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十八話 悪女の羽衣

 

 孫雁が内之宮を訪れ、部屋に上げると、彼は凛凛を同席させるように言った。凛凛を部屋に呼び出してから、彼は碧玉を座卓の上にことんと置いた。


 らんかは食い入るようにしてそれを観察する。


「これは……?」

「お前に言われてから、文英に凛凛の部屋を捜索させ、押収したものだ」


 彼女の部屋の肌着の隙間にひっそりと隠してあったらしい。

 それから孫雁は、懐から壊れた金の簪を取り出した。樹蘭が亡くなったとき、唯一の手がかりとして凛凛が発見した、上級妃にのみ下賜されるものだ。


 碧玉は壊れた簪の台座に――ぴたりと嵌った。それを見た凛凛は、碧玉よりも顔を青くさせている。


 確か、樹蘭は上級妃の時代に紅玉の簪を与えられ、碧玉を与えられていたのは、病死した貴妃美帆だったはず。


「以前も話したが、後宮は基本的に皇后の統括。この簪は妃にのみ与えられる身分の証。劉貴妃が病死した際に、劉家は、樹蘭にこれを戻したそうだ」

「それがどうして、凛凛の部屋から出てくるんですか……?」

「問題はそこではない。その簪が――樹蘭を七箇所突き刺した凶器になったということだ」


 孫雁が凛凛を一瞥するが、その整った表情に威圧が乗ると、凄みが増す。彼女は俯き萎縮してしまっている。

 すると今度は、孫雁の横に立っている文英が口を開いた。


「事件の夜。私と刑部で内之宮にいた者の行動をくまなく調べました。女官も宦官も、警護の者も全て。しかし、全員に現場不在証明(アリバイ)がありました。不審だったのが唯一、凛凛さんです」


 凛凛は早朝に、樹蘭が床で倒れているのを見つけた。けれど、内之宮に居合わせた者の証言によると、凛凛は樹蘭の寝室に入ってから、一刻ほど出て来なかったという。


「もし、樹蘭様の遺体を発見したら、すぐに誰かに知らせていたでしょう。なぜ一刻の時差が生まれたのか、違和感があります」

「そ、それは……樹蘭様は毎朝火鉢に当たるので、その用意を別室でしていたため気づかなかったのです」


 らんかも朝、手や身体を温めるために火鉢を凛凛に用意してもらっているが、らんかの目が覚めて寝台から起き上がるころにはいつも支度が終わっている。


「凛凛さんはいつも、火鉢の用意に一刻は要してません……よね」


 そう話しかけると、彼女は口ごもる。

 小刻みに肩が震えていて、後ろめたいことを隠しているのは火を見るより明らかだった。

 すると孫雁が立ち上がり、凛凛の前に片膝を着く。彼女と目線を合わせ、淡々とした口調で言う。


「あの夜、彼女を刺したのはお前なのか? 真実を言え。皇帝の前で偽りを言えば――どうなるか分かっているのだろう」


 すぅと細めた目に、冷酷な光が宿る。彼は興栄国を治める皇帝だ。

 目的のために時折見せる、はっとしてしまうような冷たさ。らんかが初めてこの世界に転移して来たときも、その冷たさに背筋が震え上がったのを覚えている。


「私が――殺しました」


 その言葉が、静かに部屋に響く。凛凛は淡々と語った。


「確かにあのお方はかつて私の恩人でした。ですが、驕慢にも限度があります。毎日毎日金切り声で怒鳴られ、横暴に振り回されては、愛想が尽きるものです。あの夜の前に、樹蘭様に叱責されて堪忍袋の緒が切れた私は彼女を殺害し、他の誰かが殺したように見せかけました」

「――それは嘘だ。言ったはずだぞ。偽りを申すなと」


 孫雁は彼女の告白を否定する。


「樹蘭が窒息死した際、女の手形とともに、激しく抵抗した痕が首に残っていた。ということは、首を絞めた犯人の手や腕にもそのような痕があってもおかしくはない。樹蘭の死の翌日にお前に会っているが、引っ掻き傷はどこにも見つからなかった」


 つまり、誰か協力者がいるということ。あるいは、別の可能性。


「お前は……犯人を庇っているのではないか? 遺体の状態から見て、簪が刺されたのは樹蘭が死んでしばらく経ったあとだ。上級妃の簪を使ったことで、犯人候補がそちらに向かうように操作したのだろう」

「…………」

「一体……樹蘭を絞殺したのは誰なんだ? 教えてくれ。私はただ、真相が知りたいだけだ」


 先ほどまでの威圧感が消える孫雁。凛凛に脅しが通用しないことを理解し、脅迫は依頼、懇願に変わっていた。

 凛凛は沈黙し、俯いたまま。そこにらんかが声を発する。


「樹蘭様は殺されたのではなく――自死、だったのではないですか」


 らんかはそっと立ち上がり、引き出しの二段目を引いて施薬院で処方された薬の小包を出す。

 これらは、不安感や幻覚、幻聴といった精神的な症状に作用するものだ。樹蘭がこれを常用していたということは、当該の症状に悩んでいたということ。


「夜中の奇声、異常な猜疑心、人格の変化、幻覚、幻聴……。樹蘭様が悪女と呼ばれていたのは、心の病が彼女を変貌させたからだったんです」

「心の病、だと?」


 孫雁と文英がいぶかしげに眉をひそめる。この世界の医療の段階で、精神病はあまり一般的ではないのだろう。だから、樹蘭の状態を理解できる人は少なかった。いや、ほとんどいなかったのかもしれない。

 だから皆、彼女の乱心を『悪女』という言葉で片付けた。


「恐らく馴染みがないのでしょうね。でも、心は肉体と同じように、病気になることがあるんですよ。心の病気は性格も、顔つきも、振る舞いも、何もかもを変えてしまうんです」


 亡くなった父親のことを思い出す。父も精神を患っていて、最後には亡くなってしまった。

 すると文英がこちらに問う。


「監察の結果は、絞殺死でした。何より、樹蘭様の首には女性の手形と引っ掻き傷があり、激しく抵抗したことがあります。自分から死ぬことを望んだ人に、こういう痕は残らないそうです」

「本当に死にたい人なんて……いるんでしょうか」


 らんかの父親の場合は、薬を大量に服毒したことで中毒死だった。しかし、母が倒れた父を見つけたとき、苦しもがいた形跡が部屋中に残っていたようだ。顔を引っ掻いた痕、壁を引っ掻いた痕など。

 また、樹蘭が死んだときは、時間がかかって窒息したらしいので、余程苦しかったのだと想像できる。


「誰だって、魔が差して消えてしまいたくなる瞬間はあると思います。それに、誰だって、痛いときは痛いし、苦しいときは苦しいですよ。人間なんですから」


 自分の手で首を絞めてみたものの、苦し紛れに本能的に手を離してしまい死ねなかった。だから今度は、羽衣を首にくるりと巻いて首を吊った。

 ふと我に返ってやはり生きたいと思ったのかもしれない。あるいは、本能的に苦しみから逃れようとしたのかもしれない。

 しかし、気道は塞がれ、抵抗すれば抵抗するほど自分の首は締まっていって……。


「でも、分からないことがあるんです。どうして凛凛さんが、大切な主人の身体を傷つけてまで、自死を隠ぺいしようとしたのかが……」


 すると孫雁が、眉間の辺りを親指でぎゅっと押し、小さく息を吐いた。


「こと興英国の宗教においては、天に与えられた生を放棄したと取られる自死は――あらゆる罪の中で最も重いとされる」

「そして、死後は浄土にも地獄にも行くことはできず、暗闇を永遠に彷徨い続けると言われております」


 孫雁に続いて文英がそう答えた刹那、それまで大人しくしていた凛凛が、わっと泣き始めた。


「違います、違うのです、樹蘭様は、殺されたのです……! 犯人は、樹蘭様を追い詰め、貶し、苦しめた人全員です。樹蘭様は人々の悪意に殺されたのに、どうして樹蘭様が死後の世界でまで罰せられねばならないのでしょうか。このような仕打ち、とても納得できません……!」


 らんかの推測通り、樹蘭は縊死(いし)だった。凛凛が早朝に寝所を訪ねると、樹蘭は倒れた状態ではなく、箪笥の取っ手にお気に入りの羽衣をかけ、首を括って座った状態で亡くなっていた。


 完全に足が浮いた状態ではなかったらため、窒息するまでに時間がかかり、絞殺と同じような死亡状態だったのだ。

 凛凛は、その場にあった美帆の簪に目をつけた。宝石をくり抜いて犯人候補を複数になるように仕向けた上で、樹蘭の遺体に七回突き刺し、寝台の下にわざと隠した。

 そして、樹蘭の体液がついた羽衣を内之宮の庭園に埋めた。


「樹蘭様は後宮に入ることが決まってから、嫌がらせと誹謗中傷に悩まされておりました。殺害予告がお屋敷に届くのは日常茶飯事。持ち物を隠され、通りを歩けば白い目を向けられ……心が壊れてしまうのも無理のないことです」


 それから凛凛は、樹蘭に仕えていた日々のことを語った。樹蘭は後宮に入るまでは、静かに笑っているような控えめで穏やかな淑女だった。それが、皇后候補として後宮入りすることが決まった途端に変わっていった。

 権力のために、手段を選ばない周家は、他の家から憎まれていた。汚職にまみれ、詐欺に近いことで財と権力を築いてきから。


 後宮入りが決定してから入るまで嫌がらせは増え続け、歩けばひそひそと悪口を言われ、何度も食事の中に毒物が混入し、可愛がっていた猫が殺されたことも。

 彼女の両親は、権力欲はあっても樹蘭への愛情はなく、劣悪な状況下でも放任し、守ろうとはしなかった。

 次第に樹蘭の心は凍りついていき、笑うこともできなくなっていた。


(誹謗中傷と、周囲からの悪意が……樹蘭様を追い詰めていた)


 らんかはぎゅっと拳を握り締める。芸能界で、人目に晒されて生きてきたらんかにとっても、他人事ではない話だと思ったから。現に、誹謗中傷で体調を崩し、休養している知り合いは両手の指で数え切れないくらいにいた。


 真相を知った孫雁は悔しげに言った。


「私は何も、樹蘭の苦悩に気づいてやれずに……」

「樹蘭様は、ご自身の状態を皇帝陛下が知って、心を砕かれることを心配なさっておりました。決して、陛下にだけは知られたくないと」


 凛凛は赤く腫れた目を伏せながら続ける。


「口癖のようにおっしゃっていました。自分は皇后にはふさわしくないから、悪女として早く廃位されたい、と」


 周家が外戚権力に固執している以上、簡単に後宮を出ることなど許されない。だからこそ、彼女は孫雁の意思で追い出されることを願うしかなかったのだろう。

 結局樹蘭の心は耐えきれずに、亡くなってしまったのだ。


「本当に悪いことをしてしまった。彼女を皇后に据えることに賛同した私に全てに責任がある。彼女は私を嫌っていたのに」

「それは違います。これだけははっきりと言えます。樹蘭様は、陛下のことを――愛していらっしゃいました」

「そんなはずはない。彼女は私を嫌っていたはずだ」

「自分の存在が陛下の足でまといになるからと、寵愛を拒まれただけです。その証拠に……」


 凛凛はそっと立ち上がり、部屋の箪笥から小さな箱を取り出した。

 数字盤の鍵がかかっている。それを孫雁に渡して言う。


「陛下の誕生日が、鍵を開ける暗号のはずです」

「…………」


 孫雁が数字盤を回転させると、がちゃりと解錠した。その中には、孫雁がかつて与えた髪飾りの、欠けた半分が入っていた。


「その髪飾りを握り締めながら、樹蘭様はよく泣いておられました。自分が陛下にふさわしい皇后で、強い心を持っていたらどんなにか良かったと」


 髪飾りを手に取った孫雁は、皇后の秘められた想いを知って、悲痛に顔をしかめる。

 すると今度は、凛凛が床に額を擦り付けて懇願した。


「私はどのような罰でも受けます。ですがどうか、樹蘭様の名誉を守って差し上げてください。せめて亡くなられたあとは、誰に辱められることなく、安らかに眠れるように……」


 自死だったと知られれば、宗教的に重い罪を犯したとして、揶揄されることになる。それが凛凛は何よりも恐ろしいのだろう。

 けれど、樹蘭はもうこの世にはいない。彼女の死を隠し続けることはできない。


 孫雁と文英は、どうしようもない現実に顔を見合わせた。

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