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「風の街エレジー」  作者: 時枝 可奈
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9 「這闇」

 

 いい加減にしてくれ。そう叫んだのは、銀一達を迎えに出て来た西荻平助だった。若い刑事に、追い返されたばかりだと窘められたのもその筈で、成瀬はほんの十分前に屋敷から出ていけと使用人から怒鳴られたとの事だった。

 何でも、容体が悪く玄関まで歩いて出て来れないという、家主・幸助の状態を成瀬が不服としたのが原因らしい。わざわざ話を聞きに来たのだから顔ぐらい見せろ、それが無理ならこちらから出向く。成瀬の言い分に、当然追い払えと指示を受けている使用人は首を縦に振らない。話にならんと土足で上り框に靴を乗せた瞬間、この家の用心棒が出て来て成瀬は摘まみ出された。警察である成瀬はそれでも納得がいかなかったが、立入り捜査の命が出ているわけでもない一般市民の家に、拒否されたにも拘らず上がり込んで良い、という法律はない。

 西荻家の用心棒の名は、難波と言った。

 銀一と春雄が玄関に現れた時応対に出たのもこの難波で、彼らは顔見知りだった。難波は今でいうハンデを負った二十代後半の青年で、体は大きいがあまり難しい事を理解出来ない。ただシンプルな命令に対しては、愚直なまでに完遂する徹底姿勢を示す事で有名だった。例えば、目の前の男を倒せ、という指示を家の人間に出されようものなら、相手が降参しようが逃げようが、『ぶっ倒す』まで止めない怖さが彼にはあった。

「平助、いる?」

 と春雄が難波に尋ねると、難波は何も言わずに頷いて家の中に引っ込んだ。近くにいたと思われる平助が救われたような笑顔で現れるのと、騒がしい成瀬が舞い戻って来るのは同じタイミングだった。平助は使用人から話を聞いていたらしく、成瀬の顔を見た瞬間、いい加減にしてくれと叫んだ。

「難波! この方を麓まで送って差し上げろ!」

 難波は何も言わずに頷いて、玄関に降り立った。成瀬の顔が歪む。

「待て!違う!小便がしたいんじゃ!待て!ワシは!…あー!」

 喧騒が去るのを待って、銀一は平助の顔を見つめた。平助は照れたように笑って、すまんな、と言った。

「調子、悪そやな」

 春雄が言うと、平助は頷いて、

「最近まともに喋れてないわ」

 と答えた。春雄は首を横に振る。

「お前や。俺はお前の話をしとるのよ、平助」

「幸助さんと話をしようとは思うとらん。お前と話ができりゃあ、それでええんじゃ」

 春雄の言葉を受け継ぐように銀一がそう言うと、溜まっていたものを吐き出すように、平助は溜息と涙を零した。青白かった顔に、赤みが戻った。

「何があった。全部話せ」

 銀一の言葉に、平助は泣きながら何度も頷いた。




 西荻家の二階、平助の自室で話を聞いた。

 机も座布団もない部屋の真ん中に三人は胡坐をかいて座り、額を突き合わせる。

 父・幸助変貌の発端は、バリマツこと松田三郎の死を、女房であり三郎の姉でもある静子から聞かされた事が原因ではないかと、平助は思っているようだった。確かにその後幸助は一日中険しい顔で考え事をする時間が増え、かと思えばそわそわと上の空である事も多かったという。不安定と言えば不安定だった。しかし平助の目を見て話をする事は出来たし、「ストレスが溜まっているのだろう」という印象の範疇を越えはしなかった。幸助のもとへ今井という警察官が現れたあの夜までは、今程ひどい状態ではなかったが、明らかに変化が始まったのは、バリマツの訃報以降なのだ。

 幸助の抱えていたストレスは、平助にも思い当たる節があった。

 父である平左とは違い、この一年近く幸助は自らで農地に出ようとせず、俗に言う寄生地主のような状態だった(地代徴収の話ではなく、全てを他人任せにするようになった)。しかしそれは体調面からくる理由ではなく、恐らくは和歌山へ出向いて仕事を探してる事が大きく関係していたのだ。あまり大きな声では言えなかったが、既にこの土地を国に買い取らせる方向で幸助達家族の意向は固まっており、具体的な詳細を聞かされてはいなかったが、その為の準備を水面下で進めている事だけは、平助も知っていた。

「普通に、外に出歩けてたんか」

 意外そうに銀一が問うと、平助は大きく頷いた。

「気持ちの悪い話をするようやが、なんやったら身の振り方決めてからは前より元気やったくらいよ。母ちゃんと二人して出かけては、夜遅うなるまで戻らん日も多かったけ」

「言うな、言うな、そういう事をお前」

 春雄が下世話な想像をかき消すように手を振って、そう言った。

 だが実際は和歌山まで足を延ばして、移住の為の地固めに励んでいたのだとすれば、涙ぐましい努力だ。幸助の女房、静子の実家が和歌山にあるとは言え、西荻に嫁いで既に二十年以上の月日が流れている。親兄弟や親戚筋を除けば、縁故などは全て途絶えたに等しい。しかも静子の弟は他府県まで名前の聞こえた、あのバリマツである。故郷でありながら、いかんせん不利な立場だった。そんな場所で新に生活の場を切り開いて行かねばならぬ上、もちろん赤江の住民である事実を明かせば、鼻を摘まんで煙たがられる事も、当然幸助達には分かっていただろう。

「もう明日、明後日にでも出ていけるぐらい、準備が出来てたんか?」

 銀一のその問いには、平助は首を振った。

「全然よ。気持ちは固まってたけど、さてそっからどうしようかて、もうほんまその程度。だから、疲れはあったよ、そういう意味では」

「おばさんはどうなんや、元気にやってんのか」

「母ちゃんは、今、和歌山帰ってる」

「…そうか」

 水面下で推し進める、と言っても話は簡単ではない。西荻の所有している土地は広大で、農地解放で田圃のほとんどを失ったとは言え、計算の出来た西荻平左は自分の土地を全て同じ用途で使用する事を以前より嫌っていた。もちろんGHQの介入により、農地をタダ同然で買い上げられる事があらかじめ分かっていたわけではない。単純に、大規模な所有地を全て田圃、全て畑、全て工場として使い切る事に馬鹿馬鹿しさを感じ、立地と需要を考慮して目的別に使用できる人間に貸し与える方が、効率的で賢いやり方だと誰に教えられるまでもなく己で判断が出来ていた。西荻がこの荒くれた土地において長年栄えて来た理由として、そうした平左の聡明さも関係していたわけだ。そのおかげで今尚、繁盛してるかは別にしても、赤江には西荻が所有する土地の上に、いくつもの工場が建ち残っている。

 加えて、西荻は解放対象にならなかった山林までも抱えている。これらの土地を一気に引き払うなど、思い付きや勢いでなせる事では到底なかった。ましてや、誰の目から見ても幸助は平凡な男だった。

 ぼりぼりと頭を掻きながら、春雄が言う。

「そらまあ、よう分からんがこの土地の人間やもの、思うようにはなかなかいかんのじゃろうなあ。俺は実際にこの目で見たわけじゃないから聞くんやけど、幸助さん、どの程度悪いんや。竜雄に聞いた話じゃあ、完全に塞ぎ込んでるみたいに言うてたぞ。仕事とか、あれこれやれてんのか、今」

 すると平助は、神妙な面持ちでまたも首を横に振った。

「もっと悪いわ。ただ黙って寝込んでくれとったらええんやがな。あれはなんやろうな。何かに憑り付かれてるような、そんな気ぃするわ。せやけど、バリマツさん。…三郎叔父さんが死んだって話を聞くまでは、なんてことない、何事もない日常やったんやけどな」

「じいさんがあんな目にあってるんや、何事もってことはないやろう」

 気を使って銀一がそう言うと、平助は苦笑いを浮かべた。

「そうは言うてもお前、じいちゃん死んで一年やさかいな。そりゃあ色々辛い思いはしたけど、ようやくここへ来て少しは立ち直りかけてたんや。普通に笑える日かて、そらあったよ」

「ああ、まあ、そういうもんなんかな」

「すまんな、気使ってもろて。ただ、三郎叔父さんが死んだって聞いた時も今程やなかった。やっぱりトドメ刺したんは、あいつや」

 奥歯を噛み締めながら言う平助の言葉に、銀一と春雄は身を乗り出した。

「それはその、警察官ってのがここへ現れてからか?」

 と春雄が尋ねる。

「そや。あのオッサン、ほんま腹の立つ」

「今井っていう名前なのか?」

「なんで、春雄が知っとるの?」

「今朝、竜雄と喋った」

「ああ、ああ、そうかそうか。ありがとうな、礼も言うてなかったな」

「そんなんええわ。平助も喋ったか? その、今井ってオッサンと」

「喋ったっちゅうか、玄関でちょっとやわ。オトン呼んで来いって、忠告しに来たんじゃあ言うて」

 銀一と春雄は顔を見合わせた。銀一が尋ねる。

「その忠告とやらの内容を、幸助さんからちょっとでも聞いたか?」

「話せる状態やないよ。もう完全にブルってもうて」

「そんな、いきなりか? その日、今井に会ってすぐか?」

「そうや。何を言われたんやろうて、俺かて不思議よ。何か悩みみたいなもんはもともとあったんやろから、あとは引金みたいなもんなんかなあとも思うがよ」

「例えば?」

 と、春雄。

「いや、それはわからんけど」

「そうか」

「今度会ったらマジで逃がさんわ。いくらオマワリやろうがカタ嵌めたる。あいつのせいで、家ん中がグチャグチャじゃ」

 銀一と春雄の背中をゾッと悪寒が駆け上った。今、平助はなんと言った?

 今度会ったら? そう言ったのか?

「平助」

「何や、銀。怖い顔して」

「…今井っていうそのオッサンな」

「おお」

「三日前に、殺されたってよ」

「…え?」

 その時だった。平助の部屋の扉が、少しだけ開いていたらしい。当然誰もその事を知らなかったし、開いた隙間から人が覗いていた事にも気づいていなかった。突然ガタガタと人が走り去る音がして、三人は飛び上がる程に驚いた。

 平助が立ち上がって外へ出る。

「父ちゃん!」

 と平助が叫んだ。銀一と春雄も立ち上がって、後を追った。

 部屋から顔を出すと、毛布を頭から引っかぶった人影が廊下の角を左へ折れるのが見えた。

「おいおい」と思わず春雄が口走り、銀一は唾を呑み込んだ。

 塞ぎ込んでいるとか、そういう状態でないのは明らかだった。

 (完全におかしくなっとるじゃないか)

 それは銀一達の目にも明らかだった。見れば平助の部屋の前から、幸助が駆け抜けた廊下の曲がり角まで、小便の川が出来上がっていた。

 後を追って廊下の奥へ消えた平助に続いて、銀一達も部屋を出た。

 階段を下りてすぐの玄関で、難波がおろおろと頭を振っていた。既に幸助と平助の姿はない。

「どっち行った!? 外か!?」

 銀一が聞くと、難波は黙ったまま泣きそうな顔で、外を指さした。

「お前も手伝え!幸助さん捕まえろ!絶対捕まえろ!」

 そう吐き捨てて、銀一と春雄は家の外へ飛び出した。




 家の前には誰もいない。庭を抜けて敷地の外へ出れば、あの七面倒くさい成瀬という老刑事に捕まるだろうと思うと、躊躇われた。

 待てよ、と銀一は目を凝らす。門扉は閉ざされたままだ。見れば先程までぼーっと突っ立っていた庭師の姿も見当たらない。

「どうする、裏手に回るか」

 辺りを見回しながら、春雄が言った、その時だった。

「こちらです!」

 言われて振り返ると、屋敷玄関脇の左手奥から庭師がこちらへ走って来るのが見えた。銀一達が向かうと、庭師は踵を返して奥へと先導する。

 平助が倒れているのが見えた。地面に横たわり、脇腹を抑えている。屋敷に面した、裏山へ通じる脇道だった。

「どないした!」

 しゃがみ込んだ銀一の背後で、「うお」と春雄が声を上げる。

「お前それ、血か? 刺されたんか!?」

 脇腹を押さえる平助の右手の下から、赤黒い滲みが見る間に広がって行く。

「大丈夫や」

 と真っ青な顔で平助が答えた。医者を手配します、と庭師が屋敷へ走る。

「父ちゃん、山へ入ってしもたわ。…銀一、お前裸足け?」

「そんなんどうでもええ! 山て、そこの裏山か? お前は病院連れてってもらえ、俺が探してくる」

「マジで言うてんのかお前」

 と小声で春雄が言った。

「春雄、医者が来るまで平助頼んだぞ」

「はあ? いや、お前、え?」

 春雄の返事も待たずに、銀一は靴を履きに屋敷へ向かった。

 銀一が平助達の元へ戻ると、難波が側心配そうな顔でしゃがみ込んでいた。

「銀一、難波を連れて行け、役に立つ男や」

「分かった。ほな行こか」

「銀一」

「なんや」

 平助は全身をガタガタと震わせながら、すがるような目で銀一を見た。

「父ちゃん、包丁持ち出しとるわ。気を付けろ」

 見たら分かるわい。

 そう軽口を叩きかけて、銀一はやめた。びびっていると思われたくなかったのだ。

 銀一と難波が山へ入ってほんの十分も経たぬうちに、救急車のサイレンが聞こえて来た。後に聞いた話では、春雄が外に摘まみ出された成瀬刑事を名指しで呼びつけ、手配させたとの事だった。成瀬は終始大声で暴言を吐き続けたが、仕事は早かった、と春雄は語った。

 日暮れにはまだ時間があるというのに、切り開かれていない山に踏み入った瞬間から辺りが暗い事に、銀一は気が付いた。手ぶらで来た事を後悔していたが、与り知らぬ他人の家で懐中電灯を探す時間などなかったのだ。

 山に詳しくない銀一は、しっかりとした足取りで前を行く難波の背中を頼もしく感じた。しかし、彼がどこに向かっているのか分からず、ただ闇雲に歩き回ってるんじゃないのかいう焦りに似た不安もあった。もたもたしている内に、すぐに日が暮れるだろう。そうなっては人探し所ではない。遭難する恐れもあった。

「難波」

 先を行く男を呼び止めた。難波は振り返るものの、言葉を発しない。

「二手に別れよか。その方が早いやろ」

 銀一が言うと、難波は首を横に振った。

「何でや。…離れん方がええか?」

 難波は何度も強く首を縦に振った。

「そうでもお前、当てはあるんか?」

 銀一の問いに、難波は尚も首を縦に振った。そして自分の両目を右手の指二本で差し示し、やがてその指を山頂の方へと向けた。

「…何を見たって?」

「んお、んえ」

 難波は頭の上に両手を持ち上げ、三角形を作って見せた。滑稽なポーズだったが、銀一には理解出来た。

「家か?…小屋か? 小屋があるんか? この上にか?」

 難波は嬉しそうに笑顔で頷くと、また前に向き直り、踏み分けられていない獣道をずんずんと登り始めた。




 日はすぐに暮れた。時計を持っていないため正確な時間など知る由もないが、体感としては山に入って三十分も経っていないように、銀一には感じられた。

 前を行く難波が、時折自分の顔や膝を打ってくる枝葉を煩わしそうに叩いている声と音だけが、今の銀一には道標だった。

 正直に言えば、銀一は山に入った事を少し後悔していた。平助の手前格好付けてみたものの、特別山に強いわけでも詳しいわけでもないのだ。時折雲間から顔を覗かせる月のおかげで段々と目が慣れて来たとは言え、それでも暗闇の中を彷徨っている事に違いはない。難波には道筋が見えているのかもしれないが、銀一には識別出来るものが難波の存在意外何もないのだ。

 やがて難波が目指していた小屋が、月明かりの中で薄っすらとそのシルエットを浮かび上がらせた。まずは本当に小屋があった事に安堵する。見た所小さな作業小屋で、寝泊まりするような設備ではなさそうだった。林業に携わる人間しか使用しない倉庫のような場所なのだろうか。外から見る限り、なんの気配も感じられない。

 銀一にはその事が却って不気味に思えたのだが、難波は何も感じていないような足取りで入口に向かうと、無造作にドアの取っ手を掴んで回した。ドアは簡単に開いた。

「おい、気をつけろ!」

 明かりも付けにずに体半分を小屋に入れた難波に、三、四メートル後ろに立つ銀一が声を掛ける。

 難波はしばらく中を観察してが、やがてドアを閉めて、申し訳なさそうな顔で首を横に振った。

 どうやら難波はこの小屋に幸助が隠れていると確信していたようだが、当てが外れてしまったようだった。

 現状、手詰まりだ。

「おらんか。どうしたもんかの。他にこういう小屋はないんか? ここだけか?」

 銀一の問いかけに、難波は小さく頷き、俯いてしまった。

「そうか。ただでも、一直線に登って来たからな。幸助さんより俺らの方が早くついたんかもしれんぞ。ちょっとここで休憩するか」

 ちらりと後ろ姿を見ただけだが、幸助が今何かを目指せるような精神状態にあるかすら疑わしい。気休めとは思いながらも銀一が声を掛けると、難波は少しだけ笑って頷いた。

 小屋の前の少し開けた場所から離れて、木陰に身をひそめるような位置に座り込むと、銀一はズボンのポケットを上から押さえて舌打ちした。そう言えば、煙草とライターは春雄にくれたやったのだった。隣に腰を下ろした難波に、煙草はあるかと聞いた。難波は首を横に振った。

 どのくらい時間が過ぎたか分からないが、自分達以外人の気配がない事が、やはり銀一には心細かった。すぐそばに屈強な男がいると分かっていても、灯りのない夜の山は怖かった。

 それと同時に、味わった事のない恐怖も、銀一は感じていた。

 自分が一体何を相手にしているのか、全く分からないのだ。

 誰の意志で、何をしているのだろうか。

 単なる人探しか? 今はそうかもしれないが、何故こんな事になったのか。

 幸助は一体、どうしてしまったのか。その原因は、何なのだ。

 彼の父、平左は何故無残な殺され方をし、希代のヤクザ『バリマツ』までもが殺されたのか。

 そして警察官である今井という男の死と、脇腹を実父に刺された平助の青白い顔。

 幸助は今、この闇に飲み込まれた夜の山中で、たった一人で何をやっているんだ?

 それとももう、とっくに山を出て麓に降りたのだろうか。

 ヒヤリと冷たい想像が、銀一を襲った。

 得体のしれない何かが、暗闇の中からうねうねと這い寄って来るような恐怖だった。

 まさかな。幸助さんまで、殺されたりしないよな?

 …俺は?

「があ」

 突然難波が謎の声を発し、立ち上がった。銀一は小さく「んな」と声を漏らして立ち上がった。

「どうした、幸助さんか?」

 小声で尋ねる。

 二人の正面、五メートル程前方で背の低い木立が、ガサガサと揺れている。ぐっと目を凝らすと、明らかに風とは違う動きで左右に騒めいているのが見えた。

「なんじゃあ」

 と銀一が囁いた時、小さな猪が鼻を鳴らして出て来た。

「なんじゃい!」

 と銀一が声を荒げると、驚いた難波が肩をびくりとそびやかし、ウリ坊も一目散に逃げていった。



 それからどのくらい経っただろうか、探す当てのない銀一は一度麓に降りて、幸助が戻っていないかだけでも確認するべきだろうかと思い始めた。

 小屋の側を離れて、登って来た道とは反対側の山の斜面を二十分は歩いていた。

 声が枯れる程幸助の名を呼ぶが、全て闇に吸い込まれて終わった。

 段々と静かな山の気配にも慣れ、正体の掴めない恐怖にも慣れて来た頃だった。

 難波が不意に立ち止まり、月明かりでお互いの顔が見れる場所へ移動すると、身振り手振りで何かを伝えようとし始めた。

「何」

 難波は右手の人差し指を空に向け、そして両手で何かを握る真似をして、野球のバットを振りぬくような動作をして見せた。

「…何や、と場か? ああ、そら、明日もあるよ」

 銀一の返事を受けて、難波はうんうんと頷く。

 明日も仕事があるのか、と聞いているのだ。

 難波は少し考えて、自分のこめかみをポリポリと指で掻くと、とん、と銀一の肩を押した。

「何や、何の真似や、危ないやろ」

 銀一が言うと、難波は苦笑いを浮かべて自分の胸をどんと叩いた。

「お前、まさか俺に帰れなんて言うてないよな? お前一人で探す言うてんのか?」

 若干の苛立ちを分からせるような口調で銀一が言うと、難波は鼻息を荒くして頷いた。

「あほか。平助に約束したんは俺じゃ。お前だけ残して帰れるかいや」

「んがあ!」




 そこで、銀一の意識は途切れた。



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