7月7日
古びたブロック塀で両サイドを囲まれた、乗用車が交差できないほどの幅しかない狭い道路。
時間帯も関係しているのか人通りも少なく、学校帰りの女の子たちの楽しそうな話声しか聞こえない。
“キィィィィ——ッ!”
突然。
静かなこの空間に、甲高いブレーキ音がまるで悲鳴のように響き渡った。
次の瞬間、タイヤがアスファルトを削る音とともに、車体が横滑りする鈍い音が重なったかと思うと。
“ドンッ!”
という衝撃音が空気を震わせたため、おしゃべりしながら歩いていた少女たちは、反射的に振り返る。
視界にはいったのは、電柱に斜めに突き刺さった赤い軽乗用車。
「大丈夫ですか?」
タイミングよく通りかかったサラリーマン風の男性が、運転席の窓をドンドンと手のひらで叩きながら叫んでいる。
すると。
“ギィィ……バキッ……”
金属がまるで悲鳴を上げるように軋んだ、耳障りな音を辺りに響かせながら車のドアが開いた。
首を打ち付けたのか、左手で支えるようにして出てきたのは、金色に髪を染めた赤いルージュとワンピースが印象的な、派手ないでたちの30代前半くらいの女性。
彼女は心配そうに声をかけているサラリーマン風の男性を無視し、前方で自分を見ている2人の少女を殺気のこもった鋭い目つきで睨みつけながらも、急ぎ足で去って行く。
が。
「キャッ!!」
何かに滑ったのか、その女性は悲鳴をあげたかと思ったその瞬間に。
“ドスン!”
という鈍い音をあげ、しりもちをついていた。
よく見れば女性の足元には、6月も終わりに差し掛かり、毎日30℃以上の高温多湿が続くこの季節には珍しく、薄い氷の膜が見えた・・・が、すぐさまそれは水と化してしまった。
車のタイヤ4本すべてが氷で覆われていたはずなのに、気が付けば水浸し状態となっている。
その光景を見て、長い黒髪を後頭部の高い位置で一つに縛った少女は、ため息交じりにつぶやいた。
「澪華ちゃんの周りって、事故が多いよね。」
まるでシルクのような艶やかな黒髪を肩先で切りそろえた少女は、ややつり気味で大きな瞳を斜め右上に移動させて右人差し指を口元に当て、何かを思い出そうとするそぶりを見せると。
「そおかなあ~?」
と、のんびりした口調で答えた。
「そおだよぉ~。幼稚園の時からそうだと思ってたんだけどさ。最近で言うと、一か月くらい前にうちのサクラちゃんの散歩をしに一緒に近所の川べり歩いていた時。知らない男の人が、自転車ごと土手の下に落っこちたでしょ?それで太ももにナイフがぶっ刺さっていたから、周りにいた大人たちが大騒ぎして救急車呼んでたじゃん!」
「そんなことあったっけぇ~?」
今度は腕組みをしながら“う~ん”とうなり声をあげ考え込むそぶりを見せる。
「え~。じゃあ、何日か前の学校の帰りに、上から植木鉢が落っこちてきた時のは?突然目の前の道路がすっごい音を立てて割れてさ、水がすっごい勢いで出てきたじゃん?そしたら、植木鉢がそのまま水と一緒にビュンって上に飛んでってさ、マンションのベランダから顔を出していた男の人にあたって、そのまま姿が見えなくなったやつ。」
「え~。そんな事あったんだ~。よく覚えているね。茉鈴ちゃんすごいね~。」
「そんなに昔じゃないよ~?澪華ちゃん、お勉強はすっごく出来るのに、何でそんなに忘れてっぽいのかなあ・・・・・・。」
なんなんだ、なんなんだ。
何故俺は、こんなところにいるんだ!!
あの女に頼まれたのは、本当に簡単な事だった。
とある幼女に怪我をさせ、あの女の病院に連れていくこと、ただ、それだった。
それだけで、パチンコ代10万ももらえるなんて、無職の俺にとってはとてつもなくありがたすぎる、簡単でおいしい仕事だった・・・・・・はずなのに。
自転車で少女に近づこうとしたら、突然タイヤが何かに引っ掛かり、あっというまに体勢を崩して土手をそのまま転げ落ちた。
気が付けば、少女に怪我をさせるつもりで手に握っていたナイフが、自分の左太腿に深く刺さっており、慌てた周りの弥次馬どもによって、この病院に緊急搬送された。
が。
その日から、布団から出ることができなくなった。
何故なら、ベッドの周りは一面が水で覆われていたから。
真っ暗で電気もつくことがない、何もない部屋一面を埋めつくしたかのような深い深い水の中に、自分が寝ているベッドだけが浮いているような、そんな光景しか見えなかったから。
“コポコポコポ・・・・・・”
静だった部屋の中で、突然音がした。
慌ててその方角に目をやれば、水面に湧き出てきた無数の泡。
その泡の中から突然“バシャン”!”と水の跳ねる音がしたかと思うと、勢いよく人間の細い手が飛び出してきた。
血の通わないような青白くそしてしなやかな女性の手。
「ヒッ!!」
その女性の手はススーーーーッと、音もたてず足元へと移動していく。
「いっ、イタッ!!」
突然、左太腿に激痛が走った。
飛び起きて足元の布団をめくれば、白い女性の手につかまれ、指先を彩る長く真っ赤な爪がギチギチと食い込んでいくのが見える。
「い、痛い痛い痛いーーー!!」
水面から一つ、二つと白く細い女性の手が現れたかと思うと、瞬く間に百人分くらいの数となり、次々と真っ赤に伸びた鋭い爪を、腹に、胸に、首に、手にと体中へとつきたて食い込ませていく。
「い、痛い痛い痛いーーー!!」
そんな中。
“ああもうすぐ・・・。もうすぐ7月7日。邪魔はさせない・・・。”
落ち着きを払った冷たく突き刺さるような女性の声は、水の中からなのか、それとも空中から聞こえたのか、または頭の中で響いたのかは分からない。
そんな事よりも、体中を無数の針で刺されているかのように、痛くてたまらない。
いっそ、気絶でもしてしまえば楽なのにと思うのに、あまりの痛さがそれさえも許さない。
「ああ、痛い痛い痛い・・・・・・。助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ・・・・・・。」
どの病院でも見れる、ベッド一つがあるだけのありふれた簡素な病室。
部屋の入り口は鍵がかけられ、廊下側の壁は腰くらいの高さから上全体がガラス張りで中が見えるようになっていた。
そのベッドの上には、四肢のない体を全身包帯でぐるぐる巻きにされた男性が横たわっており、なにやら大声をあげている。
そんな男性をガラス越しに観察していたであろう白衣を着た女性2人は、お互い困ったような迷惑そうな顔をしていた。
「今日も夜勤が大変そう、うんざりするわ。」
「本当よね?だから精神病棟の担当は嫌なのよ。」
「でも変よね?粟野さん、最初左太腿に刺し傷があっただけなのに、一カ月で体全体に原因不明の浮腫が進んで、水膨れが毎日破裂しては、躰が腐り落ちていくなんて。」
何故だ?
俺はただあの女に頼まれて、部屋のベランダから少女にぶつからないスレスレのところに、植木鉢を落としただけなのに。
ちょっとしたことで、10万も入る簡単なアルバイトだったはずなのに。
何故?
なぜあの日から、こんなことに・・・。
ベットの上で布団を頭からすっぽりと被り、ガクガクと全身を震わせて丸まっている男。
額が紫色になってポッコリと腫れ上がっているその男は、顔から血の気が失せ、音が聞こえないようにしているのか、両耳を手のひらで包み込んでいる。
おでこが痛い・・・あの時、なぜか落とした植木鉢が噴水のように噴き出してきた水と共に、自分に向かって飛んできたと思ったら、視界が暗くなった。
どうやら、ぶつかって気を失っていたらしい。
気が付けば夜中で、落としたはずの植木鉢が倒れたすぐそばで粉々に壊れ、土と共に散乱していた。
・・・・・・おでこが痛い。
触れば、驚くほど腫れあがっていて、熱を持っていた。
すぐに病院に向かわなければ・・・・・・だが行けない。
なぜなら、この部屋から出られないから。
部屋のドアを開けた途端、なぜかそこは川か湖のように水で満たされていた。
そして廊下の中心には、全身ずぶ濡れで白い着物がしっとりと肌に張りついた、床にまで届く長い長い黒髪の女が立っている。
長く濡れた髪は、黒い糸のように顔に幾重にも張りついているからか、どんな顔をしているのか確認ができない。
“ポタリ・・・ポタリ・・・・・・。”
水の音がやけに目立つ。
髪の毛一本一本から、そして白い着物の袖口から、無造作に縛られた白い帯の先から音を立て、雫が床の水面にピチャン・・・ピチャンと音を立てて、ゆっくりゆっくり水面に溶けていく。
目の前の女性の顔は分からないのに、その視線が自分に向けられているのだけは分かる。
ジワリと全身にまとわりつくような不快な視線・・・そう思った途端、声が聞こえた。
“ああもうすぐ・・・。もうすぐ7月7日。邪魔はさせない・・・。”
まるで心臓につららを突き付けられたような、冷たく凍るような女性の声。
突然、全身がワナワナと震えだし、何かに駆り立てられるかのように慌てて戸を閉め、逃れるようにベッドの布団にもぐりこんだ。
それなのに・・・・・・。
“ピチャン・・・ピチャン・・・”
水の音は鳴りやまない。
だから、ベッドのサイドテーブルの上にあるエアポットを耳にねじ込み、スマホで音楽を鳴らした。
音楽を鳴らしている間は、水の音はしなかった。
いつの間にか眠ってしまい、気が付けばカーテンを閉め忘れた窓から、日の光が差し込んでいた。
だから思ったのだ。
昨日のは、きっと夢だったのだと。
今日は、このドアを開けたらきっと、いつもの廊下があるはずだ。
そしたら今日こそ病院に行こう、頭痛もするしおでこがジンジンとずっと鈍い痛みを訴え続けている。
おでこを触るとさらに腫れあがり熱もひいてはいないからか、とにかく痛い。
だから、病院に行こうと部屋のドアを開けた。
「ヒッ!」
しかし。
目の前には昨日と同じ、床には底の見えなさそうな暗い一面の水、そして白い着物の長い黒髪の女。
“ああもうすぐ・・・。もうすぐ7月7日。邪魔はさせない・・・。”
またあの声が・・・女の声が聞こえる。
こうしてあの日から、部屋から出られなくなってしまった。
・・・・・・下の部屋の住人が、管理会社へ電話していた。
「すみません。303号室に住んでいるのですが。この一週間、毎日天井から水が壁を伝って大量に流れてきて困っているんです。上の階の人と話をしたくても、何度チャイムを鳴らしても出てこないし、郵便物も溜まっているようなのですが。どうしたらいいですか?」
どうして?
どうしてこんなことになってしまったの?
凛としたただずまいの、長身痩躯で顔立ちの整ったそれはそれは美しい神主様。
私はただ、あの人を手に入れたかっただけ。
本当はあの邪魔な子供には死んでほしいけど、そこまでする勇気はない。
だから人に頼んで恐怖をあおり、都合よく助け、私に依存させて父親をモノにする予定だったのに。
奴らには10万も払っているのに、何もしてくれない、連絡も取れない。
仕方ないから、私みずからお出かけついでにちょっと車で脅かそうと・・・そう思っただけなのに。
急にハンドルが利かなくなり、気が付けば電柱にぶつかっていた。
慌てたからか、道路で滑って転んでしりもちをつき、正体がバレそうだったからあわてて走って逃げたら、途中で意識がなくなった。
気が付けば、自分の勤めている病院に緊急搬送されてたのだが。
・・・その日から、眠るのが怖い。
眠ると夢に何かが出てくる。
お陰で眠ることが出来なくなり、気が付けば四肢が動かないので、たぶん拘束具を付けられているのだろう。
ああ・・・・・・眠い、眠いのに。
でも、寝てはいけない、いけない・・・・・・のに・・・・・・。
寒い。
ああ、寒くて寒くて、凍えてしまいそう。
思ず目を開ければ・・・・・・。
「ヒッ!!」
白く長い髪を風の流れに沿ってユラユラと揺らめかせる、生気のない青白い肌をした氷の彫刻のような美女の顔が、鼻と鼻がすぐに振れてしまいそうなほど近くにあった。
目は笑っていない。
瞳の奥には冷たい闇をたずさえ、まばたきすることなくただじっとこちらを見つめていた。
ふいに頬に触れた彼女の手は、感覚がなくなるほどに冷たく、そして痛かっためか、体がビクン!と跳ね上がる。
“ああもうすぐ・・・。もうすぐ7月7日。邪魔はさせない・・・・・・。”
なまめかしい艶を含んだその唇から耳にとても心地よく感じる鈴が鳴るような綺麗な声が聞こえた後。
突然。
冷たい息吹を肌に感じた。
“ピキピキピキ・・・・・・”
手足が、頭が、躰の全てがものすごいスピードで凍っていき、感覚が失われていく。
「ああ、寒い、寒い、寒い・・・。助けて、助けて、助けて・・・・・・。」
寒い、寒くて、息もできな・・・。
「石橋さん!しっかりして!石橋さん!」
女性の叫び声に我に返り、反射的に目を開けた。
白い天井、白衣を着たマスクをした女性が2人。
同僚だから知っている、ただし、仲がいいわけではないけれど。
1人は、私にが目を開けたと同時に、〔またかよ・・・〕とでも言いたげなめんどくさそうな顔でこちらを覗き込んでいる。
もう1人は、点滴パックに注射器で何やら液を追加していた。
やばい・・・また、眠く・・・・・・。
石橋という女性が目を閉じ、寝息が聞こえたことを確認すると、白衣の女性2人はザマア見ろとでも言わんばかりの皮肉な笑みを浮かべていた。
「やっと落ち着いたわね。昼夜構わず叫ぶから、本当に迷惑。まあ、嫌な女だったからザマアって感じだけど?男遊びが過ぎたから、変な病気でももらったんじゃない?」
「たぶんそうじゃない?検査結果では何も出なかったみたいだけど?四肢が急速に凍死していくなんて、天罰だわ!いい気味!」
「でも変よね?この部屋石橋さんが寒がるから、クーラーもつけれなくってサウナ状態なのに。あの人の身体、いつも氷のように冷たいのよね。」
そして、7月7日はやってきた。
「おはよう、お母さん。そして久しぶり~。」
1年に一度だけ、朝目が覚めれば母がいる風景。
待ちに待ったこの風景に嬉しさが限界値を超えたかの如く、母を思いっきり抱きしめる。
膝をついて小さい愛娘を抱きしめ返し、母親は何度も優しく娘の頭を撫でていた。
「おはよう、澪華。また大きくなったわね。そして10歳のお誕生、おめでとう。」
「ありがとう、お母さん。」
「おはよう、澪華。10歳のお誕生日おめでとう。ここに、お母さんの自慢のお稲荷さんがあるよ。1年ぶりだから楽しみだね。」
黄色いエプロンをした父が、母親に抱き着く愛娘の頭を母と一緒になって撫でている。
テーブルには大皿一杯のいなり寿司と揚げとねぎの味噌汁、そしてだし巻き卵にほうれん草のお浸しが所狭しと並べられていた。
「今日は1年に一度の大切な日。澪華はどこに行きたいのかしら?」
「お父さんとお母さんと一緒にいられるのなら、どこでもいいよ~。」
そう言って顔を見合わせ、笑いあう親子。
そんな仲良し家族を見守る女性の影が3人分。
ベランダの窓の外から、キッチンの光景を覗き見て、それぞれが口元を着物の袖で覆い、大粒の涙を流していた。
3人ともに、長く艶やかな美しい髪をした、それぞれが独特の色気をまとった美女である。
「間に合ってよかったわ。そう思いませんこと。」
「ええ。おとら様とこの神社の神主であり旦那様である蒼生様、そして澪華お嬢様があんなにうれしそうで。」
「澪華お嬢様が7歳の誕生日を迎えた日から、おとら様は本来の水神様のお仕事のお手伝いに戻られたんですものね。その為に1年に一度しか会えない家族ですもの。おとら様の家族の幸せは、眷属である私たちが守りませんと。」
「ええ。そうですわ。それにしても川女さん。お嬢様にナイフを突きつけようとした不埒者を世にも醜い蓑虫まがいの姿に変え、連日幻覚を見せて精神的に追い詰める手法はさすがですわ。」
「濡れ女さんもさすがでしたわよ。お嬢様に植木鉢を落とそうとした不埒な輩を病院に行かせず、部屋に閉じ込めて精神的にじわじわと追い詰めていく手法は、参考になりましてよ。」
「この蒸し暑い時期にわざわざ下界に降りて下さった、雪女さんもお見事ですわ。主犯であるあの忌々しい女の体をじわじわと凍らせ苦痛を与え続けていく手腕はあっぱれにございますわ。」
こうして、1,000年以上もこの地を守る水神様の右腕であらせられるおとら様家族の平和は、本人たちの知らないところで守られていくのであった。