突然の別れ
美月が体調を崩すことが増えていたある朝、彼女はいつになく元気そうな顔で「美味しいパンケーキが食べたいな」と隆也に告げた。
彼は戸惑いながらも「じゃあ行こうか」と笑顔を見せる。
マンションの通路を出たとき、子犬を抱いた美月は少しだけ顔色が悪かったが、「大丈夫、今日は調子いいから」と笑ったまま外に出る。
ところが、パンケーキ屋へ向かう途中で、美月は突然足元から崩れ落ち、膝をつくようにして倒れ込んだ。
「ごめん…ちょっと息苦しい」
青ざめた顔が汗に濡れているのを見て、隆也は慌ててタクシーを拾い、彼女を抱え込むようにして帰宅する。
部屋のベッドに横になった美月はか細い声で「ごめんね…まただめみたい」と呟く。
彼が救急車を呼ぼうとすると「少し休めば平気だから」と首を振るが、やがて夜になっても呼吸は乱れ、熱が収まる気配もない。
「やっぱり病院に行こう」と隆也が決断しかけた矢先、美月の瞳の焦点が合わなくなり、呼吸が浅くなる。
「美月!」と声をかけても反応がなく、彼は震える手でスマホを探し出し、急いで救急車を呼んだ。
しかし、救急隊が必死に処置をして運び込んだ先の病院で、彼女は再び目を覚ますことはなかった。
医師の説明は曖昧だったが、彼女の持病や薬の副作用、そして身体の弱さが重なり合った結果なのだろうという。
やけに静かな病室の片隅で、隆也は立ち尽くしたまま、自分に何が起きているのかうまく理解できなかった。
数日後、葬儀が行われたとき、掲示板の仲間や友人たちが集まり、皆それぞれの思いを抱いて花を手向ける。
ゴスMは終始無言で涙をぬぐい、ウクレレは肩を震わせながら焼香を済ませる。
サイレントもわずかにうつむいて顔を覆い、花を供えることしかできない。
美月の写真はやさしい笑みを浮かべており、斎場の奥に飾られたその顔を見つめながら、隆也は悲しみの実感が遠のくような、不思議な浮遊感に包まれた。
美月の葬儀を終えてから、今回の出来事の連絡も兼ね、美月のかかりつけ医の元へ訪れた。
医師は小さく息をつきながら、「桜井さんは、過去に大切な人を失ってしまった経験があったようです」と伝える。
「家族だったのか、恋人だったのか…詳しくは分かりません。
ただ、その喪失感が引き金となって、抑うつや解離を深刻化させたのではないかと思います」
深い悲しみを抱えたままの彼女が、さらに孤独や不安に苛まれていたのだと知り、隆也は立ちすくむ。
自分は本当に彼女を救えたのだろうかと、苦い思いがこみ上げてきた。
しばらくして、隆也は家族にも会ってはみたが、彼女との日々について胸を開いて語ることができなかった。
両親は「大変だったろう」「無理するな」と声をかけてくれたが、その優しさすらどこか空回りしているように感じる。
友人たちに話してみようとしても、「気の毒だったね」「つらかったね」と同情の言葉ばかりが返ってきて、深いところではかみ合わない。
彼女を失った痛みを共有したいのに、誰もその痛みに触れられないように避けている気がする。
バイト先でも皆がねぎらいの言葉を掛けてくれたが、深い共感は得られなかった。
離婚したばかりのバイト先店長が「わかるよ、独り身になると大変だよな」と言ってくれたが、違和感を感じていた。
同じ喪失体験を経験した者でないと共有しきれないもどかしさを感じた。
やりきれなさを抱えながらも、遅れてやってきた実感が彼の涙を呼び、大学のトイレや帰宅途中のコンビニ、そして自室の布団の中で、何度も声を殺して泣いた。
しかし、人と話しても気持ちを解放できず、むしろ孤立感だけが増していく。
そんなとき、彼が頼ったのはSNSのどうしようもなくバカバカしいアカウントだった。
大喜利やくだらないネタ投稿を延々と続けるユーザーたちが、「家族あるある選手権」「職場でやらかした失敗選手権」といったテーマで、あり得ない妄想を積み重ねて笑い合っている。
「ばあちゃんの背中で目玉焼きが焼けるレベルの説教」という投稿を見て、不覚にも噴き出してしまう自分がいる。
美月と一緒に飼い始めた子犬は、マンションの一室でご主人がいなくなってしまったことなど理解できないまま、隆也の足元をクンクン嗅ぎ回っている。
その毛並みを撫でながら、彼はSNSを何度もスクロールし、傍から見れば意味のないような冗談に救いを求めた。
痛ましい現実とまったく関係のない場所で、人々が笑顔を見せている投稿に触れると、少しだけ呼吸が楽になる気がした。
そんな日々が続くなか、ウクレレから「もし興味があれば催眠療法とか試してみる?」というメッセージが届く。
「時間退行で美月さんに会えるかもって思うなら。
まあ、効果は人それぞれだけど…」
隆也はスマホの画面を見つめる。
正直、半信半疑だが、彼女の笑顔にもう一度会えるなら試してみたいという思いがある。
同時に、何をやっても美月は帰ってこないのだという冷静な自分も心のどこかに潜んでいた。
彼はこの喪失感を抱えながら、だれとも共有できずに彷徨う。
大変だが幸せだった日常がフラッシュバックのように次々と襲い掛かる。
両親の優しさも、友人の慰めも、掲示板の仲間たちの労わりも、表面的に感じられてしまい、心にしっかりと根づかない。
だからこそSNSのバカアカウントにすがるように、薄暗い中で画面を見つめ、笑おうとしている。
深夜に響く子犬の寝息を聞きながら、失うという絶望に苛まれる。
だが、時間は無遠慮に流れていく。
やがて彼は気づくだろう。
膨大な日々の積み重ねだけが、痛みを少しずつやわらげていくのだということを。
朝が来れば起き上がり、犬の世話をし、バイトへ行き、帰ってきては意味もなくSNSの大喜利を眺める。
無為なようでいて、その繰り返しの中で、彼の胸に鋭く刺さっていた悲しみはいつしか鈍く、重く、そして慣れ親しんだ痛みへと変わる。
それは救済でもなければ完全な癒やしでもない。
ただ、時の流れが彼に新たな皮膚を与え、ひどく深い傷口をやがてかさぶたに変えていく。
美月を失った穴は埋まることはないかもしれないが、その穴を抱えたまま生きていく術を、時間がゆっくりと教えてくれるのだろう。
大喜利のくだらない投稿にクスッと笑い、子犬の丸まった背中を撫で、ちいさく「ありがとう」と呟く。
見上げた先に、はっきりと美月の姿はないが、それでも彼は日々の中へ戻っていく。