8話
ノルンとのデートから、数週間が経った。
特に何かが変わったわけじゃない。
探索に出て、戻って、飯を食って、眠る。
いつも通りの生活だ。
一つ違うとすれば――宿に戻るたび、
「今日は来ていないな」と思う自分がいることくらいだろう。
その日も、いつもの宿だった。
扉を開けた瞬間、嫌な意味ではない違和感を覚える。
「……」
部屋に、いる。
白髪蒼眼の神様が。
しかも、今回は人形のノルンが近くにいない。
椅子に腰掛け、腕を組み、窓の外を眺めている。
雰囲気が、いつもと違った。
遊びが無い。
軽口も、尊大な余裕も、少し引っ込んでいる。
「おかえり」
視線だけこちらに向けて、ノルンは言った。
「……ただいまです」
荷物を置きながら、慎重に様子を窺う。
「今日は、依頼だ」
やっぱりか。
だが、その言い方が妙に静かだった。
「場所は、ウェールズの東側。月影国の、更に東」
地図が頭に浮かぶ。
「サンライズ王国内の国境沿い、山間部だ」
――心当たりが、一つしかない。
「例の呪具師の……」
「そう」
ノルンは、短く頷いた。
「本体が、そこにいる可能性が高い」
そして、はっきりと言う。
「名は、レイグレン」
その名前には、他国の著名人として少しだけ覚えがあった。
「追放済みではあるが…かつて、月影国の国家の象徴、探索者としての最高の位階、満月にまで登り詰めた男だ」
国家の象徴。
それが、どれほどの重みを持つかは分かる。
「……分身とは、比べ物にならないですね」
「当然だよ」
ノルンは、組んだ腕を解く。
「さて…ここからが本題だ」
少しだけ、表情が和らぐ。
「もし仮に、君が、彼に挑むなら」
一拍。
「挑んだ時点で、二点加点。
要は――天国行きを保証する」
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「……挑んだ、時点で?」
「そう」
「勝敗は問わない」
「生死も問わない」
淡々と告げる。
「挑戦そのものを評価する」
言葉の意味を咀嚼するが、そこで一つの疑問が沸く。
「……じゃあ」
「挑まない場合でも、減点は無しだ」
即座に疑問の答えが提示される。
一瞬、言葉に詰まった。
「……それ、甘すぎません?」
ノルンは、顔を横に振る。
「本当はね、十点減点のつもりだった」
事もなげに、さらっと言う。
「でも……まあ」
少しだけ、視線を逸らす。
「私も、甘くなったものだ」
その言い方に、妙な温度があった。
「……神様の目的は」
俺は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「俺と、レイグレンを会わせることですよね?」
「うん」
否定はしない。
しかしノルンはこうも続ける。
「その目的を放棄する選択肢を与えるのは……確かに本末転倒だ。減点ゼロは甘すぎる」
理屈としては、その通りだ。
「でもね」
ノルンは、こちらを真っ直ぐに見る。
「相手は、本気で対策すれば、この器を破壊しかねない程の存在だ」
つまり。
「……俺が挑めば」
「死が、見える」
はっきりと、言った。
その上で。
「だからこそ。挑んだ時点で、天国行きを保証する」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……優しいですね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ノルンは、一瞬だけ目を見開き――
すぐに、いつもの尊大な笑みに戻る。
「勘違いするな」
「私は、管理者だ。情で動く存在じゃない」
だが。
「……それでも」
一瞬、声が柔らかくなる。
「君が無意味に消えるのは」
「少し、惜しいと思っただけだ」
その言葉で、十分だった。
きっとこの神様は、自覚が無いだけで、かなり優しい。
俺は、拳を軽く握る。
「……考える時間は?」
「ある。強制じゃない。選択権は、君にある」
それが、一番重かった。
逃げてもいい。生きてもいい。
挑んで死んでも、天国行き。
完璧な逃げ道。
それでも――
「……分かりました」
まだ、答えは出さない。
だが、目は逸らさなかった。
ノルンは、満足そうに頷く。
「返事は、急がなくていい」
「ただし」
最後に、釘を刺す。
「行くなら、覚悟だけはしておきなさい。
彼は、君が今まで見てきた相手とは、別物だ」
気配が、ふっと薄れる。
「じゃあ、またね」
そう言い残し、ノルンは消えた。
部屋に残ったのは、静寂だけ。
俺は、ベッドに腰を下ろし、天井を見る。
「……保証付きの死、か」
悪くない条件だ。
だが――
「それでも、選ぶのは俺だ」
そう呟き、目を閉じた。
迷いは、無くはない。
ただ答えは既に、心の奥では殆ど決まっていた。
◇ ◇ ◇
翌日の夜。
昨日と、ほぼ同じ時間だった。
ノックは無い。
気配だけが、ふっと部屋に差し込む。
「……」
振り返る前から分かる。
白髪蒼眼の神様が、そこに立っていた。
「こんばんは」
ノルンは軽く手を振る。
「返事を聞きに来た」
視線が、真っ直ぐこちらに向く。
俺は、立ち上がった。
迷いは、もう無い。
「受けます」
一言で、そう告げる。
ノルンは、少しだけ目を細め――
そして、どこか安心したように息を吐いた。
「そうか」
短い言葉だが、含むものは多い。
「君は、神を疑わない」
話ながら、一歩、こちらに近づく。
「同時に、全うに畏れている」
「好意も、恐怖も、ちゃんと同時に抱いている」
逃げず、背伸びもしない目。
「欲に忠実で」
「俗に塗れて」
「それでも、進む方向だけは真っ直ぐだ」
少し、困ったような笑み。
「……正直に言おう」
「そういうところに」
「少し、絆された」
胸が、僅かに熱くなる。
「だから」
ノルンは、指を立てる。
「天国に行っても」
「たまには、遊びに行ってやる」
冗談めかしているが、半分は本気だ。
俺は、思わず笑った。
「最初から死ぬ前提で言わないでくださいよ」
軽く自分の胸を叩く。
「まだ、終わってないでしょう?」
「ふふ」
ノルンは、鼻で笑う。
「まあね」
「まるで勝ち目が無い、というわけでもない」
少し、間を置いて。
「私の見立てでは――1%はある」
1%。
普通なら、絶望的な数字だ。
しかしゼロでは無い。
「……なら、十分ですね」
断言する。
ノルンが、意外そうに瞬きをする。
「ほう?」
「1%もあるなら、やる価値はあります」
胸を張る。
「それに」
少し、正直になる。
「俺はこの世界に来てから、本当の意味で、全力を出したことが無いんです」
力は振るってきた。
だが、限界を賭けたことは一度も無い。
「だからある意味……楽しみでもあるんですよ」
言い切ると、ノルンは大きく息を吐いた。
「まったく……それだけ元気なら」
指で、軽く額を弾く仕草。
「そのまま、ぶつけてきなさい」
そして、続けて告げる。
「今回は、私も同行する」
同行と聞き、俺はノルンの方に視線を向けた。
「……ですよね」
特に驚きはない。
むしろ、納得の方が先に来た。
「神様の目的は、レイグレンに、俺という存在を見せること……そしてその過程で何かを調べたい。そうですよね? なら、最初から最後まで、傍で観測していないと意味が無い」
そう言うと、ノルンは小さく笑った。
「理解が早くて助かるよ」
「君という存在を見せ、彼の反応を得る」
「君が挑み、彼がどう動くかを知る」
「その全てを、私が観測する」
当然だ、と言わんばかりの声音。
ノルンは、手を伸ばす。
「では、行こうか。準備はいいね?」
俺は、短く頷いた。
「はい」
握ったノルンの手は、以前デート中に握った時よりも温かく、そして柔らかく感じた。
その直後、視界が反転し、部屋の中から俺たちの姿は消えた。




