身が言ったように、今は話をしたい気分でも場面でもなかった。しかし藤堂の態度と言葉に言い返さずにはいられなかったのだ。
「あ?」
「お前ずーっと暇やんけ。働きもせんで舎弟アゴでこき使うてよ。そんなふんぞり返った輩の何が忙しいんじゃ。無駄な時間持て余しとるやないの。お前一度でも考えたんか。難波は死んだんやぞ。二度と暇やなんぞと抜かすなコラ」
「それは俺には関係ないやろ」
「どの口が言いよんじゃ。お前はなっから黒を相手にしよると分かってたろうが」
「さっきからお前お前て誰にモノ言うとんじゃ。後頭部とケツぴたーっとくっつけたろか?」
「しょうもない事言うな。お前は結局暇人でビビリ腐ったカスヤクザや。はなっからお前が突っ込んで行けばまた違った結果もあったやろうに、難波は一体何のために殺されたんじゃ。なんの為に平助は病院で泣きよるんじゃ。お前の口から聞かせてもらうで」
「怖いもん知らずっちゅうのは、お前みたいなもんの事を言うんかいの」
藤堂がため息交じりにそう言うと、銀一は片頬に笑みを浮かべてこう答えた。
「笑わせんなや。お前を怖いと思った事は一回もないぞ」
銀一と藤堂の距離は五メートル程開いていた。しかし藤堂は一瞬でその間合いを詰めて銀一に殴りかかった。
銀一は左腕を顔の横に構えて藤堂の拳を受け止めた。拳から放たれた突風が銀一の耳元を掠める。銀一は右腕を下に引いて、次の瞬間藤堂の首元目掛けて拳を突き上げた。藤堂はそれを寸手で躱すが、首を狙われた分躱しきれずに銀一の拳が顎先をかすめた。藤堂の巨体は揺らぎこそしなかったものの、左顎が切れて血が滴った。
藤堂が自分の血に気を取られた一瞬の隙をついて、銀一は右拳を硬く握りしめた。後ろに引いた体を立て直して前進しかけた藤堂の左胸に、銀一は右手で作ったハンマーを叩きつけた。空手の道場や柔道技では見た事のない攻撃の軌道に、藤堂はどう躱してよいか分からずまともにそれを受けた。
銀一は握った拳の、小指側面を藤堂の胸に振り下ろしたのだ。骨の付き出した指の付け根、いわゆる拳骨部分ではなく、空手チョップで当てる手の側面をぎゅっと握り込んで丸く固めた部分と言えば伝わるだろうか。
まさしくそれはハンマーだった。発達した上腕筋とと場で鍛えた振り下ろす力が相まって、それは殺人的な攻撃となった。
藤堂は衝撃を受けた瞬間呼吸が止まった。真上から電柱が降ってきたかのような重量のある一撃に、藤堂の膝がガクリと折れた。地面に崩れ落ちる事は免れたが、藤堂の顔は青ざめ脂汗が浮かんでいる。銀一の攻撃により骨か内臓かを傷めたらしい。
しかし倒れずに踏みとどまった藤堂に、二発目をお見舞いするべく銀一が再度右腕を振り上げた瞬間、藤堂が動いて銀一にタックルを仕掛けた。勢いのあまり銀一はひっくり返され、馬乗りになられるという最悪の事態を招いた。藤堂の体重は百キロ近く、腹の上に圧し掛かられた状態で持ち上げる事は至難の業と言えた。
藤堂は顔を歪めながら左胸をさすり、
「ほんまに殺そうかのお」
と呟いた。
銀一の耳に成瀬の声が聞こえたが、何を言っているかまでは分からなかった。
藤堂の丸太のような左右の腕が無茶苦茶に振り下ろされる。銀一は両腕を頭の脇に添えて猛攻を凌ぐも、代わりに首筋や鎖骨、胸部に重たい拳を何発も受けた。
「野郎の悲鳴なんぞ聞きたくないけどよ、とりあえず泣きわめく程度にはやらせてもらおか」
そう言って藤堂は更に攻撃の速度を速めた。銀一は歯を食いしばって耐えた。悲鳴どころか呻き声一つあげてなるものか、という思いがあった。意識が飛びさえしなければ、殴られる程度で音を上げるやわな性格でもない。ただそうは言ってもこの状況を覆すだけの技と力がすぐには出てこず、歯がゆさと苛立ちが募った。
藤堂が一瞬攻撃の手を止め、銀一に馬乗りになったまま上半身だけを振り返られせて、ケンジとユウジの様子を窺った。
「うはは」
と藤堂は笑った。その声に、自分の目で確認できない銀一は奥歯を噛んだ。
ケンジの攻撃は速度のある連打だった。竜雄は両腕を上げて頭部をガードするものの、ガードの上からお構いなしに何度も叩きつけて来るケンジの剛腕に両腕を下げる事が出来なかった。その内手首や二の腕なども痺れて来て、やがてはそれもダメージとして蓄積されて来る。
殴る側であるケンジはさすがに慣れている。全く息も上げずに休む事無く左右のフックを連打し続けている。軽やかにステップを踏みながら、ガードを下げそうになる竜雄のタイミングを見ながら適格な攻撃を放ち、ジリジリと竜雄を下がらせた。
タイミングを計っていた竜雄が隙をついて前蹴りを繰り出した。
「待ってました」
ケンジは竜雄の蹴りが伸びきる前に自分の腹で受け止め、前身し続けたまま右の拳をぶん回した。竜雄は左腕でその拳を受け止め、そのまま体を沈み込ませて衝撃を吸収した。竜雄はすかさず右手でケンジの右手首を掴んだ。
「ちょい!」
慌ててケンジは掴まれた右手を引き抜いて下がった。追いかけるように竜雄の前蹴りが飛ぶ。再度ケンジが前に出て腹部で受け止めた瞬間、
「お帰り」
と言って竜雄が右の拳を放った。ケンジの額に直撃する。ケンジはなんとか受け止めたものの、両目に涙を滲ませた。
「いーたー…」
そう本音を囁いて、ケンジは後頭部を押さえた。衝撃が首に来たようだ。
「なんでトラックの運ちゃんが殺人パンチ持ってるねん。まじでワシ自信無くしそうやわ」
ケンジの言いように竜雄は笑い、
「余裕やんけ」
と答えた。
「当たり前やんけ」
そうケンジが言った言葉に被さるようにして、和明の呻き声が聞こえた。喉を潰されたような危険な呼吸音に、竜雄とケンジが振り向いた。
ユウジが右手で和明の首を握り締めて立ち、ケンジと竜雄の勝負をニヤニヤしながら見つめていた。左手には小振りのナイフがある。和明はだらんと意識なく脱力し、ユウジに握られた首だけで空中に吊り下げられているように見えた。
藤堂の笑い声が聞こえた。竜雄が振り返った瞬間、彼の横っ面をケンジが殴り飛ばした。喧嘩の最中に隙を見せるなど以ての外だ。普段なら軽口を忘れないケンジも、この時ばかりは真剣な目でひっくり返った竜雄を見下ろした。そしてそのまま竜雄の頭部をサッカーボールのように蹴り飛ばした。
口笛を吹こうとして吹けないユウジの口から変な音が鳴った。
その時、和明の右手がユウジの右手首を掴んだ。
「ああ?」
意識のない筈の和明を、ケンジが睨みつけたその瞬間だった。ボグ、と鈍い音がしてユウジが「グナ!」と言葉にならない声を上げた。一見何か起きたのか分からないが、和明はユウジの右手首を掴んだ瞬間全力で握り締め、関節を外したのだ。
ようやくユウジの手から解放された和明は、それでも青ざめながら咳込んで体を起こした。
「漁師の握力舐めんなよ」
と和明は言った。異常な握力と言えた。ユウジの手首はそもそも細いわけではない。大人の男が握った所で親指はどの指先にも届かない。その状態で、ユウジの関節を折るように外したのだ。嘘みたいな攻撃である。
右手首を押さえて意識がそちらへ向いたユウジの隙を、和明は見逃さなかった。俯き加減になっていたユウジの後頭部を掴むとそのまま左膝を跳ね上げて顔面を蹴った。ずっとユウジの左手にあった小振りのナイフが落ちた。和明はそれを拾い上げると、藤堂の背中に向けて投げつけた。
「痛い!」
と藤堂が声を上げた。しめたとばかりに銀一が右手をハンマーに変えて、藤堂の金的を叩いた。藤堂が体を浮かせた一瞬で銀一は下から抜け出した。
「おいおい」
どうなっとるんや、という顔でケンジが嘆いた。そのケンジの前に、頭から血を流した竜雄が立ちはだかった。
「きしょいのお。頭でスイカ割でもやりました?」
ケンジが笑ってそう言うと、竜雄は唇に付いた血を舌でなめ取り、
「季節外れじゃボケ!」
と叫んで右の拳を大きく振り回した。当たり前のように左腕を上げてそれを防いだケンジの体が、グラリと持って行かれた。ケンジは目を見開いて驚きながらも、コンパクトに折りたたんだ右腕からアッパー気味に拳を放った。
竜雄の左頬が切れた。しかし竜雄は構わず再度右の拳を振り回した。まるでケンジの連打のお株を奪うような、ガード上から叩きつける攻撃だった。ケンジと違ったのは、竜雄の一撃一撃をその場で踏みとどまって凌げない事だった。ケンジは腰や足にダメージの来る竜雄のパンチに奥歯を噛んで耐えた。右、右、左、右、左、左、右…。
しかしケンジの膝ががくんと折れ、竜雄の右拳がケンジのこめかみを叩いた。一瞬ケンジの意識が飛んだのが、彼の目付きから見て取れた。だが次の瞬間ケンジは竜雄の服を左手で掴み、そのまま右ストレートを竜雄の鳩尾に突き刺した。
さすがの竜雄も苦悶の表情を浮かべて体をくの字に折り曲げた。そこへ突如駆け込んで来たユウジのドロップキックが炸裂し、竜雄の体が吹き飛んだ。ケンジが両膝をついて、後ろへひっくり返る。ユウジの後を追って走り込んで来た和明が、そのままユウジの後頭部を力一杯殴り飛ばした。ユウジの体は空中で前転し、顔面からコンクリートに突っ込んで倒れた。竜雄、ケンジ、ユウジはほぼ同時に地面に倒れ伏せ、そのまま動かなくなった。
一瞬の出来事だった。
和明が藤堂の背中を睨みつける。藤堂は背後を気にするような視線を肩越しに向けたが、振り返る事をしなかった。背中にはナイフが刺さったままである。目の前に立つ銀一の右手が、ハンマーのように固く握り込まれていた。
「はああ」
藤堂は溜息をつき、
「ほんまにお前らは、なんで堅気のままおるんや。勿体ない」
と言った。
「お前らは意識してない思うけど、この二人を喧嘩でいてこませる人間なんか今日本でも数人程度しかおらんと思うぞ」
ケンジとユウジの事を言っているらしい。しかし銀一にとっては今、そんな武勇伝などどうでも良かった。
「聞きたいのはそんな話やないわ」
そう言うと銀一はステップを踏んで藤堂との間合いを詰め、己の右拳を目一杯耳の横まで引いた。そこから繰り出される攻撃がストレートなのかハンマーフックなのか、受けて立つ人間には予想がつかない。しかし藤堂の反撃は更に予想の付かないものだった。
藤堂は上着の内ポケットからピストルを抜いて銀一の額に銃口を向けた。
銀一は躊躇せずピストルを上からハンマーフックで叩き落した。爆音が轟いて、弾丸が埠頭のコンクリに減り込んだ。
銀一はそのまま飛び上がって藤堂の顔面に頭突きを入れ、後ろへ仰け反った藤堂目掛けて…。
藤堂が無意識に胸を庇うように両腕をクロスした。
銀一は右足を大きく振り回し、上段回し蹴りで藤堂の首を刈った。
「蹴りて」
と嘆いて、藤堂は倒れた。
「お前の舎弟の必殺技やがな。知らんのんかいや」
銀一は笑ってそう言うと、大の字に倒れた藤堂の体越しに見えた竜雄に向かって、
「いけるかー」
と声を掛けた。




