第93話 カラスマはミナトを知っている
鴉羽ミナトは、情報には鮮度があると教わった。
古い情報は腐る。
ただし、腐った情報にも使い道はある。
腐っていると分かっている者に渡せば罠になる。
腐っていると気づかない者に渡せば餌になる。
腐っていることを隠して流せば、誰がそれを食べるかで相手の腹の中が見える。
その考え方を教えたのは、カラスマだった。
ミナトがまだ、情報をただの金に換えられるものだと思っていた頃。
裏市場の安い端末を握り、どの探索者がどの違法ギルドに移るか、どのダンジョンで死亡事故が隠されたか、どの企業がどの管理局職員へ金を流したか。
そういう情報を拾っては売っていた頃。
カラスマは、ミナトに言った。
情報は売るな。
値段をつけろ。
売るのは最後だ。
意味が分からなかった。
情報屋なら情報を売る。
それ以外に何がある。
だが、カラスマは笑った。
「情報を売るだけの奴は、いつか情報ごと売られる」
その時は、格好つけた言葉だと思った。
今なら分かる。
カラスマは、ミナトに情報の扱い方を教えたのではない。
人間の扱い方を教えたのだ。
誰が何を欲しがるか。
誰が何を恐れるか。
誰がどの嘘なら飲み込むか。
誰がどの真実なら目を逸らすか。
情報を見るということは、人を見るということだった。
だから、ミナトはカラスマが嫌いだった。
あの男は、情報を見ているようで、人間の値段を見ていた。
◇
白老が流した告知は、表向きにはまだ誰にも届いていなかった。
少なくとも、一般の探索者ネットワークには流れていない。
管理局の公式回線にも出ていない。
七曜会が検知したとしても、沈黙している。
だが、ミナトの端末には届いた。
使われたのは、もうほとんど死んでいるはずの裏市場の連絡網だった。
浪華色街がまだ賭け場として全盛だった頃、情報屋たちが使っていた古い経路。
ミナトは、その経路を切っていなかった。
理由は単純だ。
古いゴミ捨て場には、たまに新しい死体が捨てられる。
届いた文面は短い。
【黒瀬澪 未公開記録断片】
【近日、取引可能】
【透明認証により真贋確認可】
ミナトは、その文面を三度読んだ。
一度目は、文字として。
二度目は、罠として。
三度目は、値段として。
「……露骨だね」
声に出して笑った。
笑ったが、端末を閉じる指は少し遅れた。
黒瀬澪。
その名前は、透真にとってただの過去ではない。
傷であり、鍵であり、まだ閉じていない扉だ。
未公開記録。
その言葉だけで、透真は動く。
たとえ罠だと分かっていても。
いや、罠だと分かっているからこそ動くかもしれない。
透真は、そういう男だ。
弱いくせに、見捨てられない。
見えるくせに、見えたものを抱え込む。
誰かに全部渡すことを嫌がるくせに、誰にも渡さずに済むほど冷たくもない。
ミナトは端末を机に置いた。
場所は、都内の古いネットカフェだった。
個室ブースではない。
半分壊れた雑居ビルの三階にある、名目上は会員制の作業スペース。
実際には、端末をいくつも使い分けたい人間が集まる場所だ。
ここなら、管理局の監視も七曜会の追跡も少しだけ遅れる。
少しだけ。
それ以上は期待していない。
ミナトは裏市場の経路を逆に辿ろうとした。
送信元は偽装されている。
当然だ。
第一層は浪華色街の旧網。
第二層は海外の使い捨てサーバー。
第三層は管理局の廃棄回線に見せかけた偽装。
第四層で、急に古い署名が出た。
ミナトは手を止めた。
それは、昔見たことのある署名だった。
黒い鳥の羽根を丸めたような、古臭い暗号印。
ミナトは舌打ちした。
「……まだ使ってるんだ」
その瞬間、背後から声がした。
「お前も、まだその癖が抜けていないな」
ミナトは振り向かなかった。
驚いたふりもしない。
ここで驚けば、相手の勝ちだ。
代わりに、端末の画面を閉じた。
「盗み見は趣味悪いよ」
「人の端末を覗くなと教えた覚えはない」
「教えたのは、覗くなら覗かれてる前提でやれ、でしょ」
「覚えているじゃないか」
背後の男は笑った。
乾いた声だった。
ミナトは、ゆっくり椅子を回した。
そこに、カラスマが立っていた。
黒いコート。
細い目。
年齢の読みにくい顔。
見た目だけなら、ただの疲れた中年男だ。
だが、立っている位置が嫌だった。
出入口から遠すぎず、窓にも近すぎず、防犯カメラの死角に半分だけ入っている。
逃げるにも、話すにも、襲うにも、ちょうどいい距離。
昔から変わっていない。
カラスマは、いつも自分が一番値段の高い位置に立つ。
「久しぶり、師匠」
ミナトは笑った。
「弟子を取った覚えはない」
「じゃあ元売人仲間?」
「お前は売人としては半端だった」
「ひどいね」
「褒めている」
「もっとひどい」
ミナトは軽口を叩きながら、目だけはカラスマから外さなかった。
カラスマ。
アルカディア情報工作担当。
ミナトの元師匠。
かつて、ミナトに裏市場の歩き方を教えた男。
直接会うのは久しぶりだった。
だが、懐かしさはなかった。
あるのは警戒だけだ。
「わざわざ会いに来るなんて、暇なの?」
ミナトが言う。
「お前がこちらを見るように餌を撒いた」
「やっぱりあの告知、あんたか」
「俺一人ではない」
「白老?」
カラスマは答えなかった。
沈黙。
否定でも肯定でもない。
だが、ミナトには十分だった。
「へえ」
ミナトは笑う。
「アルカディア残党、けっこう元気なんだ」
「残党という言葉は、負けた側に使うものだ」
「負けたでしょ」
「器は壊れた。思想は残っている」
「思想ね」
ミナトは肩をすくめた。
「人を閉じ込めて、願望を弄って、記憶を都合よく加工することを思想って呼ぶなら、便利な言葉だね」
「人は便利な言葉で救われる」
「救われた人、どこにいるの?」
カラスマは、少しだけ笑った。
「そういうところだ」
「何が」
「お前は売る相手の顔を見るようになった」
ミナトの笑みが、ほんの少しだけ消える。
カラスマは、それを見逃さない。
「昔のお前なら、黒瀬澪の記録断片という文字を見た瞬間に値段を考えた」
「今も考えたよ」
「嘘ではないな」
「うん」
「だが、その前に黒瀬透真の顔が浮かんだ」
ミナトは黙った。
カラスマは、ゆっくり椅子に座る。
勝手に。
許可もなく。
まるで最初からそこに座る権利があるように。
「浪華色街で、お前はずいぶん高い情報を安く使った」
「何の話?」
「黒瀬透真が負けたという情報。相原ユウの翠。バグ丸の事故。論田マコトの矛盾。桃瀬ハナの適応。難波ジャックの紅金支配。どれも高く売れた」
「売ったよ」
「すべてではない」
「全部売るほど馬鹿じゃないから」
「違う」
カラスマは静かに言った。
「全部売るほど、冷たくなくなった」
ミナトは笑った。
「心理分析? 高いよ」
「お前が払える額ではない」
「じゃあ黙ってて」
軽口。
だが、空気は軽くない。
カラスマは、ミナトを知っている。
どの言葉なら刺さるか。
どの沈黙なら揺れるか。
どの名前を出せば、ミナトが笑ってごまかすか。
全部知っている。
だから、嫌だった。
「用件は」
ミナトが言った。
「取引だ」
「澪の記録?」
「一部」
「一部ね。全部じゃないんだ」
「全部という言葉を使う奴は、だいたい詐欺師だ」
「あんたが言うと説得力あるね」
「褒め言葉として受け取ろう」
「褒めてないよ」
カラスマは、懐から小さな記録媒体を取り出した。
黒い薄片。
昔の記録端末用の物理キー。
今ではほとんど使われない。
だが、だからこそ追跡されにくい。
「黒瀬澪の未公開記録断片。真贋確認には透明認証が必要だ」
「つまり透真がいる」
「そうだ」
「じゃあ、俺に渡しても意味ないじゃん」
「意味はある」
「何の?」
「お前なら、黒瀬透真を動かせる」
ミナトは黙った。
カラスマは記録媒体を机の上に置かない。
指先で弄ぶだけだ。
見せる。
だが渡さない。
昔と同じだ。
「黒瀬透真は管理局を信用しきれない。七曜会にも渡さない。アルカディアは当然疑う。九条セイラは金の流れを追うが、澪の記録には直接触れない。白峰リアは発信を制限されている。御影カナタは契約の形を読むが、記録そのものを開けない。神楽坂レイジは声を止められた」
カラスマは、そこでミナトを見る。
「では、誰の言葉なら黒瀬透真は動く?」
「さあね」
「鴉羽ミナト」
名前を呼ばれた瞬間、ミナトは笑った。
「買い被りすぎ」
「お前はそう言う」
「本当にそうだから」
「違うな」
カラスマは首を振る。
「透真は、お前を全面的に信じてはいない。だが、お前が嘘をついている前提で話を聞く」
「それ信頼じゃないでしょ」
「最も扱いやすい信頼だ」
ミナトは少しだけ目を細めた。
「俺を通せば、透真が動く。だから接触してきた」
「そうだ」
「で、何を売れって?」
カラスマは、ようやく記録媒体を机に置いた。
軽い音。
だが、その音はやけに大きく聞こえた。
「黒瀬透真を売れ」
ミナトは笑った。
笑うしかなかった。
「直球だね」
「遠回しに言う必要がない」
「どう売るの?」
「場所を流せ。動くタイミングを流せ。誰と一緒にいるかを流せ。何を見て、何を見なかったかを流せ」
「それ、普通に売るっていうより解体じゃん」
「情報とはそういうものだ」
「ひどい師匠だ」
「弟子を取った覚えはない」
「便利だね、それ」
ミナトは椅子にもたれた。
視線は机の上の記録媒体に向いている。
黒瀬澪の未公開記録断片。
もし本物なら、透真は欲しがる。
欲しがるという言葉では足りない。
それは透真にとって、欲望ではなく義務になる。
姉の死。
管理局の隠蔽。
神楽坂の証言。
アルカディア・ゲート。
透明という自分の能力。
それらが一本の線で繋がる可能性がある。
透真は、行く。
止めても行く。
なら、ミナトが先に知っていた方がいい。
そういう理屈は立つ。
立ってしまう。
「報酬は、その断片?」
ミナトが聞いた。
「まずは一部」
「まずは?」
「黒瀬透真の動きに応じて、次を渡す」
「分割払いか。けちだね」
「一括で渡せば、お前は逃げる」
「よくご存じで」
「知っている」
カラスマは言った。
「お前は逃げ道を残す。必ずだ。自分にも、相手にも」
ミナトは、記録媒体から目を離さなかった。
「それって悪いこと?」
「情報屋としては甘い」
「人間としては?」
「半端だ」
「なるほどね」
ミナトは笑った。
「じゃあ、あんたは完璧な情報屋?」
「俺は売る相手を選ぶ」
「俺も選んでるよ」
「いいや。お前は、売らない理由を探すようになった」
言葉が、また刺さる。
ミナトは舌打ちしたくなった。
けれどしない。
それをすれば、刺さったと認めることになる。
「透真を売って、澪の記録をもらう」
ミナトは言った。
「ずいぶん分かりやすい悪魔の取引だね」
「悪魔はもっと親切だ」
「どこが」
「契約条件を明示する」
「アルカディアも?」
「アルカディアは救済条件を提示する」
「やっぱり悪魔じゃん」
カラスマは笑った。
「お前は、アルカディアを悪だと思っているのか」
「違うの?」
「悪なら楽だった」
カラスマの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「悪は潰せば終わる。だが、人間は楽園を求める。救われたいと願う。戻らなくていい場所を欲しがる。間違えた選択を正しかったことにしたがる」
「それを利用した」
「与えた」
「閉じ込めた」
「戻りたくない者もいた」
「戻りたい人もいた」
「だから未完成だった」
ミナトは、カラスマを見る。
この男は、本気で言っている。
アルカディアをただの悪事とは思っていない。
白老と同じ。
おそらく、そこがアルカディア残党の一番厄介なところだ。
自分たちを悪だと思っていない。
だから、罪悪感で止まらない。
「透真にこれを見せたら、どうなると思う?」
ミナトが聞いた。
「動く」
「罠だと分かってても?」
「動く」
「俺が止めたら?」
「迷う」
「迷うんだ」
「お前が本気で止めれば、少しは迷う」
カラスマは、ミナトの目を見る。
「だから、お前に来た」
ミナトは笑った。
「俺、評価高いね」
「価値があるだけだ」
「人間として?」
「接続点として」
「最悪」
「最高の値札だ」
カラスマは、記録媒体を机の上で押した。
ミナトの方へ、少しだけ滑る。
あと十センチ。
手を伸ばせば届く。
ミナトは動かない。
「これ、本物?」
「透明認証で分かる」
「透真に見せないと分からない」
「そうだ」
「偽物だったら?」
「お前は俺を殺しに来る」
「できるかな」
「できない」
「じゃあ言うなよ」
「だが、来る」
ミナトは笑った。
カラスマも笑った。
似た笑い方だった。
それに気づいて、ミナトは少しだけ嫌な気分になった。
「一つ聞いていい?」
「いい」
「白老は、透真に何をさせたいの」
「見させたい」
「何を?」
「物語の継ぎ目」
ミナトは眉を動かした。
「抽象的だね」
「白老はいつもそうだ」
「分かりにくい上司って大変だね」
「お前も昔、俺の説明をそう言っていた」
「今も言ってる」
カラスマは、ほんの少し懐かしそうに笑った。
それが、ミナトには一番嫌だった。
敵なら敵らしくしてほしい。
師匠面をしないでほしい。
昔を共有しているような顔をしないでほしい。
自分がまだ、カラスマから何かを学んだ人間であることを思い出させないでほしい。
「ミナト」
カラスマは言った。
「黒瀬透真は、いずれ誰かに売られる」
「……」
「七曜会は管理のために売る。管理局は手続きのために売る。名家は血統と制度のために売る。浪華色街は金のために売る。アルカディアは楽園のために売る」
カラスマの声は淡々としている。
「なら、誰が最初に値段をつけるかが重要だ」
「俺につけろって?」
「お前なら、逃げ道を残す」
ミナトは黙った。
「お前が売れば、黒瀬透真はまだ戻れる」
「それ、最低な誘惑だね」
「最も効くだろう」
効く。
それが腹立たしい。
透真が誰かに捕まるくらいなら。
七曜会に管理対象として確保されるくらいなら。
アルカディアに直接誘導されるくらいなら。
自分が先に売ったふりをして、逃げ道を残す。
そういう選択肢が、ミナトの中に浮かんでしまった。
最悪だ。
だが、完全に否定できない。
カラスマは、そこまで読んでいる。
「答えは今でなくていい」
カラスマは立ち上がった。
「優しいね」
「情報は熟す時間がいる」
「腐る時間でしょ」
「同じだ」
カラスマは、記録媒体を机の上に置いたまま離れた。
ミナトは目を細める。
「置いていくの?」
「偽物かもしれない」
「本物かもしれない」
「そうだ」
「触った瞬間に追跡されるかも」
「当然だ」
「最悪だな」
「最高の教材だ」
カラスマは出入口へ向かう。
その背中に、ミナトは声をかけた。
「カラスマ」
男が止まる。
「俺が透真を売ると思う?」
カラスマは振り返らなかった。
「思わない」
「へえ」
「だが、売らないとも思わない」
ミナトは笑った。
返す言葉がなかった。
カラスマは続ける。
「お前は、誰かを完全には裏切れない」
その言葉の後、ほんの少し間が空いた。
「だが、誰かを完全に信じることもできない」
それだけ言って、カラスマは消えた。
足音は最後までしなかった。
◇
ミナトは、机の上の記録媒体を見ていた。
黒い薄片。
澪の記録かもしれないもの。
透真を動かす餌。
アルカディアの罠。
白老の物語の始まり。
そして、ミナトへの値札。
触らなければいい。
壊せばいい。
佐伯へ渡せばいい。
透真へすぐ知らせればいい。
七曜会に流して、反応を見る手もある。
セイラに金の流れを追わせることもできる。
リアに言えば、配信せずとも言葉を残すだろう。
カナタなら、これがどんな契約に近いか読むかもしれない。
選択肢は多い。
多すぎる。
ミナトは、そこで小さく笑った。
「情報、多すぎると人間って馬鹿になるんだよね」
自分に言った。
昔、カラスマに言われた言葉でもあった。
ミナトは手袋を取り出した。
記録媒体に直接触れないように、薄いケースへ入れる。
捨てない。
壊さない。
渡さない。
まだ。
端末に、透真へのメッセージ画面を開く。
【澪の記録っぽいものが出た。罠。動くな】
そこまで打って、止まる。
動くな。
それで透真が止まるか。
止まらない。
では、どう書けばいい。
【カラスマと接触した】
これも止める。
それを書けば、透真は自分のせいだと思うかもしれない。
【澪の未公開記録を餌に、俺に取引が来た】
正確だ。
だが、正確すぎる。
透真は必ず聞く。
取引内容は何かと。
その時、ミナトは答えなければならない。
透真を売れと言われた、と。
ミナトは、メッセージを全て消した。
そして端末を閉じる。
何も送らない。
沈黙。
それは裏切りではない。
まだ。
だが、信頼でもない。
ミナトは、ケースに入れた記録媒体をポケットへしまった。
笑う。
いつものように。
軽く。
何も傷ついていないように。
「さて」
ミナトは呟いた。
「いくらで売れるかな」
その声は冗談のようだった。
だが、誰も聞いていなかった。
だから、それが冗談だったのかどうか、誰にも分からなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
記録争奪編の入り口として、ミナトとカラスマの再会を書きました。
カラスマはミナトの元師匠であり、アルカディア側の情報工作担当です。
彼はミナトのことをよく知っています。
何を売るか。
何を売らないか。
どこに逃げ道を残すか。
そして、誰を完全には信じられないか。
今回は戦闘ではなく、情報の値段をめぐる会話戦でした。
カラスマは、澪の未公開記録を餌にして、透真を売れと持ちかけました。
ミナトは笑いました。
でも、断りませんでした。
それは裏切りなのか。
それとも、先に売ったふりをして逃げ道を残すためなのか。
まだ分かりません。
次回は、ナギの外部対話回線に異常が起きます。
アルカディアの記憶処理主任ミズチが、ナギの契約領域へ接触し、リアもその異常に巻き込まれていきます。




