同棲とOD騒動
美月――掲示板上では「ルナミ」というハンドルネームを使っている――とのつき合いが深まるにつれ、隆也は彼女の精神状態が想像以上に危ういことを徐々に実感するようになった。
仕事へ行く日も、まるで身体に重りでもついているかのように動きが鈍く、彼女は朝から目をうるませて「行きたくない」と嘆くことが増えた。
遅刻や欠勤が続けば当然職場での評価も下がる。
それでも彼女は何とか勤め先へ足を運び、辛うじて毎日を乗り切ろうとしていたが、ある日、「もう来なくていい」と上司に言い渡され、実質的にクビを宣告された。
隆也の前で美月は堰を切ったように泣きじゃくり、唇を震わせながら「私、だめだね…全部だめ」と自虐的にこぼした。
彼女の仕事用のバッグが床に落ち、ガラガラと中身が散らばっても拾う気力さえないらしい。
隆也はそれらを黙って集めながら「そんなことないよ」と声をかけるが、彼女は虚ろな目をしたままうなずく気配を見せなかった。
その数日後、美月のスマホから鳴った着信を受け、彼女が「ちょっと外に行く」とだけ言い置いて部屋を出たきり戻らない夜があった。
連絡が途絶え、不安になった隆也が彼女の知人たちに当たると、ほどなくして「美月がOD(薬の過剰摂取)で救急搬送されたらしい」という知らせが舞い込む。
病院に駆けつけると、彼女は点滴につながれたまま静かに目を閉じていた。
医師からは「幸い致死量には達していません。
ただ、このままだと危ないので、しばらく入院が必要かもしれません」と告げられる。
彼女の白い肌がさらに透き通るようになっているのを見て、隆也は全身から力が抜けていくような感覚に襲われた。
退院してからしばらくの間、美月は隆也の部屋で過ごすようになる。
もともと一人暮らし用の狭いスペースだが、彼女は「一人にはなりたくない」と言い、隆也も「それなら」と即答する。
以来、小柄な彼女の姿が部屋のあちこちで見られるようになったが、いつも眠れずに夜中に起きては「ごめんね」と謝り、冷蔵庫を開けてチョコレートを探したり、逆に昼過ぎまで眠り込んで起きない日があったりと、不規則な生活が続く。
時折、優しい笑顔を見せて「私、幸せだよ」と呟く一方で、深夜に泣き出してスマホを投げ出す場面も多い。
彼女の波の激しさに戸惑いつつも、隆也は受け止めるしかなかった。
そんな生活を続けるうちに、美月は突然「犬が飼いたい!」と目を輝かせ始めた。
小さな体をさらに丸めるようにして「ワンちゃんと一緒に寝たいの。
そしたら寂しくないでしょ」と言う。
隆也は怪訝そうな顔をして、「でも、このアパートはペット禁止じゃ…」と返すが、美月は聞く耳を持たない。
「それでも飼いたい。
絶対かわいいよ。
一緒に散歩したら気分よくなるし」と、一気にまくし立ててしまう。
彼は折れそうな気配を察しながらも、どうにか説得を試みるが、彼女は「私、もうダメかもしれないのに…このままじゃ死んじゃうかも」と極端な言葉で泣きそうな目をする。
結局、彼女の衝動的な熱意に押し切られる形で子犬を迎え入れることになった。
ある休日、二人でペットショップへ行くと、ガラス越しに見える小さな子犬を見て美月は「かわいい…」と声を震わせる。
しかし、店員から飼育環境の確認をされると、マンションのペット禁止を正直に言うわけにもいかず、隆也は曖昧に「大丈夫ですよ」と答えてしまう。
内心で「これはまずい」と思いつつも、店を出る頃には美月の腕の中でぬくぬくと眠る子犬の姿があった。
二人はそのまま帰り道、管理人に気づかれないようにキャリーバッグを隠しながら部屋へ戻り、美月は大喜びで子犬を抱えて部屋中を駆け回る。
数日間は、彼女の沈みがちな様子が嘘のように明るくなった。
「この子といると元気出るよ。
見て、すごく甘えてくるの」
彼女の言葉は久々に弾んでいて、隆也はほっと胸をなで下ろす。
ところが、それから間もなく管理人が巡回に来た際、子犬の鳴き声を聞きつけたらしく「ペットは禁止なんですよ。
すぐに出て行ってもらわないと困ります」ときっぱり告げられる。
隆也は「何とかならないですか」と必死に頼むが、管理人は聞く耳を持たない。
結果、二人は部屋を退去せざるを得なくなった。
急いで新しい住まいを探し回った末、ようやくペット可のマンションを見つけて引っ越したのは、夏の終わりのことだった。
エレベーターも新しく、少し家賃は高いが、部屋には日が差し込んで明るい。
美月は早速子犬をリビングで遊ばせ、隆也はダンボールの山を一つずつ片づけながら「なんとか落ち着いたな」とため息をつく。
しかし、新しい環境になっても美月の離人症状や不安定さは変わらない。
夜中に「私、消えたいかも」と呟いたり、突然過呼吸を起こしたりすることが続いた。
頭にレジ袋をかぶせて、「大丈夫?」と問いかけても、美月はうまく言葉にできない様子で、体を丸めながら「ごめんね、こんな私で」と泣くことが多い。
隆也は大学での研究やバイトもあるため、帰りが遅くなることもしばしばだったが、彼女からのLINEには頻繁に「まだ帰ってこないの?」「今すぐ来て」「助けて」といったメッセージが届く。
家にたどり着く頃にはヘトヘトになりながらも、部屋の扉を開ければ「よかった、やっと帰ってきてくれたんだね」と、彼女が半ば泣き笑いで抱きついてくる。
そんな姿を見ると、彼の疲れもいったんは薄れるが、心のどこかに「この先どうなるんだろう」という不安が残るのも確かだ。
子犬の世話に追われ、家賃や引っ越し代で懐事情も厳しくなり、部屋の中は片づけきれないダンボールが積まれたままになっている。
美月は「私がちゃんとやるよ」と言うが、調子のいい日と悪い日の差が激しく、結局片づけは隆也がすることが多い。
彼女がほんの些細なことをきっかけに、泣き崩れたり何時間も沈黙したりするのは、もう日常の光景になりつつある。
「こんな生活、普通じゃないのかな…」と隆也が呟いても、彼女は「ごめんね」と力なく笑うだけだ。
そんなある日、彼女がまた小さく震えながら「もう、しんどい…」と呟き、薬を手のひらいっぱいにあけて「飲んじゃおうかな」と零す場面があった。
隆也は慌ててそれを止め、医師に相談するように促したが、美月は「どうせ行っても変わらないし」と投げやりな態度をとる。
押し問答になりかけたとき、足元を子犬がまとわりついてきて、美月はハッとしたようにその子犬を抱き上げた。
「ごめんね、こういうときに助けてくれるのはワンちゃんだね」と言いながら泣く顔は、どこか幼子のようにも見える。
隆也は背中をさすりながら「俺だって助けたいよ。
一緒にいるから、もう少しだけ頑張ろう」と言った。
彼の心にも疲労が積もっていたが、いまはそれを口にできない。
こうして始まった同棲生活は予想以上に混乱に満ちていた。
ペット禁止のマンションを追われてきたという後ろめたさに加え、ようやく借りた新居も美月の不安定さを根本的に変えてはくれない。
隆也はSNSの掲示板で仲間に相談したり、わずかな時間を使ってバイト先に「すみません、少し早く上がれませんか」と掛け合ったり、日々を綱渡りのように生きている。
それでも、新しいマンションの窓から差し込む陽の光のなかで、美月が子犬を抱いて微笑んでいる姿を見つけると、彼はごく短い安堵を覚える。
その微笑みにどれほどの重みが隠れていようと、いまはただ彼女を抱きしめるほかに方法を見つけられない。
彼らの暮らしは、そのまま落ち着くわけでも安定するわけでもなく、ゆっくりと進んでいく。
美月は日によって眠り込んでしまい、日によっては夜中に子犬に話しかけ続け、あるときはふいに「ごめんね、私ほんとに迷惑かけてばかりだね」と呟いて涙を落とす。
隆也は「そんなことないよ」と繰り返しながらも、自分自身の疲れを持て余している。
引っ越し先での時間は、まるで薄い氷の上を歩くかのような危うさに満ちていた。
部屋の隅にはまだ片づけ切れないダンボールが並び、子犬の足音が床をコツコツと鳴らすたびに、美月は「ああ、やっぱり飼ってよかったかも」と微笑む。
そして彼女は手を合わせるようにして「私、もう少しだけ頑張るね。
一緒にいて」と、小さな声で頼み込む。
隆也はその言葉にうなずき、さらに強く抱き寄せることでしか応えられない。
二人の暮らしは、危ういバランスを保ったまま続いていた。