6話
分身の視線が、俺から一瞬だけ逸れた。
周囲に浮かぶ呪具の配置を確認し、次の手を組み直している。
――なら、その前に叩く。
「……少し、上げるか」
独り言と同時に、身体の奥で抑え込んでいたものを解放した。
闘気。
普段は一割も出していない。
出す必要が無いからだ。
だが今は違う。
五割。
瞬間、空気が弾けた。
轟音。
地面の砂利が舞い、岩肌が削られる。
小型の台風の中心に立っているかのような感覚。
だが、俺の周囲だけ――妙に静かだった。
左腕に装着していた腕輪、【風神領域】が発動する。
俺を中心に、空気が避ける。
抵抗そのものが、後ろへ押し流される。
踏み込んだ。
音が遅れて追いかけてくる。
身体はすでに、亜音速の領域に入っていた。
同時に複数の呪具が迎撃に動く。
刃、杭、円盤、宝石の類。
だが、散る。
風圧だけで軌道が乱れ、近づく前に砕ける。
残ったものも、拳と肘で叩き潰す。
一歩。
二歩。
三歩。
進む程に加速し、距離が意味を失う。
「――ほう」
分身の声が、初めて明確に低くなった。
避けて、展開して、再配置。
その全てが、俺の速度に追いつかない。
その速度のままに、殴る。
今度は、確かな感触があった。
拳が何かに触れた。歪むような抵抗。
だが、確実に――引っかかった。
「……なるほど」
分身が、静かに呟く。
「君の力は」
周囲を見る。
空間が、軋んでいた。
目に見えないはずのズレが、視覚として現れている。
岩盤が歪み、瘴気が不規則に流れ、影が二重に揺れる。
俺が動くたび、世界が耐えきれずに悲鳴を上げていた。
「この世界に、本来存在しない異物だ」
言葉に、感情はない。
観測結果を読み上げているだけだ。
「なるほど、位相防御が削られるわけだ」
「君が殴っているのは、私ではなく――空間そのもの」
分身は、顎に指を当てる。
ほんの数秒、考える素振り。
そして。
「……駄目ですねえ」
あっさりと言った。
「これは、使えない」
失望すら感じさせない声音。
「制御不能」
「再現不能」
「拡張性なし」
淡々と、切り捨てる。
「参考にもならない」
「研究対象としての価値は低い」
次の瞬間。
分身の位相が、目に見えて乱れた。
存在が、ブレる。
像が揺れ、輪郭が崩れる。
俺の闘気が、空間を歪め続けている。
防御として成立していたズレが、保てなくなっていた。
「まあ」
分身は、最後まで余裕を崩さない。
「それでも――」
言葉の途中で、俺は踏み込んだ。
拳を叩き込む。
今度は、逃げ場が無い。
空間ごと、砕けた。
音は無い。
光も無い。
ただ、分身の存在が――消えた。
周囲の瘴気が、一気に霧散する。
空間の歪みが戻り、岩盤が軋みながらも徐々に元の形を取り戻していく。
俺は、その場に立ったまま、息を整えた。
五割解放を維持したまま。
(……倒した。間違いなく)
だが。
「……手応え、軽すぎるな」
本体ではない。
それは、最初から分かっている。
それでも。
あの判断の速さ。
躊躇の無さ。
あいつは――
負けたのではなく、捨てた。
そう理解した瞬間、背筋が少しだけ冷えた。
俺は、拳を握り直す。
本物は、きっと…もっと厄介だ。
◇ ◇ ◇
宿に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
戦闘の余波で、身体の奥がまだ熱を持っている。
だが、歩く分には問題ない。
扉を開けた瞬間――空気が変わった。
柔らかい。
張り詰めていた感覚が、ふっと緩む。
部屋の中央。
白髪蒼眼の少女が二人、向かい合っていた。
一人は、見慣れた尊大な神様。
もう一人は、表情の柔らかい自律人形。
ノルンは床に腰を下ろし、人形の手を取って遊んでいる。
指を絡めたり、髪を整えたり、どう見ても暇を持て余した様子だ。
……白髪蒼眼の美少女が二人。
それだけで、妙な安心感がある。
出迎えとしては、十分すぎた。
「おお」
ノルンが顔を上げる。
「無事に帰ったか。重畳重畳」
軽い調子。
いつもの神様だ。
「……ただいま戻りました」
靴を脱ぎながら言う。
「今回は、近くで観測しなかったんですね」
ノルンの手が、ぴたりと止まった。
一瞬、言葉を選ぶような間。
だが、向こうが答える前に、俺は続ける。
「現地で、分身を名乗る男と戦いました。相手との……その…位相? がずれていて、普通の攻撃は通らない…そんな相手です。特徴は、灰色の髪に片目モノクル。そして大量の呪具を使う、呪具師タイプの敵。」
ノルンの視線が、こちらに向く。
「……あれは、普通じゃありません」
だから俺も、考えた
「二年前、言ってましたよね。
ある人に|、君を見せたいって」
部屋の空気が、わずかに張る。
「もしかして――今日戦ったあいつが、そのある人なんじゃないですか」
言い切った。
ノルンは、すぐには答えない。
代わりに、小さく息を吐いてから――笑った。
人形よりも更に柔らかい笑み。
「二年前に言ったことなのに…よく覚えていたね」
次の瞬間。
頭に、温かい感触。
ノルンの手が、俺の頭を撫でていた。
「……?」
背丈が、合わない。
普通に考えれば、届くはずがない。
(……浮いてるな、これ)
視線を上げると、案の定。
ノルンは十センチ程、宙に浮いていた。
ちゃっかりしている。
「観測しなかった理由はね」
撫でながら、朗々と続ける。
「私自身が観測される訳にはいかなかったからだ。分身の観測は、本体にも共有される」
納得しかけて、引っかかる。
「神様でも観測されると困るんですか?」
その質問にノルンは少しだけバツが悪そうな顔をする。
「…この器は、最強であっても無敵ではない。彼が本気で対策すれば、残念ながら壊されかねない。だからこそ、対面出来るのは一度だけなんだ」
「えっそんな相手だったですか!?」
「勘違いしないでくれたまえ、精々壊されるのは器だけだ。君が最初に見た私の本体には影響しない…ただまあ、神として、この器を壊されるのも、ちょっとだけ悲しいからね、対策はしたくなるものさ」
神様ですら対応を意識する相手、それはつまり。
「じゃあ、やっぱりあいつが…」
「うん」
ノルンは頷く。
「君が思っている通りだよ」
直接的な断定こそしないが、実質的な答えだった。
「ただ一つ、言っておくと」
撫でる手が止まる。
「今日壊したのは、分身だ」
「本体じゃない」
分かっている。
それでも、はっきり言われると重い。
「でもね」
ノルンは、いつもの尊大な笑みを浮かべた。
「分身を捨てさせた時点で、君は十分に爪痕を残した。向こうも、君を理解しただろう」
「……理解?」
「この世界の外れ値だってね」
さらっと言う。
「私は満足だ」
「だから、帰還祝いもくれてやろう」
……何が来るのか、少し怖い。
「まあ、今日は休みなさい」
「流石に疲れているだろう?」
確かに。
全身が、ようやく重さを思い出してきていた。
「次からは」
ノルンは、少しだけ声を落とす。
「きっと更に面倒になる」
いつもの調子だが、冗談ではない。
「でも」
最後に、にやりと笑う。
「君なら大丈夫だ」
その言葉を残し、ノルンは消えた。
部屋に残ったのは、静寂だけ。
俺はベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
「……見せたい人、か」
ようやく、道が一本、はっきり見えた気がした。
疲労に身を任せ、目を閉じる。
次に会う時は――
多分、どちらかが……。
そう確信しながら。
◇ ◇ ◇
翌朝、目を醒ますと、すでに部屋は静かだった。
身を起こすと、窓際のテーブルにノルンがいた。
白髪蒼眼の美少女が、優雅に脚を組み、湯気の立つコーヒーを口に運んでいる。
「……おはようございます」
「やっと起きたかい。随分とよく眠っていたね」
視線だけ寄越して、ノルンはそう言った。
時計を見ると、完全に朝食の時間は過ぎている。
テーブルには、すでに食べ終えたらしい食器。
そして、俺の分として用意された朝食が、まだ温かいまま残っていた。
配膳しているのは――
もう一人のノルン。
自律人形の方だ。
賜ってから二年。
最初からある程度洗練されていた動きではあったが、今では完全に板についている。湯気の立て方、皿の置き方、盛り付けの感覚。
正直、下手な宿よりよほど上手い。
「……相変わらず、助かってます」
そう言いながら席に着くと、ノルンは鼻で笑った。
「当然だろう。君の理想を詰め込んだ器だ」
「家事能力が低い方が問題だ」
相変わらず言い草が神様だ。
「さて」
ノルンはカップを置き、こちらを見た。
「帰還祝いだ」
「希望を言うといい」
「……希望、ですか?」
「うん。大概のことは叶えてやる」
「ただし、願いによっては――」
一瞬、口元が吊り上がる。
「君の魂が消し飛ぶ可能性もあるがね」
朝から物騒である。
「命があるだけありがたいと思いなさい」
「その前提、怖すぎません?」
軽く言い返しながらも、頭は回っていた。
帰還祝い。
神様が直接言ってくる希望。
これ、下手なことを言うと洒落にならない。
少し考えてから、俺は口を開いた。
「……じゃあ」
一拍。
「一日、デートしてください」
言葉にすると同時に、空気が止まった。
ノルンが瞬きを一つする。
「……は?」
完全に予想外、という顔だ。
「いや、その……そのままの意味です」
「……」
ノルンは俺を見る。
じっと。値踏みするように。
「君」
ゆっくりと、念を押すように言った。
「そこに、私そっくりの自律人形がいるのは理解しているよね?」
「はい」
「好きに出来る」
「はい」
「私本人に手を出したら、殺すと言ったよね?」
「はい」
「……それで?」
視線が鋭い。
「それでも、私とデートを?」
正直、喉が渇いた。
「手は出しません」
「絶対に」
即答した。
「本当に?」
「本当にです」
「言い訳は?」
「……いっぱいありますけど」
溜息。
ノルンは額に指を当て、軽く俯いた。
「君は、本当に……」
言葉を探している様子だった。
「面倒な男だね」
しばらく沈黙が落ちる。
拒否か、殺されるか。
そのどちらかだと思った。
だが――
「……はあ」
ノルンは、深く息を吐いた。
「分かった」
心臓が一拍、遅れた。
「条件付きだ」
「……条件?」
「それなら、最高のデートプランを用意しなさい」
指を一本立てて、続ける。
「甘味処は必須、夜景も外せない」
「それから――」
少しだけ、口角が上がる。
「名門貴族・ハーディス家の令嬢をエスコートする自覚を持つこと。失礼があれば、即終了だ」
完全に試されている。
「三日後だ」
言い切って、ノルンは立ち上がる。
「開始は王都中央の噴水広場。準備しておきなさい」
次の瞬間、気配が消えた。
部屋には、俺と、人形ノルンだけが残る。
「……」
しばらく、動けなかった。
「……殺されなかった」
ぽつりと呟く。
受けてくれた。
少なくとも、拒否されなかった。
それだけで、全身から力が抜けた。
「……やばいな」
頭を抱える。
貴族令嬢のエスコート経験?
あるわけがない。
甘味処? 夜景? 服装?
段取り? マナー?
全部、未知だ。
俺は立ち上がる。
「……頭下げるか」
こういう時に頼れるのは、知り合いだけだ。
探索者仲間。商人。宿の主人。街の案内役。
三日しかない。
神様相手の、人生最大級のデート。
俺は、全力で準備に走り出した。




