簡単な言葉、細い糸
本日2話目です。
ナギからの返信は、静かな刃のようにシンの心に突き刺さった。
そこに書かれていたのは、叱責でも嘲笑でもない。ただ、どこまでも透き通った、本質だけを抜き出したような言葉だった。
「まず、“誰に向けて”書いているかをはっきりさせること」
「そして、“何ができるか”ではなく、“相手がどう感じるか”を意識すること」
──誰に、どう感じるか?
思考が停止する。それは、シンが現実世界で積み上げてきた知識の体系には存在しない、異質の概念だった。彼にとって文章とは、スキルを陳列し、能力を証明するための武器。そこに「感情」が入り込む余地など、考えたこともなかった。
言われてみれば、彼のプロフィールは無機質な箇条書きの羅列だ。まるで、魂のない自動応答メッセージのように、一方的に情報を叩きつけているだけ。そこに血の通った人間が介在している気配はない。
「たとえば、自己紹介の一行目に“文章を書くのが大好きです”と書いてみてください」
「その一言で、“この人に頼んだら丁寧に書いてくれそう”って思ってもらえるかもしれません」
そんな曖昧な言葉に、価値があるというのか。
シンは思わず、反論の言葉を打ち込もうとした。そんな情緒的なアプローチで信頼が得られるなら、誰も苦労はしない。
だが、続くナギの言葉が、彼の指を止めた。
「“簡単な言葉”が、一番むずかしいんです」
「だからこそ、心に届くんです」
その瞬間、シンの内側で硬く信じていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
彼は自分のプロフィール画面を開き、これまで誇りだと思っていたスキルや専門用語、実績の数々を、一つ一つ消していく。鎧を一枚ずつ剥がされていくような、心許ない感覚。
そして、祈るような気持ちで、新しい言葉を紡いだ。
こんにちは。文章を書くのが大好きです。
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書き終えた文章は、あまりにも無防備で、情けないほどに丸裸だった。
「……これで、いいのか?」
自信など、欠片もなかった。だが、ナギの言葉が脳裏に響く。
「信頼は、細い糸から生まれるんです」
──細い糸。
知識ではなく、心で手繰り寄せる、か細い繋がり。
シンは初めて、自分の弱さを差し出すような覚悟で、プロフィールを更新した。
数時間後。世界から拒絶されたような静寂の中、デバイスが震えた。
【依頼者:古本カフェの店主】
「はじめまして。プロフィールを見て、あったかい文章を書いてくれそうだなと思ってご連絡しました。小さなカフェの、季節のおすすめメニューを紹介するチラシを書いてもらえませんか?」
シンは、デバイスを握りしめた。
……届いた。
知識でも、技術でもない。剥き出しにした、ありのままの言葉が、確かに誰かの心に届いた。
それは勝利の快感とは違う、静かで、確かな手触りのある喜びだった。この世界で初めて「シン」という存在が、輪郭を得た瞬間。
その夜、彼はナギに感謝のメッセージを送った。
「ありがとう。自分の言葉で、誰かに届いたのは、初めてかもしれない」
すぐに返ってきた彼女の言葉は、まるで全てを見通しているかのようだった。
「おめでとう。ここから、物語が始まりますね」
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