妊娠
三、妊娠
それは、ある真冬の日の事であった。刈谷一郎は六畳一間のアパートの片隅で、原稿用紙と向かい合っていた。しかし、筆は一向に進まない。妻のことが気になって仕方ないからだった。
一郎が小説家を目指して、サラリーマンを辞めてから既に三年が経っていた。きっかけは、サラリーマン時代に空いた時間で書いた推理小説が、雑誌の文学賞の三次選考まで残ったことだった。子供のころから作文は得意だった。本格的に執筆すれば文学賞を取って小説家としてデビューできる。そんな夢を持ちサラリーマンを辞めたのだった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。一郎は書いた小説を片っ端から雑誌の文学賞に応募したが、どれも二次・三次選考止まりだった。俺の小説には何かが足りない。そう思い始めたのもここ最近になってからだ。今はサラリーマン時代にためた貯金も底をつき、週二日の夜間工場でのわずかなアルバイト代と、妻のパート代とで何とか生活をしていた。
妻の恵とはサラリーマン時代に知り合った。得意先でOLをしていた恵に、声を掛けて誘ったのは一郎の方だった。決して美人とは言えないが、気立てのよい芯のしっかりしたところに魅かれたのだ。結婚したのは、一郎がサラリーマンを辞めて半年が過ぎた頃だった。一郎が会社を辞める時、恵は反対せずに応援してくれた。その後二人が結婚してから、恵は良く働いてくれた。今、家計を支えているのは恵である、と間違いなく言える。
そんな恵から、今朝思いもよらない言葉が一郎に発せられた。
「子供が出来たかもしれない」
本当なら心の底から喜ぶべきその言葉に、一郎は戸惑いを露わにした。今の経済状態では、子供を育てるなんてとても出来ないからだ。すなわちそれは、小説家を諦めることを意味していた。
そんな一郎の表情を素早く察知した恵は、予期せぬ言葉を発した。
「子供、中絶してもいいのよ」
すると、一郎は勝った目を見開き、怒ったような口調で恵に言った。
「バカの事を言うんじゃない!俺たちの大事な子供だ!中絶するなんて有り得ない!」
すると、恵が泣き出しそうな声で言った。
「私だって産みたいわよ。でも今の状態じゃ子供どころじゃないでしょう?」
一郎は何も言えなかった。子供どころじゃない。その言葉に打ちのめされた。
「とにかく、病院へ行ってくるわ。話はそれからにしましょう」
そうして、恵は玄関のドアを閉め病院へと向かった。
恵がアパートへ帰って来たのは、それから三時間ほど経った頃だった。恵がいない間、一郎はどうすべきか自分に問いかけていた。小説家を諦めるか、子供を諦めるか。答えは出なかった。
「ただいま」
恵が玄関のドアをゆっくり開ける。一郎はその声にすぐに反応し、玄関先まで恵を出迎えた。
「どうだった?」
不安げに一郎が尋ねる。恵は神妙な面持ちで答えた。
「三か月だって」
予期していた言葉だった。しかし一郎は、改めてその言葉を聞くと「そうか」と一言言っただけで、部屋の奥へと戻って行った。
一郎は、大きな人生の決断を迫られていた。