告白の仕方、教えます <講義編> 後編
尖らせた上唇の上にペンを乗せ、俺は椅子の背もたれに体重を預けた。
外は朝から狂ったような雨。こんな日は一日、家にこもるに限る。
作業机にここ数日で描き上げた原稿の下描きを意味もなく並べ、俺はため息を吐いた。
あれから数日、王見から例のシーンのネーム直しは終わったかという確認の電話は未だ来ない。
恐らくまだ俺が悶々としていることを見抜いているのだろう。
決して手は抜かないし、駄目だと思ったらトコトン直させられるけれど、王見は俺が納得していないものを無理矢理描かせるような真似はしない。
俺が自分から描き直すまで必ず時間をくれる。しかも、他のスケジュールが押さないようにちゃんと調整も入れた上で。
「わざとこの二枚の直しを最後に言いやがった、あいつ」
他のページは下描きに入ってもいいってわざわざ言い残して行ったもんな。あー、くそ。
「俺って、飼い慣らされてるよな。王見に」
順に並んだ原稿の途中のページ、二枚だけが白紙のまま。
これだけは勝手に描くなと念を押された王見の言葉に俺は忠実に従っている。
「もっと盛り上がる感じにしたいって言う王見の意見はわかるんだけどさ。でも、なぁ…」
呟いて、見慣れた天井をふり仰ぐ。
あれは確か、短期連載物の最終回を終えてすぐの頃。
読者の評判はそこそこだったから、次は読み切りか、また短期連載になるかの判定待ちの段階だった。
「突然で申し訳ありませんが、あの…付き合って欲しいんです、けど」
いきなり何の連絡もなく俺の家に来た王見は玄関で暫く立ち尽くした後、意を決したように俺にそう告げた。
口元に片手を当て、定まらない様子で何もない虚空に視線を滑らせたり。
かと思えば、今からホテルに行くからすぐ着替えろと急かされたり。
とにかく戸惑いとか動揺とか、普段の王見からは想像もできないあからさまに落ち着きのない態度だった。
いや、しかし。告白してそのまま下にタクシー待たせてあるからホテル行こうって、王見の発想もだいぶ突飛過ぎないか?二つ返事でホイホイついて行った俺もどうかと思うけど。
ちょうど風呂上がりでトランクス一枚だった俺は急いで服を着て、王見に促されるままタクシーに飛び乗った。
生乾きの髪を窓から流れ込む排気ガスまみれの風で乾かしていると、ずっと隣で黙っていた王見が緊張した感じに俺の名前を呼んで。
「あなたはとにかく、俺の隣でずっと笑っていてください」
見たことないくらい真剣な面持ちで言われ、俺は口から心臓が飛び出そうになるのを必死に飲み込んで大きく首を縦に振った。
「良いですか?絶対ですよ。約束ですからね」
言いながら俺の髪を何度も優しく梳く王見の手の感触。
あの時の動揺を思い出し、俺は座っていた椅子からバランスを崩して見事に滑り落ちた。
持っていたペンが部屋の床をコロコロと転がる。
雨が窓を叩く音が響いて、俺は高鳴る心音から懸命に意識を逸らした。
ずっと、とかいきなり言われても重いわ。プロポーズかよっ!
と、今なら突っ込めるところだが、恋心を自覚したばかりの当時の俺にそんな心の余裕はなかった。
俺は拾ったペンを王見が組み立ててくれた付録のペン立てに片付け、部屋の脇に置かれた紙袋に手を伸ばす。
王見の告白は、それまで全くそんな気のなかった俺を一晩でそっちの道に引きずり込むくらいには強烈で、だからどうしてもネームの台詞を直す気が起きないのだ。
「俺のネームに文句つけんなら、あの時もっと気の利いた台詞で告白すれば良かっただろ。自業自得だ、バーカ」
そんな台詞にいとも簡単に落とされた自分のことは棚に上げ、俺は紙袋から封筒の束を取り出した。
これはいわゆるファンレターというヤツで、編集社に届いたものを毎月まとめて担当が作家の手元に届けてくれる。
人気作品ともなると物凄い数のファンレターや貢ぎ物が届くそうだが、俺はまだこの、片手で収まる程度。
「良いんだよ。こーいうのは気持ちの問題なんだから」
誰にともなく言い訳をして、俺は順に目を通していった。
早く先生とくっつけて、幸せにして上げてください。とか、水族館行った時のヒロインの私服が可愛かったです。とか。
内容はわりと他愛もないものが多くて、小学生のファンの子とかだと平仮名ばかりの読みにくい手紙もあったりするんだけど。
楽しみにしてくれてるというのが文字だけじゃなく手紙そのものから伝わってくる。
単純に頑張れって言われるよりもやる気が湧くのは何でだろう。ファンの力って偉大だ。長期連載ほどそれが身に沁みてよくわかる。
「そういや、あの時も知らないおっさん達に頑張れって言われたっけ」
ホテルに到着してすぐ、ロビーでスーツ着た偉そうなおっさん数人に取り囲まれた。
王見が笑顔全開で頭を下げて回ってて、俺は頑張ってくれたまえ、とか言われてバシバシ肩やら背中やら叩かれて。
「結構、本気で痛かった。何者だったんだろ、あのおっさん達」
その後、ホテル最上階のレストランで王見と食事して、そしたらなぜか仕事の話になり…言い合いになって大喧嘩して、そのままホテル飛び出したんだった。俺が。
うわぁ。ロマンスの欠片もねぇ初デートだな。おい。
「そんで数日後にはこの長期連載が決まって、気づいたらもう一年以上経ってるし。仕事に追われっぱなしでときめきイベント殆どなかった気がするのは俺だけか?」
少女漫画なら一年も付き合ってたらキスくらいしてるぞ、普通。未だにそんな雰囲気微塵もない俺らって一体なに?
てか、みぞれの作品なら付き合う前から体の関係に…いや、流石にあれは例外だろ。うん。
私も先生が描く少女漫画みたいな恋がしたいです。と、女の子らしい丸文字が締めくくる。
そんなもん、俺だってしてみたいわっ、ボケェ!と内心で怒鳴り、俺はそのファンレターに八つ当たりした。
「は!いかんいかん。ファンレターは大事にしないとな」
床に投げつけたそれをいそいそと拾い上げ、束に戻す俺。
それから最後の一通を開いて、文面を読み上げた。
「えーっと、『先生に相談です。このまえ幼馴染の男子から突然、お前に告られてから今日でちょうど一年だな。と言われました。私には全く身に覚えがないのですが、どうしたら良いですか?』って、え?これって…」
読み終えた俺の手が、震える。
お前に告られて?全く身に覚えが?それって、それってもしかして。
「ストーカーかっ!おのれ、俺の可愛いファンに。許さん、表へ出ろ、この勘違い野郎ッ!」
俺は握りしめた手紙に向かって叫んだ。
それから椅子に座り直し、ネームを引っ掴んで机に広げる。
手にしたのはペンと、消しゴム。俺の目に炎が宿った。
「いいか、勘違い野郎。告白っていうのはな。こーいう風に…」
(お前が先生のこと好きなのは知ってる。
それでも俺の気持ち、ちゃんとお前に知っておいて欲しくて。
好きなんだ、お前のこと。
誰にも渡したくない。先生にも、誰にも)
スラスラと出てきた言葉を書き連ね、俺はペンを走らせた。
ついでにコマ割りや表情も変えた。真剣なだけではなくて、もっと必死な感じが伝わるように。
そうして完成したネームを高々と掲げ、俺は言う。
「見ろ!これが正しい告白だぜ。間違えてんじゃねーぞ、若造め」
息巻いて宣言した部屋には雨の音だけが淡々と響く。
俺は満足げに鼻を鳴らして、ファンレターの束を紙袋に戻した。
俺と王見を隔てるのは硬くて分厚い一枚の玄関扉。
なんとか指一本が通る程度の狭い隙間から視線を交わし、見つめ合う二人の間に会話はない。
憂いに満ちた表情で眉間を寄せ、額に手を当てて王見が深く息を吐く。
廊下側から手前に扉を引いている俺は、満面の笑みで隙間から覗く玄関のドアチェーンを指差した。
俺の指差す先を一瞥し、王見が重い口を開く。
「一体何の用ですか、日曜の朝っぱらから」
問うだけでドアチェーンには手を伸ばさない王見。
俺はガチャガチャと力任せに扉を引っ張ったが、如何せん、金属で出来たチェーンは強固で引き千切れそうになかった。
隙間から覗く王見の顔はせいぜい三分の一弱。王見からも俺はその程度しか見えていないだろう。
刻一刻と険しくなっていく王見の怪訝な表情。
俺は笑顔を崩さないままに、おねだりする子供の愛らしさを添えて小首を傾げてみた。
「夜這いに来たから、これ外して?」
「…」
その言葉を聞いた王見は緩やかに目を眇めると。
「お帰りください」
言い捨て、全力で扉を内側に引いた。
マンションの廊下に静寂が戻った。
「…」
「ほんのお茶目な冗談だろ?そんなキレんなよ」
俺の激しいピンポン攻撃に王見が屈したのは、それから数分後のことだった。
ようやく王見の家のリビングに入ることを許された俺は、揚々と勧められてもいない椅子に腰を下ろす。
すぐにマグカップに注がれた熱々のコーヒーが俺の前に置かれて、王見がちょうど朝食を取るところだったのだと理解した。
「俺、朝飯は食って来たからいらねぇ」
「誰もあなたの分など用意してません」
焼いたパンとスクランブルエッグ、ベーコン、サラダをまとめて乗せた平皿を片手に、反対の手にはコーヒーを持って王見が席に着く。
王見の服装は無地のシャツにGパン、そしてネクタイは無し。休みだという言葉通りのラフな格好だ。
「で、本当は何しに来たんですか?」
俯いて僅かにズレた眼鏡を指先で押し戻し、王見が訊いた。
俺は鞄から二枚のネームを取り出して食事中の王見に突きつける。
例の、王見に散々ダメ出しされて下描き禁止令が出ているネームだ。
「どうだ!今度こそ文句ねーだろ?」
俺の声が得意げに弾む。
ネームを受け取った王見はスプーンを置き、無表情に暫くネームを眺めてからおもむろに口を開いた。
「台詞量が多すぎます。言葉を尽くせとは言いましたがこれではただの解説文です。必要最低限に絞り不要な部分は削ってください」
一息にダメ出しされた。
ぐぬぬ…少ないだの多いだのと、我が儘なやつだな。
自信満々だった俺の眉間に苛立ちがこもる。
舌打ちでもしそうな勢いの俺に対し、王見は変わらぬ抑揚の控えめな口調のまま続けた。
「表情などの描写は改善されたと思います。そうですね、絵はこの方向でいきましょう」
「…へ?」
僅かに表情を緩めて頷いた王見のその仕草に、その言葉に、俺の表面から一気に棘が抜け落ちる。
もしかして俺、今、褒められた?思った瞬間、心臓が跳ねた。
叫び出しそうになった口を咄嗟に両手で抑え込む。
「どこまで台詞を削るかはあなたにお任せしても構いませんが、良ければ今ここで一緒に直してこのまま下描きに…、どうかしましたか、そら?」
ずっとネームに視線を向けていた王見が、反応のない俺を訝しんで顔を上げた。
王見の視線が俺の表情を捉える直前。
「お、お前に任せるッ!」
俺は弾き出されるように椅子から立ち上がった。そのまま王見に背を向けて壁際の本棚に突進していく。
「カチューシャ今月号あるじゃん!読んでいいか!?」
「いいですけど、こないだ自分で買って読んでませんでしたか?付録は俺に作らせて」
「うるせーな!いいんだよ、何回読んだって」
「はぁ…?」
不審げにこちらを窺う王見の視線を背中に感じつつ、俺は立ったまま適当なページを開いた。
そこに顔を埋め、ギュッと両目を閉じる。
放っておくと口元がだらしなく緩んでどうしようもなくなるので、俺は必死に顔筋を動かした。
くそ。王見め。これだから落として上げるの常套手段はズルいんだよ!
内心で叫んでも仕方ないのだが、浮き足立つ気持ちを諌める術を俺は他に知らない。
俺を一番喜ばせるのはいつだって王見だ。…ま、俺を怒らせるのも大概こいつなんだけど。
「家の中で立ち読みはやめてください。視界の邪魔です」
「お前いちいち口煩いぞ」
せっかく俺がいい気分に浸ってるところを。
思ったが、ここで言い争っても仕方ないので俺は大人しく先ほどまで座っていた席に戻った。口元は雑誌で隠したまま。
俺が座ったのを確認して王見がまたネームに視線を戻す。
右手にはいつの間に持ってきたのか、ペンが握られていた。
先食えよ。ネームの直しなんて後でもいいだろ?
思ったが、ああ、王見はこういう奴だったと思い直して雑誌に視線を戻す俺。
暫くそのまま読書に集中していた俺は。
「あ、今月の乙女座は恋愛運に波乱の兆しだってよ」
毎月チェックしている月間星座占いを見ながらそう声を発した。
いつの間にやら食事を再開していた王見が顔を上げる。
見れば、王見はちょうど最後のコーヒーを飲んでいるところで。
「あなたは双子座でしょう。ついに自分の星座もわからなくなったんですか?」
「違うわっ!お前のを先に見たんだよ。ってか俺がついにボケたみたいに言うんじゃねぇ!」
「すみません。根が正直なもので」
言い返したら、あまりにも満面の笑顔でそう言われた。
流石に怒鳴る気も失せた。
なんでこいつはこういう時に一番生き生きした顔をするんだろ、と心底不思議でたまらない。そして、とても迷惑だ。主に俺が。
とりあえず突っ込まずに放っておこう。思って、王見から雑誌にさっさと視線を移す俺。
「『恋人がいる人は特に要注意。彼の心がわからなくてずっとヤキモキしてしまいそう。自分の気持ちにもっと正直になって、素直な心で彼と向き合ってみて。頑固になるとそのぶん幸せが逃げちゃうかも』だってよ」
言ってちらりと王見を見たら、全力で興味ありませんけど、という表情を返された。
そしてなんだか急に不満げだ。おい、さっきまでの笑顔はどこへ行った。俺がお前をほったらかしてる間に何があったんだ?
「王見、アドバイスちゃんと聞いてたか?素直な心だぞ、素直な心」
「はぁ。別に占いとか信じてませんし。というより、乙女座で一括りというのがそもそもどうかと思いますけど。俺は」
自分のとこの連載誌の定番企画を根底から否定しにかかったな、お前。
もういいや。と自分の星座のところに視線を向けようとした俺に、王見が淡々と言葉を続ける。
「それに俺、付き合ってる人いませんから」
端的にそれだけ言って、王見は涼しい顔でコーヒーを飲み干した。