アイドルと僕の屁で世界が終わる話
佐藤健太(27歳、派遣社員、趣味なし)は、いつものように深夜のコンビニでカップ麺を買っていた。レジの横のテレビでは、今を時めくアイドル「天使みく」が笑顔で手を振っている。
「本日も天使みくちゃんは絶好調! 今日のライブも最高でした〜♪」
健太は無表情でレジを済ませた。アイドルなんて自分とは別世界の存在だ。まさか数時間後に、その「天使みく」と世界の命運を賭けることになるとは、夢にも思わなかった。
家に帰った健太が、いつものようにカップ麺をすすっていると、突然部屋が光に包まれた。
「汝、佐藤健太よ」
現れたのは、どこか胡散臭い白ひげの神様だった。後光はLEDっぽく点滅している。
「え、あの、神様ですか?」
「左様。汝に重大な使命を告げる」
健太はカップ麺の箸を止めた。ついに自分にも主人公らしい展開が!
「汝の屁、そして天使みくという者の屁――この二つが世界崩壊の引き金となる」
「は?」
「汝らのうちどちらかが放屁すれば、世界は終焉を迎える。ただし!」
神様は人差し指を立てた。
「屁をした本人がこの世界から消滅すれば、世界崩壊は免れる。つまり、どちらかが自己犠牲の精神で屁をこけば、片方だけが消えて世界は救われるのだ」
健太は困惑した。
「なんで僕と天使みくちゃんなんですか?」
「運命じゃ。以上」
神様はそれだけ言うと、LED後光と共に消えていった。
「適当すぎる…」
翌日、健太のスマホに着信があった。知らない番号だ。
「もしもし、佐藤健太さんですか?」
「はい、そうですが…」
「あの、天使みくです」
健太は携帯を落としそうになった。
「え、え、えええ!? 本物ですか? でも、なんで僕の番号を?」
「昨日の夜、神様に会いませんでした? 実は、神様が『相方の連絡先はコレじゃ』って言って、光る紙切れをくれたんです。そこに佐藤健太さんの電話番号と住所が書いてあって…」
「神様、個人情報保護法とか大丈夫なんですか…」
健太は絶句した。まさか本当だったとは。
「会いました…屁の件で」
「やっぱり! 私も同じことを言われたんです! お話があるので、会えませんか?」
こうして健太は、人生初のアイドルとの密会を果たすことになった。
待ち合わせ場所は人目につかない公園。変装した天使みく(本名:田中美久、19歳)は、帽子とマスクで顔を隠していた。
「初めまして、佐藤さん」
「は、はい! ファンです!」
「ありがとうございます。でも今日は、その話じゃなくて…」
美久は困ったような表情を見せた。
「私たちのオナラで世界が終わるなんて、信じられますか?」
「正直、信じたくないです」
二人は公園のベンチに座って、この異常事態について話し合った。美久は意外にも庶民的で、健太の緊張もほぐれていく。
「とりあえず、お互い絶対にオナラをしないように我慢しましょう」
「はい、頑張ります!」
こうして、世界で最も奇妙な盟約が結ばれた。
二人の秘密が世間にバレたのは、一週間後のことだった。
きっかけは健太の同僚・山田の盗聴だった。山田は元々、電子機器オタクで、趣味で盗聴器や小型カメラを自作していた。本業は派遣のIT関係だが、副業で「浮気調査用の盗聴機器」をネット販売している怪しい男だった。
「健太のやつ、最近電話が多いな。まさか彼女でもできたのか?」
山田は興味本位で、健太の携帯に小型の盗聴アプリを仕込んでいた。もちろん違法行為である。
そして健太と美久の「屁で世界が終わる」という会話を録音してしまったのだ。
「これはネタになる!」
最初は笑っていた山田だったが、ネタとしてSNSに投稿すると、瞬く間に拡散された。
後に山田は盗聴の件で警察に捕まることになるが、それはまた別の話である。
「#屁ポカリプス」というハッシュタグまで生まれ、ネット民たちが勝手に盛り上がった。
最初は都市伝説扱いだったが、天使みくの事務所が緊急記者会見を開いたことで、事態は一変した。
「弊社所属の天使みくに関する一部報道につきまして、事実確認を行っております」
歯切れの悪い社長の会見が、逆に信憑性を高めてしまった。
そして、美久のファンクラブ「天使の羽根」のメンバーたちが、重大な問題に直面した。
「みくちゃんはオナラをしない!」
これが彼らの絶対的信念だった。アイドルがオナラをするなんて、あってはならないことだった。
しかし、世界が終わるかもしれないという状況で、ファンたちは激しく議論した。
「みくちゃんを守るために、佐藤って奴が犠牲になればいい!」
「いや、でもみくちゃんがオナラをするなんて考えられない!」
「そもそも、みくちゃんに肛門はあるのか?」
最後の発言は議論の焦点をさらに混乱させた。
世間の注目を浴びる中、健太と美久は必死に我慢を続けていた。しかし、人間の生理現象に抗うのは限界がある。
特に美久は、アイドル活動で不規則な生活を送っているため、お腹の調子が悪くなりがちだった。
「佐藤さん…もう限界です」
ある日、美久から震え声の電話がかかってきた。
「どうしました?」
「と、とても…オナラがしたくて…」
美久の声は涙声だった。アイドルとして、こんなことを男性に相談するなんて、屈辱的すぎる。
「我慢してください! 僕も限界ですが、頑張りましょう!」
「でも、もう…お腹が痛くて…」
健太は悩んだ。このままでは、どちらかが我慢しきれずに世界を終わらせてしまう。
そして、健太は決意した。
「美久さん」
「はい?」
「僕がオナラをします」
「え?」
「僕には何もありません。消えたところで、誰も悲しがらない。美久さんには多くのファンがいて、輝いている。僕が犠牲になるのが一番です」
美久は電話の向こうで泣いていた。
「そんな…佐藤さんだって、大切な人生があるじゃないですか」
「いえ、何もないんです。派遣社員で、友達も恋人もいない。こんな僕でも、世界を救えるなら本望です」
健太は続けた。
「ただ、一つだけ心残りがあります」
「何ですか?」
「僕は27年間生きてきて、ろくに彼女もおらず、キスすらしたことがないんです」
美久は息を呑んだ。
「最後に、口と口のキスをしてもらえませんか? それが叶えば、喜んでオナラをして消えます」
長い沈黙の後、美久の震える声が聞こえた。
「分かりました。今から会いましょう」
二人は再び公園で待ち合わせた。今度はマスコミや野次馬に囲まれないよう、夜中の人気のない場所を選んだ。
美久は顔を真っ赤にして、俯いていた。
「本当に、これでよろしいんですか?」
「はい。美久さんのキスで、僕の人生に意味が生まれます」
健太も緊張で手が震えていた。まさか人生最初で最後のキスが、世界を救うためとは。
「それでは…」
美久は目を閉じて、そっと顔を近づけた。健太も目を閉じる。
「ああ、俺の最期がオナラとは…でも、キスできるなら本望だ」
二人の唇が近づく。あと数センチ。
その時、健太の心臓が激しく鼓動した。緊張のあまり、体が硬直する。
「が、頑張れ俺! 人生最初で最後のキス…!」
健太は勢いよく顔を前に出した。
ゴツン!
「痛い!」
なんと、健太は緊張のあまり、美久に頭突きをしてしまったのだ。
美久は後ろに倒れそうになり、その瞬間―――
ブロロロロ〜ッ!
我慢に我慢を重ねた美久の、壮大な放屁が夜空に響いた。
「あああああああ!」
美久は絶叫した。アイドル生命の終わり、そして文字通りの命の終わりを悟った瞬間だった。
そこに例のLED後光と共に神様が現れた。
「『天使みく』こと田中美久よ。残念じゃが、お主が消滅するか、世界が崩壊するか選んでもらわねばならぬようじゃ。」
美久は顔を両手で覆い、頭を左右に振って「いやだいやだ」と呟いている。
その瞬間、健太が立ち上がった。
「神様は知らないのか!」
「何を?」
健太は拳を空に向けて叫んだ。
「アイドルはオナラをしない! しないんだあああ!!」
神様は面食らった。
「いや、しかし現実に―」
「現実じゃない! 僕が聞いたのは風の音だ! 秋風が美久さんのスカートを揺らした音だ!」
「無理があるじゃろう…」
「ないない! 美久さんは天使なんだ! 天使に肛門なんてあるわけがない! あれは天の音楽だ! 神様なら分かるでしょう!」
健太の熱弁は止まらない。
「そもそも美久さんは食事もしない! 光合成で生きているんだ! だから排泄もしない! 完璧な存在なんだ!」
「おい、それは生物学的に―」
「科学なんて関係ない! 愛があればなんでもできるんだ! 美久さんはオナラをしない! 僕がそう決めたんだから、そうなんだ!」
神様は頭を抱えた。
「しかし、現実は―」
「現実を変えてやる! 美久さんは永遠に完璧なアイドルだ! オナラなんてしない! 断じてしない!!」
健太の迫力に、神様はたじろいだ。
「汝のアイドル愛の力は…想像以上じゃ」
美久は健太の姿を見て、涙を流していた。現実を捻じ曲げてでも自分を守ろうとする健太の姿に、心を打たれていた。
「そうそう、美久さんはオナラをしない」
神様はついに折れた。
「では、そういうことにしておこう。美久という者はオナラをしない存在である、と」
「本当ですか!」
「ああ、汝のアイドル愛の前では、神も無力じゃ。現実すら変えてしまう愛の力、恐ろしいものよ」
健太は美久の前にしゃがみ込んで言った。
「美久さん、あなたは何もしていません。完璧なアイドルのままです」
美久は涙ぐみながら頷いた。
「健太君…ありがとう」
「今度は頭突きじゃなく、ちゃんとキスさせてください」
神様は二人の様子を見ながら、やれやれという表情で頷いた。
「よきかな…愛とはかくも盲目なものか。まあ、それも悪くないじゃろう」
・・・あれから半年後。
健太と美久は、世間から「奇跡のカップル」として注目を集めていた。「愛の力で神様すら説得した男」として、健太は一躍時の人になった。
美久は相変わらず「オナラをしないアイドル」として活動を続けていた。ファンクラブ「天使の羽根」のメンバーたちは、
「やっぱりみくちゃんはオナラをしない!」
「あの時の音は風の音だったんだ!」
「健太さんが証明してくれた!」
と、健太を英雄視していた。
健太は美久の事務所でマネージャーとして働き始めた。相変わらず不器用だが、美久への愛情は本物だった。
そして今日も、二人は公園のベンチで話している。
「健太君、ありがとう。あの時、私を守ってくれて」
「当然です。美久さんは完璧なアイドルなんですから」
美久は少し困ったような表情を見せた。
「でも、本当は私も普通の女の子で…たまには、その…」
「何ですか?」
「お腹が痛くなったりもするんです」
健太は真剣な顔で美久を見つめた。
「美久さん、それは腹痛です。アイドルも人間ですから、お腹は痛くなります。でも、それ以外の音は出ません」
「健太君…」
「美久さんから出るのは、天使の歌声と、甘い息と、美しいため息だけです」
美久は呆れながらも、愛おしそうに健太を見つめた。
「この人、本当に現実が見えてないな…でも、そこがいいのかも」
二人が見つめ合う中、美久のお腹がぐるぐると鳴った。
「あ、やばい」
美久が慌てた瞬間、健太は立ち上がった。
「大丈夫です! 僕が全部責任を取ります!」
健太は空に向かって叫んだ。
「みんな聞いてくれ! 美久さんは何もしない! 何か音がしても、それは僕です! 僕が腹話術で音を出してるんです!」
「腹話術って何よ!」
美久がツッコんだ瞬間―
ブロロロ〜ッ!
例の音が響いた。
「ほら! 今の音も僕の腹話術です! 美久さんは無実です!」
健太の必死の主張に、通りがかった人々は呆れ顔で去っていく。
しかし神様の声が空から聞こえた。
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
美久は笑いながら健太の手を取った。
「健太君、もういいよ。でも、ありがとう」
「いえ、これからも美久さんを守り続けます。現実なんて関係ありません」
二人は手を繋いで帰っていった。
愛とは、時として現実を超越するものなのかもしれない。
【エピローグ】
それから7年後、美久もアイドル業からは卒業し二人は結婚した。
結婚式で健太は誓った。
「僕は美久さんの完璧さを永遠に守り続けます。どんなことがあっても、美久さんは天使のままです」
牧師も困惑する誓いの言葉だった。
新婚旅行先のホテルで、美久は言った。
「健太君、私はもう普通の女の子でいいよ?」
「ダメです。美久さんは永遠にアイドルです」
しばらくして部屋のトイレから大きな音が聞こえた。
ブロロロ〜ッ!
健太は即座に窓を開けて叫んだ。
「あの音は僕です! 僕が部屋で腹話術をやってるんです! 美久さんは無関係です!」
トイレから出てきた美久は健太に語りかける。
「私、トイレにいたのに?」
「愛があれば不可能はありません!」
美久は呆れながらも、愛おしそうに健太を見つめた。
「この人、最後まで現実逃避してる…でも、それも愛なのかな」
空には星が瞬き、神様の笑い声が聞こえてきた。
「愛とは盲目、とはよく言ったものじゃ。健太よ、その調子で現実と戦い続けるがよい」
世界は今日も、愛と妄想で満ちている。
完
**神様の最終独白**
「結局、健太は現実を認めなかったな。しかし、それも一つの愛の形かもしれん。
美久を完璧なアイドルとして守り続ける健太の姿は、わしも感動したぞ。現実なんてクソくらえじゃ。愛があれば何でも解決する。
わしも昔、好きな女神の欠点を『それは個性じゃ!』と言い張って、他の神々に総スカンを食らったことがある。しかし、その女神は今でもわしの嫁じゃ。
愛とは、相手の欠点すら愛おしく思うこと。健太と美久よ、末永く幸せにな〜。
そして、現実と戦い続けるのじゃ!」
神様は満足そうに微笑みながら、LED後光と共に消えていった。
で、屁で世界崩壊とはなんだったのかはわからない。