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第1章

この作品は、以前仕事で松本に行った時、そばを流れる綺麗な女鳥羽川を見て、浮かんだストーリーを小説にしたものです。

橋の上には、じゃれあいなが下校する高校生の姿がありました。

小説を書き始めたころでしたので、拙い文章ですが、男子のせつない愛を描いています。

第一章

 1


 秋の夕暮れは早かった。

四時だというのに太陽はもうビルの谷間に陰り始めていた。

 聡美は新宿で山手線を降りると、反対側のホームに停車している総武線の電車に飛び乗った。

途端にプシューッと音を立ててドアが閉まった。

 後ろから三両目の車両はわりと空いていた。後方を見ると優先席に一つ空きがある。

少し抵抗を感じたが疲れがそれを打ち消した。聡美はゆっくりと壁ぎわの席に腰を下ろした。

 今日は土曜日だが客とアポイントが取れ、自由が丘で仕事を済ませて自宅に帰るとこだ。

 聡美はすぐに営業バッグから文庫本を取り出し、お気に入りの推理小説を読み始めた。

 二頁ほど読んだところで、車内アナウンスが「中野」の駅名を告げた。

 聡美がふと壁ぎわの窓から後の車両を見ると、つり革につかまる男の横顔が見えた。

 あれっ、と思ったが、他人の空似だろうと瞬間的に視線を逸らした。

 本を閉じ、しばらく目を瞑って考えてみた。そしてまたそっとその男に視線を向けた。

 聡美は突然目を大きく開くと、男に気づかれないように瞬時にまた目を逸らした。

 男の顔は横顔しか見えないが、着ているレモン色のセーターは紛れもなく聡美がその男にプレゼントしたものだった。

左胸のところにある緑色の刺繍がそれを証明している。聡美が自分で縫いつけたものだ。

胸の鼓動が少し早くなった。トキメキに近いような感情が湧きあがる。

まさかではなく、その男は間違いなくあの人だ。

聡美は男の目から隠れるように顔を深く沈めた。


 

電車がポイントを通過すると、車両が大きく揺れた。

竜也はつり革をつかむ手に力をこめたが、体は右側に大きく振られた。

その拍子で右の方に顔が向いた。

その瞬間、壁側の窓を通して、前の車両の優先席に座っている女が目に入った。

かなり俯きかげんで本を読むことに集中している。

下を向いた横顔しか見えない。髪を青いシュシュでまとめているが、前髪が少し乱れている。

竜也は気になりながらも、顔を正面よりも少し左に戻した。

竜也は現在渋谷の会計事務所に勤めている。今日は恵比寿のクライアントとの打ち合わせを済ませ、自宅に帰るとこだった。

しかし気になる。正面から見れば分かるはずだが・・・・・どこか似ている。

右耳に光る小さなピアスは確か・・・・・でもあんなピアスなんてどこにでもある。

竜也はもう一度その女の方を向いた。西陽が窓に反射して眩しい。

深く俯いた女の顔はほとんど見えなくなっていた。



車内アナウンスが「高円寺」を告げた。

聡美は開いた文庫本などまったく見ていなかった。

少しからだを左に向けて、俯いたままでじっと考えてみた。

どうして彼が総武線に乗っているの?彼は千葉県の浦安に住んでいるはずなのに。

聡美が住んでいた高田馬場とはまったくの反対方向だった。昔は東西線で何度も浦安に通った。

左手に抱えたケーキ屋の袋は家族へのお土産だろうか?考えると聡美の頬は少し熱を帯びた。

聡美が住む「荻窪」の駅が近づいてきた。

もし彼がこの沿線に住んでいるとすれば、「荻窪」か次の駅の「西荻窪」。もしかしたらその先の「吉祥寺」または終点の「三鷹」。

聡美は次の駅から終点までの四つの駅を、指を折って数えてみた。

まさか「荻窪」ということはないだろう。

胸の鼓動が激しくなってきた。


 

車内アナウンスが「荻窪」を告げた。

 その女はすぐに立ち上がりドアの方に向かった。とても急いでいるように見える。

竜也はその女の姿を目で追ったが、車内に立つ客に阻まれて女の顔ははっきりと見えなかった。

年齢に相応しくない、就活を思わせるような黒いスーツが、幅広の肩を誇張している。



電車を降りた聡美は、自分が乗っていた電車に抜かれないように、小走りで改札へ下りる階段へ向かった。

どこに住んでいるのだろう?聡美は南口の改札を抜けて立ち止まった。

間違いない、あの人は竜也だ。

そう確信したとたん聡美は自分の姿を省みて、黒いスーツをパタパタと叩いた。

こんな子どもみたいなスーツ着て来るんじゃなかった。髪も乱れているし、化粧もすでに取れかかっている。



車内アナウンスが「荻窪」の隣の駅「西荻窪」を告げた。

 竜也は静かにホームに降りた。

 あの走り方は・・・・・ひょっとしたら聡美だったのだろうか。

 昔バスケをやっていた彼女は跳ねるような走り方をする。竜也はそれをよくからかっていた。

でも聡美は高田馬場に住んでいるはずだ。昔はよく浦安から通った。二つの駅は地下鉄の東西線で結ばれていた。

あの女は本当に聡美なのだろうか?

だとしたら今日は仕事だろうか、なぜ荻窪で降りたのか。

 竜也は北口の改札を出ると、そのことを考えながら商店街を歩いた。



聡美は自転車で環八通りまで出て、善福寺川のそばのハイツに向かった。

去年高田馬場から越して来たのだった。

昨年は未曽有の大不況で年棒が大幅にカットされた。住宅手当も例外ではなかった。

そのため部屋代が安くて交通の便がいいところを、方々探し歩いてやっとここに落ち着いたのだった。

環状八号線を走る車の騒音が少々五月蝿いが、部屋代を考えると仕方がなかった。

 そのハイツは二階建てで十戸すべてが2DKの造りになっている。

聡美の部屋は二階の一番手前だ。

 ドアの横にある郵便受けを開けると、スーパーのチラシに混じって一枚の葉書が入っていた。

 部屋に入ると、まずスーツをスウェットに着替え、煙草を吸いながらゆっくりとその葉書を手に取った。

 高校の時のクラス会の案内だった。差出人は「羽山玲子(旧姓田中)」

「何年ぶりだろう、懐かしいなぁ」聡美は思わず独りで呟いた。みんなと会うのは卒業以来だ。


 

竜也のマンションは北口の商店街を抜けたところにある。

五階建てのマンションの裏には大きな公園があり、そばを善福寺川が流れている。

 竜也は五年前、三十八歳の時にある重い病気を患った。

故郷の松本で一年ほど療養することになり、勤務先の銀行を退職した。

その時に浦安のマンションを引き払い、一年後に再び上京してこの西荻窪のマンションに住み始めたのだ。

 一階で郵便受けの中身を取り出してエレベーターに乗った。

竜也の部屋は五階の一番奥にある。

部屋に入るとダイニングの椅子に腰掛けて、早速郵便物とチラシの仕分けをした。

「例の葉書かな?」竜也はその表をじっと見た。

差出人は羽山玲子。「よし。やっと着いたか」

「あぁそうか、旧姓は田中だったな」竜也は括弧書きの「田中」という字を見て納得した。

その葉書は高校時代のクラス会の案内だった。

久しぶりだな、こんなかたちでみんなと会うのは。

こころは松本の高校時代に飛んだ。懐かしさと同時にわずかな緊張感が駆け抜けていった。

『日時』十二月三日(土)午後五時

『場所』渋谷パークシティーホテル2F「飛鳥の間」

東京在住のメンバーが対象だった。竜也はすぐに手帳を広げて詳細をメモした。


 2


 五年前、大量の不良債権を抱えて立ち往生する東洋銀行の中にあって、人事部に籍を置く竜也は、大胆なリストラを推進するプロジェクトチームのチーフに抜擢された。

その年の四月のことだった。

人員削減のための各部門の統廃合計画を策定し、ライン職を除く全従業員の過去五年間の人事評価を見直す作業に追われた。

六月からはその評価を元に全員の面接が開始されることになっている。

その評価によって、「強く退職を促す」はC、「なりゆき任せ」はB、「強く在籍を促す」はA、と行員を色分けしていくのだ。

 同時に退職を促す面接官の「面接マニュアル」作りも進められた。

 面接を行う上司は更に自分の上司に面接されるため、全員が全員に対して疑心暗鬼になることが予想された。

しかし準備の時間が限られており、その弊害を取り除く方法など考える暇もなかった。

とにかく人を減らすこと、それが与えられた使命だった。

結局竜也は、「疑心暗鬼な世界」を作りあげることに忙殺されることになる。


当時永島竜也は高校時代の同級生、川名聡美と付き合っていた。

交際五年目を迎える今年は、そろそろ彼女との結婚を考える時期にきていた。

しかしリストラという、人が人の人生を決める過酷な仕事で神経をすり減らし、その話を切り出せないでいた。

というよりも、そんな時間さえ会社から与えてもらえなかったのだ。

五月の連休を控え、竜也はこのままでは自分がだめになってしまう、と何とか二日間の休みを取った。

そして一ヶ月ぶりに聡美に会った。

 聡美は松本の実家に帰省する直前に時間を取ってくれた。


 新宿にあるホテルのラウンジはごった返していた。

「少し顔色が悪いわね、仕事大変なの?」

 カーキ色のジャケットにジーパンを履いた聡美は、セーラムに火をつけて竜也の顔をまじまじと見た。

「リストラのプロジェクトが遅れ気味なんだ、最近眠れなくてね」

竜也はコップの水を一口飲んだ。

「かなり無理してるの?」

 聡美は涼しげな目をして、薄い唇の間から細い煙を吐き出した。

「この歳になるとやっぱり一人じゃ大変だよ。こんなに仕事がハードになるとなおさらだな」

 竜也は結婚への信号を出したつもりだった。

「何弱気なこと言ってるの。私だって今年は課長昇格がかかってるから頑張ってるのよ」

「課長、課長って、そんなに大事なことか?」

聡美は少し怒ったのか、白い頬を歪めた。

「とにかく、課長になることが先。将来のことはそれからゆっくり考えたいの」

 聡美も結婚について考えてはいるが、今は時期が悪かった。

「でも俺たち・・・・・もう三十八だよ」竜也の話し方にはまったく力がなかった。

 竜也は結婚の「け」の字も口に出さなかったが、聡美は暗黙の了解でそれが結婚のことだと理解している。

「あのさぁ、よく考えてみてよ。今年はお互いの人生にとって大事な年なのよ。将来のことは来年じっくり考えても遅くはないわ。この時期しっかりやらないと、きっと後悔するわ。失ったら二度と来ないのよ。こんなチャンスは・・・・・」

聡美は語気を強めた。

聡美には明確な人生の青写真があった。

まず来年課長昇格を果たし、四十歳で結婚をして四十二歳で子どもを産む。そして定年の時に子どもは十八歳、その後五年間子会社で働きながら子どもを大学にやる。六十五歳からはゆっくりと好きなことをして老後を楽しむ。

 そのためには結婚後一年遊ぶとして、四十歳が結婚のリミットだった。

ただ今年結婚をして産休を取ることにでもなれば、課長昇格はおじゃんになる。そうなると出世の道は間違いなく閉ざされるだろう。

 だから来年の四月に課長昇格しなければ、自分の人生設計は完全に狂ってしまう、と聡美は頑なに信じていた。

 「だって・・・・・お互いに大事な時期って、それは聡美だけのことだろう。俺は幸せな家庭を早く作りたいんだ。俺にとってはそのことで大事な時期なんだ」

竜也は聡美の青写真など知るよしもなかった。

「もう同じことの繰り返しじゃない。いい、竜也。二人の将来のことでしょう。だから私にとって大事な時期は竜也にとっても大事な時期なのよ。少しは理解してよ」

聡美は少し興奮して二本目のセーラムを吸い始めた。

「じゃぁ、もし来年課長にならなかったら、一人で永遠に昇格を目指し続けるのか?」

 竜也も強く言い返した。その顔は血が失せたように青白くなっている。

「自分が大手銀行の人事部にいるからって、人事風吹かせないでよ。

だめだったこと考えてどうするの。前向きにやらないとチャンスはものにできないわ。あなたはいいわよ。一流大学を出てすでに出世コースに乗ってるんだから」

 聡美はそう言い放つと、電車の時間だからと席を立ってラウンジを出ていった。

 竜也は氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを一口飲んで、しばらく呆然としていた。

「うつ」の症状が進行していることを自分では気づかないでいる。

 聡美の最後の言葉がその症状に拍車をかけた。

それ以後、聡美の顔を見ることは総武線の出会いまでなかった。

 


続編あり。第1章~第10章 及び終章。

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