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掲示板の住人たちとオフ会

水野隆也――掲示板では「ナイトワーク」と名乗っている――があのメンタルヘルス系のサイトを再び訪れたのは、ほんの数日後のことだった。

いつものように狭い部屋でノートパソコンを開き、迷うことなくブックマークから掲示板を呼び出す。

画面上には新しいスレッドがいくつも立ち上がり、誰かの夜を彩っているらしい。


「こんばんは。

ナイトワークです。

また来ました」

そう書き込みを投稿すると、しばらくしないうちにレスポンスが表示される。

「ナイトワークさん、初めまして。

もしよかったら、オフ会に来ませんか?

週末にやる予定で、人が集まりそうなんです」

その誘い文句が目に飛び込んできたとき、彼は少しだけ背筋を伸ばしていた。

ネット上の名前で呼び合う関係が、そのまま現実に接続されることに戸惑いを覚えるものの、どこかで胸が騒ぐ。

亡くなった女性の痕跡と、同じ場所で言葉を交わしていた人々と出会えるかもしれない――そんな小さな期待が、彼を動かしていた。


週末の夕方、隆也は人通りの多い駅前に降り立った。

掲示板の書き込みによると、飲み会の会場は雑居ビルの二階にある居酒屋だという。

「ここか…」と店先でつぶやき、暖簾をくぐって店員に声をかける。

予約名を告げると、迷うことなく奥の個室へ案内された。

扉を開けると、すでに先客らしき数人が座布団に腰を下ろしている。


「あなたがナイトワークさん?

待ってましたよ」

そう声をかけてきたのは、“ウクレレ”と呼ばれている男性だ。

実際に背後には小さなウクレレケースが置いてあり、古着屋で買ったようなシャツとジーンズをゆるく着こなしている。

細身の長髪に人懐っこい笑みを浮かべ、その口調にはなんとなく頼りがいを感じさせるものがあった。

「初めてだと緊張しますよね。

僕も昔はオフ会なんて絶対無理って思ってたけど、慣れたら意外と大丈夫でした」

隆也が「よろしくお願いします」と頭を下げると、ウクレレは手招きして奥へと促してくれる。


その隣に座っていたのは、黒いゴシック調の服を着た女性。“ゴスM”と名乗っているらしい。

くせ毛のセミロングを大胆に染めており、ネイルやメイクも派手めだ。

「わざわざ来てくれるとか、度胸あるじゃん。

うちらも別に怖い人たちじゃないけど、初参加の人ってすぐ帰っちゃうことあるんだよね」

そう言いながらも笑顔を見せると、次の瞬間に険しい表情をつくったりするあたり、心情が変化しやすいのだろうか。

「でも、ゆっくり慣れてくれればいっか」と呟いたあと、スマホをいじり始める。


そしてもう一人、ややうつむき加減で座っている男が軽く会釈した。

「はじめまして。

自分は“サイレント”って呼ばれてます」

スポーツウェアのようなラフな服装で、背筋は伸びているが表情は硬い。

「しゃべるの得意じゃないし、会社も休んでて。

こういう場に出てくるのも、しんどいときあるんですよね」

力なく笑う顔には、どこか陰のある優しさが混ざっているようだ。


メニューを一通り注文したあと、全員で乾杯する流れになる。

それまでネット上でしか繋がっていなかった人々が、こうして同じ空間で向かい合っている。

隆也が座布団に腰を下ろすと、自然と言葉が交わされ始めた。

「ねえ、みんな薬手帳持ってきた?

見せ合おうよ」

ゴスMのその提案は一見突飛だが、ここでは当たり前の行動のようだ。

ウクレレもサイレントも、特にためらうことなく手帳を取り出す。


テーブル上に並べられた手帳には、抗うつ薬や抗不安薬などの名前がずらりと書かれている。

「なんか…たくさん飲んでるんですね」

隆也がそう声をもらすと、ウクレレが苦笑いを浮かべる。

「僕らにとっては日用品みたいなものだからさ。

よく効く薬もあれば副作用できつい薬もあるし、試行錯誤だよね」

そう言いながら、ウクレレは手首を軽くまくって白い跡を見せる。

「こういうことしちゃうときもあったし…」

そこには古いリストカットの跡が淡く残っている。


ゴスMがその手首に目をやったあと、「あー、私もこのへんすごいんだよね」と腕まくりをして見せる。

彼女の場合は何本もの線が走っていて、縫合痕のようなものまで混ざっている。

そこに哀れみを含んだ言葉をかける空気ではないが、隆也の胸には痛みのような感情が広がる。

「それだけ苦しい時期があったんだな」

そう呟くと、ゴスMは短く肩をすくめた。

「ま、今はそこまで深刻じゃないし。

でも、またいつ波が来るか分かんないからさ」


サイレントも黙って腕をまくる。

無言で示された痕が、彼の苦しみを物語っていた。

そして気まずそうに手首を隠しながら、「人に見せるもんじゃないんだけど…まあ、ここならいいか」とポツリと漏らす。

隆也は自分の腕をちらりと見た。

もちろんそんな痕跡はない。

だけど、自分の知らないところで、彼らはこんなにも戦っているのだと実感する。


店員が揚げ物やサラダを運んできて、一旦は話題が変わる。

気分が沈みすぎないようにか、ウクレレが少し冗談を飛ばし、ゴスMもチョコレート味のカクテルを頼んでは「甘いの最高」と喜んでいる。

サイレントは黙々とソフトドリンクを飲みながら、ときおりスマホをちらりと見ている。

そんな光景が、普通の飲み会ともまったく違う独特の空気を作り出している。


「ところで、ナイトワークさんはさ、どうしてこの掲示板に来たの?」

ゴスMが唐突に問いかけると、隆也は少し息を呑んだ。

亡くなった女性が運営していたサイトを見つけたという経緯を、正直に話すべきか迷う。

それでも、なにかしら話してみたいという衝動が勝り、意を決して口を開く。

「実は、ソフトSMっぽい写真を載せてた女性のサイトをたまたま見つけて…

その人がベゲタミンAのODで亡くなってたって知って、すごく衝撃を受けたんです。

サイトに掲示板のリンクがあったから…」

テーブルの空気が一瞬止まり、ウクレレがグラスをゆっくりと置く。

「その人のことは、俺も知ってると言えば知ってる。

直接会ったことはなかったけど、昔から噂はあったんだ」

そう言いながら、どこか複雑そうな表情を浮かべた。


ゴスMはタバコをくわえて火をつけると、淡々と言った。

「掲示板の仲間にとっても重い話なんだよね。

彼女のことがトラウマって人もいる。

だから…何も言わないこともある」

サイレントは目線を落としながら、テーブルの上のコースターを指先でいじっている。

「そういう経緯でここに来たのか。

まあ、俺たちは別に嫌な気はしないけど…」


会話はそれ以上深くは踏み込まなかった。

ただ、彼らがそれぞれ抱えているものの重さや、過去の痛ましい記憶が根を張っていることは、隆也にも察することができる。

話題が変わると、ゴスMは持ち前の感情の揺れ幅を見せながら、他の誰かの噂話に熱中し、サイレントはスマホの画面をにらんでふっと苦笑する。

ウクレレは「ちょっと場を和ませるね」と言ってウクレレを取り出し、即興のメロディを爪弾いていた。

その音に合わせて、ゴスMがリズムを取るように頭を軽く揺らし、サイレントは小さく肩をすくめて息をつく。


隆也はグラスを握りしめたまま、彼らのやりとりを見守る。

リストカットの傷や薬手帳を見せ合いながら、それでも笑おうとする姿は、どこか痛々しくもあり、強さを感じさせるものでもある。

初めてのオフ会は、想像以上に心をかき乱される瞬間の連続だった。

それでも、ここには彼らなりの支え合いがあるのかもしれない。


夜が深まり、店員がラストオーダーを告げに来る頃、ゴスMがスマホを見て急に顔を曇らせる。

誰かから送られたメッセージに苛立ったらしく、声を荒らげて「また私のこと悪く書いてるやつがいる」とテーブルをどんと叩いた。

サイレントはさっと目を伏せ、ウクレレは肩に手を置いて落ち着かせようとするが、彼女の怒りはすぐには収まらない。

「ボーダーだって分かってて煽ってくるんだから、ほんと最悪なんだけど」

タバコの煙を深く吐き出しながら、ゴスMはグラスの酒をあおる。

隆也はどうしていいか分からず、顔をこわばらせる。


そうした空気の中でも、やがて時間が経つにつれ少しずつ落ち着きを取り戻し、ウクレレのなごやかな歌声が狭い個室にかすかに響き渡る。

終電が近づき、店を出る頃には「また集まりたいね」という声が自然に上がった。

ゴスMはツンケンした態度を取りながらも「…じゃあね」と去り、サイレントは「お疲れ」と小さく手を振り、ウクレレは最後まで笑顔を崩さず「また今度!」と声をかける。


隆也は一人で夜道を歩き出し、ビル風に肩をすくめながら深く息をついた。

今まで縁のなかった世界に踏み込んだ高揚と戸惑いがないまぜになり、胸が妙にざわつく。

ちらりとスマホを取り出すと、掲示板の通知が届いていた。

ウクレレからの短いメッセージには「今日はありがとう。

また一緒に飲もう」とだけ書かれている。

リストカットの傷や薬手帳を笑い合う不思議な集まりに、どこか温かいものを感じた自分がいる。

彼らの過去を知れば知るほど、もっと別の面が見えてくるのだろうか――そんな考えが頭をかすめると、足取りは少し重いながらも先へ進んでいった。

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