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私の兄

作者: たかこ。
掲載日:2015/11/24

 


 私の兄は、意地っ張りで、人見知りで、決して愛想がよいとは言えませんでしたが、とても、優しい人でした。



 兄が死んだのは、梅雨明けも当に終わり晴れの続いた先で、唯一の土砂降りの日でした。

 不慮の事故、だったそうです。前が見えなくなる程降った雨の中の道路で、兄の乗るバイクが転倒し、そこを通ったトラックにぐしゃり。何とも呆気ない死でした。



 兄が死んで最も悲しんだのは、私の両親でした。だって自分達の息子が死んだのです。悲しくない訳がありません。

 次に悲しんだのは、兄の親友でした。彼は、普段見せる朗らかな笑顔をどこにやったのか、酷い顔をして泣いていました。そうして、その顔で私を見て言ったのです。

「兄の死ですら、涙一つ流さないんだな」と。



 兄は普段から仏頂面で、ぶっきらぼうに私と会話をするものですから、私は当に兄の笑顔を忘れてしまっていました。

 だからでしょうか。兄が死んだと分かっても、「ああ、そうか」と納得していました。笑顔を忘れて、情も忘れてしまったというのでしょうか。私はそれが悲しくて、目を伏せました。やはり、涙は出ませんでしたが。



 少し、私の話を致しましょう。

 私はこの世に生をうけてから、大きな障害もなく、流されるままにここに根をはって生きてきています。頭の出来が秀でているわけでもなく、力が強いわけでもなく、ただただ普通に生きてきました。そこらの女の子と大差ありません。あえて格付けをするならば、「凡人」と、そう言えるでしょう。

 好きなことといえば、鼻歌を口ずさむくらいで、得意なことは正確に秒針を刻めることでしょうか。得意なことといってよいのかは分かりませんが。

 出来ることは幾つかありますが、ここは省略致しましょう。

 取り立てて説明するのも、些か面倒ですので。



 さて、兄の話に移りましょう。

 兄は、凡人な私と然程変わったところはないように思います。1つ自慢出来るとするならば、運動神経の良さでしょうか。体力を競う試験や競技があると、必ずといっていいほど、一等を持ち帰ってくるのです。それを聞いた両親の顔が嬉しそうに綻ぶのを見るのは、妹の私ですら暖かい気持ちになったのですから、兄が仏頂面に隠した喜びはどれ程のものだったでしょうか。今ではそれを確かめる術は、どこにもありませんが。

 兄は少し面白い性格をしていました。表情は堅く、近寄るなと威嚇しているようだというのに、いざ話しかけると、少しだけ眉間の皺を緩ませて嬉しそうにするのです。一度だけ、何故怖い表情をするのかと問うたことがあります。兄は口をへの字に曲げて、「恥ずかしいからだ」と言いました。私は予想外すぎる返答に、思わず笑ってしまいました。仏頂面の兄に続く、無表情の妹だと普段から言われる私が笑ったものですから、それを見ていた数人がその日は槍が降ると空を見上げていました。

 そんな仏頂面な、面白い兄でした。彼には、そんなところが気に入られたのでしょうか。

 兄には特別仲のよい友達がおりました。彼は調子のよいことをいうところが珠に傷でしたが、人を遠ざけてしまう兄にはクラスメイトとの良い仲介人でありました。

 兄がクラスに溶け込めたのも、彼のお陰といって違いないでしょう。兄にとっては、大きな存在だったと思います。私は最後まで、好きになれませんでしたが。

 それは、私と兄の大きな違いから来るものでした。

 優しい兄と、優しくない私。

 兄が許したとしても、私は許せないのです。



 少し、昔話を致しましょう。

 いつだったか、両親と兄が寝ている私に黙ってお菓子を食べたことがありました。3つしかなく、その時ちょうど眠っていた私に知られなければ平和に配分出来る数でした。食べて数日経ったある日、私は兄に泣き叫びました。「どうして私のクッキーはないの」と。

 誰も教えていないはずです。3人で秘密にしようねと囁きあったのですから。証拠も残っていません。全て食べてしまったのですから。そもそも、何故クッキーだと、分かってしまったのでしょうか。兄はそれはもう驚いたそうです。更に続けて言った私の言葉には、絶句していました。「だって夢で見たんだからね」とそう言った私の言葉に。

 私は見たことのない過去の映像が夢として見えてしまうようでした。兄はしっかりと私と目を合わせて、怖い顔をもっと凄ませて、「誰にも言うな」と、堅く約束しました。


 いつだったか、私が塾から帰る時間に、通り魔に襲われそうになったことがありました。街頭も少なく、辺りは真っ暗になってしまう通りを歩いて帰っていたのですが、10分程で着いてしまうものですから、私の両親も私も安心していたのです。けれど、兄だけは、その数日前からソワソワと落ち着きのない様子で、とうとうある日、送迎をかってでました。変に意地っ張りな兄でしたからなかなか折れませんでしたが、自分の部活もあるというのに兄は私に対して過保護過ぎると、私はそれを一蹴して塾へと向かったのです。その日も、いつもと変わらぬように無事に家に着くはずでした。

 それに気付いたのは、塾と家との中間地点にあたる付近を歩いていた時でした。後ろの足音が、自分と同じ間隔で聴こえるのです。ぞっとした私は、家に向かって走り出しました。しかし私は、信じられないことに余りに近い距離からの荒い息遣いに、足をもつらせて倒れてしまったのです。恐怖で目を閉じた私に訪れたのは、兄の優しい抱擁でした。その時は安心した気持ちで泣いてばかりでしたが、後に何故あそこにいたのか問いました。部活に行っていた兄があの時間にあそこにいるのは、まず有り得ないのです。塾と学校は反対方向で、私は家に向かう為の最後の曲がり角さえ、曲がりきれずに倒れてしまったのですから、姿が見えるはずもないのです。それこそ、私が襲われると分かっていなければ。そう言うと、兄は観念したように告白しました。

 自分には、未来が見えるのだと。

 いつの、どんな状況でそれが現れるのかは分からないが、空や背景を見て大体の目星はつけるのだそう。私は兄に二つ目の約束をしました。「誰にも言わない」と。


 そうして、兄と私だけの、秘密が出来たのです。それは、兄が死んだ今でも守っています。

 今思うと、兄は私との約束を守ることで、約束を守らせることで、私を守ってくれていたのでしょう。こんな不気味な能力、人に言ってしまえば腫れ物のように扱われることが目に見えています。幼い私への、精一杯の盾だったのです。

 そのせいか、兄は慎重に物事を考える人になっていました。石橋は叩いて叩いて叩いて、皹が入ってしまうくらいに、叩いて、渡る人でした。



 今日の夢の話を致しましょう。

 兄がバイクから転げ落ちました。

 トラックが走ってきました。

 兄は潰れました。

 おしまい。



 それだけであるなら、この言い様のない怒りは存在しないでしょう。

 確かに兄はバイクに乗っていました。けれど、運転していたのは。


 私の目の前にいる、彼でした。


 よく考えれば疑問に思うはずです。慎重な兄が雨の日に、あまつさえ土砂降りの日に出かけるなど、有り得ないのですから。

 彼は兄が死んだと認識した途端、自分の問われる罪に恐ろしくなったのか、さも兄が乗っていたように偽装すると、どこかへ走り去っていきました。一度去って戻ってきたトラックのように考え直すこともなく。

 私は別に彼の矮小な正義感を問うている訳でも、異常な倫理観を責めている訳でもありません。

 ただ、どうして、どうして。

 どうして一度も、兄を見てはくれなかったのかと。

 私は見てしまいました。夢の中で、兄は、確かに走り去る彼に、手を伸ばしていたのです。

 そう、今の彼のように、誰かに助けを求めて、手を伸ばしたのです。

 兄に差しのばされることのなかった手を、どうして彼に差しのばすことが出来ましょうか。


 兄は、優しい人でした。

 過去に兄を化け物と呼んでいじめていた、この彼を許してしまうくらいに。


 私は優しくありません。

 彼の生きようと必死に掴む手を、踏みにじり、落ちゆく彼を嘲笑うくらいに。



 ああ、そうです。

 こうやって、過去に縛られて生きてゆくしかない私を抱き締めてくれたのは、兄だけでした。

 そうして私は初めて、涙を流すのです。

 ですから。


 兄は、私にとって、愛すべきたった一人の兄だったのです。




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