深夜の研究室と“死んだ女性”のサイト
水野隆也はデスクライトの青白い光を頼りに、大学の研究室に置かれた古いデスクトップパソコンの前でひっそりと息をひそめていた。
周囲の研究員たちはもう帰宅し、夜の静けさと蛍光灯のわずかな残光だけが部屋を満たしている。
いつの頃からか、深夜の研究室に残っては怪しげなアダルトサイトを巡回するのが小さな楽しみになっていた。
真面目な外見とは裏腹に、彼がひそかに抱える「ちょっとした好奇心」がこうして姿を現す。
「誰にも見つからなきゃいいんだけどな」
そうつぶやきながら、隆也はメガネを指で押し上げる。
ややクセのある黒髪が画面に映り込み、鬱陶しそうにかき上げながらも、新たなサイトを探す手だけは止まらない。
大した悪気はない。
ただ、いつもと違う刺激を求める気持ちが後ろめたさを押しのけている。
その夜は、検索ページの奥深くへ潜り込んだ末に、いかにも危うそうなサイトのリンクを見つけた。
うっすらとピンクがかった背景に、“ソフトSM”的な雰囲気を匂わせる女性の写真がちらつく。
自分が普段見ているサイトとは少し趣が異なる。
彼はまるで呼び寄せられるように、そのサイトへとクリックを重ねた。
目に飛び込んできたのは黒髪の華奢な女性が手首を軽く縛られ、あどけない表情でこちらを見つめる一枚の写真だった。
「ずいぶん挑発的なイメージだな」
そう感じながらも、隆也の視線はその女性の表情から離れない。
写真に添えられた短い文章には、甘ったるい言葉と痛々しさが混ざったような記述があった。
サイト内をあちこちクリックしていくと、その女性がかつて自身のメンタルヘルスに関する体験談を日々書き残していたらしいことが分かってくる。
そして、ふとリンクを辿ると、その女性がすでに「ベゲタミンA」の過剰摂取によって命を失ったことが小さな文字で語られていた。
突然の事実に思わず息をのんだ。
深夜の研究室に響くのはパソコンのファンの音と、自分の鼓動だけになったような気がする。
「この人…亡くなってるのか」
画面を凝視したまま、茫然とつぶやく。
それまでの好奇心は影を潜め、背筋に小さな寒気さえ走る。
脳裏には、ついさっきまで見ていた生々しい写真と「亡くなった」という言葉が奇妙に同居している。
まるで写真の女性が訴えかけてくるかのように感じられて仕方ない。
さらにサイトをスクロールすると、トップページの隅に「メンタルヘルス掲示板」の文字があった。
「生前に運営していたって書いてあるな…」
その掲示板へのリンクはいまも有効らしく、隆也は迷った末にクリックする。
真夜中の衝動は恐ろしい。
暗い興味に引かれるまま、彼は掲示板の書き込みを一つ一つ読んでいく。
書き込みの大半は、日常で抱える不安や孤独、薬の副作用に対するぼやきだった。
しかし、ときおり誰かが「昨日は調子が良かったよ」「会って話そう」といった言葉を投げかけ、そっと希望めいた光を示しているかのようでもある。
薬品名がずらりと並んだ投稿を見ると、彼らが置かれている現実が重くのしかかってくるのを感じる。
「こんな世界があるんだ」
興味とも同情ともつかない感情が胸に湧き起こり、隆也の指は止まることを知らない。
掲示板には「ボーダーだけど質問ある?」「浮気されたけどもう立ち直れない…」といったスレッドが次々と立ち上がっていた。
書き込みを眺めるにつれ、その世界の独特な温度感が隆也の心をとらえ始める。
「自分も書き込んでみたいな」
ふとそう思った瞬間、彼は聞かれもしない本名を掲示板にさらすつもりはなかったが、別のハンドルネームをつけてみることにする。
緊張半分、好奇心半分。
ささいな一歩が取り返しのつかない深みに足を踏み入れるかもしれないなどとは考えていない。
「こんばんは。
初めて書き込みします。
興味本位で来たんですが、みんな色々大変なんですね」
書き込みボックスにそう綴り、投稿ボタンを押すと、自分が知らない世界へ向けて言葉が放たれた気がした。
何かが胸の奥で小さく弾けるような感覚がある。
そうしてモニターをじっと見つめていると、誰かからレスポンスがつくかもしれないと思うと落ち着かない。
深夜の研究室はますます静まり返り、床から冷たい空気が染み上がってくる。
気づけば夜が深くなり、外では虫の鳴き声すら聞こえなくなっている。
「やべ…そろそろ帰るか」
隆也は研究室に一人きりで残っていることを思い出し、モニターの電源を落とした。
先ほど見つけたサイトの女性の写真が脳裏に焼き付いたまま、なんとなく胸の奥がざわつく。
まだ古い蛍光灯の明かりが微妙にちらついている。
ギシギシと音を立てる椅子から立ち上がり、夜の廊下へと足を向けた。
「ベゲタミンAって、そんなに強い薬なのか…」
誰に聞かせるでもなく、小さな声でつぶやく。
普段は他人の悩みなど気に留めない自分が、妙にその名前に囚われているのが不思議だった。
暗い廊下を歩きながら、亡くなった女性の写真と薬品の名前が頭のなかをぐるぐると回り続ける。
人はほんの少しの縁で、未知の世界に触れることがある。
その世界で何が起きているのかは、まだ知るよしもない。
部屋を出ると、建物の外階段からは鈍いオレンジ色の街灯が遠慮がちに差し込んでいた。
夏の終わりを感じさせる風が吹き込み、背中にかいた汗をひやりと冷やす。
「帰って風呂に入ろう…」
いつもの帰り道は変わらないはずなのに、今夜は少しだけ足取りが重かった。
まるで、かつて存在したはずの誰かの苦しみを少し背負わされたような気になっている。
そうして外へ踏み出した隆也の心には、メンタルヘルス掲示板の画面がくっきりと焼き付いていた。