誰も知らない香織へ
第一章 “可愛い”を演じる私
「香織ちゃん、可愛すぎ!天使!」
まだ15歳だった。
ステージで笑うたび、観客の歓声が押し寄せた。
ふわふわの衣装、わざとらしい口調、上目遣いのカメラ目線。
事務所の指導通りに、“可愛い系”を演じた。
「香織ちゃんらしくしてね」
“らしさ”は自分で決めるものじゃなかった。
求められる形に自分を合わせていくうち、香織は“自分”の輪郭を忘れていった。
だけど、彼といるときだけは違った。
賢太──高校時代からこっそり付き合っていた、ただの普通の男の子。
笑われてもよかった。ルール違反でもよかった。
本音で話せる唯一の相手だったから。
---
第二章 ガラスの仮面が割れる音
その日、香織の名前がSNSのトレンド1位になった。
「アイドル香織、路上キスとホテル密会発覚」
賢太と抱き合い、キスをしている写真。
ホテルに入っていく後ろ姿。
そして、虚ろな表情でホテルを出る香織の横顔。
──すべてが晒された。
ファンの怒号。裏切り。失望。罵倒。
「ビ○チ」「終わった」「ショックすぎて泣いた」
事務所は静かだった。
数日後、活動休止が通告された。
> 「しばらく外に出るな。謝罪コメントは用意する」
メンバーたちは誰も連絡してこなかった。
香織の部屋には、スマホのバイブ音だけが鳴り響いていた。
その沈黙を破ったのは、一本の電話だった。
---
第三章 沈む選択
> 「香織さん、AVのオファーが来ています」
画面越しの担当者の笑顔は、どこまでも事務的だった。
「スキャンダル直後は、需要があるんです」
「清純から堕ちる構図が、売れる」
香織は黙って話を聞いていた。
頭の中は空白だった。
“このまま消えるくらいなら、いっそ──”
そんな考えが、どこか現実味を帯びて浮かんでは消えた。
最終的に「はい」と答えた自分を、今でも許せていない。
---
第四章 映るのは誰?
撮影現場。
香織はメイクをされ、指示を受け、カメラの前に立った。
ライトがまぶしかった。
ステージと似たような光なのに、まるで違った。
ここには夢も希望もなかった。
カメラの奥には、観客はいない。
ただ、香織を“商品”として切り取る視線だけがあった。
初作品は空前のヒットとなった。
「こんなに堕ちたのに、まだ可愛い」「見てて泣けた」
褒め言葉のような声が、逆に胸をえぐった。
私は“見せ物”になったんだ。
---
第五章 売れなくなる香織
10本の作品を出した頃、売上は落ち始めていた。
「新鮮味がなくなった」「他に流れるよな」
数字の評価は正直だった。
事務所の視線も、明らかに冷めていく。
> 「もう少し過激な内容も……」
香織は首を横に振った。
もうこれ以上、自分を削れなかった。
でも、生活は残っていた。
稼がなければ、生きていけなかった。
だから──香織は“もう一歩”を踏み出した。
---
第六章 売り物になる香織
都内某所の風俗店。
店の公式サイトには、こう書かれていた。
> 「元アイドル香織ちゃんと、夢のひとときを」
「予約殺到中!伝説のAV女優、風俗初登場!」
香織の名前は、再び注目を集めた。
でもそれは、“誰でも触れられる偶像”としての注目だった。
「本物だよね?」「写真と同じ顔じゃん」
「ずっと見てたから、ちょっと感動したわ」
香織は、笑うことすらしなかった。
もう誰にも見せる笑顔を持っていなかった。
ただ、目の前の時間が過ぎていくのを待つだけだった。
---
第七章 最期の通知
ある日、再び名前が週刊誌に載った。
> 「元アイドル香織、風俗勤務が発覚」
「AV10本出演後に風俗堕ち。業界で波紋広がる」
炎上というより、冷笑と疲労が混じったようなコメントがネットを埋め尽くしていた。
事務所から、たった一通のメールが届いた。
> 「契約解除処分といたします。今後の接触はご遠慮ください」
香織は、スマホを静かに伏せた。
誰かに裏切られたとも思わなかった。
ただ、“自分という存在”がもう終わったのだと、そう思った。
---
最終章 香織、じゃない誰かとして
今の香織には、名字も名前もない。
源氏名で働き、誰かの“夢の残骸”として日々を送る。
かつてファンだったという男が、こう言った。
「昔、香織ちゃんの笑顔に救われてたんだよ。…でも、今の方がリアルで好きかも」
香織は、なにも言わなかった。
言葉の持つ重みが、もう分からなかった。
夜の公園で、缶コーヒーを片手に空を見上げた。
──どこかで、まだ「香織ちゃんは天使」と信じてくれている誰かがいたとしても、
今の自分は、もうその名前を名乗る資格さえない。
でも──
「もう、“香織”じゃなくていい」
その言葉だけが、ようやく自分の心に触れた気がした。
---
【了】