囁き
大学で民俗学を専攻する由紀は、ゼミの調査で長野県の山奥にある「滝沢村跡」を訪れた。
滝沢村は、昭和四十年代にダム建設のため全戸が移転し、今では湖底に沈んでいるという。
現地では観光地として釣り客やキャンプ客も訪れるが、湖の奥の方は立ち入り禁止区域が多く、地元でも近寄らない場所がある。
湖畔で資料を集めていると、釣りをしていた老人が声をかけてきた。
「お嬢さん、あんまり奥まで行っちゃいかんよ」
理由を尋ねると、老人は一瞬言い淀んでから、低く呟いた。
「……あの湖は、夜になると底から呼ぶんだ」
由紀は興味をそそられ、詳しく話を聞く。
かつて村には「水呼び」という習俗があった。
夏の夜、川や池で名前を三度呼ばれると、呼ばれた者は必ず水の中に入らなければならない――入らないと病になると信じられていた。
この習俗が、ダム建設で村が沈んだ後も消えず、夜に湖へ行った人が何人も行方不明になったのだという。
その夜、由紀は湖畔の民宿に泊まった。
部屋の窓からは、月明かりに照らされた湖面が見える。
遠くでフクロウの鳴く声がして、静かだった。
しかし、午前二時を過ぎた頃、湖の方から奇妙な音が聞こえた。
ざぶ……ざぶ……と、波打ち際を歩く足音。
次いで、水面を隔てた向こう側から、かすれた声が響いた。
「……ゆき……」
確かに、自分の名前だった。
由紀は心臓が高鳴るのを感じながら、窓から離れた。
しかし、再び声がする。
「……ゆき……」
二度目。
老人の話が頭をよぎる――「三度呼ばれたら入らなきゃならん」。
三度目を聞く前に耳を塞ごうとしたが、その瞬間、背後から誰かが肩を掴んだ。
悲鳴を上げて振り返ると、民宿の女将が立っていた。
「……今、声がしたでしょう」
女将の顔は蒼白で、息が荒い。
「返事をしちゃだめ。目も合わせちゃいけない」
女将はカーテンを引き、窓を閉め、部屋の灯りを全部消した。
翌朝、女将はぽつぽつと語った。
十年前、都会から来た若い釣り客が、夜中に名前を呼ばれ、翌朝ボートが湖の真ん中で見つかった。
中には誰もおらず、ただ座席が水で濡れていた。
「声の主は、沈んだ村の誰かかもしれないし、もっと古いものかもしれない」
女将はそう言って、それ以上は語らなかった。
調査を続けるうち、由紀は古い新聞記事を見つけた。
ダム完成の直前、村で少女が行方不明になり、数日後に川底で発見された。
名前は「ユキ」。
死因は溺死、しかし水に入った形跡がないという不可解な記事だった。
数日後、由紀は最後の取材として、立ち入り禁止の湖奥へ足を踏み入れた。
水面は凪ぎ、鏡のように静かだ。
耳を澄ますと、深いところから泡が上がる音がした。
「……ゆき……」
今度ははっきりと聞こえた。
足がすくみ、後ずさる。
「……ゆき……」
二度目。
岸まであと数歩――。
三度目の声は、耳の外からではなく、頭の中で響いた。
「……おかえり……」
気づけば足首まで水に浸かっていた。
湖面に映る自分の顔の隣に、見知らぬ少女の顔があった。
口元は笑っていたが、目は暗く、何かを強く訴えている。
その手が、静かに由紀の手を握った。
冷たく、骨ばっていて、絶対に離れなかった。
――その後、由紀の姿を見た者はいない。
ただ、夜の湖で「ユキ」と呼ぶ声を聞いたという話だけが、またひとつ増えた。