第5章
第五章
1
阿佐ヶ谷にあるパールセンター商店街にその店はあった。
薄汚れた狭い階段を上ると、「木の葉」という木彫りのプレートが掛かっている。
うなぎの寝床のような作りをした薄暗い店だ。その一番奥の席に二人は座っていた。
「悠太はあの薬を呑んだんだよ」
「あのカプセルが何か問題なの?ただの風邪薬じゃない」
「悠太はあの薬を呑んだあとすぐ倒れたんだよ。僕は見ていた」
「あなたがあのカプセルを悠太に渡したの?」
女は声を潜めながらも激しい口調で訊いた。
「やっぱりそうか、あのカプセルは毒薬だったんだ」
「違うわよ。もしそうだとしたら、たぶん間違えたのよ」
「誰が間違えたんだ?お前に薬を渡したやつか?」
女は言葉を呑み込んだ。
「今は言わなくていい。じゃぁどうしてあんなカプセルを僕にくれたんだ」
男の顔には無念さが滲み出ていた。
「・・・・・そんな、中身のことなんて知らなかった。ただの風邪薬のはずよ」
「毒薬が風邪薬?君は僕を殺そうとしたんだね。そういうことだろう?」
「そんなはずないわ。私、何も知らない―。あれは風邪薬よ」
女は更に語気を強めた。
「『風邪大丈夫?この薬、とても効くらしいのよ。寝る前に呑むといいわ』ふ~ん、よくそんな嘘が言えたなぁ。あれは青酸カリじゃないか。どういうことなんだ。えっ?間違いじゃ済まされないぞ―」
男は蛙を睨む蛇のように、舌で上唇を舐めた。
「だから悪意はなかったの。入手経路で何かの間違いがあったんだわ」
「僕の風邪を気遣って、なんて嘘っぱち。よく言えたもんだ」
女は返す言葉がなかった。
「悠太が、『このところ風邪が治らなくて、今夜は早めに寝ますよ』なんて言うから、彼に渡してしまったよ。そんな危険な薬だなんて知らなくてね」
男は冷ややかに、顔の右側をピクつかせた。
しばらく沈黙が続いた。
「やっぱり・・・・・。大変なことしちゃった。でも、すべてあなたのせいよ。あなたが私にいやがらせばかりするから・・・・・」
女は唇を震わせた。ガチガチと歯音がした。
「私これからどうしたらいいの?」
「僕が君にしたことなんて可愛いもんだよ。でも今回の件は違う。僕は不可抗力。君は殺人罪だよ」
女は小刻みに体を震わせた。
目からは大粒の涙が零れ落ちた。
「まぁ落ち着いて考えろよ・・・・・警察にはとりあえず内緒にしておいてやるから、娘と会わせてくれよ。それくらいいいじゃないか」
「それだけはやめて。私の家庭が壊れるから、何度も言ってるじゃない」
女は上目遣いに男を見た。そして両手を合わせて懇願した。
「自分だけ幸せな家庭を築いていいよね。だって、今回の原因を作ったのは君だろう。僕は君の家庭の幸せに貢献しているんだからね」
男はニヤリと不敵な笑いを浮かべた。
「まぁ、君の出方によってはなかったことにしてあげるから、今の話うまくやってくれよ。言っておくけど、君は殺人犯だ。それをしっかり自覚することだね」
女は両手で覆った顔をテーブルの上に伏せた。
男はポケットに手を入れ、一錠の白いカプセルを軽く触った。
薄笑いが冷たい空気を凍らせた。
2
「先日はお疲れさま―」
「そちらこそお疲れさま」
聡美は竜也と会った日の翌日、玲子と二人で高円寺の焼肉屋に行った。日曜日で店はごった返している。
「私、昨日も焼き鳥屋さんで飲んだのよ」
「ふ~ん、聡美も忙しいのね。例の彼と一緒?」
「残念、会社の同僚とよ」
聡美は嘘を隠すために照れ笑いを浮かべた。
「でも聡美はいいわねぇ。今から夢が広がっていくわね。私なんか、二人の子持ちオババ。今からじゃ再婚もできないだろうしね」
玲子は諦め顔をして、カルビを口に放り込んだ。
聡美は嘘を後悔して一瞬下を向いた。
「ところで話は変わるけど、玲子はどうしてクラス会を思いついたの?」
「だから前にも言ったように、松本にいる弟から聞いたのよ」
「弟さんから聞いたのは知ってるわ。ただそのあと開催しようと思ったきっかけは何?普通ならふ~んで終わっちゃうじゃない。特に坂井先生は一部の学生にしか人気がなかったし・・・・・」
聡美はあの事件のことを言おうとしたが、幹事がせっかくやってくれたことにケチをつけるのも悪いと思い、言葉を濁した。
「子どもの受験の件で、バタバタしてる時だったんだけど。たしか十一月の初旬だったかなぁ・・・・・。実は加奈子と由香里が勤務先に寄ってくれたの。それで先生が転勤で東京に来たことを話したら、それにかこつけてみんなで飲まない、って話になったの」
「ところで誰が言い出したの?」
「う~ん、よく覚えてないなぁ。二人のどちらかだわ。良二に相談したら、彼も賛成してくれたらしいわよ。私は本当は乗り気じゃなかったもの。しぶしぶって感じかなぁ」
玲子は屈託のない顔で、すでにカルビを三皿たいらげている。
「じゃぁ、あの二人が発案してくれてたんだぁ」
聡美は嬉しそうなふりをした。
「そうよ。あの二人は坂井先生のファンじゃなかったっけ。よく覚えてないけど・・・・・。あの良二でさえ乗り気だったみたいよ」
「そうだったかしらね」
聡美は、二人が先生を忌み嫌っていたことを覚えていたが、いいかげんに玲子に返答した。
聡美と玲子はかなりの量の肉を胃袋におさめたが、まだ足りないのか、更にロースを三皿注文した。
「ところでさぁ、今週はもうクリスマスね。何かああいうイベントって、最近いやになっちゃった」
「何言ってんの。結婚間近な彼がいるのに。私なんて子どもと三人でクリスマスやるのよ。楽しいけど・・・・・やっぱり彼がいない寂しさもあるわ。聡美に彼がいなかったら、うちで一緒にワイワイやるのにね」
聡美は、嬉しい~、と思わず言いそうになったが、歯をくいしばって言葉を呑み込んだ。
「もし彼の都合が悪くなったら、行ってもいいかなぁ。楽しそうだもの。私の彼、結構忙しいのよね」
聡美はまた一つ嘘を重ねた。
「でも早く言ってよ。準備の都合があるからね」
玲子は大口を開けてロースを頬張り、ジョッキのビールを飲みほした。
結局、焼肉を前にして、死んだ悠太を悼む話題は出なかった。
聡美は選んだ店が悪かった、と後悔した。しかしクラス会の発案者が分かり、これでまた竜也に連絡ができると、少し胸を撫で下ろした。
「もしもし、竜也。遅くにごめんね」
聡美はその夜、早速竜也に電話を掛けた。妙に殊勝な話し方だった。
自転車でも竜也のマンションはすぐだ。本当は部屋まで訪ねたかったのだが、独りよがりのメールで竜也と別れた過去を思い出し、聡美は自重した。
「うん、どうした?」
竜也は、今二人が別々にいる場所は善福寺川で繋がっているんだ、と思うと、少し胸が切なくなった。
そういえば昔の二人の住まいも、地下鉄東西線で結ばれていた。
「今日会ってきたわ。例の件、やっぱり玲子じゃないって。言い出しっぺは加奈子と由香里だってさ」
「やっぱりな。二人のうちのどっちか一人が、先生と深い繋がりがあるような気がするんだ。その中身は分からないんだけど・・・・・それが今度の事件に関係してる。なぜかそう思えるんだ」
「でも、加奈子は悪いことできる人間じゃないし、由香里は普通の主婦よ。あまり関係ないような気がするけどね」
「だといいけどね・・・・・。でも悠太が死んだんだ。とにかく先生にも会ってみるよ」
「うん、お願いね」
聡美は電話口で少し躊躇して、軽く咳払いをした。
「ところで竜也、今週の土曜日空いてる?」
「どうしたの、俺に何か用事でも?」
「ほら、今話題になってる映画、『太陽の沈まない日』あれ観たいなぁ、なんて思ってたの。一人で行くのも何だしね」
「うん、面白そうだよね、あの映画。でも土曜日は生憎クライアント主催のクリスマスパーティーでさぁ、顔を出さないといけないんだ。日曜は会計士試験の講習会。年末は忙しくていやになっちゃうよ。少しのんびりしたいんだけどね。まぁ正月だけは松本でゆっくりするよ」
「そう、忙しいのね。・・・・・じゃぁまた」
聡美は肩を落として電話を切った。
今週の土曜日は二十四日だった。
結局、課長になり四十三歳になった今、自分の周りには誰もいなくなったことに、聡美は改めて気づかされた。
「仕事、仕事、仕事・・・・・その中では何も得られなかったし、将来的にも何も得られやしないわ」聡美は切られた電話に向かって大きなため息を吐いた。
あの時の決断は明らかに間違っていた、と聡美は物悲しい気分に襲われた。
不満の中で自分にない物ばかりを追い続けていたら、そばにある大事な物をいくつも失っていた。課長を目指した三十八歳の時は、周りからチヤホヤされたけど、最初の昇格試験に落ちてからはみんな腫れ物に触るように接するだけ。そして四十三でやっと課長。そんな歳で課長になっても、世間では珍しくもないし、社内的に利用する価値もない。だから誰も自分のことを相手にしなくなった。いったい今の私は何なの?聡美は心底そう感じた。
「玲子、やっぱり二十四日は彼忙しいんだって」すぐに玲子に電話を入れた。
玲子は喜んで聡美とのクリスマスパーティーを承諾してくれた。
「了解よ。でも子どもがいて五月蠅いわよ~」
「いいの、いいの。その方が楽しいわ」
聡美は今年も彼のいない聖夜迎えるのか、と思うと、急速に気分が萎えていくのを感じた。
3
二十四日、午後五時。玲子のマンションのインターフォンを鳴らした。
このマンションに来る途中、百貨店で買ったと思われるプレゼントを抱えたカップル、子どもを抱いた夫婦、そんな二人が談笑する光景をいやというほど見せられた。聡美のこころは沈んでいた。
「いらっしゃい。散らかしてるけど、ごめんなさいね」
玲子はエプロンを取りながら迎えてくれた。
「おじゃまします。これつまらない物だけど」
聡美は有名店のクリスマスケーキを差し出した。
玲子は礼を言ったあと、リビングで二人の子どもを紹介してくれた。
「この子が長女の美咲。今、中野城西高校に通ってるの。もうすぐ受験よ。だからもう大変なの―。こっちが長男の慎之介。今年高校に入ったばかりよ」
「こんにちわ。わぁ、二人とも玲子にそっくりね」
聡美の笑いは冷めていた。
あまりお客が来ることがないのか、二人ははにかみながらソファーに座ったままでペコリと頭を下げた。
「城西高校なら優秀ね。そう言えば坂井先生と一緒じゃない」
すると、美咲は無表情になって、わずかに首を傾げた。
部屋は思ったより広い。八畳ほどのダイニングに、その倍以上はあるリビングが続いていた。
食卓用のテーブルを、リビングに移動してくれていたようだ。
広いリビングに食事の支度がしてあった。
「お腹が空いたわ。もう食べましょうよ」
四人がテーブルにつくと、慎之介がシャンパンを開けてくれた。
場の雰囲気は坦々としている。
玲子特製の「ローストチキン」がメインだ。そしてスープ、魚料理、サラダなど、沢山の料理が食卓を飾った。
食事が始まっても、二人の子どもは無口だった。玲子も無理に話しかけようとはしない。
聡美は少し気を遣いながら、映画とか本の話題を出してみた。
「最近観た映画で良かったのは『大震災の夜』観た?本はベストセラーの『向日葵の咲く草原』面白いわよ―」
しかし二人は、コーラを飲みながら、鶏のもも肉を頬張って「うん」とか「はい」とか、空返事で答えた。
聡美は二人の態度を云々するより、今の自分のことを振り返った。
自分が未だに独身でいるから、気がつかなかったのか。高校生などという世代とは、もう話題を作れなくなってしまっている。
じゃぁ、誰と話題を共有できるというのか?昔の懐かしさに浸れる同級生だけじゃないか。仕事にかまけて、若者のことを知ろうとしなかったのか、中年の女になってしまったのか、今の時代から完全に隔離されてしまったような気がした。何も自分より年下の世代とは限らなくても、年上の世代に対しても同じことだった。
自分にも、玲子と同じような年頃の子どもがいてもおかしくない。
いや、いるのが普通だ。玲子は二人の子どもを育てながら、マンションも買った。薬剤師の仕事も生き生きとこなしている。そして離婚も経験した。それに比べて自分はどうなの?
クリスマスを一緒に過ごす彼もいない、当然子どももいない、持ち家もない、課長といっても部下すらいない。
「すべて、ないない尽くしの人生よ」聡美はぼそっと呟いた。
「どうしたの、聡美。何か言った?」
「あっ、ごめん。少し考え事してた」聡美は我に返った。
すでに、美咲は自分の部屋に戻って勉強を始めている。慎之介はテレビのそばでゲームに熱中していた。
聡美は完全に無視されてしまったのだ。人間的な魅力も、面白い話題も、それこそ何もない自分に、酷く落ち込み自己嫌悪した。
聡美はその場の雰囲気に耐えられなくなり、話題を変えた。
「玲子は料理が巧いのね。感心しちゃう。私なんてしばらく作ったこともないわ」
「それに越したことないじゃない。私だって、仕事を終えてから料理なんて作るのいやよ。でも生きるためよ、子どもと一緒に生きるためよ。仕方ないわ。子どもを産んで育てることって、人生の大仕事よね」
「私は、その大仕事をしていないの。大仕事もしていないのに、小さな仕事に対して不満だらけ、それじゃだめだよね。こんな女、誰もお嫁さんにもらってくれないわ」
玲子は額に軽く手を当てて、しまった、という顔をした。
「聡美、なに弱気なこと言ってるの。来年産んじゃえ。その彼と早く入籍して、産んじゃえ、産んじゃえ」
「まだ式も挙げてないのよ」
「そんなのあとでいいの、式の前に作れば―」
「だって式を挙げてからじゃないと変でしょう」
「もうそんなこと言ってる歳じゃないでしょう。あなた、生きることにもっとがむしゃらにならなきゃ。来年から未婚で産まない女は税金が増えるのよ。知ってるでしょう?産んで育てる女に対して、母親の負担を認めてくれたのよ、国は」
「・・・・・そうだよねぇ」
「そして、すぐ産休取っちゃうのよ。どうせ課長っていったって、たいした仕事してないんでしょう?産めるなら、今産むべきよ」
産めるなら産むべき・・・・・。まだ産めるのだろうか。
「それは、そうだけど・・・・・」
玲子の励ましも何だか虚しかった。
聡美はまた嘘を重ねた。
二人は既にシャンパンと白ワインを空けていた。
お互いに赤くなった顔を笑いながら、飲み物をレモンサワーに替えた。
そして話は高校時代のことに及んだ。
4
スピーカーからチャイムが鳴った。
今から校内放送を流すという合図だ。
「本日、午後三時より、体育館で全校集会を開催いたします。全校生徒は遅れることのないよう、五分前に集合してください。繰り返します・・・・・」
梅雨明けとともに、目が眩むほどの強い日差しが降り注ぎ、校庭には陽炎が揺れていた。
三年C組の由香里と玲子は、生徒食堂でカレーを食べている最中だった。
「何かあったの?」玲子が怪訝そうな顔をした。
「あの子のことかなぁ。和子がこの四、五日無断欠席してるじゃない。何かあったんじゃないの」
由香里はスプーンの動きを止めた。
「そんなことで全校集会?違うわよ~」
「でも、朝から自習ばかりだし、先生方の動きも慌ただしいわ」
「じゃぁ、事件でもあったの?」
「分からないわ。でも周りを見てごらん、やたらひそひそ話ばかりだよ」
「そうね、何かあったのかなぁ」玲子は福神漬を前歯でカリッと噛んだ。
その時、二つ隣のテーブルから、女生徒の話声が微かに聞こえた。
「今朝早くに、永島病院に運ばれたらしいわ」
午後三時、重たい空気が漂う体育館に生徒全員が集合した。
一学年六組、全校十八組の生徒が、クラスごとに男女に分かれて並んだ。
分かれて並ぶ男女の列の前には、各々のクラス担任が沈痛な面持ちで立っていた。
館内は夏だというのにひんやりとしている。
教務主任の井上が、バーコード頭にハンカチをやりながら司会用のマイクの前に立つと、館内は潮が引くように静かになった。
「えぇ―、本日緊急に集まっていただいたのは・・・・・みなさんにお知らせしなければならないことがあります。三年C組の女子生徒が今朝亡くなりました。その詳細について校長先生より詳しく説明いたします」
館内は潮が満ちるように、大きな騒めきが渦を巻いた。
それが頂点に達した時、校長が舞台のそでから姿を現した。
校長は、からだ全体を震わせて、和子の死が服毒自殺だったこと、また原因がまだ解明されていないことなどを涙ながらに説明した。そして最後に、なぜ教師に相談してくれなかったのか、と学校側の責任を回避するようないい訳に触れた。
その途端、沈黙した集団の間から、数名の生徒がヤジを飛ばした。
館内はまた騒然として険悪な雰囲気に包まれた。担任教師は生徒たちを制止しようとしたが、更に大きな怒号が渦を巻いた。
すると一人の生徒が立ち上がり舞台に駆け上がった。
その男子生徒は川瀬良二だった。
「学校に相談がないなんてよく言えたもんだ。梨田和子が死んだのはあの先生が原因じゃないか。あいつが和子を孕ませて死なせたんだろう。原因が解明されてない?なぜそんな嘘を吐くんだ。お前らの責任だろう。和子を返せ」
館内は一瞬のうちに静まり返った。
その後夏休みに入ったが、和子の事件は噂が噂を呼び色々な憶測が飛び交った。
教え子の和子が坂井と付き合っている、という噂は、最初は本当に軽微なものだった。和子は高校に入学した時から上昇志向を表に出す女だった。放課後、教師に授業内容の質問などを繰り返しているうちに、媚びているように取られ、噂が大きくなってしまった。
しかし、なぜ良二があんな場所で、渾身の力を込めて事件の真相らしきことを訴えたのか、またどこから情報を得たのかは誰も分からなかった。
もちろんそれが事実なのかどうかも・・・・・。結局あの事件は学校の七不思議に終わってしまった。
七月下旬、予備校の夏季講習の帰りだった。
「やっぱり和子を孕ませたのは担任の坂井だったのね」
加奈子はアイスクリームを舐めながら、玲子の表情を窺った。
「本当にそうなの?だって・・・・・良二はあの時実名を出さなかったじゃない」
「玲子、ばかねぇ。教師だってことは明言したじゃない。それに和子とさぁ、噂があったのは坂井じゃない。だから真実だった、っていうことよ」
「でも和子は悠太と付き合ってた、って噂もあるわよ」
「それは悠太が和子のことを好きだった、ってことよ。あの子は二人の男と付き合えるほど器用じゃないわよ」
「そうかもね。放課後の補習で先生と二人っきりのことがよくあった、って聞くけど、反対に悠太と歩いてるとこなんて見たことないもんね」
「そうよ、その通り。でも何で和子は死んだのかなぁ。そこまでしなくても・・・・・」
加奈子はアイスクリームのコーンの尻尾を口に放り込んだ。
「和子のおやじさんは県会議員で選挙の前だし・・・・・それと彼女、お嬢様学校の『清和女学院大』を狙ってたのよ。それがあったんじゃないの」
玲子は由香里から仕入れた情報を加奈子に伝えた。
「そうか、おやじさんの顔を潰すことで悩んでいたのか。それと妊娠したら受験どころじゃないしね」
「でも考えたら、和子ってやることやってたのよね」
「みんなやることやってんのよ。高三のヴァージン率って五割切った、って言ってるもんね」
加奈子は人差し指で玲子の鼻の頭を突っついた。
「えぇ?みんなそうなの。加奈子もそう?」
「そうかもね、想像に任せるわ」
加奈子は下唇を突き出して、自慢げに右の頬を指で掻いた。
「坂井君、もう一度訊くけど本当に違うんだね」
校長の佐藤は校長室のソファーで坂井と対面した。
「何度訊かれても同じです。私ではありません」
「でも、町でも噂が立ってるよねぇ。梨田君の子どもの父親は君だって。火のない所に煙は立たないだろう」
「それは多分・・・・・梨田議員と永島病院が推進する遊休地の払い下げに、うちのおやじが強く反対しています。その反対派を潰そうとする輩の捏造ですよ」
「そういう政治の話はどうでもいいんだよ。君が本当に父親じゃないのならね。明日、教育委員会が君に事情聴取をしたいらしいよ。父兄からの苦情で困り果ててるということだ」
「分かりました。自分でもそれなりの覚悟はできています」
坂井は正面を向いたまま右頬を引きつらせた。
佐藤は煙草をもみ消して席を立った。
結局、和子を妊娠させた男は判明しなかったが、生徒と父兄に不信感を与えたという理由で、坂井は二週間の謹慎処分を言い渡された。しかしその後すぐに夏休みに入り、処分はあやふやなものに終わってしまった。
「夏休みも、あっという間だったわね」
竜也と聡美は部活の帰りが一緒になった。
バスが来るまでには少し時間がある。二人はバス停のベンチに腰掛けた。
「今から受験勉強も終盤だな。聡美はしっかり勉強してるの?」
「やってるわよ。私は東京の大学をいくつか受けるわ。竜也はどうするの?」
「僕は・・・・・実家は継がないよ。京葉大学でサッカーをやる」
「いいわねぇ。推薦でしょう?」
「推薦だって受験はあるさ。そう簡単には入れてくれないよ。僕も落ちた時のためにいくつか受けるよ」
「じゃぁ、お互い東京ね。松本を離れるのは少し寂しいけど、何だかワクワクするわ。私もバスケはもう終わり、真剣に勉強頑張るわ」
「その方がいいよ。もういやなことは忘れよう」
竜也はジャムパンをバッグから出して齧り始めた。
「聡美もどうだ」
「ありがとう。いただくわ」
おさげ髪の聡美は少し頬を赤らめた。
「でも・・・・・やっぱり気になるわ。和子の相手は誰なのかしら。名乗り出ないなんて卑怯よね」
「坂井先生も怪しいし、悠太のことを彼女好きだったみたいだし・・・・・永島君のお兄さんがあのあと失踪したのも不思議だなぁ」
「兄貴のことと和子の件を一緒にするなよ。兄貴は無理やり医大に行かされて悩んでいたんだ。多分おやじのコネで入学したんだと思うよ。たぶん授業にもついていけなかったんだ。それと坂井と悠太のことだけど、あまり疑うな。証拠もないじゃないか」
「ごめんなさい。もう考えないことにするわ」
聡美は足もとの石ころを思い切り蹴飛ばした。