決心
五、決心
生まれたのは男の子だった。二千八百グラム。決して大きいとは言えないが、予定日より二十日も早く生まれた割には、元気な赤ん坊だった。しかし、しばらくして手術室から出て来た医師の口から、思いもよらぬ言葉が発せられた。
「お子さんは問題ないのですが、奥様の御容態が…。予断を許さない状態です」
正直、一郎は医師の言葉に驚いていた。健康が取り柄の恵が、予断を許さない状態だなんて、俄かには信じがたかった。しかし、医師に続いて出て来た恵の姿を見て、一郎は言葉を失った。
恵はストレッチャーに乗ったまま呼吸器が付けられていた。そしてすぐに集中治療室へと行ってしまったのだ。弱り果てた恵の姿に、一郎は何の言葉もかけてあげられなかった。
すると、その後すぐに赤ん坊が看護士に抱きかかえられて手術室から出て来た。泣き声の大きな元気な男の子だった。看護士は赤ん坊を一郎へと渡した。その時、一郎は初めて我が子を抱いた。小さくて、今にも溶けてなくなりそうだった。赤ん坊は相変わらず大きな声で泣いていた。
一郎は、我が子を手にした嬉しさと、妻の容態の悪さからくる不安とで、とても困惑していた。
「それからすぐに恵さんは帰らぬ人となってな」
父が重い口から言葉を絞り出すように言った。
「一郎さんは大変悩んだようだ。男手ひとつで、しかも仕事もろくにしていないのに、子供を育てられるのか?この子を幸せにするにはどうしたらいいのか?悩んだ末に、私ら夫婦に預けることに決めたんだ」
そう、一郎は大変悩んでいた。出来ればこの子を手離したくはない。けれど、両親は既に他界していて、下の妹も、もう結婚している。他に頼れる身内もいない。とすれば、自分一人で育てていくしかない。
けれど、自分一人で本当にこの子を育てて行けるのだろうか?仕事をしながら育てて行けるのだろうか?それはこの子にとって本当に幸せなのだろうか?一郎は、心の中で葛藤していた。
一郎が悩んだ末に出した結論は、妹夫婦にこの子を養子に出すことだった。幸い、妹夫婦には子供がおらず、子供が欲しいと常々言っていた。養子の申し出をすれば、引き受けてくれるだろう。そんな期待が一郎にはあった。
男の子は勝と名付けられた。そして古石夫婦に養子として迎えられた。当時子供がいなかった夫婦にとっては、嬉しい養子縁組であった。
父が言葉を続けた。
「その後数年経って、一郎さんは小説家としてデビューした。涼子さんと出会ったのもその頃だと聞いている」
一郎は涼子と再婚し、小説家を生業として暮らしていけるようにもなった。しかし、二人の間には子供は出来なかった。
父がゆっくりと、そして呟くように言った。
「一郎さんにしてみれば、お前のことが気になっていたのだろう。結局、一昨年涼子さんと別れるまで子供は出来なかった」
勝は、父から発せられる言葉を無言のままじっと聞いていた。只々父を真っ直ぐに見ていた。