婚約破棄の百年後
「婚約を破棄する!」
後ろから大きな声が聞こえて、マルクはびくっとした。
振り返って見てみると、叫んでいたのはまだ十歳くらいの少年だ。
「あはは、最近また、"フランツ王子と聖女の恋"が再演になったから、子供たちの間で流行っているんだね」
八百屋の女将が、じゃがいもを袋に入れてマルクに渡しながら言う。
「百年も前の話だけど、王子さまが平民の少女と真実の愛を貫くなんて……ステキな話だよねぇ」
「どうかな。その後、二人が幸せだったかどうかは、わからない」
「そんなの、幸せに決まっているじゃないか!物語はなんでも、めでたしめでたしなんだから」
マルクは肩をすくめ、女将に返事を返すことなく店を後にする。
物語は、一番幸せなところで終わるからいいのだ。
しかし、現実はそうではない。
マルクは苦い気持ちを噛み締めた。
――フランツ王子と聖女の恋という演劇は、百年前に実際あった話を元にしている。
当時、王太子だったフランツ王子が、婚約者の公爵令嬢との婚約を破棄して、平民出身の聖女と結ばれる話だ。公爵令嬢はわがままで、平気で人を傷つける人間だったから、当時も多くの人々から喝采を受けたものだ。
だが。
フランツ王子と結婚したマリーアは、やがて贅沢な暮らしに溺れて傲慢になった。一方、フランツ王子は王位を継いだものの、婚約破棄した公爵家からの反感を買い、その治世はなかなか上手くいかなかった。直情径行気味な性格もあいまって、他の貴族とも対立し、即位わずか三年で退位を迫られる。
結局、弟に王位を譲り、公爵として王都から遠く離れた領地をもらいマリーアと共にその領へ移り住むが……その頃には夫婦仲は冷え切っていた。
顔を合わせればケンカばかり、フランツは酒に溺れ、三十歳で病死する――。
マルクは、そのフランツの生まれ変わりだった。前世を思い出したのは、五歳のとき。
ちなみに今は、王子でも貴族でもなく、ただのしがない木工職人である。
日々の生活は苦しいし、見た目も冴えないけれど……正直、彼は前世より今の生活の方が気に入っていた。宮廷の権謀術数とはほど遠い、淡々と木工品を作るだけの日々。前世でも、時間のあるときは木彫りの小鳥を作ったりすることが好きだったので、こういう仕事は向いているのだろう。
もし前世を思い出さなければ、好意を寄せてくれていた親方の娘と結婚し、それなりの家庭を築いていたかも知れない。だが、前世で結婚には懲りごりしたので、独り身を貫いている。といっても、まだ二十四になったばかりだけれども。
「婚約破棄だー!」
子供たちが笑いながら横を駆けてゆく。
(まったく、百年もこの話が伝わるなんて……バカバカしい限りだよ)
フッとマルクは苦笑をもらした。
マルクが働いている木工工房の前に、みすぼらしい服装の女性がいた。
木工工房の窓からは、この工房で作っている木製の器や桶などが外から見えるように飾られている。どうやらそれを見ているようだ。
「何がお入り用ですか」
じゃがいもを抱えたまま、マルクは女性に話しかける。
女性はハッとマルクを見た。
「あ、い、いえ、見ていただけです」
「そうですか」
「……でも、あの…………この隅にある小鳥は……売り物でしょうか?」
「え?」
そばかすの浮かぶ、地味な見た目の二十歳前後の女性は、桶の影に隠れるように置いてある、木彫りの小鳥を指した。
マルクの頬が赤くなる。
「いや、それは別に売り物じゃない……」
「そう……ですか」
女性は残念そうに肩を落とした。
マルクは目を瞬かせる。
小鳥を彫ったのは、マルクだ。親方からは、こんなものを作る時間があるなら、一つでも多く器を作れ!と怒られたが、休憩時間に手慰みで彫ったのだから、文句を言われる筋合いはない。
そして出来上がった小鳥が良い出来だったので、ちょっとした賑やかしのつもりで商品棚の端に並べていたのだが。
その小鳥を、この女性が気に入ったのなら。
「……それを彫ったのは俺だ。別に売り物じゃないし、気に入ったのならやるよ」
そう言って、マルクは木彫りの小鳥を棚から取って、女性に渡した。
驚きつつも両手で受け取った女性は、マルクを見上げる。
「いいのですか?」
「ああ」
「……あなたがこれを?」
「そうだよ」
「……ありがとうございます」
女性はふわりと微笑んで、頭を深く下げた。
その日以降、マルクはときどきその女性……ハンナと話すようになった。ハンナは工房近くのパン屋で働いていて、意外と顔を合わすことが多いのだ。
きっと小鳥の件がなかったら、ハンナと話すようにはならなかっただろう。ハンナはいつも店の奥でパンを焼いていて、パンを買いに行っても会うことはないからだ。
――不思議と、ハンナとは話が合った。一緒にいると居心地も良かった。
そのせいだろうか。
いつの間にか、たまに一緒に食事をするようにもなった。
だけど、マルクはそれ以上の関係にならないよう、一線を引くのを忘れなかった。
ハンナは良い子だと思う。でも結婚して、いつか幻滅するのなら、このままの方がいい。
ある日――
「マルクさん。よければ、お昼にこれを食べてくださいな」
朝、工房へ向かう途中、パン屋から出て来たハンナが包みを渡してくれた。
「これは……」
「余分に作りすぎちゃって。食べてもらえると助かります」
「そっか。……ありがとう」
マルクは礼を言い、工房に入る。
すると、その後から工房に来た先輩のパウルが、マルクの背を軽く押した。
「おい、マルク。いつになったら、結婚するんだよ?」
「やめてください。彼女とはそういう関係じゃない」
「そうかぁ?彼女、お前に気があるだろ」
たぶん、そうだろう。
だけどハンナの方も、少し距離を取っている感がある。マルクから言い出すことを待っているのか。
(……というより、ときどき俺じゃない誰かを見ている気がする)
マルクを通して、似た誰かを懐かしんでいるような。
マルクは頭を振り、仕事に取り掛かった。
その日の夕方。
マルクは仕事を終えるなり、工房を飛び出した。
そのまま急いでハンナの働くパン屋へ向かう。
パン屋は木工工房より早く閉まるが、ハンナは残って片付けをしたり、翌日の仕込みをしていることが多い。
案の定、ハンナはまだ店に残っていた。
マルクは彼女が店を出てくるまで、その近くで待つ。
やがて仕事を終えて出て来たハンナは、マルクの姿を見て目を丸くした。
「マルクさん。どうしたんですか?」
「あ……いやその……今日は……昼飯をありがとう」
「まあ!それをわざわざ言うために?……お口に合いました?」
ハンナは恥ずかしそうに目を伏せて言う。
マルクはその様子をじっと眺めた。
姿はまるで違う。そして、記憶にある彼女よりかなり控えめで、言葉も少ない。
だけど。
昔、貴族たちの通う学園で、彼女が持ってきてくれた昼食を初めて食べたとき、同じように照れながら"お口に合いました?"と尋ねてきた。
今日の昼に食べたパンは、あのときと同じパンだ。野菜と少し甘めに煮込んだ肉と、酢漬けにした玉ねぎを挟んだパン。マルクは――そして前世のフランツも、彼女以外にその組み合わせで作る者を知らない。
「……君は、もしかして……マリーアなのか?」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、恐る恐る、懐かしい名前を口にしてみれば。
ハッとハンナは顔を上げた。
「記憶が……あるのですか、フランツ様……!」
もう日も暮れていたが、二人は王宮の見える公園を訪れていた。
百年前にはなかった、魔法灯がポツリポツリと灯っている。
「まさか、君に再び会うとは思わなかった」
公園のベンチに座り、マルクが口火を切る。
するとハンナは、寂しそうな笑みを浮かべた。
「わたしは、死ぬ前に"どうか生まれ変わって、再びフランツ様と会えますように"と願いました」
「俺に、苦情を言うために?」
フランツの最期の方は、記憶が曖昧だ。それでも、酒で朦朧とした状態で何度もマリーアと言い争いをしたことは覚えている。
あなたと結婚しなければ良かったと泣き叫びながら言われ……それが今世で、女性と距離を置く要因の一つになっている。
「苦情だなんて!」
ハンナが頭を振った。
「いいえ、違います。昔のわたしは、王妃になって舞い上がってしまいました。たくさんの人にかしずかれ、美しいものに囲まれる贅沢な日々……。でも、決して、そんな生活がしたくてフランツ様と結婚したのではないのです……!」
「マリーア……」
「フランツ様。今さら遅すぎますが、本当に申しわけありませんでした。わたしは妻として、そして王妃として、フランツ様を支えなければいけなかったのに、それができませんでした。わたしは……フランツ様がいなくなってから、ようやくそれに気づいて……ずっと、フランツ様に謝りたかった……」
言いながら、ハンナは立ち上がってマルクに頭を下げた。
「わたしと出会わなければ、フランツ様はきっと素晴らしい王となっていたでしょう。本当に……ごめんなさい」
ぽろりとハンナの目から涙がこぼれる。
マルクは呆然として、彼女を見上げた。
「俺……いや、私は、そもそも王に向いていなかった。生まれ変わって、今の生活をしてよくわかった。君が謝ることではない。君の方こそ、私が妻にと望まなければ、もっと幸せだったと……」
「いいえ。わたしはフランツ様の妻だったことに後悔はありません。悔むのは、わたしが王妃として足りなかったことだけです。そもそもわたしでなければ、フランツ様は貴族たちと対立することもなかったのに」
「君は……私が死んだあと……」
どうなったのか、いくつまで生きたのか。
そう聞こうとして、マルクは言葉を濁した。前世を思い出したあと、そのことが気になっていたけれど……怖くて調べることはできなかったのだ。
また二人の間には、一人息子のカールがいた。自分が死んだとき、カールはまだたったの二歳。カールも……どうなったのか。
マリーアは小さく笑った。
「あなたが亡くなって、小さなカールを一人前にするまでは大変でした。たくさんの人たちに助けられましたよ。特に執事のバナンは、とても厳しかったけれど、よく支えてくれました。最後は、孫たちに囲まれて……悪くない生だったと思います」
「そう……か……」
「死ぬとき……カールに、わたしの棺にはあなたの作った木彫りの小鳥を一緒に入れて欲しいと頼みました。だから木工工房で、同じ小鳥を見つけたとき、わたしはとても驚いたんです……」
ハンナは膝をつき、そっとマルクの手を取った。
「ああ、きっと、最後に神さまに願ったことが叶ったんだと思いました。これを作った人は、フランツ様の生まれ変わりに違いないと。……その通りでしたね」
泣き笑いの顔で、ハンナはマルクの手を握りしめる。
「あなたがわたしを覚えていなくてもいい。でも、あなたに償う機会をもらえて本当に良かった、そう思っていたのですけど……あなたと言葉を交わし、たまに一緒に食事したりしていたら……まるで、前世の出会った頃みたいだと思えてきて。もしかするとこのまま、もう一度やり直せるかしら……なんて」
言いながら、ハンナは唇を噛みしめた。
そして、ゆっくりと首を振る。
「でも、フランツ様……マルクさんは、ずっとわたしと距離をとっていましたね。だからわたしは、マルクさんに前世の記憶がなくても、心の奥底ではマリーアに似たわたしを忌避しているフランツ様がいるのだと……思っていました」
「いや、私は…………ちがう、俺、は……」
「いいのです、傲慢になったわたしに、フランツ様が幻滅したのはわかっていましたから。もう一度好きになってもらおうなんて……我がままな望みですよね。それに、この出会いは神さまが与えてくれた償いの機会だったのに……わたしったら、浮かれてしまって……」
最後の方は小さな声になり、ハンナは俯いた。
しばらく俯き……やがて、顔を上げたときは穏やかな笑顔になっていた。
「マルクさん。……生まれ変わって、再び出会えて良かった。どうぞ、お幸せに」
そう言ってゆっくりと立ち上がり、ハンナはマルクに背を向けて歩き出した。
マルクは呆然としたまま、動けない。遠ざかてゆくハンナを、ただ見つめるだけ――。
それから一月ほどが過ぎた。
マルクはあれから、ハンナと会っていない。
それまで、よく顔を合わせるなと思っていたが、もしかするとハンナがマルクと会うために頃合いをはかっていたのかも知れない。
パン屋での仕事はまだ続けているようだったが……久しぶりにパン屋へ行くと、女将から「二日前に、ハンナは辞めたよ」と教えられた。田舎に帰るらしい。
マルクは慌てて、ハンナの住む集合住宅へ向かった。何度か家のそばまで送ったことがあるので、場所は知っているのだ。中に入ったことはないけれど。
――ハンナは、ちょうど荷物をまとめて出ていこうとするところだった。
マルクの姿を見て、軽く息を飲む。
マルクは大股でハンナの前に行き、懐から木彫りの小鳥を取り出した。
「この鳥は、ツォステという。鳥は、毎年つがいを変えることが多いそうだが、この鳥は基本的に生涯、相手を変えないらしい。前に一羽、君にあげたが、この鳥も一緒にしてやって欲しい」
言いながらハンナの手を取り、小鳥を渡す。
ハンナは怪訝そうにマルクを見上げた。マルクは、ほろ苦い笑みを浮かべた。
「前世で、真実の愛を見つけたと思った。その後、それは幻だと思った。……だけど、生まれ変わって…………やっぱり俺は、君のことが好きになった。マリーアとは知らないまま。だとすると……真実の愛は、あるのかも知れない」
ハンナが目を大きく見開く。
マルクは、小鳥とハンナの手を、両手で包んだ。
「前世のような地位も金も持たないが、今は酒も飲まないし、真面目に働く。……ハンナ。どうか俺と、このマルクと、結婚して欲しい。……はは、この言葉を言う勇気が出るまで、こんなにもかかってしまった」
「マルク……さん……」
ハンナの唇が震え、目が潤んだ。
「いいのですか……わたしの方こそ、聖女でもないし、見た目もみすぼらしいし……何より、前世であれほど、あなたを失望させたのに……」
「お互いさまだ」
首を振ったマルクは、そっとハンナの手を撫でた。
「……前世を思い出したとき、最初に、君がその後どうなったか、気になった。でも、君が再婚して幸せに生きたとしても、または辛い一生だったとしても……どちらも耐えがたくて、知るのが怖かった。それは君を……マリーアを愛しているからだったんだ。だから君が、もう一度やり直したいと思ってくれているなら。……俺も、君とやり直したい」
「……はい。……はい、やり直したいです……!」
「愛している、ハンナ。マリーア。どちらの君も」
「わたしもです、マルクさん。フランツ様」
人目も気にせず、ハンナはマルクに抱きつき、マルクもまた優しくハンナを抱きしめた。
※ ※ ※
王都の隅に、小さな木工工房がある。
二人の老夫婦が営む工房は、小さいながらもある品が人気で、人の訪れは途切れない。
その品は、ツヴァイ・ツォステ。
二羽の小さな木彫りの鳥だ。
好きな人にこの鳥を贈ると、恋が叶うという。だけどこれを求める若者に、老婦人はよく諭すように言う。
「鳥を送っただけで叶うような恋なんて、ありませんよ」
その後ろで小鳥を彫る夫は、いつもただ黙って笑っている――。




