第8章
第八章
1
一月七日、竜也は今年初めて出勤した。渋谷は相も変わらず人で溢れ返っていた。
その日は仕事始めでほとんど仕事もなく、四時過ぎに帰る準備をしていたところに携帯が鳴った。聡美からだった。
正月早々またか、今日は久しぶりに自宅でゆっくりしようと思っていたのに、と聡美の電話に顔を顰めた。
「事件のことじゃないんだけど・・・・・ちょっと相談があるの」
「今の俺は相談に乗るような立場じゃないよ」
「いいの。話だけ聞いてくれれば」
「分かったよ。じゃぁ鍋でも食べよう。宮益坂と青山通りが交差したところの東角に、『水炊きの酒田』という店があるから、そこに五時に集合」
「了解で―す」聡美は声を弾ませた。
酒田はこんな時間なのに満席に近かった。この寒さとここの味が理由だろう。
博多生まれのママが、闘病中かと見間違えるほどの華奢なからだで迎えてくれた。もう六十は優に越えているのだろうが、妙な色香を漂わせている。若いころは相当な美人だったに違いない。
どこといって特徴のない殺風景な店だが、毎日客は絶えない。
二人は奥の四人掛けのテーブルに座った。
「永島ちゃん、どげんしとったと?最近顔ば見せんかったねぇ。でも元気そうでよかった~。ちっとも変わらんやないね」
ママはいつもの博多弁で迎えてくれた。
『ちっとも変わらない?』竜也はその言葉に、なぜかしら違和感を覚えた。「本当に変わっていないのか・・・・・俺は」
「最近バタバタしててね。今年もよろしく。ママ、いつものセットを二つね」
しばらくして、水炊きの土鍋と小鉢が二つ、それと焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。これでいくら飲んでもセットで七千円だ。高いか安いかは別にして、ここの水炊きの味は格別だ。
まず、二人は湯呑みに入ったスープで乾杯した。初めてこの店に来た時、これほど旨い鶏のスープは飲んだことがない、と感激した代物だ。
「うわぁ―これ美味しいねぇ。竜也はいい店をよく知ってるね」
「銀行時代によく来てたんだ」
聡美は焼き鳥を口に運びながら顔を綻ばせた。
「ところで、相談って何だよ」
「うん、年末年始とあんなことがあったから、なかなか言い出せなくて。実は・・・・・年末に上司から言われたの」
「何て?まさかリストラじゃないだろう」
「そんなんじゃないわ。ほら、今ちょうど人事の季節じゃない。だから・・・・・来年度、営業所長として転出しないか、って」
聡美はグラスのビールを飲みほして、胸の痞えをおろしたように、両頬にえくぼを作った。
「営業所長?何それ」
竜也は大きな目をして首を傾げた。
「そうだよね。銀行マンだった達也には分からないかもね」
聡美は説明するのに少し戸惑った。
「私は今、渋谷支社というオフィスに勤務してるよね。その支社っていうのは北海道から沖縄まで全国に百ヶ所くらいあるのよ。そして一つの支社は、各々十数ヶ所の営業所というところを管轄してるの。そこの長が営業所長。その職種は営業の最前線で花形なんだけど、特殊な管理職でね。色々と大変なのよ。ハードなんてもんじゃないわ。うちは当然週休二日制だけど、営業の世界は休みなんてあってないようなものよ」
聡美は鍋の具を突付きながらため息を吐いた。
「で、何なの?」
竜也はピンク色の鶏刺しを口に放り込んで目を細めた。
「うまいなぁ、この鶏刺し」
「聞いてんの?竜也」
聡美は少し頬を膨らませた。
「聞いてるよ。それで?」
「うっ、も~う」
「聞いてるって―」
竜也は一息入れるために煙草に火をつけた。
「じゃぁ続けるよ」
竜也は煙草を銜えたまま黙って頷いた。
「そして営業所っていうのは、セールスレディーがたくさんいるの。
みんな自分をしっかり持ってる自立した女性ばかりよ。それも私より年上の人がほとんど。女の私がそんな女性を管理するなんてできるかなぁ。それと転勤。三年に一度はあるわ。全国千数百ヶ所、どこに行くかわからないし・・・・・どうしたらいいと思う?」
聡美は不安げに竜也の顔を見た。
「どうしたらって、やればいいじゃない」
「でも全国どこにいくか分からないのよ。青森かもしれないし、鹿児島かも・・・・・もうゆっくり休みも取れないわ」
聡美は目線を下げてじっと考えている。
「あのさぁ、聡美は何をしたいんだ。キャリアを積んでバリバリ仕事したいの?専業主婦になって暖かい家庭を築きたいの?それとも目標も持たずに楽しくその日暮らしをしたいの?」
「自分でもよく分からない。ただ東京を出ちゃうと、田舎でぽつんと独り暮らしよ。首都圏に所長で残ったとしても、地方より更にハード。まったく自分の時間なんか取れないわ。かといって、今の仕事なんてまったく面白くないし・・・・・」
竜也はそれを聞いてしばらく黙りこんだ。
「すべて得ようとしてるからそうなるんだよ。一つずつ手に入れていけばいいじゃないか。仕事も結婚も友人も、そしてやりがいも。すべて一瞬で手に入れることなんて、シンデレラじゃないんだから誰にもできないよ。経験と時間の経過で少しずつ手に入れていくか、そうじゃなければ、今何かを捨てるべきだよ。バブル崩壊後に世の中も人も変わったんだ。『経済力のある人と結婚すること』とか『社内で上級の管理職になること』とか、そのことだけで質のいい安心感と満足感が得られる、そんな昭和の呪縛を解かないとだめだと思うよ。目標が多岐に渡って高いのはいいけど、そうかといって、目標に向かって今何かしてるのかい?もっと自分の人生に対する価値観を見直すべきだと思うな」
竜也は、少し言い過ぎたかな、と思いながら、横を向いて焼き鳥を頬張った。
「そんなこと言われなくたって分かってるわよ。」
聡美の目には涙が溜まっていた。歯を食い縛っているようにも見える。
「分かっているからこそ、どうしたらいい?って聞いてるの」
竜也は顔を顰めてビールをひと飲みした。
「別れる直前に聡美が言ったよな。『私の課長昇格は二人の問題』だって。あれは結婚を前提にしてたから言えたことだよ。今の俺は単なる聡美の友人、言い方を変えれば昔の男だよ。俺に聡美の人生を左右する資格なんてないよ。聡美はあのあと自分で決断したよな。俺もそれを受けて、闘病しながら自分で生き方を決めたんだ。だからこれも二人で決めることじゃないよ」
竜也は冷酒とグラスを二つ注文した。
しばらく沈黙が続いたあと、聡美は大きなため息を吐いて、煙草に火をつけた。
『竜也に相談してるのはそんなことじゃないのに』とこころの中で呟いた。
竜也も冷酒を口に運びながらこころの中で呟いた。
『聡美が言わんとしているのは、もしかしたら・・・・・』
その瞬間、また例の聡美のメールが、スパークするように繰り返し頭の中で閃光を放った。『もうお終いにしましょう・・・・・もう』
2
翌々日の土曜日、竜也は柳田に誘われた。
渋谷西署から竜也が勤める会計事務所までは、歩いても五分ほどだ。
二人は駅ビルの中ある「銀杏鮨」という店に入った。柳田が懇意にしているらしい。
カウンターの中ほどに空席を見つけ、二人並んで腰を落ち着けた。
「今日は、同級生同士ということでプライベートでやりましょうや」
「えっ、柳田さんも四十三ですか?もっと若いかと思いましたよ」
「えぇ、この三月で四十三です。だから永島さんたちとは同級生ということです」
柳田は白い歯を見せて笑った。
事件の捜査に詰まって、気晴らしでもするかのように、柳田は豪快にビールを飲みほした。
自分も容疑者の一人だ。柳田はそんな人間と飲んでもいいのだろうか、それとも飲むまでして訊かねばならない何かがあるのだろうか。竜也は少し戸惑った。
「ここの店は少し変わっているんですが、信州で有名な馬刺しが置いてあるんですよ。馬の握りもありますよ。永島さんは昔よく食べたんじゃないですか?」
「ええまぁ、僕は好きですよ。桜肉は子どものころからよく食べていました」と言っている間に桜色の馬刺しが出てきた。まさに桜肉だ。
「桜の由来は、空気に触れると桜色になるからだとか、桜の咲く季節が、脂がのっていて一番美味しいからだとか、色々な説がありますが、とにかく旨いですよね」
柳田は二、三枚の肉をまとめて口に放り込んだ。
しばらく取り留めのない信州の話を続けた。
「ところで永島さん。みなさんの高校時代のことが妙に気になりましてね。みなさんが高校三年生だった年のことを少し調べてみたんですよ」
柳田は灰皿の上でハイライトを捻り潰した。
「1985年のことですか?」
「はい。その年にあった松本の事件を調べてみました」
竜也は少し怯えるような目で柳田を見ている。
「何かあったんですか?」
竜也は、わざと他人ごとのような顔をして冷酒を呷った。
柳田は椅子に座り直して腕を組んだ。
「ところで、松本城西高校では『梨田和子』という女生徒が服毒自殺した事件がありましたね。それともう一つ。永島さんのお父さんである謙造さんが、病院建設用地の払い下げに関連して、贈賄容疑で県警から事情聴取されています。起訴は免れましたが、地元の新聞では大きく取り上げられていました。その収賄側は梨田さんの父親である県会議員の梨田伸介さんでしたね。思い出されましたか?」
「思い出すも何もはっきり覚えていますよ。僕にとっては二つともショッキングな事件でしたからね」
竜也は、なぜそこまで調べるんだ、と怪訝そうな顔をした。
「それでは、贈収賄の件は少し置いといて、その梨田さんの自殺の件で少しお伺いしたいのです」
柳田はリラックスしたように冷酒をチビリチビリ飲んではいるが、眼光は鋭さを増している。断れない威圧感があった。
「梨田さんの相手については、当時どのような噂があったか教えていただけますか」
「それは色々ありました・・・・・もう昔のことですから時効ですが、彼女の表の顔はお嬢さん然としていましたけど、裏の顔は酷く派手なものでした。おやじさんが大物の県会議員でしたから金遣いも荒かったようです。相手については校外の人間とも結構噂が出ましたが、校内では坂井とも、悠太とも、言われていました。良二との噂が出たこともありました」
「ほう、かなりのものでしたね」
柳田は鮨を一つ摘まんだ。
「ほかの方とは噂はなかったのですか?」
「僕が覚えているのはそれくらいです」
「では、永島さんが本当の相手だと思われる方はどなたですか?」
「うっ」竜也は顔を顰めて目を瞑った。
「それは分かりません。噂だけですから。でも良二ではないと思います。彼女が死んだ日の全校集会で、良二は全員の前で教師が相手だと告発しました。坂井を疑っていたのです」
もう警察は調べているのだろう、と思い更に話を進めた。
「ただ、良二は和子に想いを寄せていたはずです。だから・・・・・和子のお姉さんである『裕子』さんと、その後結婚しました。お姉さんには悪いのですが、和子をいつも感じていたい、と思ったのかもしれません。もちろんその真偽は定かではありませんが」
「分かりました。もう一つよろしいですか」
竜也は頷いて煙草を消した。
「永島さんにはお兄さんがいらっしゃいますよね。えっと、確か裕也さんとおっしゃいましたかね。そのお兄さんのこともお聞きしたのですが・・・・・。お気を悪くなさらないでくださいね。単なる噂ですから。裕也さんと和子さんもお付き合いがあったとか・・・・・」
「誰がそんなこと言ってるんですか?確かに兄はその後失踪しました。しかし和子の妊娠が原因ではありません。当時医学生だった兄は、最初から医者には向いてなかったんです。それをおやじが無理やり医大に入学させたんです。裏口入学というやつですよ。それが原因で挫折したんです」
竜也は顔を紅潮させて、冷酒をひと飲みした。
「申し訳ありません。刑事というのも因果な商売でしてね。自分でも時々いやになりますよ」
「僕の方こそ大人気なくて・・・・・」
柳田は気分を静めるためなのか、またハイライトに火をつけて深く吸い込んだ。
「すみません。最後にもう一つだけよろしいですか」
柳田は右手を顔の前に上げた。
「梨田さんは発見されたあと、すぐに永島病院に運ばれましたが、そこで子どもを産んだんです」
「えっ!今何て言いました―」
竜也は、少しおおげさだと思えるほど、素っ頓狂な声を上げた。
周りの客が一斉に振り返った。
「驚かせてすみません。梨田さんは重体で病院に運ばれましたが、お腹の子だけは命を取り留めたそうです。梨田さんの命と引き換えに生まれてきたのだと聞きました。やはり永島さんはご存じなかったのですね」
竜也は震える手で何とか煙草に火をつけた。そして深く吸ったあと、全身の強張りを解きほぐすかのように、煙をゆっくりと天井に向けて吐き出した。
そしてこころの中で呟いた。「警察は侮れない」
竜也はしばらく呆然としていた。
柳田も竜也のあまりの驚きに、行き場を失ったかのように、一点を見つめながら煙草をふかしている。
「その子は今どこにいるのですか」
竜也は小さな声で訊いた。
「プライバシーの問題もありまして、城東署もそこまでは調べていませんが、その後親戚が引き取って育てたようですよ」
「そうですか。きっとその子の父親も生きていますよ。たぶん・・・・・」
竜也は何を考えているのか視点が定まらなかった。
今度は聡美のメールが、チカチカと激しく点滅を始めた。
「永島さん、この際もう少しお話を伺ってもよろしいですか?」
竜也は黙って頷いた。
「話は変わるのですが、その十年後の地元の新聞に『谷村由香里』という自衛隊員の記事が出ていました。『自衛隊の谷村さん、ヘリ操縦士に!女性としては県内初』こんな具合です。この谷村さんというのは、永島さんの同級生のあの谷村さんのことですよね」
「そうです」
竜也は、事件には何も関係がないことだ、とでもいうような素っ気ない顔をして見せた。
「しかし大したものですねぇ。女性がヘリコプターの操縦ですか。私らには想像もつきませんね」
「彼女は高校から防衛大に進んだんですよ。あの美貌ですからね。当時は話題になりました。ああ見えても考えはしっかりしてるんです。高校の時から、自衛隊に入って色々な資格を取る、って言ってました。陸上自衛隊ですから、戦車も操縦できるそうです。発展的な女性ですよ。残念ながら入隊後すぐに結婚したので、みんながっかりしてましたけどね。でも、もう遠い昔の話です」
竜也は、更に冷酒を一本注文した。
「由香里がどうかしたんですか?」
竜也の目に怯えが走った。
「いえ、たまたまその記事を見たものですからね。特にお訊きしたいことはありませんが、ただ、初詣に行っていたという谷村さんのアリバイがまだ成立していません。神社の巫女さんでも、谷村さんのことを記憶してくれていればいいのですが・・・・・そういう人がまだ見つかりません。そして、橘さん、羽山さんも同様でしてね。頭が痛いですよ」
柳田は重要な何かを隠していて、更に自分から情報を引き出そうとしているのか、すべての情報をさらけ出して、自分を泳がそうとしているのか、竜也は酔うにつれて柳田の真意が分からなくなっていった。
「そうですね。アリバイがはっきりしているのは良二だけですか」
「まぁ、そういうことです」
柳田は涼しげな目をして笑った。
「今度は僕が反対に訊いてもいいですか?」
「どうぞ。隠さなければならないことは何もありません」
竜也はひと呼吸おいてから質問した。
「ところで、悠太の事件の方は進展しているのですか?」
「それが遅々として進みません。カプセルにしても、ほとんど溶けていましたから、内部の犯行か外部の犯行か、皆目見当がつきません。ですから今は内部説に絞って捜査を続けています。現場は証拠物件が皆無に近い状況ですので、解明を急いでいるのは殺人の動機です。みなさんの過去を調べさせてもらっているのは、そういう訳でして」
柳田は申し訳なさそうに頭をいくぶん下げた。
「過去の人間関係に潜む怨恨ということですね」
「おっしゃる通りです」
柳田は小鉢で出された「あん肝」を口に放り込んだ。
竜也は忘れていたかのようにまた煙草に火をつけた。
「ところで、悠太が呑んだ青酸カリと坂井が持っていた青酸カリは、やはり別物だったのですか?」
「以前お話ししたと思いますが、坂井さんが持っていたものは、現物がありますから詳細まで分析できました。純度が低く、成分も劣化していました。間違いなく工業用に使われているものです。木戸さんの殺害に使われたものは、たぶん病院とか、大学や薬品会社の研究室で使われているものだと思われます。不純物がほとんどない純度の高いものです」
柳田は納得顔をして自分で頷いた。
「それと、その成分からもう一つ重要なことが分かりました。坂井さんが持っていた青酸カリは、都内では唯一、大田区の『金型製造組合』が共同購入しているものでした」
「じゃぁ、入手先はその組合に所属する工場ですか?」竜也の顔が少し曇った。
「今、多くの捜査員を投入して訊き込みをしているところです。その可能性が大ですね。しかし問題はその先です。誰がその工場に関係しているかです」
柳田の目の奥で閃光が走った。
竜也はその光を避けるかのようにじっと目を閉じた。
3
翌日の日曜日、竜也は聡美に電話を入れた。
「酒田ではごめん。少し言いすぎたな」
「別に気にしてないから、大丈夫よ。転勤の件は自分で決めるわ」
そのあと竜也は、和子が産んだ子どものことや、青酸カリの出所が判明しそうなこと、そしてパークシティーのメンバーの過去が丹念に調べられていることなどを聡美に告げた。
聡美は和子の子どもの件に、電話の向こうで絶句したが、気を取り直してあることを竜也に提案した。
「じゃぁ、もう一度二人で松本に行ってみようよ。できれば白馬にも。何か分かるかもしれない。東京でじっと考えていても仕方ないよ。来週の土曜日はどう?」
「そうだな。悶々としいてもしょうがないか。温泉にでも入ってくるか」
竜也は待っていたかのように、その話に乗った。
「そうそう、旅行気分というのは不謹慎かもしれないけど、気分転換を兼ねて行ってこようよ」
竜也は荻窪駅の北口に車を止めた。かなり冷え込んだ朝だった。
車のデシタル時計は五時五十分を表示している。待ち合わせは六時だった。
シートを少し倒して目を瞑っていると、窓を叩く音がした。
聡美が大きな旅行バッグと、トートバッグを抱えて車に乗り込んできた。よく見ると、おむすびでも入っているのか、赤いギンガムチェックのランチバッグも持っている。
「どうしたの?この荷物は」
「いいの、いいの。大は小を兼ねるってね。旅行中にトラブルでもあったら困るでしょ」
聡美はかんぜんに毒気が抜けてしまっていた。
三十分ほど走ると調布ICが見えてきた。黒のアコードツアラーは、俊敏な動きでICを駆け抜けた。
しばらくすると、さっきまでうす曇りだった空が、抜けるような青に変わった。
「竜也、おむすび食べようよ」
「おお―いいね。ありがとう」
聡美は健気にも、ランチバッグに卵焼きとウインナーまで忍ばせていた。
「久しぶりだなぁ、こうしておむすびを食べるの。旨いよ」
「懐かしいよね。昔こうしてよくスキーに行ったよね」
「そうだなぁ『八方』『志賀』『苗場』何ヶ所くらい行ったんだろう」
「う~ん。どうだったかなぁ。会う時の半分はスキー場にいたかもね」
二人は恋人同士だったころを思い出して、満面の笑みを浮かべた。
諏訪湖SAで休憩を取ったあと、岡谷JCTから長野自動車道に入った。時計は午前八時五十分を表示していた。
「二時間五十分か、今日は結構混んでるな」
「もうすぐバンクーバーオリンピックが始まるから、その影響でスキー客が多いのかもね」
聡美はゆったりとして、幸せそうな顔をしている。時折CDを取り換えては音楽に聴き入っている。
「ところでさぁ、今日はうちの病院の関係者にあたってみよう。和子のことが何か分かるかもしれない」
「私もそう思って、永島病院で看護師をしてる叔母に電話をしておいたの。今日は非番だから会ってくれるって」
「聡美、根回しがいいな」
竜也は納得顔だ。
「竜也に褒められるの、久しぶりね」
竜也は助手席の聡美を見て苦笑いをした。
「それと、おやじと梨田議員の贈収賄事件の真相も気に掛る」
竜也はハンドルを持つ手に力を込めた。
聡美の叔母の川名節子は、松本駅前の喫茶店で待っていてくれた。
一階は果物店、二階がフルーツパーラーを兼ねたような白い内装の喫茶店だ。床が一段高くなった奥のテーブルに節子はいた。
「おばさん、休みなのにごめんなさい」
聡美の挨拶も終わらないうちに節子は立ち上がった。
「ご無沙汰しております。竜也お坊っちゃま」
節子は深々と頭を下げて竜也に奥の席を勧めた。
「こちらこそ。そんな堅苦しい挨拶はやめてください」
竜也は右手で頭を掻いた。
聡美は、竜也が名門の家の息子であることを、改めて痛感した。そして彼の顔をまじまじと見た。
「いつもおやじがお世話になっています。今日はわざわざご足労いただき申し訳ありません」
竜也は椅子に腰掛けると、改めて節子に挨拶をした。
「とんでもありません。私こそ院長には娘共々大変お世話になっております」
節子は現在看護師長として永島病院に勤務している。若い時に離婚してからは、看護師として働きながら独りで二人の娘を育ててきた。今はその二人の娘も永島病院に勤めているのだ。永島一族には足を向けて寝られない、と常々言っていることを竜也は聡美から聞いていた。
聡美が注文したカフェラテとコーヒーが運ばれてきた。節子の前のコーヒーカップはもう空になっている。かなり前から待っていてくれたのだろう。竜也は節子のためにコーヒーのお代りを注文した。
「早速だけど、当時の和子のことを教えて欲しいの」
節子は竜也たちが高校三年の時、ちょうど三十二歳で、永島病院の産婦人科にいた。
「そうねぇ。昔のことだから・・・・・よく覚えていないのよ」
節子は目線を逸らせて口ごもった。
聡美は事前に、和子が自殺した時の状況を教えて欲しい、と節子に伝えていた。
「今度の一連の事件はご存知ですよね」
竜也の問いに節子はゆっくりと頷いた。
「先月東京で行われたクラス会のあと、もう三人が死んでいます。警察は当時の和子の事件が、何らかの形で関係している、と踏んでいるのです。遅かれ早かれ永島病院の当時の関係者に捜査は及びます」
節子は肩をすぼめて俯いている。
竜也は静かな口調で話を続けた。
「節子さん。和子が病院に運ばれた時、あなたが担当の一人だったことは分かっています。もうこれ以上友人から犠牲者を出したくありません。そして加害者も・・・・・。お願いします、当時の状況を教えてください」
竜也は少し大袈裟に言って、節子の応えを促した。
節子はコップの水をひと口飲んで、そしてからだを小刻みに震わせた。顔が青みを帯びている。
「私が話したことは内緒にしていただけますか?院長にご迷惑をお掛けするかもしれませんから」
節子は弱々しい声で言った。
竜也は、おやじが一枚噛んでいることは当然知ってるよ、と言いたかったが、何事もなかったかのように節子の話に頷いた。
「もちろんです。警察が調べたことにします」
わずかな沈黙のあと、節子はおもむろに口を開いた。
「あの時は私も必死でした。院長から、子どもの命だけは絶対に救え、と指示もありましたから。赤ちゃんの産声と同時に和子さんが息をひきとりました。手術室は喜びの歓声と悲しみの嗚咽で、混沌とした雰囲気だったのを覚えています」
節子は冷めたコーヒーに目をやったが、飲まずに話を続けた。
「ちょうどその時梨田家は、お母様の洋子さんが子宮ガンで永島病院に入院されていました。運の悪いことに余命三ヶ月。和子さんの姉妹は二十二歳になる大学生の裕子さんがお一人。とても乳飲み子を育てるような環境ではありませんでした。ご親戚にも、育てると申し出る方はいらっしゃらなかったようです。それもそうですよね。父親も分からない、自殺されたお嬢さんのお子さんですから」
節子はハンカチをバッグから取り出し、しきりに目頭を押さえている。
「節子さん、ジュースでも取りましょう」
節子は運ばれてきたジュースをひと口飲んだ。いくぶん緊張が解れたようだ。
「そのあと、お父様で県会議員をされている、梨田伸介先生から、洋子さんが亡くなるまで子どもを病院で預かって欲しい、と申し出がありました」
聡美も固唾を呑んで節子を見守っている。
「とりあえず、家政婦を雇い、私ともう一人の看護師がついて、特別室でその赤ちゃんを育てました。院長と梨田先生は懇意にしていらっしゃったので、院長も協力してくださいました。それとお姉様の裕子さんがよく面倒を看てくださいましたよ。大学の授業が終わると、必ずといっていいほど病院に来てくださいましてね。お子さんに付きっ切りでした」
竜也は冷めたコーヒーを飲みほし、お代わりを二つ頼んだ。
今度は竜也の顔がいくぶん強張ってきた。
「それからちょうど五ヶ月が過ぎたころ、残念ながら洋子さんがお亡くなりになりました。そのあと、病院で面倒を看るのにはやはり限界がありまして、梨田先生は清里にある施設にお子さんを預けられたのです。先生にとっては断腸の想いだったと・・・・・」
節子は声を詰まらせて何度も涙を拭った。
「それじゃぁ、その子はそのまま施設で育ったのですか?」
竜也は思わずからだを乗り出した。
「・・・・・いいえ、違います」
節子はいくぶんほっとしたような顔をした。
「実は・・・・・裕子さんが、大学を卒業されるとすぐにその子を引き取られたようです。よっぽど可愛かったのでしょうね。その後はご存知の通りです・・・・・」
節子は言葉を濁した。そしてジュースの残りを飲みほした。
「えっ?ご存知の通りとは?」
竜也は少し首を傾げた。
「すみません。ご存知ありませんでしたか?」
「良二と結婚したことは知っています」
「そうです。裕子さんは大学を卒業した年に川瀬さんと入籍されました。そのお子さんがちょうど一歳を迎えた時ですから七月だったと思います。もちろん式も挙げられませんでした。内密に入籍された訳ですから。その時川瀬さんはまだ医科大学の一年生でした」
節子は、テーブルの横にある出窓から雪景色に目をやった。そして遠くを見たまま軽いため息を吐いた。
「認知もされたそうです」
節子は力なく呟いた。
「と、いうことは、良二が父親なの?」
聡美は目を丸くした。
節子は黙ったまま大きく首を振った。
「いいえ、違うわ」
「じゃぁ、誰ですか?」
節子はゆっくりと目を閉じた。
「おばさん、教えて」聡美が迫った。
「もう許してちょうだい」
節子はテーブルに泣き伏せてしまった。
聡美も対応のしようがなく、しばらく沈黙が続いた。
店の時計が午前十一時を指した。
「節子叔母さんが悪い訳じゃないんだから、すべて話して楽になったら」
聡美も目に涙を溜めている。
節子はハンカチで口を押さえながらゆっくりと頷いた。喉が詰まったようになって声を出せないでいる。
「そ、その子の父、父親は・・・・・裕也お坊っちゃまです」
竜也は驚きもせずに大きく頷いた。
そして、目を閉じて静かに話の展開を待った。
聡美も隣で呆然としているようだ。
「裏で何があったのか、まったく存じ上げませんが、川瀬さんと裕子さんが自分の子として育てられたのです」
竜也は、なぜか満足そうな顔で唇の右端を少し上げた。
「あとで院長はDNAも調べられたようです。昔のことなので正確さには疑問がありますが、ほぼ間違いないとのことでした。裕也お坊っちゃまは、和子さんが高校を卒業したら結婚する、と両家のご両親には話されていたそうです。それが和子さんが自殺するという結果になって・・・・・すべてに絶望して失踪されたのです。申し訳ありませんでした。私、私は、裕也お坊っちゃまには本当によくしていただきました。私が当直の時など、二人の子の面倒を見ていただいたり、子どもが受験の時などは、お忙しいのに、いつもいつも子どもたちの相談相手になっていただきました。本当に感謝しています。ですから当時私が失踪の手配をさせていただきました。院長と梨田先生は見て見ぬふりでしたが、すべてご存知です。本当に申し訳ありませんでした」
「おばさん、ありがとう」
そう言って聡美は大きく息を吐いた。
「すべてを捨てた兄貴はずるい。卑怯だ―」
竜也は何度も何度もこころの中で呟いた。
二人は白馬村に向けて車を走らせていた。
車の中では重い沈黙が続いた。
左の窓からは、雄々しい姿をした北アルプスの山々が光り輝いて見える。右の窓には、雪煙を上げて走り去る大糸線の電車が見えた。
しかし二人は外の景色も目に映らない様子だ。
「もうすぐ白馬駅よ」
「そうだな、結構時間が掛かったな。スキー客が集中する早朝とか夕方なら分かるけど、昔来た時もこんなに時間が掛かったか?」
時計を見ると、松本を出てから二時間が過ぎていた。
「雪道だから仕方がないよ」
聡美は気を取り直して、微かに笑った。
二人は良二を疑っている訳ではなかったが、松本に来たついでに、当日の良二の足どりを追ってみることにした。
「でも『白馬グレースホテル』って、ゲレンデから遠いのね」
聡美はナビをじっくりと見て言った。
「そんなことないだろう。柳田刑事によると、ゲレンデはホテルのすぐそばのような感じで、良二は軽くひと滑りしてきた、って言ってたよな」
「でもこんなに距離があるよ」
聡美は手元にあった信州の地図を開いて竜也に見せた。
「そうだな。この雪道をスキー靴で歩くとなると、小一時間は掛かるよな。でも、良二は歩いてゲレンデまで行った、ってホテルのオーナーは証言したんだよ」
「ホテルにチェックインしたのが、午前三時半、戻ってきたのが六時でしょう。車の送迎でもない限り、リフトに乗るとしたら、一回しか滑ってこれないわ。リフトが混んでたりしたら、全く滑れないってことよ」
「そうだよな。少し変だな」
竜也は意識的に地図から目を逸らした。
「とにかく、そのホテルまで行ってみようよ。何か分かるかもしれないわ」
白馬駅からホテルまでの道は異常に混んでいた。オフシーズンなら十分ほどで着くだろう、と思われる距離に三十分を要した。
ホテルは鉄筋二階建てだが、ペンションに毛の生えたような建物だ。
エントランス前では、オーナーらしき初老の男が雪掻きをしている最中だった。
「すみません。友人から紹介されて、来月こちらに泊まろうかと思ってるんですが。今日はたまたま近くに来たものですから」
竜也は、当時の様子を探るために、相手に悪いと思いながらも口から出まかせを言った。
「それはそれは。」
人の良さそうな男は小柄なからだをゆっくりと起こした。
「それで紹介くださった方は?」
「友人の川瀬良二です」
男はその名前に覚えがあるようだった。すぐに大きく頷いた。
「ああ、川瀬先生ですか。毎シーズンいらっしゃいますよ。そういえば元旦もお見えになりました」
良二はたぶん上客なのだろう。良二の名を聞いて男は愛想を崩した。
「何かあったんですか?先日、松本城東署の刑事さんが来ましてねぇ。先生が宿に到着した時間とゲレンデから帰ってきた時間を訊いていきましたよ」
竜也は一瞬戸惑ったが、嘘でその場を切り抜けた。
「大したことじゃありませんよ。元旦に川瀬の友人が交通事故にあいましてね。仲のいい友人に裏を取ってるんでしょう。他には何か訊きませんでしたか?」
男は顎に手をやってしばらく考えていた。
「そういえば、車は駐車場にずっとあったかとか、ゲレンデまでは近いのかとか・・・・・。えぇっと、それから独りで来たのかとか、色々訊いていきましたよ。でも横柄な態度の刑事でしてね。少々頭にきたんでいい加減に答えておきました」
「いい加減とは?」
「間違ったことは言ってませんがねぇ。私が明け方に先生の車を見たのは、確か五時ちょっと前でした。でも到着からずっと置いてあった、と答えておきました。その日は早朝から裏山が五月蠅くてね、よく覚えてますよ。それからゲレンデまで近いか、と訊かれたんですが・・・・・車では『白馬八方』も隣の『白馬岩岳』も十分強。板を担いで歩くとなると、やはり両方のスキー場までは小一時間掛りますかねぇ。でもすぐそばですよ、と答えておきましたよ。遠いなどと変な噂でも立てられると困りますんでね。まぁワゴンで送迎をしますから、近いといえば近いんですよ。それと独りで来たか、と訊かれても・・・・・チェックインされたのはお独りですよ。でも私が五時前に駐車場に出た時、確か先生の車のそばでうろうろしている男性がいたんですがねぇ。もし先生のお知り合いだったら、ご迷惑が掛ると思って、ずっとお独りだった、って言っときましたよ」
しかし、現金な男だ。将来の客だと思うと、色んなことをしゃべり捲くった。
「もう少しいいですか?」
「ええ、いいですよ。何なりと」
「川瀬はホテルに到着すると歩いてゲレンデまで行ったのですか?」
竜也は、そんなこと宿泊と何の関係があるのですか?と訊かれそうな気がして、少しハラハラした。
「川瀬さんは体力がありますからねぇ。当然歩いて行かれましたよ。
それにゲレンデ周辺は駐車禁止です。もっとも送迎車の運転手は、この宿じゃ私だけですがね」
「そうでしょうね。彼はゴルフの時も絶対カートには乗りませんからね」
竜也は弾けるような作り笑いでその場を凌いだ。
「それと先ほど言われた、裏山が五月蝿かったとは?差し支えなければ教えてください」
「なあに、大したことじゃありませんよ。裏山の方に、山岳事故に備えて、救助のためのへリポートがありましてねぇ。元旦に事故などはありませんでしたから、テレビ局が初日の出を中継してたんじゃないでしょうか。それが結構五月蝿くてね。仮眠でも取ろうと思ってたんですが無理でした。まぁこの一帯は、どちらにしてもオールナイト営業でしたから仕方がないんですがね」
男は寒さで赤くなった顔を綻ばせた。
「ありがとうございました。良二にはいいホテルを紹介してもらいました。彼にも礼を言っておきます」
「また連絡をお待ちしています。ところでお二人はご夫婦ですか?」
「まぁ、そんなところです」
聡美は満面の笑みを浮かべて、チョコンと舌を出した。
「休みが取れしだい連絡します」
竜也は嘘を吐いたことによる良心の呵責に耐えながら、ぎこちなく笑った。「良二はいいホテルを選んだよな。その上騙されやすいオヤジだ」こころの中で呟いた。
そして、小悪魔のような聡美の笑顔に、気持ちが少しだけ動揺した。
すると、途端にまた聡美のメールが浮かび上がった。
「まただ。おれの性格をどんどん蝕んでいくのか?」竜也は聞こえないように軽く舌打ちした。
松本に戻ると、もう四時半を過ぎていた。
街を行き交う車もヘッドライトをつけ始めている。
竜也は市役所に勤めている同級生の依田を訪ねた。父親の贈収賄事件の真相を訊くためだ。
事前に電話を入れていたのだが、やはり古いことなので、なかなか資料が揃わず、在り来りのことしか分からなかった。
依田は詳しい資料が見つかったら電話をする、と言ってくれたが、あまり期待はできなかった。
結局、二人とも実家には寄らずに松本を離れた。
松本ICから長野自動車道に乗るころには、辺りはすっかり暗くなっていた。時計は六時半を表示している。
今回は思わぬ収穫があった。良二が取った行動も分かったし、その裏も取れた。あとはどう切り抜けるかの確認だけだった。
竜也にとって、すべてが順調に進んでいるように思えた。
助手席に座る聡美は、無邪気な顔をしてSAで買ったポテトチップを齧っている。
「竜也、今夜どこの温泉に泊まる?」
竜也は心臓が飛び出すくらいに驚いた。そして妙な怒りさえ覚えた。
「聡美、もうこんな時間だ。今日は帰ろう」
「じゃ、西荻の竜也のマンションに泊まろっかな―」
疲れのピークを迎えていた竜也は、聡美に翻弄される自分が少し惨めに思えた。「でも、まぁいいか。役に立ってくれている」自ら自分を慰めた。
「おいおい、そんなに俺を困らせるなよ。荻窪に着くのは九時半くらいだから、近くで酒でも飲もうよ。その方が得策だ」
「分かったよう。達也、最近面白くないわね」
「あのさぁ、面白くないって、俺すごく疲れるんだけど。俺たちもう恋人でも何でもないんだよ。気を悪くするかもしれないけど・・・・・」
竜也は左を向いて聡美を睨んだ。
「分かった、分かった。今夜は竜也の言う通りにするわ。でも今度箱根の温泉に連れて行ってよね」
「了解。今度ね」その言葉のあと、こころの中で続けた。
『絶対にありえない』
竜也は片目を瞑りながら更に思った。あの時は俺が温泉に誘ってもまったく興味を示さなかったのに・・・・・。
トンネルの白色灯が、竜也の歪んだ表情を浮き立たせた。
もう少しでラストです。読んでいただいてありがとうございます。こんなに長い文章を書けるのはみなさんの応援のお陰です。