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二十話 彼女が異世界に呼ばれた理由

 

 鏡に吸い込まれたらんかと孫雁は、真っ暗闇の中にいた。何も見えず、互いの存在だけが頼りだった。

 自分たちの存在以外には茫漠とした闇が広がるのみだと理解したふたりは、体力を無駄に消耗するべきではないと判断し、背中合わせで腰を下ろしていた。


「どうして邪魔をした。せっかく元の世界に帰れる機会だったんだぞ」


 文英の監視の目をかいくぐって操魂の術を強行したのに、と彼が不満げに零す。そこにらんかも負けじと反発した。


「陛下の寿命を削ってまで帰っても、ちっとも喜べませんよ。そっちこそ、どうしてそんな肝心なことを言ってくれなかったんですか」

「知ればお前は遠慮しただろう」

「当たり前です」


 孫雁はそこで、操魂の術の概要を説明した。四代名家と皇家には、それぞれひとつ、秘術が伝わっている。家の外部にはその詳細が公表されていないが、それぞれの家は術を駆使して今の地位まで成り上がった。


 そして、李家に受け継がれている秘術は、死者の魂を呼び戻すというもの。

 李家の血を引く者しか行使できないが、この術を使うことで戦乱の時代、勇猛果敢な戦士たちよ蘇らせ、数多の武勲を上げた。


 ただし、一度術を使うと、術者は鏡に少しずつ、少しずつ命を吸い取られ続ける。生きている間ずっと。

 術を使った回数ごとに、吸い取られる寿命は倍増していく仕組みになっている。


 孫雁は少なくとも樹蘭を蘇らそうとした一度、操魂の術を使ったため、この後の人生であの鏡に命を蝕まれ続けるという訳である。


「そんな……では、術を使った一回分は確実に吸い取られ続けるってことですか!?」

「そうだ。だが、覚悟の上だった」

「どうにかして、寿命を減らなくさせる方法はないんですか?」

()()()()()()()()()()、私の寿命は減り続けるだろうな」


 存在する限りは、ということは、存在しなければ孫雁の寿命は吸い取られずに済むということ。らんかははっと気づきを得て、強い語気で呟く。


「……あの鏡を、割っちゃえばいいんですね」

「あれは先祖たちが今の地位を築くために大切にしてきた家宝だ。私の命より遥かに価値がある。そして、李家の人間には壊せないようにまじないがかかっている」

「…………」


 けれど孫雁は、自分の命を賭してまで、樹蘭に会いたかったのだと分かった。その切実な願いは叶うことがなかったのだが。


(どうして、操魂の術で呼ばれたのは……私だったのかな)


 以前彼は、この術が失敗した前例はほとんどないと言っていた。そんな成功率が高い術で、今回に限ってなぜ失敗してしまったのかと疑問に思う。

 夢の中で会った樹蘭は、自らの意思で呼び出しを拒んだと語っていたが。


 らんかの背中から、服越しに孫雁の体温が伝わってくる。彼の背中はらんかよりもずっと広くて、逞しい。暗闇に閉じ込められた恐怖も、彼の熱で溶けて消えていくような感覚がする。


 何の因果かかは分からないが、樹蘭の代わりに自分が召喚されたことで、孫雁に会うことができた。彼に会うことができてよかったと、らんかは思っている。


 孫雁の目には樹蘭しか映っていないと思っていたが、鏡に吸い込まれる前に、『愛している』と言ってくれた。樹蘭だけにではなく、彼は自分にも命を賭してくれたのだ。


 あの言葉を思い出すと、胸が甘く締め付けられ、身体が熱くなる。

 らんかは小さく唇を動かして、おもむろに、自分の想いを口にしかけた。


「……私も、陛下のことがす――」


 好きだと言いかけた瞬間、ふたりの目の前に白い光が現れた。

 白い光はやがて、視界全体に広がり、ある風景を作り出していく。



 ◇◇◇



 そこは、らんかが寝泊まりしていた寝所だった。けれど調度品は、新調したばかひのように綺麗だった。


「樹蘭!」


 そして、天蓋付きの大きな寝台に、樹蘭が腰を下ろしていた。寝着を身にまとい、笑顔はなく、冷たい表情で床の一点を見つめている。


(あの衣は、確か初夜の……)


 孫雁は寝台に座る樹蘭の名前を呼びかけるが、彼女の耳には届かない。


「これは一体、どういうことだ?」

「恐らく、鏡の力で樹蘭様の記憶を見せられているんだと思います。以前鏡を陛下に見せていただいたときもそうでした」


 あのときは、意識だけが鏡に吸い込まれたのだが、全く同じ状況を見せられたのを覚えている。

 すると、まだ年若い孫雁が入室し、樹蘭に愛を囁きかける。

 だが彼女は孫雁に対して、「妾はあなたを愛しておりません」とばっさり斬り捨て、孫雁が落胆した様子で部屋を出て行った。


(これも、前と同じだわ)


 前回この記憶を見たとき、らんかは孫雁の背中を追いかけて行ったため、樹蘭のその後の様子は知らない。


 場面が切り替わるような気配もなく、寝台に座った樹蘭が俯いたままの静止画が続く。

 その姿を見ていると、しばらくして樹蘭の顔が険しくなり始めた。固く引き結んだ唇が震え出したかと思えば、瞳から雫がぽたり、ぽたりと落ちて、彼女の膝の上の手の甲を濡らしていく。


「申し訳……ありませぬ……。申し訳、ありませぬ。申し訳……っ」


 人前で一切笑わず、隙を見せなかった悪女の涙に、らんかと孫雁は思わず顔を見合わせる。

 そしてそこに、まだ若い凛凛が寝所の扉を開け放つ。彼女は泣いている主人を見て動揺し、慌てて駆け寄る。


「樹蘭様……!? お泣きになってどうなさったのです? 今夜は後宮での初めての夜でしょう。陛下とお過ごしにはならないのですか?」

「陛下の前で、笑顔を作ることができなかった。妾の心はとうとう……壊れてしまったらしい」

「それはきっと、可愛がっておられた猫を殺されてで精神的に落ち込んでいるせいです。周家を恨む方は多いですが、樹蘭様のように清廉な方ならばきっといつかは、受け入れてもらえるはずです」

「中傷の言葉が届く度、手が震え、吐き気がし、息さえ苦しくなる。妾はそれらを耐え忍べるほど……強くはないのだ」

「樹蘭様……っ」


 弱々しい声を絞り出した樹蘭の手を、凛凛がそっと上から包み込むように握る。


「近ごろ……自分の心が、まるで自分のものではないように思い通りにいかぬ。怒りたくもないのに瞬間沸騰するように苛立ち、何もないのに涙が出るほどに悲しくなり……。海の荒波がせめぎ合うように、感情の起伏が激しくなった」


 また、常に心が不安感や恐怖心に支配され、時々『お前を殺す』と囁く声が聞こえるようになった。

 そして、怒りに任せて思ってもいない言葉で人を傷つけてしまったり、身体が勝手に動いてしまうのだと吐露する。


「皆が言うように、今の妾はまるで――悪女だな」

「そのようなことはございません! へ、陛下に相談いたしましょう。そうすれば何か、良きように計らってくださるはずです」

「その必要はない。そもそも妾は皇后にふさわしくはないのだ。だからいずれ、廃位されるのを待つつもりでいる」


 それが、悪女と呼ばれることを甘んじて受け入れた理由なのだと理解した。


「よろしいのですか……? 樹蘭様は陛下のことをお慕いしていらるのに」

「妾はあのお方の足でまといになる存在だ。寵愛を受けようなどと思うのはおこがましいこと。それに……妾にお心をかけていては、とても後宮を追放できぬだろう」


 孫雁の寵愛を拒み続ければ、彼の心も離れていき、やがて後宮から追い出すと思ったのだろう。

 隣に立っている孫雁は、ぎゅっと拳を強く握り締めていた。らんかは彼のことが心配になり、腕にそっと触れた。


「すまぬが、いつもの薬を用意してくれ。心を鎮めたい」

「かしこまりました」


 部屋を出て行く凛凛。

 そのあと一瞬、らんかは樹蘭と目が合ったような気がしたが、すぐに場面が切り替わった。



 ◇◇◇



 次もまた、樹蘭の寝所だった。彼女の手には、孫雁の贈り物の壊れた髪飾りが握られている。


 そして彼女は、遺体と同じ衣裳を身にまとっており、これが死の夜なのではないかと推測できた。なぜなら、彼女の首には薄桃色の羽衣がくるりと巻かれており、病的なほどに、彼女の表情が暗く冷めていたから。初夜のときよりもずっと。

 樹蘭の涙が髪飾りに落ちた刹那、まるで陶器が床に落ちて破片が散るように、樹蘭は光の粒になって離散した。


 らんかと孫雁は、ただ絶句して立ち尽くしていた。すると今度は最初の暗闇に戻っていた。


 ふたりの目の前に、樹蘭本人が立っていた。


 ここまで見せられてきた回想では、終始暗い顔をしていたが、たった今目の前に立っている彼女は、とても穏やかで、優しい顔をしていた。


「――孫雁様」


 樹蘭がそっと呼びかけると、孫雁は悲しそうに眉をひそめる。


「すまなかった。私が至らないばかりに、お前が追い詰められていることに気づいてやれなかった。全て私のせいだ」

「どうか、お謝りにならないでくださいませ。妾はただ、弱く、あなたのお傍にいるには未熟だっただけでございます。ゆえに妾は、大変な修行をして再びあなたの元へ参ったのですよ。――宮瀬らんか」


 突然名前を呼ばれて、首を傾げるらんか。樹蘭はそっとこちらに歩んできて、らんかの両手を取った。

 彼女の手はとても冷たかった。それに、首には痛々しい圧迫痕が残っている。


「なぜそなたが、操魂の術で召還されたか、まだ分からぬか?」


 ふるふると首を横に振るらんか。


「――思い出すのだ」


 樹蘭につんと額に指先で触れられた瞬間、走馬灯のように樹蘭の人生の記憶が映像として流れて消えた。

 何となくどれも、既視感があるというか、自分が経験したことがあるような気がした。


「それらは全て、そなたが見てきたものだ。忘れていたとしても、そなたの魂に眠っておる。そなたは――妾の生まれ変わりだから。周 樹蘭の魂はすなわち、宮瀬らんかの魂でもある。そなたは日本で、何をし、何を学んだ?」


 らんかが樹蘭の記憶を刹那、自分の記憶かのように鮮明に思い出すことができたということは、本当に生まれ変わりなのだろう。

 驚愕の事実に当惑しながら、彼女の質問に答える。


「私は……芸能界で女優をしていました。体力としぶとさと根性は人一倍……あると思います」


 周家の令嬢として疎まれ、非難されてきた樹蘭と同様に、らんかの元にも誹謗中傷は届いた。らんかの演技や仕事の内容が気に入らない者から、活躍を妬む者、単に日々の鬱憤の捌け口にしたい者。否定的な意見の内容も様々だったが、過激な言葉もしばしばあった。

 ありもしない噂を流され、実家や地元の友人のところまで記者が押しかけたこともあった。


「じゃあ、私が悪役の演技が得意だったのは……」

「前世の経験が活きたのであろうな。悪女としての振る舞いが染み付いていたゆえ」


 そして、誹謗中傷という点で、世界は違っても同じようなことをらんかと樹蘭は経験している。


「妾は壁の前で倒れ、今世の自分が乗り越えられなかった課題を、来世に課すことにした。それをそなたは、乗り越えたのだ」

「…………」


 そして樹蘭は、乗り越えられなかった試練があったのと同時に、死して大きな心残りがあった。

 ひとつは、皇后としての務めを全うできず、悪女として汚名を背負ったまま死んだこと。

 そしてもうひとつについて、彼女は口にしなかったがらんかには分かった。


(きっと、陛下の気持ちに……応えなかったこと)


 興栄国の宗教において、自死は最も重い罪とされる。樹蘭は死後、百年という途方もない時間暗闇の中をさまよった。しかし、長い時間をかけて心の傷を癒し、光へと戻って生まれ変わった。

 それが――宮瀬らんかだ。


「妾が百年焦がれたもの……そなたの中にも妾の未練が強く、残っているはずだ」


 樹蘭の未練とは、孫雁への恋心のこと。


「そしてそなたは、前世のそなたが叶えられなかった願いを叶えることができる。なぜなら妾にはない、周りを惹き込むほどの強さが備わっているから。そなたが望むのならば、妾の名前も、財産も、地位も、全てをそなたに譲る」


 操魂の術は、術者の意思だけではなく、かけられる者の意思があって初めて成り立つものだ。樹蘭は孫雁の呼び戻しに応じず、あえて来世の自分を召還させた。

 自分が孫雁のところに戻っても、その弱さを克服できない限りは同じ失敗を繰り返すだけだから。


(初めて陛下のお声を聞いたとき、涙が出そうになったのは……樹蘭としての未練が魂に刻まれて……いたからなのね)


 そして、らんかの中の樹蘭の魂が、術に反応して転移したのだ。


「ここは日本と興栄国の狭間の鏡の世界。どちらへ行くか、そなたに選択権がある」


 樹蘭は自分の胸に鏡を抱いた。らんかが迷っていると、孫雁がそっとこちらの背を撫でる。


「ただ、お前が望む世界を、強く願えばいい。宮瀬らんかとして」

「私が、望む世界……」


 らんかの頭の中に、女優として過ごしてきた日々が思い浮かぶ。楽しいことばかりではなかったが、充実していた。それに、家族や友人が帰りを待っている。


「行き先が――決まりました」


 そう言って鏡に手を伸ばすと、強い光を放ち始めた。鏡面に引力を感じたそのとき、樹蘭は柔らかく微笑んだ。その表情には、悲しみも、怒りも、苦しみもない。


「孫雁様。幸せを願っておりますわ。ありがとう。そして申し訳ありませんでした。どうかお元気で」

「……ああ」


 彼女の笑顔に、孫雁がどんな表情を返したのか。鏡から放たれる光が強すぎてらんかには見えなかった。

 しかしきっと、彼もまた優しい表情をしているのだろう。

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