プロローグ(現世)
激しい雨が降る。
空は黒く染まり、分厚くなった雨雲は本来であれば空に輝いているであろう月や星の姿を完全に隠している。
最も、高層ビルの建ち並ぶこの大都会。
真夜中であっても街にはネオンの光が溢れ、雲ひとつ無くとも夜空の輝きをくすませてしまっているし、わざわざ夜空に目を向ける人間も一握りだろう。
「はっ…はっ…はっ…」
人気の無い路地裏、街行く人がいない深夜。
雨の降り頻る闇の中を、彼女は追手を撒くように後方を気に掛けながら駆けていた。
街灯の明かりもほとんど届かないビルとビルの間で、周囲に気配が無いことを確認してから壁に背を預けて息を整える。
肩に負っていた重い荷物も降ろした。
水に濡れた黒髪が重い。
額に貼り付く前髪をかき上げながら、ロングコートに忍ばせた武器を確認する。
残っているのは牽制用に持ち歩いている小さな投げナイフが8本と、銃が使えない状況下での武装としていた大きめのダガーナイフが4本。
肝心の銃は銃弾を撃ち尽くしてしまってただの鉄塊であり、持っていても仕方のない物ではあるが、そこから足が着くのも避けたいため手放すわけにはいかない。
…高所からの脱出用のワイヤーは今は役に立たないだろう。
常に周囲に気を配りながら、横に置いた荷物をチラと一瞥する。
所々銃弾が当たって凹んだ、長いジュラルミン製のアタッシュケース。
大きさは120センチくらいだろうか。
中身は愛用のライフルが各種装備とともに収められているのだが、このような閉鎖的空間では、ライフルの長い銃身は行動の妨げになってしまうだろう。
「ふぅ…」
雨がますます激しくなる。
コートは防水、防寒、防弾、防刃、防衝撃等の機能を併せ持つ優れものだが、こう雨に打たれていてはさすがに身体も冷えてくる。
だが、身体も冷えるが頭も冷える。
現在の状況を再確認し、自分が取るべき行動を思案する。
(さっきの足音に気配から察するに、追手は残り4人…でも増援の可能性も考えれば、笑っちゃうくらい絶望的よね)
こちらは全弾撃ち尽くしてしまっているが、向こうの装備状況は分からない。
一応、逃げ回りながらも敵が撃ってきた弾数はカウントしていたが、そもそも銃を一人一挺ずつしか持っていないという確信もないため途中で止めていた。
幸い、自分を見失って探しているのか、まだ自分の周囲に人が迫ってくる様子はない。
左右に伸びた暗闇からは、雨粒がコンクリートやマンホールの蓋を叩く音しか聞こえてこないため、自分の心音がやけにうるさく聞こえた。
(でも、まだ逃げられる)
何故、自分が同じ組織に属する者たちに追われているのか。
考えればその理由はキリがないのだが、多分単純に怖くなったのだろう。
仕事とはいえ、あまりに人を殺め過ぎた。
それが例え、組織によって斡旋されたものだったとしても、あらゆる状況で失敗も躊躇もなく、そして「死神の娘」と呼ばれるほどに死を積み重ね過ぎた。
どんな防犯設備や厳重な警戒体制でも容易く掻い潜り、いとも簡単に命を奪える自分は、他人からすれば間違いなく恐怖の対象として見られるのは自分自身でも理解できる。
なので、今回の仕事を最期に始末しようという魂胆なのだろう。
でも、そう思い通りにはさせてやらない。
(…だって、死にたくないんだもの)
静かに深呼吸をして気を引き締める。
まだここは油断すれば命を失う危険地帯、緊張の糸を弛めれば死が待っている。
耳をすませた。
先ほどよりも雨足は落ち着いてきており、コンクリートを叩いて伝わってくる音を心なしか小さくなっているためか、自分の心音と呼吸音がやけに大きく聞こえるような気がした。
(…?)
だが、何かの違和感を覚えた。
…何かが足りない、そう感じた次の瞬間。
「…―――――ッ!?」
泡立つ鳥肌、吹き出る冷や汗。
そう、音が足りない―――――マンホールを叩く雨音が欠けている。
すぐに側方へ身を転じるが、その瞬間右腹部に激痛と灼熱が走った。
だが、声を上げている暇などない。
追撃を避けるため、盾代りのアタッシュケースのベルトを引っ張ると、それ見向きせずに後方へ思い切り振り回した。
途端に響く鈍い音と、骨を砕いた感触。
くぐもっているが苦痛を隠して切れない男性の低い声が耳に届く。
目をやるも動く気配がないため、気絶させたか殺したかだが、それを確認している時間も余裕もない。
「ぐ…ぅっ…」
想像を絶する痛みを放ち続ける腹を見れば、自身もよく使用しているものと同じ形のナイフが深々と突き刺さっていた。
引き抜けば大量出血を起こすために抜くわけにはいかないが、激しい痛みのせいで、どうしても引き抜きたくなる衝動に駆られながらも、彼女はアタッシュケースを引き摺りながらその場を離れる。
気がつくのがワンテンポ遅れたせいで、酷い怪我を負ってしまった。
マンホールを開け、雨音に混じり地下から襲撃されたおかげで気配を察知することができず、先ほどよりもより絶望的な状況に陥ってしまっている。
(でも、一人に気がつかれたということは…)
当然、他の者にも居場所がバレているだろう。
情報の共有を行わずに暗殺者が動くことはありえないのだから。
とにかく一刻も早く離脱しないと本気でマズい、そう考えて痛みをこらえ、足に力を入れ直したのだが。
「え…?」
何が起きたのかわからなかった。
腹に走る痛みとは別種の痛みが左大腿部を貫き、彼女は意図せずしてその場に倒れ付すこととなった。