第6章
第六章
1
竜也は中央高速を飛ばして実家に戻った。帰省ラッシュはもうピークを過ぎたのか、四時間ほどかかったが、昼過ぎには松本に到着した。
市役所前を通り、右折して深志橋を過ぎたところで携帯が鳴った。
実家まではあと二、三分のところだ。
電話はやはり聡美からだった。予想した通りだ。
「もしもし竜也。今どこ?」
「今、深志橋を過ぎたとこ。ちょうど帰ってきたところだよ」
「ごめんなさい。今から会えないかなぁ」
竜也は少し頬を緩めた。
「今日は大晦日だよ、いくら何でも勘弁してくれよ。東京に戻ってからじゃだめなのか?」竜也の声は疲れてはいなかった。
聡美は、竜也が喜んで会ってくれる、と思っていたのだが、冷たい言葉に気落ちして声を詰まらせた。
「私じゃないの、加奈子が大変なの。悠太の件で加奈子の相談に乗ってあげて。とにかく急ぐのよ」
聡美は涙声だった。加奈子の問題で憔悴していたところに竜也の冷たい態度。どうしていいか分からず取り乱してしまった。
「分かったよ。先に実家に顔を出すから、二時に僕のマンションに来てよ。女鳥羽川沿いにあるあのマンションだよ」
聡美はマンションを訪ねたことはなかったが、場所だけは知っている。
「加奈子を連れて行くからお願いね」
「何のことだかよく分からないけど、その時に詳しく聞くよ」
聡美の最後のメールが、また蘇った。
竜也は車を路肩に寄せてしばらく目を閉じた。
竜也の実家は県内でも有数な資産家で、県内外に五つの総合病院と三つのホテルを保有している。実家の敷地も千坪はあろうかという大邸宅だが、そのそばには、父親が失踪前の兄に買い与えたマンションがある。竜也は帰省時にはそこを利用していた。
竜也は実家の母親に土産を渡してコーヒーを啜ったあと、マンションに向かった。
父の謙造は、年末だというのに家にはいなかった。
マンションの部屋はワンルームで二十畳ほどある。
着替えを済ませたところに、チャイムが鳴った。
竜也は受話器の隣の解錠ボタンを押すと、玄関のドアを開けておいた。
しばらくすると、聡美がドアの陰から上目遣いに中を覗いていた。
「ごめんなさい。こんな忙しい時に」
「そんなところに立ってないで入ってこいよ」
聡美は軽く頷き、後ろに隠れている加奈子を手招きした。
加奈子はトレーナーにチノパンという軽装で、濃いサングラスを掛けている。鼻と口の周辺が赤くなっていた。
「ごめんね、竜也」と言うと、加奈子は玄関のたたきでよろめいた。
「加奈子、竜也に会えたからもう大丈夫よ。さあ上がって」
聡美はよろける加奈子を抱えるようにしてダイニングの椅子に座らせた。
「インスタントで悪いな」
竜也はすぐにコーヒーを淹れて椅子に腰掛けた。
加奈子はグラスを取るとゆっくりと顔を上げた。
瞼は赤く腫れ濁った目をしている。加奈子は泣くだけ泣いて涙が涸れ果てたのか、呆然としていた。
「何があったのか知らないけど、慌てなくていいから少しゆっくりしろよ」
竜也は化粧っけのない二人に優しい眼差しを向けた。
しばらくすると、加奈子がゆっくりと唾を飲み込んだ。目は虚ろだ。
「私、悠太を殺したの・・・・・たぶん」
「えっ、今何て言ったんだ」
加奈子は腹をきめたのか、坦々と話し始めた。
目の周りは痛々しいほどに腫れている。
「殺したのは私だと思う」
「分かった。分かったから、最初からゆっくり話してくれ」
竜也の方が慌てていた。
「私脅されていたの。坂井に」
聡美は既におおまかな話を聞いているのか、繰り返し頷いた。
「私の子ども、一人っ子の真理子は実は坂井の子どもなの」
「先生の坂井か?」
「そうよ。私は大学卒業と同時に結婚したでしょう。早く子どもが欲しかったんだけどなかなか授からなかったの。病院で調べたら、私のからだは問題なかったわ。だから主人にも、病院に行ってよ、って言ったんだけど、あの人、そのうちできるよ、って何も努力しようとしなかった。ちょうど結婚して六年が経ったころだったかしら。私、主人のことを疑い始めたの。主人のからだに問題があるんじゃないかと思い始めたの。そして彼の部屋の本棚からついに探し出したわ、ドックの診断書を。その既往症の欄にあったのよ。『無精子症』という文字が・・・・・。もうすべてが終わったと思ったわ。あの人は、私にずっと嘘を吐いていたのよ。そうよ、自分の病気を知ってて私と結婚したのよ」
加奈子は両肩を使って大きなため息を吐いた。
「それから、坂井との付き合いが始まったのか」
「そうなの・・・・・」加奈子は下を向いて顔を上げようとしない。
「加奈子、ゆっくりでいいからね。落ち着いて」
聡美も辛そうな顔をして加奈子を元気づけた。
「そのあと、離婚も考えたりして、悶々とした日々が続いたわ。でもあの人、糖尿病を患って松本で一人暮らししている私の母を、東京に呼び寄せてもいい、って言ってくれてたの。決心がつかなかったわ。そのうち夫婦仲も険悪になって、一年後に松本に帰省したの。そこで坂井が優しい声をかけてくれたのよ。その時に・・・・・」
「加奈子はその時自暴自棄になってたの。だから坂井と。加奈子は悪くないわ―」
聡美は加奈子を弁護して彼女の頭をそっと撫でた。
「子どもができた時、当然坂井に相談したわ。坂井は堕すことを望んだし、私も最初は産む気はなかったわ。でも・・・・・これを逃したら一生子どもが持てない。そう思ったの。そして子どもを産むことによって主人との仲も取り戻せるかもしれない。そのことが私の背中を押したのよ。幸い主人と坂井は血液型が一緒だったし、坂井もしぶしぶ産むことを納得してくれたわ。子どもの件には一切関知しないことを条件にね。私さえ黙っていればなんて、魔が差したのよね。でも今は魔が差したなんて思ってないわ。真理子は私にはなくてはならない宝もの。主人だってそんなことまったく知らないし、疑うことすらないわ。いつの間にか病気が治って子どもができた、って信じているの。何だか情けない話だけどね」
加奈子は正面を向いたまま大粒の涙を零した。
重い空気が部屋の中に淀んでいる。聡美はベランダの窓を開けて空気を入れ換えた。
そのベランダからは、雪に覆われた北アルプスの尾根が稜線を際立たせている。眩しいくらいだ。
加奈子も外を眺めて目を細めた。そしてわずかな力を振り絞るように拳を作って、また話し始めた。
「坂井とはその時限りで、その後何事もなく平穏に暮らしていたんだけど、今年の四月に、娘の真理子が『中野城西』の中等部に入学してから状況が変わったの。坂井が『松本城西』にいることなんて気にも留めてなかったわ。うっかりしてた・・・・・」
竜也は聡美から煙草一本をもらった。
昔はヘビースモーカーだったが「うつ病」を患ってからはほとんど吸っていない。
「それから、今年の五月だったかしら、坂井から自宅に電話があったのよ。入学者名簿を調べて電話してきたんだと思うの。その日から地獄が始まったわ・・・・・真理子に会わせろ、って矢のような催促。主人が単身赴任だということまで『家庭状況報告書』で調べているの。電話番号を変えたんだけど、また訂正届けをチェックしてるのよ。警察に届けようかと思ったんだけど、過去が暴かれたら、それこそ家庭は崩壊するわ。まだ松本と東京で離れていたからよかったけど、今回のあいつの転勤。もうどうしようもなく落ち込んだわ。彼も五十を過ぎて、無性に寂しくなったのかもしれないけど、娘に対する思いは尋常じゃなかった。というよりも頭が狂ってた」
竜也は喉が渇いてしかたがなかった。冷蔵庫からコーラを取り出し二人にも勧めた。甘い炭酸が喉を刺激して、清涼感がこころの荒みも癒してくれた。かなり詰まってきた思考が、いくぶん解きほぐされていく。
「坂井ってそんなふうに見えた?」
聡美も息が詰まっていたのか、やっと口を開いた。
「精神的なものは専門家じゃない限り俺たちには分からないよ」
加奈子は怯えるような目をして更に続けた。
「坂井は電話じゃ埒が明かない、と思うと、宅配便を送りつけてきたわ。中身は・・・・・『おしゃぶり』『ガラガラ』『ピンクの産着』はては『生理用ナプキン』に『コンドーム』。究極は、学校で盗撮した真理子の写真・・・・・その写真には口紅でバツがつけられていたの。もう際限がなかったわ。何度も何度も送ってきたの。真理子には気づかれなかったけど、私は頭がおかしくなりそうだったわ。結局坂井に会うことを約束させられて、阿佐ヶ谷で会ったんだけど、結果は同じだった。『会わせろ』の繰り返し。坂井がいる高校と真理子が通う中学校は同じ敷地内にあるから、坂井は会いに行くって言い出したの。もう終わりだと思ったわ。何とかしなければ・・・・・」
そう言った途端、加奈子は泣きじゃくり、テーブルに顔を伏せた。
聡美は慌てて立ち上がり、バスルームからフェイスタオルを持ち出してきて、加奈子にそっと手渡した。
竜也もショックを隠すことができずに、コーラをなみなみとグラスに注いで一気に飲みほした。
竜也は、坂井への殺意がなぜ悠太に繋がるのか、既に知っているかのように大きく頷いた。
二本目の煙草をもらい、深く吸い込んで煙を強く吐き出した。メンソールの煙がコーラと同じように喉を刺激した。
「加奈子、もう少しよ。気持ちを楽にして」
聡美は加奈子の背中を擦りながら、自分の子どものように気遣った。
加奈子はか細い声で、うん、と返事をして伏せていた顔を上げた。
「それからしばらくしてある人に相談したの。その人も甚く同情してくれて、私に白いカプセルを一錠だけ用意してくれたの。絶対に口を割ってはいけない、って言ってね。その白いカプセルが青酸カリだったのよ。カプセルは三十分ほどで溶け始めるように調整してあるから、時間をみて巧くやればいい、とも言われたわ」
「カプセルを用意した人間は誰だ」
「それは言えないわ。今の段階ではまだ・・・・・そのカプセルが悠太に渡ったっていう確証はないし、その人に迷惑がかかるわ」
「じゃぁ分かった。それが悠太に渡った経緯は?」
「クラス会の直前に、坂井と会って演技をしたの。もう貴方の言うとおりにするけど、真理子と会うのは一回だけにしてねって。坂井はしぶしぶ承諾してくれたわ。直前の電話で風邪ぎみだって聞いてたから、昔の私に戻ったふりをして、風邪の特効薬だって言ってカプセルを渡したの。クラス会には遅れたけど、それから聡美と待ち合わせてパークシティーホテルに向かったのよ」
「その薬がなぜ悠太に・・・・・」
「事件のあとで坂井に脅されたの。あの薬は風邪気味だって言う悠太に渡した。お前の薬を呑んで悠太は死んだんだ。だからお前は殺人犯だって・・・・・」
言い終えると加奈子はまた泣き崩れた。
青酸カリは坂井経由で悠太に渡ったことになっているのか。竜也はこころの中で呟いた。
ベランダからは空気を凍らせるような冷気が舞い込んだ。
竜也は、決して早まったことはするな、明日俺が何とかするから、と加奈子に言い含め、あとのことは聡美に託して二人を帰宅させた。
加奈子は真理子を夫に預けて、一人で帰省しているということだった。今日は聡美の実家に泊まるようなので、竜也もいくぶん安心した。
しかし竜也は二人が帰ったあと、頭を抱えてソファーに座り込んだ。加奈子を助ける、ということに悩んでいたのではなく、加奈子が第三者にカプセルのことをしゃべっているかどうかが不安になったのだった。
また、メールの青い閃光が目の前でスパークした。
様々な思いが頭の中を錯綜した。
加奈子はとりあえず殺人未遂ということになるのか。しかし、カプセルは悠太には渡っていないはずだ。渡っていないとしたら、あのカプセルはどこにいったんだ。竜也は坂井の行動に吐き気をもよすほどの嫌悪感を覚えたが、それよりも、あのカプセルの行方が気になった。唯一の物的証拠があの「カプセル」なのだ。
「うぅっー」突如頭の中が錯乱し始めた。
「やはり、あいつがカプセルを持ったままなのか」
うつ病が発症した時に似た倦怠感が竜也の全身を襲った。
全身が小刻みに震えてくる。波が寄せるように繰り返し吐き気を催した。
途端に噴水のように、口から嘔吐物が飛び出した。
饐えた臭いを放つ黄色い異物がテーブルの上にまき散らされた。
翌日は大事な日だというのに。「うつ病」になる前に残してきたことを、何としてでも・・・・・。
すると、また聡美のメールが青白い閃光を放った。
「もう、やめてくれっ―」
竜也は叫び声を上げた。そして頭が小刻みに揺れ始めた。
2
翌日、竜也は実家で朝を迎えた。昨日は一人でいることが苦痛だ
ったため、実家に戻り父親と少し酒を飲んだ。二人とも相変わらず無口でほとんど話という話はしなかった。もちろん、竜也が病院を継ぐなどという話も遠い昔に消えてしまったのだろう。
竜也は明け方散歩に出て、七時ころ家に戻ってきた。
しかし今朝は、親子三人で正月の膳をゆっくりと囲む、という訳にはいかなかった。
離れの二間続きの客間は、併せて三十畳以上はあるだろうか、親戚の人間、病院関係の年始客でなどでごった返していた。
まだ午前十時だというのに、客間は常時三十人ほどの客で埋め尽くされている。
障子の窓からは雪に覆われた広い中庭が見える。
苔むした灯篭がいくつも並ぶ中庭は、このところの暖かさで、雪の下からからぽつりぽつりとわずかに地肌を見せていた。
竜也が療養をしている時期に、じっと眺め続けた庭だ。
正月だというのにパトカーだろうか、遠くから微かにサイレンの音が聞こえている。
客間ではお手伝いの須美子がかいがいしく働いていたが、もう一人のお手伝い珠代は客間にはいなかった。
酔客の騒ぐ声は途切れることなく続いた。
しばらくすると、長い廊下を走る足音が響いた。それが徐々に大きくなってくる。
突然、客間の襖が無造作に開け放たれた。
そこには血相を変えた珠代が立っていた。年始客たちの視線は一斉に客間の入口に注がれた。
「どうしたの、珠代さん。お行儀の悪い―」
母の美代子が小さな声で窘めた。
「申し訳ございません、奥様。お坊っちゃま、お客様がいらしております。お急ぎください」
珠代は息を弾ませながら言った。
「失礼します」
竜也が年始客に詫びて外の廊下に出ると、珠代は「川名様がお見えです。何か大変なことが起こったようで・・・・・」と囁いた。
竜也は、「また聡美か。困ったもんだ。もうこれ以上騒ぐな」と思いながら、急いで玄関に向かった。
広い玄関の隅に、下を向いてからだを震わせている聡美がいた。
「聡美―何かあったのか?」
聡美は顔を上げて竜也を見るや否や、青い顔をして膝から崩れ落ちた。そして声を絞り出すように言った。
「加奈子が、加奈子が・・・・・」
3
川幅五メートルほどの女鳥羽川の土手には、多くの野次馬が集ま
っていた。
初詣帰りの人たちだろうか、破魔矢や熊手を抱えて河川敷の現場
を遠巻きに見ている。
現場検証を終えて、ちょうど遺体が運び出されようとしていた。
真っ白い雪で覆われた河川敷の現場は、夥しい血で真っ赤に染まっている。
例年なら、おだやかな冬の陽光を受けて、眩しいほどにキラキラと輝いている清流も、心倣しか濁っているように見える。
「あれが加奈子か?」
うな垂れた聡美は、力なく顔を上げて頷いた。竜也の右腕にしがみついたままだ。
「夜中に目を覚ましたら・・・・・隣に寝ていた加奈子がいなかったの。携帯も繋がらないし、実家にも帰ってなくて、明け方から方々を捜し歩いたのよ。そ、そしたら川沿いで・・・・・」
聡美はそう言うのが精一杯で、あとは泣きじゃくるばかりだ。竜也は運ばれていく加奈子を、ただ呆然と見送るだけだった。
その日の午後に竜也と聡美は「松本城東署」に赴いた。
加奈子の母親が、昨日加奈子は聡美の家に泊まった、と証言したのだ。そして渋谷西署の柳田からも電話があった。パークシティーの事件と関連があるとみて、松本に出張してくるようだ。
ゆっくり過ごそう、と思っていた正月は、台無しになってしまった。
しかし、このひと月で同級生が二人も死んだ。もうそんなことは言っていられないようだ。竜也の目が微かに光った。
「永島さん、お久しぶりですね。川名さんもお元気でしたか」
柳田は、正月に松本に呼び出されたというのに、爽やかな笑顔で二人を迎えた。今日も真新しい黒いスーツで身を固めている。
二人ともパークシティーの件で、既に一度柳田から事情聴取を受けていた。
「どうしてこんなことになったのか・・・・・皆目見当がつきません」
竜也は少し右頬を引きつらせて柳田の言葉を待った。
「池上さんは、頸動脈を、言葉は悪いのですが、スパッと綺麗に切られていました。五センチほどの長さの傷ですが、深さは十分でした。動脈はしっかり切断されていたようです。自殺ではためらい傷が残ります。それに雪に残された足跡は二つありました。池上加奈子さんは間違いなく殺害されたのだと思います」
柳田は淀みなくしっかりと説明した。
「物取りの犯行とか、行きずりの犯行なのでしょうか」
少し気を取り直した聡美が尋ねた。
「争った痕跡はありません。それに池上さんのからだにも首以外には傷は発見できませんでした。司法解剖の結果を待つまでもなく、顔見知りによる犯行だと思いますよ」
竜也は昨日の加奈子との話が頭の中を駆け巡ったが、加奈子にカプセルを渡した人間のことが気にかかり、話すことを躊躇した。
「川名さん、昨日は深夜まで池上さんとご一緒だったそうですね」
「はい。二人が床についたのは・・・・・確か二時ころだったと思います。五時半ころにふと目を覚ましたら、もう加奈子は部屋にはいませんでした。それから彼女の自宅に電話を入れたのですが、戻ってなくて、七時ころから彼女を捜しに外に出ました」
「永島さんは、三人で会われたあとはどうされていたのですか?」
竜也は、自分が疑われているのだ、と実感した。
「あのあと、夕方の五時ころだったと思いますが、マンションから歩いて実家に戻りました」
「そのマンションは、お兄さん名義のようですね」
「そこまで調べてあるのですか」竜也は唖然とした。
「すみませんねぇ。これも仕事ですから。かなり昔にお兄さんの捜
索願が出されているようですね」
「二十年以上も前にいなくなりました。そのあとずっと空いていますから、家族の者が時々使っています」
「裕福なご家庭ですね。二十数年もそのままにしてある訳ですか」
竜也は触れられたくないプライベートなことまで言われ、下を向いて唇を噛んだ。
「それから自宅を出られませんでしたか?」
「一歩も出ていません。家族に訊いてください。おやじと飲んでいましたよ」
竜也は投げやりに答えた。
「それを証明できる方はいらっしゃいますか?」
「おやじとお袋なら証明できますよ」
「ご家族はちょっと・・・・・どなたかご家族以外の方はいらっしゃいませんか?」
「お手伝いが二人います。彼女たちも証明できますよ」
「そうですか、やはり裕福なご家庭ですね」
「柳田さん、言っておきますが、裕福なのは僕の実家です。僕は裕福でも何でもありませんよ」
竜也は憮然として言い放った。
その日は、当然竜也のマンションでの話の内容を訊かれるものと思っていたが、不思議なことにその話については、柳田は深層まで訊こうとしなかった。竜也は自分から話さなかったことを少し後悔したが、警察はそんなにヤワじゃないだろう。ひょっとしたら、悠太の事件の方はもう解明されつつあるのかもしれない。
夕方の五時ころに松本城東署を出たが、竜也たちとは反対側の通路から刑事課に入って行く二人の姿があった。
「聡美、あの二人、玲子と健一じゃないか?」
「そういえば似てるね」
「ふ~ん、二人も帰省してたんだ」
「事情聴取で呼ばれたのかなぁ」
「そうだよ。パークシティーに集まった同級生は全員やられるんだ。
警察はあの事件と関連があるって踏んでるんだよ」
「やっぱり。あの中の誰かが犯人なのね。何だか怖い―」
聡美は顔を歪めて竜也の右腕をしっかりつかんだ。
二人は一旦竜也のマンションに戻った。
もう時計は五時半を指している。
「聡美、俺は実家に戻るよ」
竜也は疲れた声を出した。
「えっ―竜也お願い今日だけは一緒にいて。だってこの近辺に犯人が潜んでいるかもしれないじゃない。私とても怖いの」
「だって実家の方が安全じゃないか。家族が一緒だし。ひょっとしたら・・・・・俺が犯人かもしれないぞ―」
竜也はおどけるように舌を出した。
「何冗談言ってるの。とにかく今日だけでいいの。お願い、一緒にいて―」
聡美は怯えた目で竜也に訴えた。
「一緒にいてって言ったって・・・・・ここに泊まるということか?」
「だめ?」
「だめじゃないけど・・・・・本当に寝るだけだぞ。聡美だって結婚前なんだから、変な噂が立ったらどうするんだよ」
「竜也だって結婚前じゃない。別に悪いことするんじゃないし、泊まるだけ。お願い―」
聡美はさっきと違って、綺麗なえくぼを両頬に作った。
「じゃぁ今日だけだぞ」
「了解。じゃぁ私、何か夕飯を買ってくるわ」
聡美はそう言ったかと思うと、慌てて部屋から飛び出していった。確かに加奈子が殺されて、怯える気持ちはよくわかるが、竜也に
はここに泊まるという聡美の考えがまったく理解できなかった。
独りになると、竜也は少し落ち着いた。
警察はどこまで真相を解明しているのだろうか。
二つの事件を少し整理してみることにした。
加奈子にカプセルを提供したのは誰か。加奈子が死んだ今はもう闇の中だ。まず容疑者から坂井は消える。そうなるとやはり同級生の誰かだ。自分と聡美を除くと、残るのは、良二、健一、玲子、由香里。もしかしたらパークシティーの人間かもしれない。あのウェイター、宴会場にいた副支配人、クロークの女性従業員・・・・・。ただホテルの人間と悠太との間に接点などあるはずがない。警察は容疑者を同級生に絞るだろう。
次に加奈子が殺された事件はどうだろう。動機として考えられるのは、カプセルの秘密を知っている人間が、その事実が加奈子から漏れることを恐れて加奈子の口を封じた、ということは、カプセルを加奈子に提供した人間か坂井が犯人だということになる。
加奈子の証言によると、坂井の言っていることが本当なら、坂井がカプセルを悠太に渡したことを悔やんで、彼がその事実を隠すために加奈子を殺したことが考えられる。そして何といっても彼は精
神に異常をきたしている。加奈子との間にできた子どもに対する執念は常軌を逸したものだった。
今度は坂井の言っていることが狂言だとしたらどうだろう。彼は悠太にカプセルを渡さなかった。そうなると悠太に毒を呑ませた人間が他にいることになる。その人間がなぜ加奈子を殺す必要があったのか。例えば、悠太を殺した人間がカプセルを加奈子に提供したのであれば話の筋は通る・・・・・。
竜也は、警察が考えるだろうと思われるストーリーを想定してみた。
「加奈子がカプセルで坂井を殺しても、殺さなくても、どちらにしても加奈子からカプセルの提供者が誰なのか、漏れる可能性が大だ。そうなると、坂井の生死に関係なく最初から加奈子は殺される運命にあったんだ。警察はそう考えるだろう。犯人は坂井が死んだ場合は、加奈子の連続殺人ということが疑われたまま加奈子を殺す。坂井が死ななかった場合は、悠太だけが死ぬことになるが、カプセルを坂井に渡した加奈子が疑われる。そして加奈子が真実を暴露する前に加奈子を殺す。悠太を殺した犯人が、犯行を隠すために仕組んだ罠ではないのだろうか。加奈子は利用されたのか?警察はきっとそう思うだろう。どちらにしても加奈子は死んだ。そうなると次に殺されるのは、カプセルの流れを知っている坂井だ。坂井の捜索は始っているんだ。いや、もう坂井は発見されているのかもしれない。そして『カプセル』・・・・・どこにいったんだ。早く捜さなければ」
竜也はブツブツと独りごとを言い続けた。
そして頭の中で何かが弾けるような音を聞いた。
ふと時計を見るともうすぐ七時になるところだった。
聡美は何をしているのか連絡もない。
スーパーで沢山の買い物をしているのだろうか。それとも買い物の前に、着替え用の下着でも取りに実家に寄ったのだろうか。
聡美は昔から仕事に関してはテキパキとしていたが、こと買い物に関してはグズだった。
竜也が何気なく、テレビのスイッチを入れた途端に玄関のチャイムがなった。受話器を取ると、やはり聡美だった。
「ごめんなさい遅くなって、ちょっと実家に寄ってたの」
「オーケー、今開けるよ」
玄関に立った聡美は、二、三泊でもするつもりなのか小さな旅行バッグを抱えていた。
「恐怖心が取れるまで何日掛るか分からないから・・・・・」
竜也は、案の定と思いながらも優しく笑った。
「お疲れさん。結構買い物したね」竜也は、聡美がもう一方の手で抱えたスーパーの袋を見て言った。
「とりあえず、明日のお昼の分までね」
聡美はしゃぁしゃぁと答えた。
「お腹空いたでしょう。竜也はテレビでも見てて、晩ご飯すぐ作るから」
「悪いなぁ、慌てなくていいよ」
竜也は、昔二人が恋人どうしだったころのことを思い出していた。
しばらくすると、テレビは県内のニュースを流し始めた。
田舎臭い感じのする若い女性アナウンサーの顔が映し出された。
―今日午後四時ごろ、女鳥羽緑地公園内の公衆トイレで、男性の遺体を発見したと、初詣帰りの会社員から「松本城東署」に通報がありました。胸部に鋭利な刃物で刺された痕があり、年齢は五十歳前後と見られています。尚、城東署では、男の身元の確認を急ぐとともに、今日未明に起きた「女鳥羽川女性殺人事件」との関連を調べています―
「やはり見つかったのか」
竜也はそっと呟いた。
「聡美、今観たか?」
「観たわ。また殺人?」
「ちょうど俺たちが城東署にいるころに発見されたんだ」
「どうりで帰り際に署内がザワザワし出したと思ったわ」
「まさかクラス会のメンバーの誰かじゃないだろうな」
竜也は言葉とは裏腹で、もう坂井だと確信していた。
「とにかく、行きずりの物取りの犯行だろう。なっ、聡美」
「でも何だろう。こんなに近い場所で続けて殺人事件が起きるなんて」
聡美は、自分で持っている包丁を見つめながら呟いた。
「今日はやっぱり竜也の部屋に来て正解ね」
聡美は少し安心したのか、からだを反転させてまた俎板に向かった。
その間竜也は、ケーブルテレビで二つの事件の続報を観ていたが、やはり警察は関連ありと見ているようだ。
しばらくすると料理ができたのか、聡美がテーブルに皿を並べ始めた。
「お肉にしようかと思ったんだけど、あんなことがあったばかりだから、お魚にしたわ。いいよね、竜也」
「うん、ありがとう」聡美は事件のことでこころを痛めているのだろうが、なんとなく笑みを抑えているようにも見える。微妙に頬が緩んでいるような気がした。
いつだったのか・・・・・似たような情景がこころに浮かんだ。
テーブルには、スズキのムニエルと水菜のサラダ、それと前菜代わりだろうか、ハムとチーズの盛り合わせが並べてある。
食欲はあまりなかったが、バターの焦げた匂いが空腹であることを思い出させてくれた。
「竜也、冷蔵庫から白ワイン取ってくれる?」
「了解」
聡美の黄色いエプロンが妙に暖かさを感じさせてくれる。
「こうして見ると、何だか若奥さんって感じだな」
「そう?エプロン似合うかしら」
「うん。いいんじゃない」
昔の記憶と現実が、曖昧にオーバーラップした。
頬に流れるようにかかる黒髪が、透きとおるような白い肌を際立たせている。切れ長で少し潤んだような目が昔のころの聡美を思い出させてくれた。
遠い昔にこんなシーンが何度もあった。残業で帰りが遅くなった金曜日。聡美は浦安のマンションで料理を作って待っていてくれた。
そんな時は必ずと言っていいほどメイン料理はステーキかムニエルだった。残業がない金曜日は二人で一緒に料理をした。冬は鍋、夏は焼肉、だいたい相場は決まっていた。
将来のことも話し合った。結婚に備えてお金を貯めようと考えたのもそのころだった。
結婚は暗黙の了解のはずだったのに・・・・・。
時代は、女性が社会進出を果たし、各分野において更なる躍進を始めたところだった。
聡美にとっては、昔の男から受けたこころの傷がやっと癒えた時でもあった。
聡美は、二人でよく行ったスキーや、温泉旅行にも興味を示さなくなり、ショッピングや映画にも億劫がって出かけなくなってしまった。それに伴って二人で夢を語ることもなくなった。
そのうち、聡美の話し方には棘が目立ち始めるようになる。
反面、社内の役職への拘りが言葉の端々に見え隠れするようになった。
自分が持つ物には感謝を忘れ、持たない物に対して不満を連ねた。
そして持たない物に異常なまでに執念を燃やし始めたのだ。
「役職」「資格」「ブランド品」「高級化粧品」そして自分では取り戻せない「若さ」
特に社内の「役職」は別格だった。聡美はその「役職」に執着した。昇格試験の勉強ぶりも半端じゃなかった。残念ながら、その「持たない物のリスト」には『結婚』という言葉は入っておらず、それ
は置き去りにされてしまったのだ。
聡美は、竜也はいつまでもそばにいるはずだ、と錯覚を起こしたのかもしれない。
自分は明らかに物ではなく、精神も肉体も変化する血の通った人間なのに・・・・・。
そう思った途端、また、こころに摺りこまれた聡美のメールがむっくりと起き上がって閃光を放った。
竜也は、今夜聡美を抱くことをやめた。そう決心した。
もし抱いていたなら、何かが変わった夜だったかもしれない。
「どうしたの、竜也―」
竜也はその言葉で我に返った。
「美味しくない?」
「とんでもない。旨いよ―聡美が作ったこのバルサミコソースがまたぴったり合うよ」
「竜也、変なこと訊いていい?」
聡美は二人のグラスにワインを注ぎながら言った。
「何だい、薮から棒に」
竜也はワインをひと口飲んだ。
「お布団・・・・・もう一つあるの?」
「何だそんなことか。ないよ。けど毛布ならある」
「じゃぁ、私ソファーで寝るよ」
聡美は自分で言って、少し顔を上気させた。
「何言ってんだ。ベッドで一緒に寝ればいいじゃないか」
聡美は照れ笑いを隠すかのように下を向いた。
「布団はダブルサイズだからどうにでもなるよ。ただ風邪をひかないようにしないとね」
聡美は少しからだを強張らせて顔を伏せた。
その夜は、お互いに事件の話には触れようとしなかった。
ひと言口に出すと、不安が堰を切って流れ込んでくるような気がしたのだ。
コーヒーを飲み終わるころ、時計は十一時を指していた。
「もうそろそろ寝よう。明日は事件の件で少し忙しくなるかもしれないぞ」
「そうね。竜也シャワーは?」
「俺は朝浴びたからいいよ」
「じゃぁ、私シャワー浴びていい?」
「ゆっくり湯船に浸かったらどうだ。疲れたろう」
「ううん、シャワーでいいわ。先に寝てて」
「分かった」
聡美は別れたころの棘々しさが完全に影を潜めていた。
「昔の聡美に戻ったのだろうか」
バスルームに消える聡美の白い背中を見て竜也は呟いた。
竜也は昔からBGMがないと眠れなかった。
ベッドの脇にあるラジオのスイッチを入れた。
するとニュース速報が流れてきた。低く暗い声だった。
―ただいま入ったニュースをお伝えします。今日の夕方、女鳥羽川緑地公園内の公衆トイレで、遺体で見つかった男性の身元が先ほど判明しました。男性は東京都新宿区四谷在住の「坂井仁志」さん、五十三歳。現在中野城西高校に教頭として勤務しており、帰省中に被害にあったもようです。死亡推定時刻は今日未明。死因は、左胸を鋭利な刃物で刺されており、出血多量による失血死と見られています。繰り返しお伝えします―
「うぅ」竜也は低い声で唸った。
そして軽く目を閉じて考えを巡らせた。
少し時間が掛ったな。明日にはまた事情聴取があるのだろう。竜也は軽く舌打ちした。
しばらく、ぼ~っとしてラジオを聴いていた。
「あら、まだ寝てないの?」
洗い髪をバスタオルで拭きながら、聡美がパジャマ姿でバスルームから出てきた。
「何だか眠れなくて・・・・・」
竜也は久しぶりに買った煙草を銜えながら言った。
「私も一本吸ってもいい?」
「断らなくたっていいよ。いつも吸ってんだろう?」
「でも、今日は吸ってないわ」
「聡美が吸ってようが、吸っていまいが、俺には関係ないよ」
竜也は珍しく苛立った。
聡美に、例の被害者は坂井だ、ということを告げようか迷っていたのだった。
これ以上聡美にショックを与えるのは酷だ。竜也はコーラの缶をじっと見つめた。
竜也はコーラの空き缶に煙草を捨てようとした。
「竜也、みっともないよぅ。このお皿を使おうよ」
聡美は食器棚から安物の皿を出してきた。
「そうだな、これでいいよ」
竜也は気持ちを落ち着かせるために、短くなった煙草を深く吸い込んだ。
吐き出した煙は重たい空気の中を低く漂った。
「じゃぁ寝るか、考えても仕方がない」
竜也は先にベッドに滑り込んだ。
軽く頷いた聡美は、少しはにかんだように見えた。
「じゃぁ、電気消すね」
少し時間を置いて、聡美も竜也の隣に静かにからだを滑り込ませた。
竜也は壁側を向いて、聡美に背中を見せていた。
聡美はベッドに入るや否や、竜也の背中にしがみついてきた。
竜也は仄かな石鹸の匂いの中で、聡美の胸の膨らみを背中に感じた。乳首の感覚さえも伝わってくるようだ。
聡美の胸の鼓動が自分の心臓の音と共鳴した。
その途端に、遠い昔が脳裏をかすめ、甘酸っぱい思いが全身を包み込んだ。
一瞬意識が遠のくような目眩を覚え、からだが酷く強張った。
竜也は何とか壁に向いているからだを返したが・・・・・仰向けの姿勢から更に左に向けることはなかった。
またあの時のメールが閃光を放った。
聡美の吐息が竜也の左耳を微かにくすぐった。
4
朝目覚めると、竜也は聡美と手を繋いで寝ていた。昨夜はお互いに手を握り合って眠った記憶が微かに残っている。暖かく柔らかい手だ。竜也の股間は勃起していたが、誘惑を断ち切るようにスクッと起き上がった。
竜也は聡美のからだをゆっくりと跨いでキッチンまで行った。
水道の水でコップを満たし、一気に飲みほした。
テレビをつけると「箱根駅伝」がスタートしたところだった。
「もう八時か、少し寝坊したな」
竜也はコーヒーを淹れながら呟いた。
シャワールームから出てくると、聡美が起きてきた。
「ごめんなさい。もうこんな時間」
「おはよう、今朝はトーストでいいよね」
「いいよ竜也、私が作るから。テレビでも見てて」
聡美は眠そうな目をしながらキッチンに立った。
竜也は昨日の夜のことが、なぜか申し訳ない気がして、聡美の顔をまともに見ることができなかった。
しばらく駅伝を見ながら母校を応援していたが、完全に集中力を欠いていた。
しだいに頭の中で坂井のことが膨らみを増していった。
「捜査はどうなっているのだろう。柳田がここを訪ねてくるかもしれない」
じきにベーコンエッグとトーストができあがった。
竜也は野菜ジュースを注ぎながら言った。
「昨日、昨日は・・・・・よく眠れたか?」
しかしそれ以上の言葉は出てこなかった。
「大丈夫よ。竜也の手をしっかり握っていたから、ちっとも怖くなかったわ」聡美は形のよい桜色の唇で微笑した。
竜也はそれを聞いてわずかにこころが揺れた。
その後駅伝も三区まで進み、聡美は時に歓声をあげていたが、竜也の目は虚ろだった。
すると突然玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろうこんな時間に」二人は顔を見合わせた。
竜也が受話器を取ると柳田の声がした。
「こんな時間にすみません、柳田です。少しお伺いしたいことがありまして」
「今からですか?時間はかかりますか?」
竜也は慌てて聡美の顔を見た。聡美は困った顔をして首を傾げた。
「ええ。少々お時間をいただきたいのですが」
一瞬間が空いた。
「・・・・・まだ着替えてもいないので。・・・・・じゃぁ、少し待っていただけますか」
「構いません。待たせていただきます」
受話器を置くと、二人は慌てて着替え始めた。
聡美が一緒なのに断ればよかった、と後悔したが、今年は正月気分などに浸るつもりはない。竜也は観念した。
竜也も聡美も、ジーパンにセーターという格好で柳田を迎えた。
「あぁ、お二人ご一緒でしたか。これは助かります。でもお取り込み中だったのでしょうね。本当に申し訳ありません」
聡美は白い頬を紅潮させて俯いた。
竜也は、「昨夜は何もなかったのですよ」とこころの中で呟いたが、何も刑事に私生活の言い訳などする必要はない、と独り照れ笑いを浮かべた。
二人はダイニングテーブルを囲んで柳田と対面した。
「少しお訊きしたいというのは、昨日の二つの事件のことなんですが・・・・・。正月にお宅までお伺いして大変申し訳なく思っています」
その対面する状況が、事情聴取のような形になったためか、柳田は丁重に切り出した。
「実は私もお話したいことがあって、午後にでも城東署に伺おう、と思っていたところです」
竜也の言葉に、柳田の目の奥が一瞬光ったように見えた。
「そうですか、ちょうどよかったです。永島さんのお話はあとでお訊きするとして、まず・・・・・昨日公衆トイレで見つかった遺体は坂井さんでした」
「はい知っています。昨日ラジオで聴きました」
右隣に座った聡美は息が止まったような表情になった。顔からは一瞬のうちに血の気が失せた。手が震えているのがよく分かる。
柳田はわずかな表情の変化も見逃すまい、と二人を凝視している。
「俺たちは疑われてる」竜也はそう悟った。
「そしておかしなことに、先生の上着のポケットから白いカプセルが見つかったのです」
竜也は「あっ」と聞こえないほどの小さな声を出した。
「中身は青酸カリでした。ただほんのわずかですがカプセル自体が破損していて、中身が空気によって酸化したため、すでに毒性はありませんでした」
「えっ、どういう意味ですか?」竜也が尋ねた。
「青酸カリはですねぇ、長時間空気に触れると酸化して炭酸カリに変化するんです。そうなると毒性は失われます。そして先生が保持していたカプセルは、青酸カリを仕込む前から毒性をほとんど失っていたと思われるのです。鑑識の結果、当初から弱毒性でした」
「それじゃぁ、そのカプセルを呑んでも人は死なないということになるのですか?」
「そういうことになりますかねぇ。まず、死には至りません。ただ先生がそんな使い物にならないカプセルを、なぜ持っていたかが問題です」
竜也は頭の奥で何かが弾けたような気がした。
「ちなみに青酸カリの純度も低いもので、工業用ではないかと思われます」
「すみません。僕たちは、どこかの病院から入手したものだとばかり思っていました。メッキ工場なんかで使うものだったんですね」
「そういうことです」
そう言うと、柳田は少しそわそわし出した。
「柳田さん、煙草ならどうぞ」
聡美が昨日の皿をテーブルに置いた。
申し訳ありません、と柳田は頭を下げてハイライトに火をつけた。
「それからもうひとつ、公衆トイレの周りはすべて芝生なので、足跡ははっきりしないのですが、三つあったようです。ひとつは坂井さんの物ではないかと・・・・・。そしてもうひとつは非常に判別が難しいのですが、別のある場所に残されていた物に似ているのです」
「ある場所とは?」
「はい、実は池上さんが殺された河川敷に残っている足跡は二つあったのですが、ここは石が敷き詰められていて足跡は判別不能です。ただ、土手には三つの足跡が発見されています。要するに土手までは三つの足跡、土手から河川敷の殺害現場までは二つの足跡が続いているのです。ですから、土手に残った三つ目の足跡と、公衆トイレにあった足跡の一つが、似ていると言えば似ているのかな、と。そんな状況でしてね。はっきりとした形が残っていないのが残念です」
柳田はハイライトを銜えたまま腕を組んだ。
それまでじっと黙って柳田の話を聞いていた聡美が口を開いた。
「柳田さんに話しそびれたことがあります」
「何でしょう」
柳田はスーツの内ポケットから手帳を取り出した。
「昨日、この部屋で加奈子から聞いたことです。私たちも驚いたのですが」
聡美は堰を切ったようにペラペラとしゃべり出した。もう黙っていられなかったのだろう。
流暢にそして生々しく、坂井と加奈子の出会いから加奈子が殺意を抱くまでのことを柳田に伝えた。
「先ほど竜也、いや永島さんが話したいと言ったことはこのことです」
「間違いありませんか?永島さん」
竜也は聡美に話を横取りされて少し拍子抜けしたが、内容は事実に他ならない。間違いないことを意思表示した。
「ふむ、そういうことがあったのですか。重要なポイントですね。そうですか・・・・・」
柳田は驚きを顕にせずに、また腕組みをした。
「ちょっと待ってください。先ほど池上さんが坂井さんに渡したカプセルは何色とおっしゃいました?」
「白いカプセルです。加奈子は間違いなくそう言いました」
竜也は身を乗り出して柳田を見た。
「もう一ついいですか。池上さんは間違いなく一錠だけ渡したとおっしゃっていましたか?」
「それも間違いありません。その提供者から一錠だけもらった、と言ってましたから」
「そうですか」
柳田を大きく首を傾げた。そしてハイライトを深く吸い込んだあと天井にむけて強く吐き出した。
「そうなると、木戸さんは池上さんが持っていたカプセルを呑んだ訳ではありませんね」
「えっ、それはどういうことですか」
「池上加奈子さんは木戸悠太さんを殺してはいませんよ」
柳田は煙草を捻り潰した。
「だって、坂井は加奈子からもらったカプセルを悠太に渡したと」
「それは嘘です。坂井さんの上着のポケットから出てきたものがそのカプセルです」
竜也は気色ばんだ。
「あのあと木戸さんの遺体はすぐに司法解剖に回されました。カプセルは胃の中ですべて溶けてしまったかというと、そうではありませんでした。その一部がわずかに残っていました」
「それで?」竜也は思わず立ち上がった。
柳田も腕組みを解いて姿勢を正した。
「そのカプセルの残骸の色は・・・・・オレンジでした」