10話
「この場所は、後で使いますのでね」
そう言って、レイグレンが片手を振る。
空間が、剥がれた。
山も、縦穴も、地平線も消える。
代わりに現れたのは、上下も距離感も曖昧な、だだっ広い白い空間だった。
何も無い。
だが、何でも出来る余白。
「生成系か」
伊達に三年間この世界で探索者として生きていない。超常現象はダンジョンで慣れっこだ。呟いた俺の横で、ノルンが床に手を付く。
「……補強しておくよ」
空間が、静かに鳴った。
音ではない。圧の均衡が整えられる感覚。
「君達が本気を出したら、あれじゃ保たないからね」
軽い口調とは裏腹に、世界そのものが一段階硬くなったのが分かる。
十分だ。
俺は、思考を切る。
次の瞬間――
闘気を、全開放した。
抑制も、調整も、加減も無い。
この世界に来てから、一度もやったことのない出力。
空間が軋む。
存在感が、暴風になる。
大型台風がそのまま人型を取ったかのような圧。
足を踏み出す前に、既に距離は消えていた。
視界が歪む。
空間そのものを蹴り砕く感覚。
「――っ」
レイグレンが即座に反応する。
次元の層のような防壁が、七層展開された。後に七次元防壁と名付けられる、彼が最も信頼する防壁。
だが。
俺の拳は、防壁ではなく空間を殴る。
結果、防御は意味を失った。
衝撃が、層をまとめて貫通する。
「相性が悪いですねえ!」
嗤い混じりの声。
だが、防壁の向こうで何かが削れたのが分かる。
「空間ごと殴られると、軽減にしかならない!」
愚痴を飛ばしながら、レイグレンの身体が歪む。
完全には捉えきれていない。
違和感の正体はすぐに分かった。
「……退避したな」
俺がそう言うと、ノルンが頷いた。
「空間の裏側だね。世界のバッファ領域みたいなもの」
俺の攻撃が通り抜けた先で、空間が一部欠けている。
「そこに居る限り、表側が崩壊してもダメージは受けない」
「加えて、あらゆる場所に繋がっている。即席の転移も可能」
便利すぎる……攻略手段はあるのか?
「でも、完全に使いこなせているわけじゃないね」
ノルンの声が、少しだけ冷めている。
「裏側と表側を行き来する間は、必ず位相のズレが生じる」
その言葉が終わる前に、俺はもう踏み込んでいた。
次は、逃がさない。
レイグレンの姿が、空間の裏側から半身だけ現れる。
そこを――
狙う。
拳を振り抜いた瞬間、彼は嗤った。
「えええ、怖い怖い」
情けない言葉とは裏腹に、その目は完全に戦う者のそれだ。
「なるほど……」
空間が、再び軋む。
「これは確かに」
楽しそうに。
「研究対象として、最上級ですねえ!」
言葉と同時に、反撃が来る。
空間の裏側から、あり得ない角度で伸びる攻撃。分身戦とは比較にならない程の圧倒的な数の呪具群。そして彼が身に纏う、他とは隔絶した質を感じる複数の呪具。それらが一斉に、俺一人に向かって殺意を向けていた。
戦闘が、完全に本格化する。
ノルンは、一度大きく距離を取り、静かに全体を見下ろす態勢に移行した。
この世界の外れ値と、外部の外れ値。
答えを出すための衝突が、今――
本当の意味で、始まった。
◇ ◇ ◇
「【風神結界】【赤熱狂戦】…起動」
【風神結界】は周囲の空気を散らして高速戦闘を補助。
【赤熱狂戦】は多量のアドレナリンを分泌させ、痛覚遮断と戦意高揚を同時に果たしてくれる、戦士垂涎の聖遺物だ。
この二つを同時に起動するのも今回が初めて…神様のチートはありがたいが、俺が本気を出すにはこの世界が脆弱過ぎたのは否めない。
別に生前が戦闘狂であった訳では無いのだが…流石に三年間も生きるか死ぬかの探索者をやっていると、心の何処かで存分に暴れたいという欲も出てくるものだ。
空を、蹴った。
地面を必要としない。
踏みしめるという概念すら、今は邪魔だ。
体内で燃え上がるエネルギーを、そのまま後方へ放出する。
反動が推進力に変わり、白い空間を斜めに切り裂く。
速い。
だが、まだ足りない。
もう一度、空を蹴る。
衝撃で空間が歪み、薄く波打った。
「……ほう」
レイグレンが、小さく驚嘆の声を浮かべる。
空間の裏側へと逃げる動きに合わせ、俺は三次元の制約を捨てて追い縋る。上も下も関係ない。裏と表の境界すら、踏み台にする。
拳が届く。
奴の退避は間に合っていない。
防壁越しに衝撃が直撃し、レイグレンの身体が吹き飛ぶ。
空間の裏側へ半身を沈めることで致命打は避けたが、
それでも、確実に効いている。
――今は、俺が押している。
だが。
「……では」
どこか覚悟を決めたかのような顔で、レイグレンが呟いた。その瞬間、空気が変わる。いや、空気どころではない。世界そのものが顕現したのかと錯覚する程の、圧倒的な存在感。
彼の手に、異質な光が宿った。
――模倣神器。
その名の通り、模倣品でありながらも、星の核層にも触れられる、神器の名に恥じない性能を持つ。その出力は、本物に迫る程の異常物。当然俺はそんな詳細を知る由も無いが、何か途方も無い力を内包していることだけは直感する。
空間が、悲鳴を上げる。
「これで、釣り合いましたねえ」
攻防が拮抗する。
速度も、出力も、読みも。
一手ごとに世界が削れ、再構築されていく。
だが、徐々に――
俺の側に、ズレが生じ始める。
「……ちっ」
模倣神器の干渉範囲が広すぎる。
こちらが押し切る前に、必ずどこかで、あちらの干渉が追いついてくる。
細かなズレが累積し、隙になったその一瞬。
レイグレンが、掌を掲げた。
「――原初層・逆理断絶」
言葉が発せられた時点で、
結果は、もう決まっていた。
斬撃は存在しない。
衝撃も、軌道も、過程もない。
ただ――
「斬った」という因果だけが、
世界の原初から逆算され、今この瞬間に確定する。
逃げ場はない。
防御も意味を成さない。
そこから先は考えてではない。反射で、俺は相手の懐へ飛び込んだ。エネルギーを後方に射出し、空間が歪むほどの圧を全身に纏わせて、自身の最高速度でレイグレンに向かって突貫する。
一点へ――
ただ一点へと、己の全存在を収束させる。
手にあるのは、【不壊のナイフ】。
壊れるという概念を持たない、神製の刃。
因果が、ぶつかる。
斬ったという結果が、押し付けられる。
しかしそれでも……壊れない。
因果の行き場を失った力が、逃げ場を求めて拡散しようとした、その瞬間。
対象が、ブレた。
世界が揺らぎ、因果は一点へと収束する。
ナイフの切っ先。
そのまま――
レイグレンの胸を、貫いた。
白い空間に、赤が散る。
◇ ◇ ◇
彼は、嗤わなかった。
驚きもしない。
ただ、静かに――
目の奥で、何かを確定させた。
(……なるほど)
心の底でだけ、理解し、賞賛する。
神の従刃。
観測に値する外部の外れ値。
だが、口には出さない。
認めれば、自身が崩れる。
模倣神器と呪具に課された縛りが、存在そのものを否定する。
だから、負けは認めない。
胸を貫かれたまま、痛みを計算から切り捨て、冷静に次の式を組み上げる。
二の太刀。
原初層・逆理断絶が、再度、発動する。
今度は、完全に通る。
世界が、分割される。
八つに。
天童の視界が、途切れる。
意識が、断ち切られる。
天童大貴は、八分割された世界の中で
静かに――その命を終えた。
◇ ◇ ◇
遠くで、ノルンがそれを見下ろしていた。
この瞬間。確かに、観測は完了した。
この世界の外れ値と、外部の外れ値。
その答えは、十分すぎるほどに、得られたのだから。
ただ、彼女の表情はどこか少しだけ、寂しげであった。




