第9章
いよいよクライマックスに近づいてきました。
僕の小説を開けてくれた方、本当にありがとうございます。
いったい犯人は誰なのでしょうか?
第九章
1
翌日の日曜日、竜也は良二と会うことにした。
良二のことが気になって、夜中じゅう頭から離れなかった。お陰で、少し頭痛がする。
竜也は、松本で仕入れた情報を反芻してみた。
まず、良二はなぜ大晦日に、家族と離れてまで白馬に行ったのか。そして、もしゲレンデに行っていないとしたら、空白の二時間半はどこで何をしていたのか。それから、良二の過去に思いを馳せた。どうして和子の姉である裕子と結婚してまで、死んだ和子の子どもを育てなければならなかったのか。
竜也としてはこのことを整理しておかなければならなかった。
「良二には、今のところアリバイがある。しかし、もしこのアリバイが崩されようとしたならば、彼はどういうふうに事件の捜査に対抗していくのか」それを実際に訊いてみたかった。
また、あの時の聡美のメールが蘇った。そして激しく光を放った。竜也は治らない頭痛に顔を歪めた。からだが少し振動を始めた。
夕方、良二は吉祥寺の女子大通りにある小さな小料理屋にいた。
良二の顔を見た瞬間、竜也は妙な懐かしさを覚えるとともに、四次元の世界から時空を超越して彼を見ているような錯覚に陥ってしまった。
「久しぶりだな。竜也」
「良二こそ元気そうで何よりだ」
「元気だけど、このところの産婦人科は大変だ。人手不足というよりも、もう医者がいない」
良二は苦虫を噛み潰したような顔でビールを呷った。
「でも、収入がいいから羨ましいよ」
「何言ってんだ。勤務医はさぁ、仕事に見合った収入なんてもらってないんだから。娘の祥子の学費で大変だったよ。まぁ今は医者になってくれて、何とかなっているけどな・・・・・俺は独身のお前が羨ましいよ」
「俺だって、結婚したいと思ってるよ。でも今の安月給じゃなぁ」
竜也はお通しの蛍イカを摘んで、冷酒を空けた。
「ところで事件はどうなってるんだ?」
「あぁ、そのことだけど、進展してるかどうかは別にして、俺たち全員の過去にまで捜査の手は伸びてるようだ」
「それはどういう意味だよ」
「警察は、パークシティーのメンバーの中に犯人がいると踏んでるようだ。それも三つの事件すべてに対してだ。過去の怨恨が動機だと思ってる」
良二は一瞬顔を歪めて、またビールを呷った。
上目遣いに達也を見る目が、少し翳りを帯びたような気がした。
しかしまた気を取り直したように、良二は口を開いた。
「悠太の件は外部の者の犯行だろう。きっと悠太が書いた記事で恨みを買ってたんだ。俺はそう思う。松本の事件にしたって・・・・・加奈子と坂井も、男女関係の縺れか何かで殺されたんだよ。二人は昔から噂があったじゃないか。三角関係の片割れがやったんじゃないのか?あれはきっと松本の人間がやったんだ」
「俺たちのことを東京の人間だとでも思ってるのか?みんな松本出身だよ。それに正月は、お前を除いて全員実家に帰ってきてたぞ」
良二は左手を口元に持っていき、中指の爪を噛んだ。
良二の落ち着かない時の癖だ。昔と変わらない。
「その癖はやめた方がいい。気をつけろよ」
「そうだな、注意するよ」
「ところで、当日のアリバイがあるのはお前だけみたいだな」
「そんなこと誰に訊いたんだよ」
「柳田刑事だよ」
「竜也、お前、柳田とつるんでいるのか?」
良二は心得ているのだろう。わざと突っかかってくる。
「人聞きの悪いこと言うなよ。松本で最後に加奈子と会ったのが俺だったから、その事情聴取の時に色々訊いたんだ。だって俺たちが疑われてるんだぞ。俺だって色々と情報を入手した上で事件の真相を解明したいよ」
竜也は気を静めるために煙草に火をつけた。
「すまん、今日は当直明けで寝てないんだ。少し神経が昂ってるのかもな」
竜也は言葉に詰まった。
お互いに腹の探りあいをするかのように、しばらく沈黙が続いた。
「良二はなぜ白馬に行ったんだ?」
「久しぶりに独りになりたかったんだよ。このところ仕事に小さなミスが多くてね。ストレス解消のために山に行ったんだ。独りでね」
「じゃぁ、白馬に着いた日の明け方、なぜ滑らなかったんだ?」
良二は唇が渇くのか、しきりに舌で舐めている。そして、なぜそんなことを知ってるのか、とはもう言わなかった。
「・・・・・とりあえずゲレンデまで行ったさ。でも手袋を忘れたことに気がついたんだ。あの寒さじゃ、手袋なしではとても滑れない。ホテルまで取りに帰ったら、もう朝の六時前だった・・・・・からだがかなり冷えたんで、もう滑る気力をなくしたんだよ」
「プロ級の腕を持つお前がか。珍しいな。スキーが目的で白馬に行ったんだろう?」
竜也は軽く笑った。
良二がわずかに視線を落としたように見えた。
「猿も木から落ちる、ってやつさ。その日の午後には少し滑ったよ」
「すこし、か」
竜也はまた含み笑いをした。
「お前、俺を疑ってるのか?」
「疑ってなんかいないよ。でも説得力に欠ける」
竜也は静かな口調で言った。
良二は腕を組んでわずかに唇を噛んだ。
「もうひとつ訊いてもいいか」
「いいさ。何なりと」
「和子のことだ」
良二は急に目を閉じた。そして目を開くと、虚ろな眼差しで宙を仰いだ。
「もう昔の話だ」
「その昔の話を訊きたいんだ」
「訊いてどうする」
「どうもしない。が、うちの家族が間違いなく絡んでる」
良二は竜也が注いだ冷酒を一気に飲みほした。
「ふ~ぅ」良二はため息を吐いて、ふぐの焼き物を摘んだ。そして手酌で注いだ冷酒をまた飲みほした。
「何が知りたいんだ」「すべてだ」
「一言じゃ語れない」「なら、何時間でも聞く」
竜也は更に冷酒を二本注文した。
しばらく重苦しい沈黙が続いた。下を向いていた良二がやっと顔を上げた。
「お前は知らないと思うけど、俺には障害をもった『菜美』という妹がいるんだ。妹は安曇野にある施設に入っていた。そこに、ピアノが好きな和子が、毎月第二、第三の日曜日に、ボランティアとしてピアノを弾きに通ってくれていたんだ。もちろん和子は、菜美が俺の妹だということを知らなかったし、俺の家族も和子のボランティアのことなど知らなかった。菜美が実家に戻ってくると、いつも言ってたよ。『かぁ、きた。かぁ、やさしい』って、たどたどしい言葉でね。最初俺は『かぁ』が誰なのか分からなかったし、知ろうともしなかった。カラスが施設の庭にでも降りてきたんだろうと、思ってたよ。でもある日、菜美に届け物があって施設を訪ねた時、見たんだ。ピアノを弾きながらみんなと一緒に歌っている和子の姿をね。障害のために『かずこ』と言えない菜美は『かぁ』と呼んでたんだよ。俺は声も掛けずにその場を離れた。ただただ感謝するばかりだった。いつも派手な恰好をして突っ張っていた和子は、本当の和子じゃなかったんだよ。和子は優しい目をして入所している子どもたちと楽しく歌ってた。裕福な家庭に育ったけれど、和子自身が愛情に飢えていたんだと思うよ。だからみんなの前では悪ぶっていたんだろうな」
良二は焦点の定まらないような目をしている。おもむろに鯛の手鞠鮨を摘まんだかと思うと、チェイサー代わりにハイボールを注文した。
「そのうち・・・・・その感謝が愛に変わったんだよ。自分でもどうしようもなかった。俺は和子を愛した。彼女の笑い顔も、髪をかき上げる仕草も、そして匂いも。和子のすべてを愛した。竜也は笑うかもしれないけど、俺にとっては天使のような存在だった。彼女の冷たい眼差しと突っ張ったような口の利き方も、俺の憧れに変わったよ。でも貧乏な家庭に育った俺にとっては、和子は高嶺の花でしかなかった。そんな中であの事件は起こったんだ」
良二は当時を懐かしむように天井を見つめた。
「当時俺の叔父が、永島病院で守衛をしていたんだけど。明け方、和子が病院に運ばれた、と連絡をくれたんだ。俺は直ぐさま病院に詰めたよ。正直言うと、子どもの命など俺には関係なかった。その時はどうでも良かった。和子の命だけが心配だった。でも・・・・・結果は悲惨なものだった。和子は死んだよ。まだ十八歳だったんだぜ・・・・・」
良二はハイボールを呷って、大きなため息を吐いた。
竜也は、思わず目頭を押さえた。
「和子の死に顔を見て、もう二度と和子の笑顔を見ることができない、と俺は泣き崩れたよ。そのあとお腹の子どもが助かったことを聞いたんだ。その時、それまで経験のない妙な感覚に襲われたんだ。和子がこころの中に降りてきて、髪をかき上げながら笑ったんだ。そして間違いなく言ったんだよ。『この子をお願い』ってね。竜也は笑うだろうな。馬鹿なやつだって」
良二は少し口元を緩めた。
竜也は頭の中で話を整理しているのか、じっと口を噤んだ。そしてコップに注いだ冷酒を無理やり喉に流し込んだ。
「和子が唯一この世に残したものが、あの子だったんだ。言い換えれば、和子を感じられる唯一のものが、あの子という訳さ」
良二の目はようやく焦点を捉え始めたようだ。
「俺は死ぬまで和子を感じていたかった。いやあの子を和子としてそばに置いておきたかった。だから受験をやめて、あの子を育てようと思った。でも・・・・・十八の男が学校に行きながら独りで子どもを育てるなんて、無謀というより、分別のない浅はかな考えだった。当然誰もが反対したよ。そこに手を差し伸べた人がいたんだ。あの子を育てる、と言い張る姉の裕子との結婚を薦めてくれたよ。本音を言うと、裕子に対する愛情はまったくなかった。あの子に対する愛情が、いや亡き和子に対する愛情が、他の愛情を受け入れさせてくれなかったんだろうな。でもあの子と暮らせる、そのことだけが結婚を決意させたんだよ。幸いにも裕子は俺のことを悪く思っていなかった。彼女にも相当な葛藤があったと思うけどね。奨学金で医大に行こうと思っていた俺に、あの人は学費と、生活費の援助までしてくれた。だから俺たちは暮せたし、医者にもなれたんだ。子どもの名前はあの人が命名したんだ。『めでたいこと』という意味で『祥子』と名づけた。不幸を背負って生まれてきたけど、和子の生まれ変わりだ。だから無理にでも『めでたいこと』にしたかったのだろうな。そしてあの人は言ったよ『祥子を医者にしてくれ。協力は惜しまない』ってね」
良二は一気に話し終えると、肩の荷を降ろしたかのように大きなため息を吐いた。
竜也は煙草に火をつけると、目を閉じてゆっくりとふかした。
やがて葱鮪の小鍋が運ばれてきた。
良二は鮪を摘まんで、ハイボールをひと口飲むと、少し穏やかな顔に戻った。
「竜也、援助してくれた人は誰だ、って訊かないのか?」
竜也は短くなった煙草を、陶器の灰皿で潰した。
「訊かなくたっていい。その話はむろん承知だ」
竜也は薄い笑いを浮かべた。
「祥子の父親のことは気にならないのか、とは訊かないのか?」
「・・・・・そこまで訊かなくてもいい。話を続けろよ」
良二は納得したように軽く頷いた。
「俺はあとで祥子の父親の正体を知ったけど、その人には感謝してるよ。祥子をこの世に残してくれたからな」
「でも、その祥子を孕まなかったら、和子は死なずに済んだかも・・・・・」
「竜也、勘違いするなよ。和子が死を選んだ理由はそんなことじゃない」
「じゃぁ、何だ」
竜也は、良二の意外な言葉に気色ばんだ。
良二もしばらく躊躇していたが、何杯目かのハイボールを飲みほして勢いをつけた。
「和子がさぁ、子どもたちと一緒に施設の回転式ジャングルジムで遊んでいる時に、あの事故が起こったんだよ―。五歳の女の子が支柱に指を鋏んで切断したんだ。機具の不具合が原因だったのに・・・・・和子はそれを自分のせいだ、と悔やんで悔やみ抜いて死んだのさ。考えたら馬鹿なやつだよ。もう~っ、やり切れないよ―」
良二はまた顔を歪めて、自分の太腿を思いっきり叩いた。そして瞼を擦りながら、またハイボールを一気に飲みほした。
竜也も、その事実に胸が張り裂けそうになった。
頼んでおいた泡盛のロックを一気に呷った。
「でもなぁ、竜也。俺たちは無実だろう?竜也にも、健一にもアリバイはあるんだろう?俺だって白馬にいたんだよ。あとは女どもだ。彼女らは非力だ。そんなことができるはずがない。な、そうだろう」
良二はかなり酔っていた。呂律が回っていない。
竜也は、「非力」という言葉に少し違和感を覚えたが、良二を見て答えた。
「そうだよな。誰もそんなことできるやつはいないよ。柳田刑事も、結局はみんなを信じざるを得ないと思うよ」
混沌とした良二の苦悩が、十分理解できた。
「和子って、俺にとって何だったんだろう・・・・・今でも目を閉じると、彼女が俺に微笑みかけるんだよ。十八歳の顔のままでね」
竜也は最後の煙草に火をつけた。
「なかなかの演技だ」こころの中で呟いた。
その時にまた聡美の例のメールが脳裏をかすめた。
その瞬間、三次元の世界に戻ってきたのだろうか、からだ浮遊しているような感覚が、すぅ―っと消えた。
ちょうど奥にいた客が店を出るところだった。
客を送り出すママの声がした。
「あら、冷えると思ったら、外は雪ですよ。今夜は積もりますよ。お風邪など召さないようにしてくださいね」
冷たい風が二人のうしろを吹き抜けていった。
2
五日が過ぎた金曜日に、柳田から電話があった。
新しい情報が入ったということだ。
竜也は柳田の「情報」とう言葉に背中を押され、会社の帰りに渋谷西署に出向いていった。
前回訪問した時と同じ打ち合わせ室に通された。
柳田は目が酷く充血していて、前回より頬が痩けたように見える。捜査が熾烈を極めているのだろう。
「今日は僕も、事件のことで伝えたいことがあります」
今回はコーヒーを事前に用意してくれていたようだ。竜也はインスタントの香りがするコーヒーを啜りながら柳田の顔を見た。
「それは、ありがたいですね。ちょうど捜査が山を迎えたところです」
竜也はどこまでの情報を流していいのか考えあぐね、表情が少し冴えなかった。
それでも今後の事件解明の手順を考えると、小料理屋での良二の話を詳細に伝えなければならなかった。
柳田は、良二が結婚までして祥子を育てたことや、和子の自殺の理由などについては、既に知っているかのように、軽く頷きながら目を閉じて聞いていた。
しかし、白馬のホテルでの話になると、時折、右の眉をピクつかせた。表情が険しくなっていくようだ。
すると突然、部屋の外に向けて大きな声を上げた。
「野見山君、いたらすぐ来てくれ」
ドアを開けっぱなしにした隣の部屋から「はい、かしこまりました」と礼儀正しい言葉が返ってきた。
打ち合わせ室のドアから野見山が顔を見せた。
パークシティーの事件の時に、柳田が紹介してくれた若い刑事だ。
「すぐに、長野県内の中小の航空会社とテレビ局をあたってくれ。
大晦日から元旦にかけて、松本の上空を飛んでたヘリをすべて洗うんだ」
「了解しました」
野見山は部屋を出たあと、きびきびとした動作で長野県警に連絡を取っているようだ。部屋の外からは、野見山の弾けるような声が聞こえてきた。
普段はゆったりと構えているような柳田だが、指示を出す眼光には鋭いものがあった。
聡美がいたら「わぁ、刑事ドラマみたい」と場の雰囲気をぶち壊すに違いない。今日は連れてこなくてよかった、と竜也は胸を撫で下ろした。
ちょうどそのころ、聡美は玲子と一緒にいた。
高円寺の「しもや」という店で二人は肩を並べていた。
あれから聡美は、玲子のアリバイが気になってしょうがなかった。それと、少しでも竜也に協力ができれば、と思って玲子を呼び出したのだった。
「玲子、あれからどうしてた?」
「どうしてたって、お正月に松本に帰っただけよ」
玲子はなぜかウキウキして、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だった。
「私も帰ってたのよ。でも会わなかったね」
「そうね。私も忙しかったからね。それにあんな事件があってびっくりしたわ」
玲子はそれほどびっくりした様子も見せずに、どこか上の空という感じだ。そしてジョッキのビールを半分ほど空けた。
「ふ~ぅ。やっぱり美味しいわ―。金曜の夜は不惑の夜よね。惑わずにガンガンやらないとね。私たちも、もう不惑の年を越したのよ。人生惑わずに行こうよ。ねぇ、聡美」
玲子は妙にテンションが高い。何かあったのだろうか。いや、絶対に何かあったんだ。聡美は確信を持った。
「玲子、どうしたの?香水をつけてるの?」
「分かった?やっぱりね・・・・・」
玲子は乙女のようにはにかんで、チョロッとピンクの舌を出した。
「分かるわよ。でも、ちょっとつけすぎじゃない?」
聡美はわざと鼻をつまんだ。
「これ、サンローランの『ベビードール』よ。つけてると結婚できる、ってやつ。うふっ」
玲子は不気味な笑いを浮かべた。
「でもさぁ、『ベビードール』ってさぁ・・・・・」若いおネエちゃんに人気があるのよ、と言いかけたが、玲子の無邪気な顔を見て、聡美は口にチャックをした。
「そうね。玲子はきっと結婚できるわよ。きっとね」
聡美もジョッキに残ったビールを一気に飲みほした。
先に出てきた大皿のコンビネーションサラダを食べ終わるころ、大きさがバーベキューほどもある焼き鳥と、甘エビ、タラバ蟹、紋甲イカがチーズで埋め尽くされたピザが運ばれてきた。
「やったね、これこれ。これを食べないとね」
玲子はまるで高校生に戻ったように、からだをシェイクさせて、二杯目のビールも一気空けてしまった。
「玲子、ひょっとしたら彼ができたんじゃないの?」
「うっ」玲子は急に口を噤んだ。
顔を伏せて、しばらくしてまた上げた。頬が淡い桜色に染まっている。
「実はね・・・・・あのあとなの」
「何のあと?」
「クラス会」
「そうか、それじゃぁ、あの中の誰かね。だれっ?」
「急かさない、急かさない。あ・と・で」
玲子は気になるのか、短く切った髪をやたら触りながら、更にカルピスサワーを注文した。
「よかったね。この前のイブには、私は結婚なんて無理、って言っ
てたのに・・・・・人生何があるか分からないわね。私も頑張ろっと」
聡美は大きな焼き鳥を口いっぱいに頬張りながら『メンバーの中で独身男性は三人。いや、坂井は死んだから残りは二人。その彼って、まさか竜也じゃないよね』と訊きたかったが、その愚かさに自分で呆れてしまった。
「結婚なんて、そんな話はまだまだよ~」
酒のせいもあってか、玲子の頬はまるで風呂上りのような状態になってしまった。
『恋愛って、相手ばかり見てるから、時として自分の姿が見えなくなるのよね』聡美はこころの中でそっと呟いた。
そのあと、聡美は「アッチッチ―」と言いながら、ピザを小皿に取り分けた。
「旨そうだ―この店に来たら、やっぱこのピザを食べないとね」
玲子は、とろりと落ちそうになる熱々のチーズを、フォークで上手に掬い上げながら、無理やり口に押し込んだ。
「玲子、幸せそうだね」
聡美は自分のことを振り返り、なんとなく寂しくなった。
なぜか、目頭が熱くなるのを覚えた。
「ごめん、私が先に幸せになるかもしれないね」
聡美は、『相手が健一だってもう分かってるわ。玲子だけいいわね』またこころの中で呟いた。
「もう、そろそろ教えてよ」
「そうねぇ~。誰にも言わない?」
『そういう時、女は、既に十人の人間にしゃべっているはずだ。それから考えると、ねずみ算式に計算して、百人の人間が知っていることになる』聡美はそう考えながら、玲子に返答した。
「誰にも言うもんですか。私たちだけの秘密よ」
玲子は幼児ようにグニャリと笑った。
「実はねぇ。ケンイチよ」
玲子は言い終えると、鼻の頭を気持ち上に向けた。
「だと、思った。やっぱりね」
『竜也じゃなくてよかった~。玲子と竜也じゃ釣り合わないよぅ』
と本音を吐く代わりに、聡美は有りっ丈の笑顔で玲子に応えた。
「クラス会の前から時々会ってはいたんだけどね。深い関係になったのは、あの夜なんだ。パークシティーで簡単な事情聴取があったでしょ。あの時私が『母子家庭だから先にしてもらえますか』って言ったでしょう?子どもをダシに使って悪かったんだけど、あの夜、健一と前以って約束してたの」
「そういうことだったの。健一も隅に置けないわね」
聡美は煙草のフィルターの先を、形のよい唇で軽く銜えた。
「それからさぁ、あれが終わったあと・・・・・私を抱きしめながら健一が言うの『沖縄に行かないか?』って。私、年末は甲府の姉のところに行く予定だったんだけど・・・・・もう嬉しくてさぁ、子どもだけ預けて、松本から飛行機に乗ったのよ。男と旅行するなんて、ほんと~に久しぶりだったから、もうワクワクしちゃったわよ。健一は羽田から乗ったから、那覇空港で待ち合わせ。それからレンタカー、それもBMに乗って名護のホテルまで行ったのよ」
玲子はうっとりと天井を見つめている。沖縄を思い出したのか、サワーの種類をシークァーサーに代えた。
そう言えば、玲子の携帯のストラップはシーサーのマスコットがついている。
「そう、いいわねぇ」
聡美は煙草の煙を吐きながら、少し妬ましく思った。
『結婚して離婚もした女が、厚労省の官僚と婚前旅行。それも沖縄に。私はまだ結婚もしていないのに、信州の温泉にさえも竜也と行けなかった。この現実は何?』
また、聡美のないものねだりが頭をもたげた。
「それから、どうしたの」
こういうことに関しては、聡美は四十三歳のおばさんに戻って興味津々の顔をした。
ちょうど、豆腐一丁と牛の筋肉をトロトロになるまで煮込んだ肉豆腐が運ばれてきた。生姜の黄色と浅葱の緑色が鮮やかだ。
玲子はその豆腐をザックリとスプーンで掘りおこし、ふぅふぅと冷ましながら口に運んだ。
「これ、ほんと~に美味しいよ」
「ちょっと玲子、その続きは?」
「そうそう、それから彼は私の王子さまのように、チェックインから荷物運び、ゴルフの予約、そして夕食の手配まで、すべてやってくれたわ。私、お姫さまの気分だったわ」
聡美は全身に虫酸が走り、微妙にからだを震わせた。
「へぇ―最高じゃない」
玲子は、今度はパイナップルサワーを注文した。顔はすでに茹で上がった蛸のようだ。
『何が、お姫さまよ。ゆでだこ―』
聡美は、この顔を健一に見せてやりたい、と思いながらも先が気になった。
「それからさぁ、翌日は朝からスキューバをして―、午後は『美ら海水族館』に行って―、夜は、北谷にある『カラハーイ』っていうライブハウスで、『りんけんバンド』のライブを見たの。ず―っと、夢心地だったわ。最後の日はさぁ、ホテルのゴルフ場でハーフを回ったの。それから『琉球村』っていうテーマパークで遊んで、空港まで行ったのよ。健一とずっと一緒よ~。もう最高だったわ。でも帰りたくなくて、私、空港で泣いちゃった」
玲子は完全にハイティーンの女の子に戻ってしまっていた。
聡美は一度だけ沖縄に行ったことがある。宿泊したのは、廃棄ガスだらけの国際通りを少し入ったところにある小さなホテルだった。
回ったところといえば、「ひめゆりの塔」「首里城」「万座毛」。特に珍しくもないありふれたところだ。それも女二人旅。また嫉妬心が頭をもたげた。
『よく言ってるよ~。でも確か竜也が言ってた。松本に帰ってきてからの方が問題だ、って。訊かなければならないのはここからだ』
「おばちゃ~ん。泡盛の水割り二つと・・・・・うぅっと、チャンプルー
とタコライス」
玲子はかなり酔いが回ってきたようだ。
『タコライス?何言ってるの。あなたがタコじゃない。でも玲子はかなり酔ってきた。これで訊き出せるかも』
聡美は追い討ちをかけた。
「たった二泊だったの?せっかくだからもっと泊まってくればよかったのに」
「ほんと。残念だったわ。でもね、誰にも言わないでよ、絶対よ。彼優しいの。松本でもう一泊しよう、って言ってくれたの。だから大晦日は二人で過ごせたのよ」
「へぇー、それでまた何回もエッチしちゃったの?」
「二回だけよ。うぁ~ん、何言わせんのよ~」
『このおばさん、ばっかじゃない』
玲子の両頬は、今度はりんごのようになってしまった。
「で、朝まで頑張っちゃったの?」
「そんな~朝までだなんて・・・・・でもねぇ、六時ころに起きたら、彼がいなかったの。私もうびっくりしちゃった~。でも七時くらいには帰ってきたけどね。朝の散歩に行ってたんだって。寝ている玲子を起こしたくなかった、ってさ」
玲子は、最後に答えたことに自分で気づいて顔を青くした。決して言ってはいけないことだった。
瞬時に酔っぱらった顔を引き締めた。「大変なことをしでかした―」消え入りそうな声で呟いた。
「ごちそうさま」聡美はにっこりと笑った。
玲子は顔を伏せて深くため息を吐いた。
「橘さんが松本で宿泊されたホテルをあたってみました。同伴の女性は羽山玲子さんでした。ホテルの従業員が証言しています」
「そうでしたか・・・・・健一と玲子がねぇ。何となくそんな気がしてたんですよ」
竜也は腕組みをして、大きなため息を吐いた。
「羽山さんにも訊いてみたんですが、二人は朝まで一緒だったそうです。まぁ、ご友人の永島さんには悪いのですが、恋人の証言ですからね、当てにはなりませんが・・・・・」
「アリバイがあるようで、ないような。はっきりしませんね」
「もう少し証拠でもあれば、進展もするんですが・・・・・」
柳田は、ハイライトを口に銜えて、マッチで火をつけた。
テレビドラマに出てくる渋い刑事のような雰囲気が漂った。
「実は昨日、木戸さんの会社から、木戸さんの物と思われるUSBメモリーが見つかりましてね。それも、木戸さんの部下の女性が生前に預かっていたようなんです。今分析を進めています。記者の時の原稿か何かだと思うんですが・・・・・事件の手掛かりでも見つかるといいんですがね」
柳田はハイライトの煙を強く吐き出して、眉間を押さえた。
「その女性の名前は?」
柳田は手帳を開いて指でなぞった。
「永島理沙という女性です。年齢は十八歳。アルバイトのようですね」
「えっ、僕と苗字が一緒ですか」
竜也は何か因縁めいたものを感じた。
「まぁ、たまたま一緒なんでしょう。彼女からは、他に特別な情報は得られませんでしたから」
「そうですか。そのメモリーから何か証拠でも見つかるといいですね」
竜也は、少し怪訝そうな表情をした。
「柳田さん、それともう一つ気になっていることがあるんですが」
「どのような?」
柳田は目が疲れているのか、人差し指でしきりに眉間を押さえている。
「悠太がパークシティーで倒れた時、いち早く良二が駆けつけたんですけど・・・・・彼はハンカチで自分の口を押さえながら、悠太を抱きかかえていました。素人目にも不思議な光景でした。あとからネットで青酸カリの項目を調べたんです。そしたら、中毒した人の呼気を吸うと吸った人も中毒してしまう、と書いてありました」
竜也は唇を噛んでそれ以上口にしなかった。
「そんなことがありましたか、木戸さんが呑んだ青酸カリは確かに致死量の数倍もありました。そうなると、青酸カリのことを川瀬さんは知っていた・・・・・。でも、川瀬さんは医者ですからね。そういう知識は持ち合わせていたのかもしれませんよ。まぁ、とりあえず今のところはアリバイもありますしね」
柳田は、そう言いながらも、天井の一点を見つめた。
「でも・・・・・彼の専門は産婦人科ですよね」
竜也は自分の思惑を否定されて口元を歪めた。いくぶん不満気だった。
「う~ん。どうなんでしょうね。少し調べてみますか」
とりあえずすべてを話して、竜也は少し落ち着いた。吸っていた煙草をアルマイトの灰皿で潰した。
「じゃぁ、僕はこれで失礼します」
「お忙しいところすみませんでした。また新しい情報が入れば連絡を差し上げます。今後ともご協力よろしくお願いしますね」
「あぁ、もう一つだけいいですか?素人考えで申し訳ないのですが、先ほど野見山さんに、ヘリコプターの件で指示をされていましたが・・・・・航空会社とテレビ局以外にも、重要なところがあるのではないかと思います。自衛隊と救急ヘリを保有する総合病院。そこをあたってみてはどうでしょう」
そう言うと、竜也はからだを反転させた。
柳田はそれを聞いて、青白い頬をピクリと動かした。
3
翌日竜也は、裏の公園で遊ぶ子どもの声で目が覚めた。時計はちょうど八時を指していた。
しかしからだが重い。
色々な情報が竜也の周辺から湧き始めた。その温度に触発されて、冬眠から醒めるようにむっくりと頭を出した様々な疑惑。その疑惑と対峙するように、竜也のこころの中の邪悪な虫が全身で蠢いていた。
ベランダに出て、煙草に火をつけた。空気は冷たいが空は快晴だ。口に含んだペリエが喉を爽快に流れた。
公園の先に目をやると、朝日を反射して、善福寺川の川面がキラキラと輝いている。
どれくらい前だったろう。悠太が死んで、みんながこの部屋に集まったのは・・・・・。
竜也は、「うつ病」の時と同じような倦怠感を感じて、ベランダのデッキチェアに深く腰を沈めた。
しばらく目を瞑って、煙草をゆっくりとふかした。
すると、柳田が昨日話してくれた「永島理沙」という名前が脳裏を過った。
「永島理沙」・・・・・考えても、何も思い当たることはなかった。
会ってみよう。そう思うとすぐに携帯で「東京日報」を検索した。
土曜日でも会社はやっているはずだ。
大代表に「永島理沙」という名を告げて呼び出してもらった。
理沙は最初、永島という竜也の苗字に少々戸惑っていたが、悠太の親友だと自己紹介して、彼の生前の話を聞きたい、と言うと、仕事が終わる四時に会うことを約束してくれた。
東京日報は、千代田区の神保町に本社を構えているということだった。竜也は悠太と飲む間柄ではあったが、彼の会社には一度も顔を出したことがなかった。
次に竜也は聡美に電話を入れた。この一週間、聡美には会っていない。どうしてか分からないのだが、聡美の屈託のない笑顔が無性に懐かしくなっていた。
事情を説明し、JR御茶ノ水駅で三時半に待ち合わせた。そして一緒に理沙と会うことにした。
竜也は中央線に乗って御茶ノ水に向かった。
ドアのそばに立ってぼ~っと外を眺めていると、いつの間にか四谷を過ぎていた。じきに外堀が見え始めた。外堀の一角に作られた釣堀では、沢山の釣り客がのんびりと糸を垂れている。
水面を渡る風の中で、水鳥たちが西日をいっぱいに受けて気持ちよさそうにしていた。
御茶ノ水駅に着くと、竜也は御茶ノ水橋側の出口から外に出た。
すぐに橋の袂にいる聡美の姿を見つけた。
聡美は満面の笑みで竜也を迎えた。だいぶ前に着いて、竜也が改札から出てくるのを待っていたのだろう。
寒さのせいか、チェックのマフラーの隙間から覗く聡美の頬は、少し赤味を帯びていた。
「待たせたな。今日はつき合わせてごめん。忙しくなかったのか?」
「忙しい訳ないじゃない。ヒマしてたのよ」
聡美は悪戯っ子のように片目を瞑った。
二人はそのまま駿河台下に向かって明大通りを下っていった。いつの間にか聡美が腕を絡めている。
右手には落ち着いた佇まいの「山の上ホテル」が見えてきた。すぐ先には明治大学のリバティータワーがそびえ立っている。
通りの反対側に目をやると、小さな楽器店と古本屋が軒を連ねている。少し下ると日本大学の歯学部、法科大学院が顔を見せた。
60年代後半から起こった大学紛争の時代に「日本のカルチェ・ラタン」と呼ばれたこの界隈は、今でも当時の学生街の雰囲気を残している。
しばらく下ると駿河台下の交差点に出た。それを越えて靖国通りに沿って右に行くと三省堂書店の本店がある。ちょうどその裏手に「東京日報」の本社はあった。
三階建ての古いビルだ。
永島理沙とは、その隣の喫茶店で待ち合わせをしていた。
先に店に入って、聡美から玲子の年末年始の行動について話を聞いているところに、カーキ色のジーパンにオレンジのダウンジャケットを羽織った女性が現れた。
なぜか、竜也はその女性の顔を見て、すぐに理沙だと分かった。竜也は不思議な感覚を覚えた。
理沙は電話でのイメージ通り、明るくて気さくな感じの女の子だった。長い髪をポニーテールでまとめ、化粧っ気のない白い肌に大きな黒い瞳が際立っている。誰が見ても美人だと口を揃えるほどの端正な顔立ちをしている。
「初めまして、永島理沙です」
理沙はチョコンと頭を下げて、二人に対面した。
竜也も「急にお呼び立てしてすみません」と深く頭を下げた。
聡美は竜也の恋人のような素振りで会釈をした。
「今日は、悠太の生前の様子をお聞かせ願えれば、と思って伺いました」
「でも、あんなことになるなんて・・・・・本当にびっくりしました」
理沙は小さな花弁のような唇をハンカチで拭った。
「不躾な質問ですみません。悠太とは、会社の上司、部下というご関係だったのでしょうか」
「いいえ、木戸さんは私の恩人でした」
「と、言うと?」
竜也は少し身を乗り出した。横で聡美が竜也のジャケットの裾を強く引いている。聡美が軽く咳払いをした。
「話すと長くなるんですが・・・・・」と言って理沙は視線を落とした。
「私の両親は、私が三歳の時に離婚したんです。それから私は病弱な母に育てられました。そのあと母に何とか高校まで入れてもらいました。でも、高校一年の終わりに母が病死したんです。それからは身寄りもなく生活は荒み、高校を退学しました。あとはどんどん落ちていくばかりでした。そんな時に木戸さんと出会ったんです」
理沙は美味しそうにバナナジュースを飲んで、微かに笑った。
「どこで出会ったのですか?」
「新宿の歌舞伎町です。木戸さんは新宿警察の風営法違反の摘発に、記者として同行してたんです。簡単に言えば、売春行為をしてる私のお店が摘発されたんです。私も売春で補導されそうになったんですけど・・・・・木戸さんは厚化粧をした十六歳の私を、まだ子どもだと直感したんでしょうね。お店は摘発で騒然としていましたが、その間隙を縫って私を裏口から逃がしてくれたんです。『トップスで待ってろ』って言ってくれました」
理沙は顔色も変えずに淡々と話している。
聡美は口を半開きにしたままだ。
竜也は慌ててコップの水を飲みほした。
「トップスで落ち合ったあとは、木戸さんの自宅に連れていってもらいました。当時友だちのアパートを転々としていた私は寝る家もありませんでした。奥さんは訳も訊かずに食事まで作ってくれました。木戸さんもその日は何も訊きませんでした。私は久しぶりに暖かいお布団で寝ることができたんです」
理沙はバナナジュースを二口飲んで、可愛い桜色の唇を少し舐めた。
「ケーキもらってもいいですか?」
「もちろん」竜也は答えた。
「マスター、モンブラン一つ。いや、二つください」
理沙は可愛い舌をほんの少し見せて、聡美に言った。
「ここのモンブラン、すごく美味しいんですよ。川名さんもつき合ってください」
「ええ、いいわよ」聡美も照れ臭そうに笑った。
「それからしばらくの間、木戸さんのお宅でお世話になりました。木戸さんも奥さんも、幼い時にお母様を亡くされているので、本当に親身になっていただきました。ちょうど二ヶ月ほど経ったころでしょうか。『東京日報』でアルバイトに空きが出たんです。木戸さんの口利きで何とか働かせてもらえるようになりました。今はアパートを借りて独りで暮らしています。毎日、大検を受けるための勉強をしてるんですよ。私、大学で勉強して医者になりたいんです。金銭的に厳しいかもしれませんけど・・・・・でも希望を捨てずに頑張ってるんです。だから、木戸ご夫妻は私を更生させてくれた命の恩人なんです。お二人にお会いしなければ、私は警察のお世話になって、今ごろは最悪の人生を送ってたんだと思います」
竜也は、理沙の落ち着いた礼節のある話し方に、驚きを隠せなかった。最初は、十八の若い小娘だから、と高を括っていたが、とんでもないことだった。
かなり頭のいい子だろう。両親も立派な人だったに違いない。
「失礼ですが、お父様は何をなさっていたんですか?」
情けない。俗的な質問だ。竜也は自分でそう思った。
「父は大学を中退して、職を転々としていたそうです。母は昼間はピアノを教えていて、夜は深夜スーパーでレジのパートをしていました。父は、微かな記憶しかありませんが、お酒とギャンブルに溺れていたようです。母によると、父はお金持ちの家に生まれたらしいんですけどね。だけど、そんなんじゃ、どうしようもないですよね。でも私も父親のことはとやかく言えませんが・・・・・」
理沙は頭に手をやって、ニコリと笑った。
「理沙さんも苦労したんですね」
聡美はモンブランのクリームで口元を汚している。
理沙は口元も皿も汚さずに、きれいにモンブランをたいらげた。
「私、苦労なんてしてません。ただ母親には苦労をかけたなぁ、って・・・・・」
竜也は、例の話を切り出すために、コーヒーのお代わりを注文した。
熱いコーヒーをひと口啜って、少し気分を変えた。
「ところで、話は変わりますが、USBメモリーを悠太から預かったそうですね」
「ええ、去年の十一月のことです。突然、会社から少し離れた、山の上ホテルのラウンジに呼び出されたんです。そしてUSBメモリーを渡されました。その時こう言われたんです」
理沙は黒い瞳をわずかに上げた。
「『この中には、僕の大事なスクープが保存されている。僕の指示があるまで預かっていてくれ。二人に分散していた方が安全だ。公にする時期が来たら君から回収する。でも・・・・・今の状況だと、ボツになる可能性が大だな』そう言って木戸さんは笑っていました」
竜也は少しからだを起した。
「私は、それがどんな意味なのかよく分かりませんでした。中身は何ですか、と聞いたんですが、君は知らなくていい、と言われました」
「それで中身は見たの?」
まだ口元にクリームをつけたままで、聡美が身を乗り出してきた。
「中身は見ていません。木戸さんが亡くなったあとは、残された仕事の対応で、それどころではありませんでした。少し落ち着いた時に刑事さんが見えたので、ご相談したんです」
「そうですか、分かりました」
竜也は腕を組んで、しばらく目を閉じた。
「悠太が死ぬ前、何か変わったこととか、気なったことは他にありませんでしたか?」
理沙は、首を捻って少し考えている。
「そう言えば、『本当に医者になりたいか?』って何度も訊かれました。私は『なりたいけど、お金が掛かるから無理だよね』って笑ってました。あとは『父親の出身地はどこだ?』とも訊かれました。父のことは母にも訊いたことがなかったので、知らないと答えました。それくらいしか思い浮かびません」
竜也は、USBメモリーの存在を理沙に確認できたことで、今度は、その中に隠された秘密があのことだったのか、気になって仕方がなかった。
理沙を帰したあと、二人は大きなため息を吐いた。
「聡美、俺さぁ、最近夢を見るんだ。それも高校時代の夢をね。修学旅行の時のこととか、学園祭、体育祭。あいつらの笑ってる顔が浮かんでくるんだよ」
聡美はしんみりとした顔で聞いている。
「みんな、あの時のままじゃないんだよな。人間ってこんなに変わるものか?」
「月並みだけど、本質は変わらないと思うわ。でも、学校を出て社会の空気に触れると、みんな表面が酸化しちゃうのよね。長い間には中身まで侵食されちゃうのかもね」
聡美は竜也の虚ろな目を見続けた。
「本質は変わらなくても・・・・・人間は特殊な時期を経ると、潜在的な邪悪な性格が呼び起こされて、それが本質を凌駕することがあるのかもしれない」竜也はこころの中でそう呟いていた。
「・・・・・もう帰ろう。帰りは『聖橋』の方に出てみようか」
二人は裏道を通って、御茶ノ水橋とは反対側の聖橋の方に出た。
「この橋の向こう側は有名な『湯島天神』がある湯島だよ。橋の両側にニコライ堂と湯島聖堂があるから、『聖橋』と呼ばれているんだ」
「何かロマンチックね。竜也、渡ってみようよ」
聡美が竜也の後ろに回って、軽く背中を押した。
橋の欄干からはるか下を見ると、ライトアップされた神田川の川面がキラキラと輝いている。
その川面を渡る風が聖橋に吹き上げてきた。
「寒いわ」聡美はマフラーで顔を覆った。
「もっとこっちに寄れよ」
竜也は、聡美の肩に手を回して、聡美を優しく引き寄せた。
橋を渡り終えたところで、また聡美からのメールが突然蘇った。そして闇の中で強烈な閃光を放った。