床の上の彼女
チックタック、チックタック、チックタック。
時計の音がする。
チックタック、チックタック、チックタック。
マミと二人で選んで買った時計の音がする。
チックタック、チックタック、チックタック。
床の上でマミが死んでいる。
どうしてこうなったんだろう。なんて考えるのは何度目だろう。考えてもしょうがないのに、思考がグルグルと回り無意味に私の脳みそを疲れさせる。マミが浮気したから? それも男と? だから殺した? そう、そのはず、そのはずなんだけど、なんだか腑に落ちない。人間、その程度のことで愛する人間を殺せるものだろうか。
妙に喉が渇く。とりあえず、牛乳を飲もう。今朝買ったばかりの牛乳。私はソファから立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。向かうためにはマミを跨がなくちゃいけない。私は、特になんの感慨もなくマミをまたいだ。
冷蔵庫に手をかけると、貼ってある写真に目がとまった。確か、去年の夏に奈良の十津川に行った時の写真だ。あの時、マミは散々文句を言ってたっけ。
「なんでわざわざ、あんな婆さんが行くようなとこ行くのさ。あたし達、大学生だよ? もっと行くとこあるじゃん」
ブツブツ言ってたのに結局付き合ってくれたのは、あの時私の誕生日が近かったから? それとも他になにか理由があったの? 思わず振り返って床に寝転がるマミを見る。なにも言わない、マミはなにも言わない、そりゃそうだ、だって死んでるんだもの。そう、私が殺したんだもの。
冷蔵庫を開け、牛乳を取り出す。この牛乳、マミが好きだったな。というか、これ以外の牛乳嫌いだったな。成分無調整は太るとか、低脂肪はまずいとか、あのメーカーのは獣臭いとか。いちいち注文が多かった。正直私は、違いが分かるほど繊細な舌は持ってないからこだわりはないけど、マミが好きな牛乳はなんだかおいしい気がする。どうしてだろう、マミのことが好きだからかな。それってなんだか、初心な中学生みたい。なんだか恥ずかしいな、もう二十一なのに。
食器棚からマグカップを取り出す。マミとペアのマグカップ。これは確か、東急ハンズで買った。同棲が決まって、身の回りのものをそろえる時に。
「これにしよ、カナ! ほら、この熊可愛いじゃん。あたしが黒で、カナが白でいい?」
あの時のマミ、可愛かったなぁ。子供みたいにはしゃいじゃって。でもなんであの時、私は白がいいな、って思ったのが分かったんだろう。今思うとマミってそういうところあったな。妙に勘がいいっていうか、いいこともよくないこともすぐ気づいてた。マミへのサプライズが成功したためしがない。私がコソコソと準備しても、気づけばマミが後ろにいて、ニヤニヤ笑ってた。
「カナの考えることはお見通しだよ」
悔しかったなぁ。一回ぐらいマミを、あっ! と驚かしたかった。あれ? ひょっとしてそれは成功したのかな。だって現にマミはああして、床の上で寝てる。首から血を流して。そんなことを考えてると、マミの血だまりが私を見て笑った気がした。
マミと買ったマグカップにマミが好きな牛乳を入れて飲む。うん、おいしい。こんな時でもおいしいものはおいしい。人心地ついた後、改めて部屋を見渡す。壁にかけたニトリの青い時計、小棚の上のサボテン、深い紺色の遮光カーテン、透明な低いテーブル、テーブル下の優しい茶色のラグ、ドンキで買った4Kのテレビ、そして、白い本革のソファー。ソファーとラグは血でちょっと汚れちゃってるけれど、どれもこれもマミとの思い出でいっぱいだ。でも改めて考えると、大学生二人が住むにはちょっと贅沢な気がする。もうちょっと狭い部屋のほうがよかったかな。そうすれば、こんなことには……。いや、関係ないか。部屋が狭かろうが広かろうが、こうなる時にはこうなるものかもしれない。たらればの話をしてもしょうがないけれど、そういう風に考える癖がついてしまっている。その点マミは違った。とても現実的で、すんだことはすんだこと、そう割り切ってどんな時も堂々と進み続けた。
「この間のこと? 別にいいよ、すんだ話じゃん。あたしはそんなこといちいち根に持つような小さな女じゃないよ。あはは」
マミにはかなわないなぁ。マミは私にはないものを全部持っていた。なのになんでマミは、私と付き合ってくれたの? ひょっとしたら私は、マミが持っていないなにかを持っていたのかもしれない。そう思うと、なんだかとても満たされる。マミみたいなすごい子が私を選んでくれた。それだけで、私は生きる資格のある人間だと自分を認められる気がした。なら今は? マミのいない世界で私は生きている資格があるの? それに答えられるのはマミしかいない。他のなにものの言葉も私には届かないのだから。
血で汚れたソファーに腰を下ろす。ソファーはソフトに沈み込み、優しく私を受け止める。奮発してよかった。高すぎると躊躇するマミを説得した甲斐があったというものだ。やっぱり日ごろよく使うものに出し惜しみをしちゃいけない。それにソファーなんて手入れをちゃんとすれば長い間使えるんだから。そうでしょ、マミ。
この話、何度もした気がする。一緒にソファーに座ってくだらないバラエティーを見てる時とか、お風呂上りに一緒に牛乳を飲んでる時とか。なんで何度もしてたんだろう。いくらなんでも話題の引き出しが少なすぎる。あれ? でもマミは一度も言わなかったな。それ、前も聞いたよ、って。あれは優しさだったんだろうか。それとも、本当は私の話なんて……。
「カナって面白いよね。なんていうのかな、一緒にいて飽きない」
そうだ、そうだよ、マミはそう言ってくれたじゃない。だからマミが私の話を聞いてないなんてありえないんだ。私はなんて馬鹿なんだろう、マミを疑うなんて。
疑う? そうだ、私はマミを疑った。だからこうなった。最初からマミを疑わず、コソコソと嗅ぎまわらなければ、こんなことにはならなかったんじゃないの? あぁやっぱりそうだ、こうなったのは私のせいだ。ごめんね、マミ。私を裏切るあなたを信じ続ければよかった。
おいしい牛乳がとたんにマズくなった。
いやな気分だ。私は立ち上がり、足元のマミを見下ろす。マミは静かに目を閉じている。でも、眠っているようには感じない。多分私が起こそうとすると、ワッと驚かしてくるに違いない。そうだ、そうに違いない。その手には乗らないよ。私は息を吐き、意識的に深く呼吸をする。血だ、マミの血のにおいがする。昔から血の臭いが苦手だった。鼻血を出した時も足を擦りむいた時も、血の臭いでいちいちクラクラしたものだった。でも、これは違う。マミの血のにおいはちっともいやじゃない。マミのうなじの匂いと同じぐらい心地いい。私はマミの血に触れる。少しべたつく、独特の触り心地だ。こんな液体が私の体にも巡りまわっているのか、というアカデミックな感動がある。私は、中指についたマミの血のにおいを嗅ぐ。クラクラする、マミを丸ごと吸い込んだような感覚がして。私は、おそるおそる、指についたマミの血を舐める。血の味がする、なんの変哲もない血の味だ。でもこれがマミの血の味だと思うと、なんだか凄く、胸が痛くなる。これは罪悪感なのだろうか。それとももっと別の……。
「カナ」
背筋に冷たいものが走り、思わず腰を抜かした。今、とても、とてもクリアにマミの声が聞こえた。
震える声で、その声に返事をする。返事はない。当たり前だけれど、その沈黙が余計に私を不安にさせた。おそるおそるマミを見る。マミは目を閉じている。マミは確かに死んでいる、はず……。
不安を振り払うように、私はテレビをつけた。芸人が芸人をドッキリにはめて笑う、身内ネタの下らないバラエティをやっている。マミはこの番組が好きだったから、よく私も一緒に見ていた。私はこの番組が嫌いだ。でも、この番組を見て笑うマミは大好きだった。
「今の見た? 馬鹿だよねー、ウケる」
マミはいったいなににウケていたんだろう。ちっとも覚えていない。でもマミをこんなにも笑わせる芸人に、少し嫉妬していた。別に芸人に罪はないけれど、マミの笑顔を誰かに取られるのはたまらなく悔しい。私は独占欲が強いな。今更そんなことを自覚した。だからだろうか、私がマミを殺したのは。マミが浮気して、誰かに取られてしまいそうだったから殺したのだろうか。小説やドラマでもよく見る動機。確かに十人いたら十人が納得するだろう。なるほど、それで殺したのか、でも殺すのはやりすぎだ。そう言われる、そんな気がする。
『本当にそう?』
本当にそうだろうか。私はただの独占欲で、大好きなマミを殺したのだろうか。それとも、浮気という社会的な罪悪を理由に、私はマミを断罪したのだろうか。それともそのどっちも? 何故だかしっくりこない、納得が出来ない。あらゆる物事は基本的に入り組んでいて白黒つかないことが多い、というのは二十一年間の人生で学んだことだ。自首するにしても逃げるにしても、後を追うにしても、納得してからにしたい。時間はまだあるはずだ。私はそう自分に言い聞かせた。
ふと時計を見上げる。私がこうして逡巡している間にも、青い時計は律儀に時を刻み続けている。そういえばあの時計、選んだのは私だったかマミだったか。どちらにせよ、妙にマミが気に入っていたのを覚えている。
「やっぱいいよね、家に時計があるって。スマホもいいけどさ、あたしはやっぱこういう時計が好きだな」
マミは新しい物好きだったけど、そういう少し古い価値観も持ち合わせていた。そのギャップが、とても愛しかった。マミは単色ではなかったのだ。いくつもの色が混ざり合っていて、青が多かったり黄色が少なかったりはしたけれど、それでも、マミはいくつもの色を持っていたのだ。私はシンプルなものは好きじゃない。分かりやすい人といるのは楽だけれど、ずっと一緒にいるのなら複雑な人のほうがいい。時々とても疲れるけれどそれがいい。そう思っている、今でもそう。マミもきっとそうだったと思いたい。でなくちゃ二年も同棲できないはずだ。私はまた、そうやって自分に言い聞かせる。
『マミは本当に私のことを好きだったのだろうか』
頭を強くふる。考えちゃ駄目だ、答え合わせはもうできないのにこんなことを考えても仕方がない。利口ぶる理性をフル稼働させて女々しい感傷を頭から追い出そうとする。
『マミは私のことなんて嫌いだったんじゃないだろうか』
出ていかない、私の頭から不安の虫が出ていかない。
そんなわけない! そんなわけない!
でもそう考えるとつじつまが合う気がする。そもそも好きな人がいるのに浮気なんてするはずがないじゃない。いや違う、それは私の価値観でしかない。世の中には好きな人がいても浮気する人はいるよ。お母さんとかそうだったじゃない、お父さんのことを大好きと言いながら別の女と逃げていったお母さん。そんな人もいる。だからマミが私のことを好きじゃなかったなんてありえないんだ。
『つまりマミは、私のことを好きなくせに浮気したんだね』
そう、そうだ、マミは浮気をした。それもあんな顔とよく回る舌しか取り柄のない軽薄な男と。それは動かしがたい事実だ。でも大事なのは気持ちでしょ? マミが誰と体を重ねようと心が私にあればそれでいいじゃない。
『じゃあなんで殺したの?』
頭が真っ白になる。そうだ、私はマミを殺した。私を好きだったはずのマミを。そして浮気したマミを。私が、私が大好きなマミを。この手で、殺した。何度も何度も私の頭の中で鳴り響いていた言葉が、カミソリのように私自身を切り刻む。そしてその傷跡から、段々と私が気づきたくもなかった一つの答えが浮かび上がってきた。
やめて、やめて、やめて!
『マミが私を、好きじゃないって気づいちゃったから殺したんじゃないの?』
救いを求めて床の上のマミを見る。目を閉じている、息をしていない、首から血を流しているマミを。こうしたのは、私だ。もうあの切れ長の瞳で私を見つめることもない、もうあの細い指で私を撫でることもない、もうあの少し低い声で私に愛をささやくこともない。もうマミは、死んでいる。
「カナ」
私は、マミと買い、マミと一緒に使った、ペティナイフで、マミを、殺した。
私が、マミを殺した。私を好きだったかもしれない、私を裏切ったマミを。
私とずっと一緒だったマミを。
私が大好きなマミを。
私が殺した。
強烈な吐き気がして、私は嘔吐した。昨日からなにも食べていないから、ほとんどさっき飲んだ牛乳と胃液しか出ない。それでもなにかを吐き出そうとゲェゲェえずく。喉が焼けるように熱い。それでもかまわずなにかを吐き続ける。呼吸が乱れ、クラクラする。体に力が入らなくなり、バタッと床に倒れ伏す。そうだ、殺したんだ、私がマミを殺したんだ。理由なんて関係ないんだ、理由なんて関係ないんだ、私がマミを殺した、その事実だけが問題なんだ。理由を考えるな、ただ犯した罪と向き合え! そう自分に強く命令する。
『そうだね、それがいいよ』
私は逃げていたんだ、自分がマミを殺したという事実から。自分が殺すはずがない、という理由を必死になって探していたんだ。なんの意味もないのに。
『本当、馬鹿みたいだよね』
そうだね、自分でもそう思うよ。って、私は誰と喋っているんだろう。マミ? マミと喋ってるの? そのつもりなの? なんて下らなくて不謹慎なごっこ遊びだ。私はどこまでマミを侮辱すれば気が済むんだ。
『そうそう、いい調子。そうやってごまかしていこうね』
私をあざ笑う誰かがすぐそばにいる。マミじゃない、マミであるはずがない、マミはこんな陰湿なことはしない。それは私だ、こんなことをしでかした私を、私があざ笑っている。
『私って本当に馬鹿だよ、大馬鹿だよ、どこにだしても恥ずかしくない馬鹿だよ』
そりゃそうだ、なにをたかが浮気で人を殺してるんだか。言えばよかったじゃない、浮気してたんだ、さいてー、もう別れよう、って。
『なんで殺したの?』
分からない、分からないの。なんで私が大好きなマミを殺してしまったのか。殺したのは動かしようのない事実だけれど、私にはどうしても、なんで大好きなマミを殺してしまったのかが分からない。
『嘘つき』
嘘なんてついてない! 本当に分からないの!
『そうやってお婆ちゃんになるまで目をそらし続けるつもり?』
思い出せ、どうやってマミを殺したか。そうだ、確か私は、洗面所でマミが帰ってくるのをジッと待ってたんだ。一秒が一時間に、一分が一日に、一時間が一生のように感じた気がする。そして、マミが帰ってきた。
「ただいま」
私はそれに返事をしなかった。ただただ、手汗でぬれたペティナイフの柄を強く握っただけだった。
「カナ?」
マミはなんの疑いもなく洗面所の前を通り過ぎて、リビングに向かっていった。そうだよね?
『そうだね』
それで、それで、それで、私は後ろからマミに声をかけたんだ。
『マミ』
「カナ」
マミは振り返った。そして私はナイフを、ナイフを、ナイフを!
『ちょっと待って』
なに?
『その前にマミと少し話したでしょ? ちゃんと思いだして』
あ、そうか、ごめん。そうだ、確か、確か、確か……。あれ?
『どうしたの?』
私、なにを話したっけ? マミと最後になにを話したっけ?
『ボケてんの? こうでしょ。マミ、浮気してたよね』
「本当にごめん。でも一夜の過ちだったの。カナ、私が愛してるのはあなただけよ」
『信じられない! この浮気者! ナイフでグサッー、血がビュー、マミがバタリ。これが真相だよ、思いだした?』
本当にそう?
『私が信じられないの?』
私はマミに信じられないことをしたのに、どうしてそんな私を信じられると思うの? 嘘だね、私は嘘を言ってる。思いだして、お願い! 私は、私は最後にマミとなにを話したの!
『もう遅いよ』
お願い、お願い……。
『もう、忘れちゃったんだもん』
……。
マミは私に、何度も好きと言ってくれていた。それがマミの愛情表現だったんだと思う。最初は嬉しかった。あぁマミは私を好きでいてくれているんだって、やっぱり言葉にしないと伝わらないことは多いから、それを分かってマミも言葉にしてくれているんだって。でも、マミがあんまりにも私に好きって言ってくれるものだから、その言葉から重みがなくなってしまった。
それからはずっと不安だった。マミは誰にでも言ってるんじゃないか、そもそもマミの口から出る、好き、という言葉に中身はあるんだろうかって。不安はドンドン募っていった。そしてその度にマミに確認した。夜のこともしたし、なにより何度も何度もマミに好きって言って貰った。それでも、それでも不安は消せなかった。毎日毎日、気が狂いそうだった。朝起きて隣で眠るマミを見るたび、マミと一緒に大学に行くたび、バイト終わりで疲れたマミを家で迎えるたび、マミとキスするたび、マミと触れるたび。私の不安がこの胸を突き破りそうだった。だから私は、マミのスマホの履歴に残ったあの男とのやり取りを見て救われたんだ。
あぁやっぱり、マミはもう私を好きじゃないんだ。私の不安は正しかった。
マミは嘘つきだ。好きでもないものにも好きという人間だったんだ。
だから私はホッとした。私の不安は杞憂じゃなかった、マミは私の思った通り、もう私のことなんて好きじゃないんだ。晴れ晴れとした気持ちだった。もうマミを疑ったりする必要もない、ただ私はありのままマミに接すればいいんだ。
『なんで?』
なにが?
『じゃあなんで殺したの?』
え?
『正直に答えて』
私はいつも正直だよ。
『なにを思ったの?』
だから、ホッとしたって、晴れ晴れとした気持だったって。
『正直に、答えて』
だから……。
『答えて』
……。
『私は自分を、感情を完璧にコントロールできて、自分自身を客観視できる理性的な人間であると思いたかったんだよね? それこそ、物語に出てくるような、ヒステリーなんておこさない、理想的で現代的なスーパーヒーローだと』
……。
『でも、私はただの人間だった。スーパーヒーローなんて立派なものじゃない。悲しければ泣くし、裏切られれば憎むし、激高すれば自分を制御できなくなるし、そしてやらかした後は現実逃避もする。私は、どこにでもいる、十人並みの人間だよ』
……。
『そんなありふれた人間でも、自分自身の人生であれば主人公になれるんだから、不思議だよね』
ごめんなさい。
『誰に謝ってるの?』
分からない。分からないけど、たぶん、マミに謝ってると思う。
『そう』
私は、もう一度、もう返事は聞けないけど、ちゃんと、マミと向き合わなくちゃいけないと思う。
『そうだね、それがいいよ』
遮光カーテンの隙間から細い朝日が差し込み、あまりにありふれた私を照らす。それがまるで舞台のピンスポットのようだから、私は自分をなにか壮大な物語の主人公であるかのように錯覚する。しかし、やはりそれは錯覚だ。私は、浮気をした恋人を刺し殺したどこにでもいるありふれた殺人犯でしかない。それでも、そんな殺人犯にも思うところはある。
私は、すっかり冷たくなったマミのほほに触れる。死後硬直というんだったか、肌はずいぶん固くなっている。それでも、こうして触れているとあの時のマミのモチモチとした温かい肌を思い出す。
「もう、あんまり触らないでよ」
その声を聞くことはもうない。でも、そんな声が聞こえる気がする。私はマミのすぐ横に横たわり、そっとマミを抱きしめる。冷たい、生理的に不快な冷たさだ。それでも私は、マミを抱きしめずにはいられなかった。こうしていると、ベッドの中で二人抱き合ったあの日々を思い出す。
「カナ、大好きだよ」
そんな都合のいい言葉さえ聞こえてくる。そんな言葉に私はこう返す。
マミ、私も大好きだよ。
もし、もしも、マミが生きていた時、マミが浮気するよりもずっと前に、大好き、ではなく、愛してる、と言っていたら、なにか変わっていただろうか。やはりなにも変わらなかっただろうか。たかが言葉一つではたいして大きく変わらないだろうけど、たかが言葉一つでマミを殺してしまった私にとっては、それはなんだかとても重大事のような気がした。
マミ、愛してるよ。
もう役目を終えたマミの耳にそう囁き、私はマミに口づけする。当たり前だが、血の味がする。それがなんだか、さっき飲んだ牛乳より心地よく感じて、思わず笑ってしまった。
そして私は、マミの冷たい体を抱きしめながら、久しぶりの深い眠りに落ちていく。目覚めた時に、マミの温かい腕に抱かれていることを祈りながら。
終




