表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

滅多にデレない恋人に合鍵を渡してみたところ 後編

静寂を掻き消し、足音が近づいてきた。

やや早足で、規則的なリズムを刻んで。


薄暗く幅の広い廊下が前にも後ろにも続いている。

目の前の扉には診察室の文字。

そう、ここは病院の廊下だ。しかも、夜の。


「そらっ!?」

「ばっか…!しーッ!」


長椅子に座っていた俺の姿を見つけて、王見は叫ぶように俺の名を呼んだ。

俺は慌てて辺りを見渡し、人差し指を口に当てて、小声でそれを制した。


俺の前まで来た王見が肩で息をしながら、包帯の巻かれた俺の膝に視線を固定する。

王見が息を呑んだから俺は慌てて状況を説明した。


「その…いい感じにスパッと切れて血が止まんなかっただけだから。もう止まったし、大丈夫」


努めて明るく言ったつもりだったが、王見の表情は固いままだった。

色んな感情が沸き起こって、それらを織り交ぜて押し込めて。そうして一見すると無表情にも見える顔で。

ああ、でもとりあえず、うん。物凄く怒っていることはこの薄明かりの中でもよく分かった。


「…」

「…」


知らせたらたぶん王見は飛んでくるだろうとは予想していたし。

処置が済んだ時点で重症ではなさそうだと判明したから、本当はそのまま黙っているつもりだったんだけれど。


残念ながらそうも言っていられない事情が発覚したわけで。


「…悪かったな。仕事中に、呼び出して」

「いえ、帰宅途中でしたので」

「…」


王見の声が低い。

俺の心臓は今、激しい動悸に襲われています。ドクター。


「…あの、さ…」


うう、だから俺は先に電話で言おうとしたのに。

なのにお前が、病院だって言った途端に電話切るから。


言い淀んで、しかし言わないわけにもいかず、俺は息を吐いてから重い口を開けた。


「金、…貸してくんね?」



こういう時、無意味に喋り倒す運転手だったら多少は空気が和らぐんだろうか。

空気を読んでか、業務規定なのか、ラジオの音すらもしないタクシーの車内は、耳が痛くなるほど静かだった。


い、痛い…


膝ではなくて、主に胃と心臓が。


俺は横目で隣に座っている王見を確認したが、王見はタクシーに乗り込んでからずっと腕を組んだまま、瞼を閉ざしていた。


道順的に俺が先に降ろされる、よな。

…ってか、そうだよ。後に降ろされてもタクシー代払えないじゃん。俺。


社会人としての自我が、下の方からほろほろ崩れていく。


昨夜は酔っ払いの介抱で、本日は怪我人の送迎ですか。王見も大変だな。

はい、全部俺ですね。申し訳ありません、マジで。


俺は自己嫌悪と謝罪を、心の中で繰り返した。


「手は、支障ないんですね?」


俺のマンションが近づき、王見が唐突に口を開く。

反射的に王見の方を見ると、王見が俺の手に視線を滑らせた。


「あぁ、うん。大丈夫。一応、レントゲンも取ってもらったし」


これで原稿落としましたなんてことになったら、流石の俺でも王見に顔向けできない。


努めて明るく言った俺に、王見が短く息を吐いた。

安堵、した?…いや、呆れた、か。じゃなきゃ、疲れた、かな。


それでも言葉を交わすと少しは話しかけやすくなるもので。

俺は思い出したように、自分の鞄を開けた。

あ、もちろん、金は無いので財布ではない。…残念ながら。


「これ。お前にやる」

「何ですか?」


俺が握った手を突き出したら、王見は怪訝そうに視線だけ返してきた。


おいこら、やるって言ってんだから手を出せよ。手を。


思ったが、王見は一向に動かない。

俺は仕方なく掌を返して、自分の手の上にそれらを広げて見せた。


「俺ん家の合鍵。今日、作ったんだけど。あとこっちのお守りも発掘したんだ。ほら、俺用にってあの時一緒に買ったやつ」


これを探していたせいで乗ってた椅子から落ちて怪我しました、という恥ずかしい台詞は心の中でこっそり呟いておく。

あんな高いところに仕舞い込んだ昔の自分をとりあえず殴ってやりたい。


時折すれ違う車のライトが不規則に照らす車中。

照らし出された鍵とお守りを見て、王見は瞬きを止めた。


「ホントはお守りの紐もちゃんと通して、お前ん家の合鍵とお揃いみたいにしてから渡そうと思ったんだけどさ」

「…」

「思いの外、穴が小さくて。だから自分でつけろよ。お前、俺より器用だろ」


自分で言ってちょっと落ち込む。どうせ俺はお前と比べたら不器用だよ、くそ。


「合鍵…作ったんですか?…わざわざ?」


俺が独り言ちていると、王見が驚きと、あと疑いのような感情を乗せて、俺の顔を窺った。

王見の質問の意図を測りかね、俺は首を傾げたままとりあえず頷いた。


タクシーが止まる。

窓から、俺の住んでいるマンションが見えた。


「あったら便利だろ?俺ら、その一応…アレだし」


恋人同士、という単語は改まって言うにはどうも恥ずかしくて、つい濁してしまう。


「だからさ。お前ん家の鍵と交換ってことでどうよ?」


誤魔化すように早口で言って、俺は明後日の方向に視線を流した。

運転手がドアを開けてくれる。

下りようとしたけど、王見はなかなか返事を寄越さない。


「何だよ。要らねーんなら別に無理にはいいけど」


焦れた俺がそう言って手を引っ込めかけたら、ようやく伸びてきた王見の手が鍵を奪っていった。


ひったくりかよ、お前は。


俺の作りたてほやほやの鍵が、っても別に熱くはないけど、王見の手に渡る。

何だろう。それだけのことなのにとても、特別な感じがした。


「そうですね。治療費代の担保に預かっておきます」


タクシーを降りた俺に、王見が事務的な口調で言う。


担保って、一応、返す金はあるんですけど。降ろしてないから手元に無いだけで。


「何でもいいけど、なくすなよ?」


冗談めかして言って、俺はドアを閉めた。


王見を乗せて、タクシーが走り去る。

俺はポケットからお守り付きの鍵を取り出して、満足げに、月明かりにかざした。







「やっぱお前、合鍵返せ!」


ペンを握ったまま真っ白な紙の上に突っ伏して、俺は叫んだ。

机の脇には真っ黒い色のコーヒー。


こんな見るからに苦そうなの飲めるか!てかまだ昼だし、ちっとも眠くねーよ!


「仮眠なら先程五分だけ許可したはずですが?それをそらが自分で騒ぎ倒して浪費したんですから、これ以上我儘を言われても困りますね」

「違うわっ!ってか眠くて駄々捏ねてるみたいに言うなっ!」


怒鳴り過ぎて目尻に涙が滲んできた。

そんな俺の背後に陣取って、王見は涼し気な顔で紙束片手に見下ろしてくる。


くそっ。今日は楽しみにしてたアニメの再放送があるってのに…


それにまだ王見が張り付いて監視しなければならないほどスケジュールもおしていないはず。

まあ、ちょっとくらいは遅れてる自覚がなくもない…けど。


合鍵ってなんか恋人っぽいかも、とか呑気に浮かれている場合ではなかった。

まさか俺の得意技である居留守を完封されてしまうなんて…ううっ。


打ちひしがれたところで今更遅い。

既に合鍵は、この冷酷非道な担当編集の手の中なのだ。


「さて、今後の事もありますしとりあえず下描きくらいはサクサク終わらせましょうか。可能ならペン入れも数枚出来ると理想的ですね」


俺の手元に置かれたシミ一つない原稿用紙が見えていないわけないのに、こいつはさらりとそんなことを言ってのける。


「おおおおお…鬼っ!サドっ!外道っ!そんな速く描けるわけないだろっ」


慄く俺の耳元で吐息が笑った。


「ご心配なく。玄関先であなたと根比べをする必要がなくなったので時間はたっぷりありますよ」

「ぐぬぬ…」


かくして合鍵は、俺たちが共有できる時間を飛躍的に伸ばしてくれた。

俺の意図には全く反して。


もともと強かだった俺の優秀な担当は、俺の錬成した合鍵という武器により最強の称号を得たに違いない。


「この調子なら次の増刊号の時には本誌と二本立てでいけそうですね。今度、編集長に掛け合ってみます」


ニッコリと向けられた素敵な笑顔の後ろに、どす黒い暗黒のオーラが渦巻いているのが俺には見える。


勇者が剣を握るのは、倒すべき敵がいるからだ。

ならば、俺が戦うべき相手は一体…


「さあ、そら。今日は描きあげるまで寝させませんよ?」

「こ…の、悪魔ーッ!」


王見の言葉はまるで、俺を突き動かす必殺の呪文のよう。


だから俺は今日も今日とて、この最強の悪魔と共に、ペンという武器を握って真っ白の原稿と闘うのであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ