滅多にデレない恋人に合鍵を渡してみたところ 中編
「それで、本当に何しに来たんですか?こんな時間に」
俺を部屋に通してから、王見が呆れ顔で言った。
ロビーを抜けてエレベータを下りるまでの時間で、
王見はすっかり態勢を立て直してしまったらしい。メンタル的な意味で。
…手強いな、こいつ。
思って舌打ちしたら、今度は横目で冷ややかな眼差しを寄越された。
さっき見た笑顔は幻か?
本気で疑いたくなる。
ちょっとドキドキしてしまった俺の純情を返せ。
「ラフネーム。昼に電話で言っただろ?」
俺はため息を吐き、持ってきた鞄を開ける。
王見は脱いだ上着とネクタイをリビングの椅子の背にかけてからこちらに戻ってきた。
「お前、飯まだなら後でもいいけど?」
「食事は外で済ませました。見せてください」
王見はそう言うと、俺の手から紙束を受け取る。
途中で一度立ち上がり、ペンを持って戻ってきてから、王見はまた、紙をめくった。
今日は疲れているので明日にしてください。とか、絶対言わないよな。
ネームを確認する王見の横顔を眺めながら、俺は思った。
泣き言も言わないし、弱音も吐かないし。こいつ、弱点ってないのか?
学生の頃からの付き合いだが、王見が泣いたところなんて見た覚えがない。
寝不足でげっそりしているとか、不機嫌でピリピリしているとか、せいぜいそれくらいだ。
そういや、眼鏡外したとこも見たことねーな。
実は眼鏡を外したら目が数字の3の形で、…ってことは流石に無いだろうが、
度のキツイ眼鏡をしてるんだとしたら、俺の方からは実際の目より小さく見えてるってことになる。
眼鏡外したら美少年、とか少女漫画にありがちな展開だ。
ま、王見はもともと整った顔してるけど。
「…」
不意に衝動に駆られて、俺は手を伸ばした。
ネームに集中している今なら、簡単に外せる気がする。
そっと息をひそめて近づけた俺の手は、しかし、王見の横髪に触れたところで敢え無く御用となった。
「何をしているんですか、あなたは」
怪訝な表情で、見咎められる。失敗、失敗。
俺は王見に掴まれた手首をふりほどくと、別に、と言って手を引っ込めた。
「で、どうだった?」
ネームを指さし、王見に訊ねる。
王見は一度、頭を抱えるみたいに額に片手を当ててから、仕切り直すように息を吐いた。
「雑ですね。非常に」
言いながら王見が俺にネームをつき返す。
いつものことだが、こいつの評価は一言目が一番辛辣だ。
この最初の一突きで俺は何度殺されかけたんだろうと悲しくなる。
だがここを乗り切らなければ、俺に明日はこないのだ。
「じゃ、ここからの展開をこう変えるとして…」
「そうですね。それからこの辺りの台詞は減らしてください。これでは読みにくくてテンポが崩れます」
王見と相談しながら、というか王見からの指示をベースにしながら、俺は細かな訂正箇所を確認して書き込んでいった。
王見の意見は本当に、的確だとは思う。
だから王見の言い方さえもう少し柔らかければ、俺だってもうちょっと素直に聞ける、はずだ。たぶん。
幾つかのイライラを何とか飲み込んで、俺は一通りの駄目だしを受け終えた。
疲れた。
別に体を動かしたわけでもないのに、全身からどっと溢れ出すこの疲労感。
ふと顔を上げると、リビングの時計が12時を回っていた。
「あー。終電終わった」
俺がそう零すと、王見がティーカップを差し出しながら言う。
「そうですね。タクシー呼びましょうか?」
「…」
ちょっと待て、こら。
そこは普通、泊まっていけば?って展開じゃねーの?
渡されたノンカフェインのハーブティをすすりつつ無言で訴えてみるが、王見はこちらを振り返りすらしない。
王見が鞄からスマホを取り出したので、俺はすかさず手を伸ばした。
スマホごと王見の手を掴み、こちらに引き寄せる。
近づいてくる王見の顔を覗き込んで、俺はめいっぱい可愛く、微笑んでみた。
「帰るの面倒だから、泊めて?」
俺の発言に、王見は全力で眉間を寄せた。
何度かタクシーを呼ぼうとした王見との攻防戦の末、俺は何とかこの家に留まることに成功した。
シャワーを浴びてリビングに戻ってきた俺は、王見に借りた下着とパジャマに身を包み、非常に大満足だ。
うんうん、こういうのやってみたかったんだよ。なんか、お泊まりって感じのやつ。
ちょっとサイズがデカくて袖とか裾とか余ってるのが癪だが。
「俺、ボクサーって初めて履いたわ、たぶん」
濡れた髪をタオルで掻きまわしながら、俺はリビングでまだ仕事をしていた王見に話しかけた。
王見は手元の資料から顔を上げずに、そうですか。とだけ答えた。
「王見はまだ寝ないのか?」
「もう少しかかりますので、お先にどうぞ」
事務的な口調で返される。
俺は特にすることもなかったので、王見に教えられた寝室へと向かった。
部屋の中央には、二人で寝てもお釣りがくるくらいの広いベッドが一台。
後は殆ど家具のない、シンプルな部屋だ。
でかっ。あいつ、これに一人で寝てんのかよ。
きっと相当寝相が悪いに違いない。という俺の推測は、結果のわからないまま。
気が付くと俺はぐっすり眠っていて、眠気が解けたところで爽やかに目を覚ました。
そう。もう、世界はすっかり朝だった。
「…ん?」
ベッドの上で上半身を起こし、首をかしげる。
部屋の中に、王見の姿は無かった。
「おはようございます。そら」
リビングに行くと、既に朝食の支度が整っていた。
洗い終えたフライパンを棚に戻し、まくっていたシャツの袖を戻しながら、王見が俺に訊く。
「コーヒーでいいですか?」
「あ、うん」
俺の返答を受け、コーヒーサーバーとマグカップに手を伸ばす王見。
部屋中に香ばしい香りが広がって、優雅なモーニングタイムを演出していた。
袖口のボタンを留める王見を眺めながら、お前は喫茶店のマスターか、と内心で突っ込みをいれる。
これで黒地の腰巻エプロンでもつけていたら、まさに完璧だ。
しかも無駄に艶っぽくて絵になるところがまた、けしからん。
初夜の翌朝にそんだけ色気垂れ流すってどーよ?
いや、まあ、初夜っつっても別に何もなかったんだけどさ。俺、爆睡だったし。
「そーいや王見、ちゃんと寝たのか?」
溶けたバターの染み込んだ食パンを一口かじり、俺は王見に訊ねた。
王見は鏡も見ず、器用にネクタイを結びながら、えぇ、と短く答えた。
「ふーん。俺、お前がベッドに入ってきたの、全然気づかなかったわ」
「…」
「寝心地いいな、あれ」
「それは良かったですね」
淡々とした口調で言って、スーツの上着を羽織る王見。
俺はゆで卵の半熟さ加減にささやかな感動を覚えつつ、王見を見上げた。
「あれ、もう出んの?」
「上司から呼び出しがかかったので。あなたはゆっくりしてくださって構いません」
王見はちらりと時計を確認すると、俺が食事しているテーブルにすっと鍵を置いた。
「スペアキーです」
短く告げて、王見はそのまま玄関を出て行った。
相当急いでいたのだろうか、王見は一度も俺の顔を見なかった。
静かになった部屋で俺はコーヒーをすすった。
視線を横に滑らせると、お守りのついた鍵が無言で鎮座していた。
それは鈴付きの、見覚えのあるお守りだった。
「あー、これってあれか。王見が大学受験の時にお揃いで買ったお守り」
手に取り、俺は懐かしんだ。
あの頃はまだ付き合うとかでは全然なかったが、なんだかんだで王見と一番親しくしていた。
俺は専願推薦で専門学校が既に決まっていて、王見は四年制大学狙いだったからまだ受験の真っただ中で。
でもどうしても受験生らしいことがしてみたかった俺は嫌がる王見を引きずって、願掛けに行ったんだ。
「王見、お守り買おーぜ。ほら必勝祈願とか」
「お守りのせいで受かったとか言われたくないので、要りません」
「せいって。誰も言わねーよ、アホか」
思っていたよりもだいぶ、王見は信心深いやつだった。
王見の反応が面白かったので、俺は少ない小遣いをはたいて、このお守りを二つ買った。
「そらはもう入学金も払ったんですから、そんなもの必要ないでしょう?」
呆れた顔で言いつつも、俺が渡したお守りをその場で打ち捨てるようなことは、王見はしなかった。
俺は受験生気分を勝手に満喫して、自分の分を鞄に突っ込んだ。
「いいんだよ。こーゆーのは単なる記念っつーか」
「お守りと記念品の区別もつかないんですか?それでよく受かりましたね」
「俺は専願推薦だからな。お前も第一志望受かるまでちゃんと捨てずに持っとけよ?」
「保証しかねます」
「何だとー!?」
別にあの願掛けのお陰で王見が合格したとは思っていない。
あいつは昔から、物凄く努力する奴だと俺は知っている。表には決して見せないが。
「しかし、よく残ってたな。いや、俺もたぶん捨ててないからどっかにあるとは思うけど」
笑いながら、鈴を指先で突く。
涼やかな音を鳴らして、それは愛らしく揺れた。
押しかけ作戦が功を奏したのか、俺の作画速度が劇的に上がったのか。
いや、一番の功労者は間違いなく、俺専属のスーパーアシスタント兼担当編集者様…なんだけど。
予定よりかなりのハイペースでカラー原稿の入稿を終えた俺は、今後も失速しないことを条件に、同窓会への参加を認められた。
「くれぐれも、羽目を外し過ぎないようにしてくださいね。それから終電までにはきちんと…」
「あーもう、わかってるってば」
王見の言葉を遮るように言って、俺は一方的に電話を切った。
たかが旧友との飲み会ごときで担当の編集者に電話で散々念を押される俺って一体。
これでも一応、れっきとした社会人なんですけど、俺。
あ、鍵は今度会った時に返すって言いそびれた。
あの後も王見とは二、三度顔を合わせてはいるが、すぐに打ち合わせに入るので毎回返し忘れていた。
鞄に入れっぱなしなので今も持ち歩いているけれど、流石に今日は会わない、か。
ってか、王見も何か言えよ。
あいつも絶対忘れてるな。不用心なヤツめ。と、自分の事を棚に上げて非難する。
俺が犯罪者だったら堂々と空き巣に入るぞ、全く。
「よー。そら、久しぶり」
待ち合わせ場所につくと、懐かしい顔が揃っていた。
名前を呼ばれ、鍵の事は俺の頭から飛んだ。
「何だよ、全然変わってねーな。お前ら」
駆け寄ると、小突かれた。
気分はすっかり高校生だ。
「お前こそ、ちっとも成長してねーじゃん。主に身長が。あと身長とか身長とかも」
「うるせ。俺はまだ伸び盛りだっての」
「ばーか。流石にもう伸びねーよ」
久々に大声を出して笑った。
そうして楽しい時間はあっという間に過ぎて、気づけば俺は完全に終電を逃していた。
「今、何処ですか?」
「んあ?えーとここは…」
ベンチに腰掛けて、タクシー来ねーな。と思っていたら、王見からの電話がきた。
俺が場所を告げると、程なくしてタクシーが来た。それには王見が乗っていた。
「ただいまー…じゃなかった。お邪魔しまー…っす」
「…」
俺は王見に支えられて、王見の家に帰宅した。
「終電までに帰るようにと、言いましたよね?」
俺に水を差し出し、王見が言う。
俺は、そうだっけ?と首を傾げてから、座らされたソファーに倒れ込んだ。
「そら…そんなところで寝ないでください。はい、着替えです」
俺の手からすかさずグラスを回収し、俺の上半身を元の姿勢に押し戻す王見。
ケチ、とぼやいて、俺は渋々シャツのボタンに手をかけた。
「…ん、このっ…」
「…」
酔っ払いの手に、着慣れない一張羅のシャツのボタンは強敵だった。
俺がもたもたしていると、王見が深い溜息を吐いてから、俺の正面に膝をついた。
長い指だな。と思う。
ボタンを外していく王見の手の、短く切りそろえられた爪とか節の曲線とか、そんなのをぼんやり眺めた。
なんつーかこう、王様になった気分だ。
酔っ払いは気が大きくなるというが、俺はその典型かもしれない。
いい気分で身を任せていると、ボタンを外し終えた王見にいきなり着替えを投げつけられた。
「後は自分でやってください」
言ってから、王見はグラスを片付けにキッチンへ向かう。
うーん、何だろう。叱られた。たぶん。
短い王様時間を終えた俺は、庶民らしく、いそいそと自分で服を着替えた。
「うー…頭、痛ぇ…」
鈍い頭痛に襲われて、俺は目を覚ました。
頭を抱え、重い足取りでリビングへ向かう。
「王見ぃ…頭痛いんだけ、ど…?」
言いかけて、俺はそこに王見の姿がないことにようやく気付いた。
机の上に置かれた朝食には丁寧にラップがかかっていて、横にメモが添えられている。
仕事に行きます。
食器はそのまま置いておいてください。
原稿の締め切りは来週の…
見事に味気ないメモだった。
メモというか、連絡事項を書き連ねただけというか。
俺はメモを机に戻し、椅子を引いた。
胃に優しそうな和食が並べられていた。
食事を終えて、鍵を閉めてマンションを出る。
夜中のうちに降ったのか地面は少し濡れていて、でも見上げると、空は抜けるように青かった。
俺は手に持ったままのお守り付きの鍵を光にかざした。
それから、今出てきたばかりのマンションを振り仰ぐ。
そうして、ふと。
「お。いいこと思いついた」
たぶんあの辺りが王見の部屋だな。と適当なことを思って、俺はその鍵をポケットに突っ込んだ。