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第2章

第二章

 1


 竜也が住む浦安のマンションは二十八階建てだった。

二十五階の角部屋のテラスからは正面に東京湾が望める。その沖の羽田では飛行機が引っきりなしに離着陸を繰り返していた。

結局、竜也はゴールデンウィークを連日部屋の中で過ごし、今日がその最終日だった。

何度も会社に行って溜まった仕事をこなそうと思ったが、からだがいうことを利いてくれなかった。

休み中は段々落ち着きがなくなり、テレビをじっと見ることも新聞を読むこともできなくなっていた。

集中力を完全に喪失していたのだ。

そして突然かかってくる電話にもビクビクするようになり、理由もないのにドキドキと激しい動悸が続いた。

体重計に載ってみた。四月の初めに比べると、五キロも痩せている。そういえばろくに食事もしていないし、睡眠も一日二時間ほどしか取れていなかった。

とにかく食欲がまったくないし眠れない。

ネットで病状を調べてみた。疑われるのは『ガン』そして『うつ病』だった。

学生時代はサッカーもやっていて体力には自信があったし、人事部の仕事もそつ無く几帳面にこなしてきた。

『うつ病』に目がいったが、「そんなはずはない」と竜也は独り呟いた。

しかし四六時中、絶望感と倦怠感が同時に全身を襲ってくる。

ふとテレビを見ると画面の上部に速報のテロップが流れた。

『木村農水相が自殺。今朝軽井沢のホテルで発見される』

しばらくして各局がニュース特番を流し始めた。

贈収賄事件で追い詰められての自殺だった、といつもの気だるい顔をした女性アナウンサーが伝えている。

いつしかアナウンサーの声も耳から遠ざかっていった。

竜也はさらに気が重くなってきた。キッチンまで這っていき、冷蔵庫から白ワインを取り出した。

今日は何も口にしていなかったし、今が何時なのか時間の感覚もない。

ベージュの革のソファーに身をゆだねて、朦朧としている頭で思考を巡らせた。その思いとは、単に今の状況からどうしたら逃げ出せるかだった。

「人間って儚いものだな。俺も死んだら楽になるのかな」

 竜也は短い時間でワインを空にしてまどろんだ。


 しばらくして携帯がメールの着信音を鳴らした。

達也はドキっとして携帯を手にした。その手が震えているのが分かる。

 ディスプレーを見ると聡美からだった。

 途端に、こころに淡い光が射し、表情が少し和らいだ。

「あぁ―聡美だ。聡美が戻ってきてくれるんだ。ふぅ、良かった。これで助かった」

 竜也の目に安堵の光が戻った。

【無題】本文を開いてみた・・・・・。

【もうお終いにしましょう。何度話しても同じことです。二度と連絡しないで下さい。今までありがとう。さようなら】

 それを見た瞬間、竜也は顔を覆い、ソファーにうつ伏せに崩れた。肩が痙攣するように震えている。ソファーの上に戻した嘔吐物が

頬に触れた。その生温さが、その日唯一の暖かさだった。


竜也は翌日銀行を休んだ。からだが思うように動かない。

朦朧とする意識の中で病院に予約の電話を入れた。

泥酔した時のように呂律が回らない。「恥ずかしい―。情けない―」

今の俺は、本当に東洋銀行のエリート行員なのか・・・・・。

まるで幼い子どものように、たどたどしい言葉で病院の受付に病状を伝えた。

しかし近くの大学病院は、すでに一か月先まで予約が一杯だった。

絶望感で、指の先が硬直したかのように思えた。

しかし、何とか気力を振り絞って、震える手で更に携帯のボタンを押し続けた。何軒か電話を掛けるうちに、地元の北栄にあるメンタルクリニックが予約に応じてくれた。そこはありがたいことに、紹介なしでもいいから午後に来い、と言ってくれた。

竜也の目から止処なく涙が溢れた。止めようとしても、どうにも止まらなかった。

午後二時にその病院で診察を受けたが、診断はやはり「うつ病」だった。それ以外に考えられない、と医者は冷たく言い放った。

その診断を聞いた途端、竜也は会社に対する申し訳なさと、もうどうにでもなれ、という投げやりな気持ちでこころが錯乱した。

落ち着こうとすればするほど、聡美のメールが容赦なくからだに突き刺さり、全身をズタズタに傷つける。

竜也はこころからの出血を何とか抑えながら、すぐに実家に戻れ、という医者の指示に従い、会社に電話を入れて浦安をあとにした。


松本では三か月の療養の予定だったが、聡美を失ったことで病状は悪化の一途を辿った。

まったく回復傾向がみられず、失意の中で八月に銀行を退職した。

 その後年末になって、聡美への思いが薄れたころ、病状は少しずつ回復し始めた。

 そのころから、地元の同級生と交流を重ね、三月にはほぼ今まで通りの竜也に戻ることができた。

 ただし、竜也にその実感はまったくなかった。周りからの「治った」という言葉を鵜呑みにしただけだった。はたしてみんなは「うつ病」を発症する前の自分を本当に知っていて、治ったと言ってくれているのだろうか?

いや、自分と一緒に暮らしていた訳でもないのに、過去の自分と比べられるはずがない。竜也は自分の病気の治癒に疑問を抱えたままだった。

 そして発症して一年が過ぎ、新緑の五月を迎えた。

 地元で税理士をしている叔父からの勧めもあり、現在勤務する渋谷の会計事務所に就職することになった。

 当初父親からは地元松本での就職を強く勧められたが、東京で負けたままでは気持ちに整理がつかず、再び東京に戻ったのだった。


 2


 聡美は「スーパーあずさ」の窓から新緑の景色を眺めていた。

「どうして竜也はあんなに弱気になったんだろう。顔色も冴えないしかなり痩せてもいた。なぜもう少し待てないのかしら」

聡美は考えを巡らしたが竜也の気持ちは理解できなかった。

六年前、三十二歳の時だった。聡美には結婚を考えた男がいた。しかしその男には経済力がまったくなかった。ギタリストだった男は、腕もないのに夢ばかりを追っていた。

あげくの果てにうまい話で聡美をだまし、彼女が爪に火をともすようにして貯めた三百万を持ち逃げしたのだった。

その後、自己嫌悪と後悔に苛まれながらも、聡美は男に頼らず仕事に生きることを固くこころに誓った。

そんな時、竜也と運命的な出会いをした。

竜也が勤務する「東洋銀行」と、その系列会社である聡美の会社「富士生命」が共同開催した交流会でのことだった。

あまりの偶然に運命的なものを感じて、二人はその時から付き合い始めた。

それから五年、竜也は経済力も社内的地位も手中に収めた。

しかし結婚したら自分の野心が消え失せる、と聡美は結婚に踏み切れないでいた。

 

 聡美の実家は、松本城の北側の旧開智学校のすぐそばにある。

 ゴールデンウィークの七日間実家に滞在したが、近所の叔母から永島家の実しやかな噂を聞いた。

竜也の実家は聡美の家から歩いて十分ほどのところにある。家は松本の名家で、「永島病院」という総合病院を経営している。叔母はそこに産婦人科の看護師長として勤務していた。

叔母の話によると、「永島病院」は現在外科部長をしている竜也の姉婿、茂樹が継ぐことが既成の事実となっている。県内の医科大に進んだ長男の裕也が失踪して久しいからだ。しかし父親である院長の謙造は実の息子に継がせるという望みを捨ててはいない。秘密裏に竜也の嫁を決めて、竜也を松本に呼び戻し、病院の事務長職に就かせるという話が進んでいた。実質的な経営を竜也に託したいと思っているらしい。

その嫁選びはすでに具体的に進んでおり、松本の老舗和菓子屋「孔雀堂」の三女美和子が候補に挙がっているということだった。

聡美は大きなショックを受けた。その日の夜、真剣に竜也とのことを考えてみた。

『竜也はその事実を知っていて、私との結婚を急いでいるのだろうか、それともその事実をまったく知らないのだろうか。どちらにしても将来竜也が病院を継ぐことは間違いない。もし嫁いだとしても竜也の家と私の家とでは格が違う。ましてや松本で暮らす気など毛頭ない』

 聡美は、今まではっきりしなかった自分も責めた。見たこともない「孔雀堂」の美和子にも嫉妬した。大病院の経営者になるという竜也の将来をも羨んだ。

竜也に対する猜疑心が、時の経過とともに彼女の苛立ちを募らせていった。

 悩みに悩んだあげく、結局聡美はゴールデンウィークの最終日に、竜也に別れのメールを送ったのだった。

【無題】

【もうお終いにしましょう。何度話しても同じことです。二度と連絡しないで下さい。今までありがとう。さようなら】

 もちろん竜也は聡美のこころの葛藤など知るよしもなかったし、聡美は聡美で、そのころ竜也が「抑うつ状態」にあることなど知るよしもなかった。

 聡美のメールが送信された途端、携帯の画面に青白いが閃光が走った。



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