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第79話 相原ユウvs桃瀬ハナ

 鐘が鳴った瞬間、相原ユウは逃げたくなった。


 足が前に出ない。


 喉が乾く。


 心臓の音がうるさい。


 観客席から降ってくる声が、全部、自分を押し潰す音に聞こえた。


「翠の子、何秒もつやろな!」


「一発で終わるんちゃう?」


「バグ丸、事故れー!」


「論破ガキ、口だけやったら笑うで!」


 笑われている。


 賭けられている。


 怖がっていることまで、面白がられている。


 相原は、リング中央に立つ桃瀬ハナを見た。


 ふわふわした髪。

 柔らかい笑顔。

 赤いグローブ。


 さっきまで、巨漢探索者を素手で沈めていた人とは思えないほど、穏やかな顔をしている。


 だから余計に怖い。


 怒鳴られる方がまだ分かりやすかった。


 殺気を向けられる方が、まだ身構えられた。


 ハナは笑っている。


 笑ったまま、人を殴れる。


「よろしくお願いします」


 ハナがぺこりと頭を下げた。


 相原は、反射的に頭を下げかけた。


 その横で、論田マコトが低く言う。


「頭を下げる必要はありません。あなたは試合に同意していない」


「でも、挨拶は……」


「挨拶と同意は別です」


 マコトは眼鏡を押し上げる。


「その区別を忘れないでください。ここは全部を同意に変換します」


 相原は唇を噛んだ。


 その通りだった。


 怖い。

 逃げたい。

 出たくない。


 それでも、一つずつ言葉にしないと、全部なかったことにされる。


 隣では、バグ丸が両手を上げていた。


「審判! ワシまだ心の準備できてへん!」


 審判は無視した。


「せめて遺言書く時間!」


 無視。


「観客席に戻る抽選とかないん!?」


 無視。


「人の声聞いて!」


 観客席が笑う。


「バグ丸、もう事故っとけ!」


「死ぬなよー!」


「死なへんやろ!」


 バグ丸は観客へ振り返って叫んだ。


「死なへん前提で笑うな! ワシの毎日は奇跡の綱渡りなんやぞ!」


 その声に、少しだけ相原の肩の力が抜けた。


 笑える状況ではない。


 けれど、バグ丸が騒いでいる間だけ、視線が少し散る。


 全員が自分だけを見ているわけではない。


 それだけで、少し呼吸ができた。


 マコトが小さく言う。


「相原ユウ」


「はい」


「最初に飛んでくるのは、たぶんあなたです」


「……ですよね」


「桃瀬ハナは優しい。だから、まず一番危ない人間から潰します」


「俺ですか?」


「あなたです」


 即答だった。


「バグ丸は勝手に事故ります。僕は口だけです。あなたは成長観察枠です。興行として一番見たいのは、あなたが一撃目で折れるか、二度目に変わるかです」


 相原は息を呑む。


 分かっている。


 自分が一番弱い。


 だから狙われる。


 でも、弱いから狙われるのではない。


 弱いのに育つかもしれないから、狙われる。


 それが気持ち悪かった。


「見るだけでいいです」


 マコトは続けた。


「避けられなくてもいい。受けられなくてもいい。一撃目で何が起きたか、覚えてください」


「一撃目で倒れたら?」


「倒れたまま見てください」


 無茶だと思った。


 でも、マコトは本気だった。


 相原は、震える手を握る。


 リングの外、観客席の段差に黒瀬透真がいる。


 さっき、ロロに負けた。


 普通に負けた。


 それでも、黒瀬はリングを見ていた。


 痛みに顔を歪めながら、目を逸らさずに見ていた。


 その視線に、相原は気づいている。


 黒瀬透真でも負ける。


 見えていても負ける。


 なら、自分が勝てないのは当たり前だ。


 でも、黒瀬は負けても見ていた。


 なら、自分も見るしかない。


 ハナが一歩前へ出た。


 軽い踏み込み。


 音が小さい。


 でも、速い。


 相原は足元を見た。


 右足。


 つま先は少し外。


 肩は柔らかい。


 拳は軽く握られている。


 殺すための構えではない。


 壊すための構えでもない。


 制圧する構え。


「来ます」


 マコトが言った。


 次の瞬間、ハナが消えた。


 いや、消えていない。


 相原の目が追いつかないだけだ。


 赤いグローブが、視界の中心に来る。


 腹。


 相原は腕を下げようとした。


 間に合わない。


 ハナの拳が、相原の防具ごと腹に入った。


「っ――!」


 息が消えた。


 体が浮く。


 足が床から離れる。


 リングの端まで吹き飛び、鉄柵に背中を打ちつけた。


 痛い。


 痛い、というより、体の中が全部ひっくり返ったようだった。


 呼吸ができない。


 声も出ない。


 観客席が沸く。


「一発!」


「飛んだ!」


「やっぱ無理やろ!」


「でも立てるか?」


 相原は床に落ちた。


 膝が震える。


 腹を押さえたい。


 でも、押さえる余裕もない。


 吐きそうだ。


 涙が出そうだ。


 怖い。


 もう嫌だ。


 降参したい。


「相原ユウ」


 マコトの声が聞こえた。


 遠い。


 けれど、聞こえる。


「何が見えましたか」


 何が。


 何が見えた。


 痛い。


 怖い。


 もう無理。


 でも、見えた。


 右足。


 つま先が外。


 踏み込みの直前、肩が一瞬だけ下がった。


 拳は腹。


 狙いは意識を落とす場所ではなく、呼吸を止める場所。


 ハナは殺す気がなかった。


 でも、十分すぎるほど痛かった。


「右足……外」


 相原は、かすれた声で言った。


「肩、下がって……腹」


 マコトが頷く。


「記録しました」


 ハナは少し眉を下げた。


「立てますか?」


 優しい声だった。


 相原は、その優しさが怖かった。


 優しいのに、殴る。


 殴った後に心配する。


 それが矛盾なのか、事情なのか、相原にはまだ分からない。


「立てます」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 本当は立ちたくない。


 でも、立てますと言ってしまった。


 いや、違う。


 立ちたいわけではない。


 立たないと、二度目がない。


 相原は鉄柵を掴み、どうにか立ち上がった。


 観客席が少しだけざわつく。


「立ったで」


「一発で終わらんかったか」


「二度目あるか?」


 倍率が動く。


【相原が二度目に対応する:3.8 → 3.5】


 相原はモニターを見ないようにした。


 見れば、自分が数字にされていると分かってしまう。


 ハナが二歩目を踏む。


 今度はさっきより少し遅い。


 手加減している。


 たぶん。


 だが、相原にとっては十分速い。


「同じです」


 マコトが言った。


「ただし出力が違う」


 相原は足を見る。


 右足。


 つま先。


 肩。


 腹。


 同じ。


 同じ手順。


 なら、二度目。


 相原は体を横へ動かそうとした。


 遅い。


 ハナの拳がまた腹へ向かう。


 相原は完全には避けられない。


 だが、ほんの少しだけ体をずらした。


 拳は腹の中心ではなく、左脇の防具に当たった。


 防具が割れる。


 ぱき、と硬い音。


 衝撃で相原はまた吹き飛ぶ。


 けれど、一発目とは違った。


 息は止まった。


 痛い。


 でも、完全に潰れてはいない。


 床に転がりながら、相原は思った。


 ずれた。


 ほんの少し。


 一発目より、少しだけ。


「おお!」


 観客席が沸く。


「今、ずらした?」


「防具割れたけど中心外したな!」


「翠の子、ちょっと見とるやん!」


 バグ丸が叫ぶ。


「相原くんすごいやん! ワシやったら今ので魂出てた!」


 マコトが冷静に言う。


「あなたの場合、魂が出ても事故で戻りそうです」


「怖いこと言うな!」


 ハナは、割れた防具を見て少し困った顔をした。


「ごめんなさい。防具、壊しました」


 マコトの目が光る。


「一つ目」


 ハナが首を傾げる。


「え?」


「あなたは試合相手を制圧するために攻撃している。しかし、攻撃後に防具破壊を謝罪した。制圧行為と加害への拒否感が一致していません」


 マコトの周囲に、薄い蒼の線が浮かぶ。


 観客席がざわつく。


「出た!」


「矛盾証明か?」


「まだ一つや!」


 ハナは困ったように笑った。


「謝ったら駄目ですか?」


「駄目とは言っていません。矛盾だと言っています」


「難しいですね」


「あなたが難しくしています」


 ハナは少し考えるように目を伏せた。


 その一瞬。


 バグ丸がそろそろと後ろへ下がった。


 リング端。


 鉄柵。


 その下に、清掃用の古い布が引っかかっている。


 バグ丸はそれに気づかず、踏んだ。


「ぬおっ!?」


 足が滑る。


 派手に転ぶ。


 転んだ拍子に、腰のポーチから金属球が三つ飛び出した。


 ころころとリング上を転がる。


 一つは審判の足元へ。


 一つはマコトの前へ。


 一つは、ハナの踏み込み位置へ。


「またや!」


「バグ丸事故った!」


「倍率通り!」


 観客が笑う。


 ハナは踏み込もうとして、足元の金属球に気づいた。


 踏めば滑る。


 避ければ軌道が変わる。


 ほんの一瞬、ハナの動きが止まった。


 その一瞬を、相原は見た。


 右足が出ない。


 代わりに左足から入る。


 肩の下がり方が違う。


 次は腹ではない。


 肩。


「左!」


 相原は叫んだ。


 声が震える。


 でも、出た。


「次、左から肩です!」


 マコトが即座に動いた。


 避けるのではない。


 ハナの進路に入る。


 ハナの拳は、相原ではなくマコトの肩へ向かった。


 マコトは受け損ね、床に膝をつく。


「ぐっ……」


「大丈夫ですか?」


 ハナが反射的に言う。


 マコトは痛みに顔を歪めながら、口角だけを上げた。


「二つ目」


 ハナの表情が固まる。


「あなたは相原ユウを制圧対象として踏み込んだ。しかし、足元の事故で進路が変わった後、僕を壊さない方向へ出力を調整した。試合上の勝利条件と、相手を壊さないという自己条件が衝突しています」


 蒼の線が二本目を描く。


 ハナの紅翠が、わずかに揺らいだ。


 相原は床に片膝をついたまま、それを見た。


 見えたわけではない。


 黒瀬のように色が見えるわけではない。


 でも、ハナの動きが少し遅くなったことは分かる。


 マコトの言葉が効いている。


 完全に止めてはいない。


 でも、ハナが自分の行動を意識した。


 その分だけ、拳が鈍った。


 バグ丸は床に転がったまま叫んだ。


「ワシの事故、今ちょっと役に立ったんちゃう!?」


 マコトが言う。


「黙って転がっていてください」


「扱い悪っ!」


 ハナは小さく息を吐いた。


「論田くん、嫌なところを突きますね」


「そこしか突けません」


「殴った方が早いですよ」


「殴れないので」


「ですよね」


 ハナは笑った。


 さっきより、少しだけ笑顔が薄い。


 相原はそれを見た。


 ハナも苦しいのだと思った。


 でも、だからといって殴られていい理由にはならない。


 相原は立ち上がる。


 膝が笑っている。


 腹が痛い。

 脇が痛い。

 防具は割れている。


 もう一発受けたら、たぶん本当に立てない。


 ハナがこちらを見る。


「続けられますか?」


 その声は優しい。


 相原は、優しい声が怖くて、悔しかった。


「出たくないです」


 相原は言った。


 観客席の一部が静かになる。


「俺は、この試合に出たいって言ってません」


 声は震えている。


 でも、言えた。


「でも、続けないと、同意したことにされるなら……見ます」


 ハナの目がわずかに揺れた。


 マコトが小さく頷く。


「十分です」


 ハナは、グローブを握り直した。


「ごめんなさい」


 マコトが顔を上げる。


「三つ目」


「まだ何もしてませんよ」


「今しました」


 マコトは、肩を押さえながら立つ。


「あなたは、相原ユウが出場を拒否したことを聞いた。その上で謝罪し、なお構えた。相手の不同意を認識しながら、試合を継続しようとしている」


 蒼い線が三本目を作る。


 リング上の空気が変わった。


 ハナの周囲にあった紅翠の熱が、一瞬だけ薄れる。


 桃瀬ハナの目が丸くなる。


「これが……矛盾証明」


 紅翠《花嵐》の継続条件が、一時停止した。


 長くはない。


 ほんの数秒。


 だが、その数秒だけ、ハナの回復と適応が鈍る。


 マコトが叫んだ。


「相原ユウ!」


 相原は、体が先に動いていた。


 勝つためではない。


 倒すためでもない。


 ただ、一つだけ残すため。


 ハナの右腕。


 さっきから拳を出す時、肘の少し下に隙がある。


 グローブの打撃後、戻す瞬間。


 一発目では見えなかった。


 二発目で少し分かった。


 三度目で、そこしかないと思った。


 相原は床に落ちていた割れた防具の破片を掴んだ。


 鋭くはない。


 ただ、硬い。


 踏み込む。


 遅い。


 弱い。


 ハナなら簡単に避けられる。


 でも、今だけ紅翠が鈍っている。


 バグ丸の金属球が足元に残っている。


 マコトが進路を塞いでいる。


 相原は、震える手で防具片を振った。


 ハナの腕に当たる。


 浅い。


 ほんの浅い傷。


 赤い線が、ハナの前腕に走った。


 時間が止まったように感じた。


 観客席が、一瞬静まり返る。


 ハナが、自分の腕を見た。


 相原も、自分の手を見た。


 やった。


 倒していない。


 痛めつけてもいない。


 勝ってもいない。


 でも、傷をつけた。


 桃瀬ハナに。


 紅翠の人気選手に。


 未成熟な翠が。


 観客席が爆発した。


「入ったあああ!」


「嘘やろ!」


「ハナちゃんに傷!」


「翠の子、当てたで!」


「倍率どうなる!?」


 巨大モニターが激しく揺れる。


【相原が二度目に対応する:成立】

【桃瀬ハナ無傷制圧:不成立】

【三名耐久成功:判定継続】

【金流ノイズ検出】


 最後の一行は、すぐに消えた。


 だが、透真には見えた。


 ミナトにも、おそらく見えた。


 観客の熱が割れる。


 ハナ圧勝の物語が崩れる。


 相原ユウは、ただの商品ではない。


 弱い。


 でも、見た。


 一度目で吹き飛び、二度目でずらし、三度目で傷をつけた。


 相原は息を切らしながら、ハナを見た。


「す、すみません」


 反射的に謝ってしまった。


 マコトが横で低く言う。


「謝らないでください。あなたは試合中です」


「でも、傷が」


「殴られているのはあなたです」


「それは、そうですけど」


 ハナは、腕の傷を見つめていた。


 それから、ふわりと笑った。


 さっきまでの笑顔とは、少し違う。


 嬉しそうだった。


「すごい」


 ハナは言った。


 相原はびくりとする。


「痛いですか?」


「少し」


「すみません」


「だから謝らないでください」


 マコトがまた言う。


 ハナはくすっと笑った。


「でも、本当にすごいです。怖いまま、ちゃんと見てた」


 相原は何も言えなかった。


 怖い。


 まだ怖い。


 腹も痛い。


 足も震えている。


 でも、見た。


 見て、少しだけ変えられた。


 ハナは、構えを解いた。


 審判が戸惑う。


「桃瀬?」


 戌井の怒鳴り声が飛ぶ。


「何止まっとんねん! 続けろ!」


 ハナは振り返らずに言った。


「この子、壊したらもったいないです」


 観客席がざわつく。


 戌井の声が低くなる。


「何言うとる」


「私が見ます」


 ハナは、相原の前に立った。


 守るように。


 いや、完全に守ると言うには、まだ曖昧だった。


 ハナは浪華色街の選手だ。


 ミユの借金がある。


 自由に動けるわけではない。


 それでも、今この瞬間だけは、相原を運営に渡すことを拒んだ。


「相原くんは、私の観察相手にします」


「勝手に決めるな」


「勝手に試合に出したのは、そっちですよね」


 ハナの声は柔らかい。


 けれど、観客席の熱が少し変わった。


 桃瀬ハナは人気選手だ。


 彼女が言うと、客が聞く。


 白ではない。


 でも、人気の熱がある。


 戌井はすぐには強く出られなかった。


 その横で、バグ丸が小声で言う。


「これ、もしかして助かった?」


 マコトが答える。


「いいえ。状況が悪化しただけです」


「なんで!?」


「運営の想定外が増えました。想定外が増えれば、上が出てきます」


 その言葉の直後だった。


 巨大モニターが赤く染まった。


 観客席の歓声が止まる。


 そして、劇場全体に派手な音楽が流れた。


 金の装飾文字が画面に浮かぶ。


【緊急演出変更】


 戌井の顔が青ざめる。


 ハナの表情も固くなる。


 ミナトが観客席の上段で目を細める。


 透真は痛む体を起こし、モニターを見た。


 画面の奥から、派手な赤いジャケットの男が映る。


 大きなサングラス。

 金のネックレス。

 笑っているのに、目が笑っていない。


 浪華色街のボス。


 難波ジャック。


 男は画面越しに、楽しそうに両手を広げた。


「いやあ、ええやん。めっちゃええやん」


 声が劇場中に響く。


「透明が落ちて、翠が傷つけて、論破が止めて、バグが事故って、ハナちゃんが勝手に保護宣言。こんなん、普通に終わらせたらもったいないやろ?」


 観客席が一気に沸いた。


 難波ジャックは笑う。


「ほな、まとめてショーにしたろか」


 相原の背筋が冷える。


 まだ終わっていない。


 やっと一つ、傷をつけただけなのに。


 状況は、もっと大きな場所へ引きずり上げられようとしている。


 ジャックは笑顔のまま、告げた。


「次の札、用意せえ」


 巨大モニターに、新しい文字が浮かぶ。


【特別公開処刑ショー 準備中】


 その文字を見た瞬間、相原は理解した。


 自分たちは、まだ逃げられていない。


 ただ、商品としての値段が上がってしまっただけだ。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


相原ユウの初めての実戦回でした。


勝ったわけではありません。

むしろ、桃瀬ハナとの実力差ははっきりしています。


それでも、一度目で吹き飛ばされ、二度目で少しずらし、三度目で一傷を入れました。

弱いままでも、見て、覚えて、次に変える。


その小さな一歩が、浪華色街の流れを少しだけ狂わせました。


次回も読んでいただけると嬉しいです。

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