十三話 元国民的女優、腱鞘炎になる
翌日、按摩師のらんかは麗明の元へ呼び出された。
午後から施術開始なので、午前の間にらんかはある場所に行った。
「あなたは……どなたです?」
「私は皇都で按摩師をしている者でございます。陛下の命で、今夜皇后陛下の施術を任されましたので、ご挨拶に」
「ああ、それはまたご苦労様です」
訪ねたのは、内之宮の侍女の居住区。按摩師として挨拶に行くと、侍女のふたりがで迎えてくれた。そのうちのひとりは、先日壺を割った侍女だった。
樹蘭の格好で今朝も顔を合わせているのだが、向こうは按摩師の正体に全く気づいていない。
樹蘭の前では怯えた様子だが、彼女たちは気さくで優しかった。
「皇后陛下のお噂は色々と伺っております。夜中に奇声を上げ、暴れることがあると……。お傍で仕える際に、何か気をつけることなどがありましたら、ご教示いただけると幸いでございます」
すると、壺を割った侍女が答える。
「その噂は事実よ。私たち側仕えも、陛下の癇癪には散々悩まされてきたわ。夜中に限らず、日中だって叫ばれることがあるのよ」
侍女ふたりはうんうんと強く頷いている。
やはり、凛凛は嘘をついていた。一番傍にいた彼女なら、その事実を知らないはずがないのに。
「あなたも、内之宮に行かされるなんて難儀ね。私たちも皆やめたがってるわ。物好きなのは凛凛だけ」
「昔は優しかった――って口癖みたいに言ってるけど、今優しくないんじゃ意味ないのにね」
樹蘭への不満は、凛凛への悪口に変わる。苦笑いしながら聞き流していると、壺を割った侍女が言う。
「……でも、壺を割ったのを許していただいたから、あの方の陰口はもう言えないわ。それに最近は少し丸くなったわよね」
「丸くなった!?」
ぎくっ。沈黙を貫いていたらんかが、思わず口を挟む。
「怒鳴りはするけど、前ほどの過激さがなくなったっていうか。壺の件もそうだけど」
「うんうん、丸くなったよね」
ぎくぎくっ。丸くなった、と侍女たちが口々に言い始め焦るらんか。悪女樹蘭を完璧に演じていたと思っていたが、いつも傍で見ていた侍女からすると違いがあるのかもしれない。
別人がなりすましていることに気づかれるのではないかと、だらだら汗を流していると、彼女が言った。
「悪女といえど、あんな事件が起きて、傷心なさっているのね」
事件のせいで、本来の横暴さが一時的に収まっている、ということで一旦話は落ち着いた。
(まだまだ演技の勉強が足りないみたい。頑張らなくちゃ)
向上心強めな女優らんかは、心の中で固く決意する。
「あのぅ……ご挨拶も済みましたのでわ私はそろそろおいとまいたしますね」
「ちょっと待って」
東之宮に行って按摩師の仕事をするには時間があるので、一度内之宮に戻ろう。そう思って踵を返そうとすると、壺を割った侍女に肩を掴まれる。
「何でしょうか?」
「ねえ、私たちもすっごく身体が凝ってるの。良かったら揉んでくれない?」
「ほほほ……も、もちろんでございます……」
すると彼女は、後方に声をかける。
「皆! 按摩師が私たちに施術してくださるんですって!」
「み、皆……?」
すると、部屋から続々と侍女たちが集まってきたではないか。一体、らんかの腕が何本あると思っているのだろう。内心で突っ込みを入れつつ、頬を引きつらせるらんかであった……。
◇◇◇
(つ、疲れたぁぁ……)
数刻後、らんかは筋肉痛の身体を引きずって東之宮へ行った。あのあと、内之宮の侍女たちに按摩師として散々ただ働きさせられ、汗で化粧が取れかけたところで、逃げるように自室に帰ったのだった。
今日一番の仕事は、麗明の施術……のはずだったが、その前にらんかの腕はぼろぼろになっていた。
麗明はいつものように寝台にうつ伏せになり、施術が開始して両手の指を数え終わるころには、寝息を立て始めた。そんな彼女の身体を、指圧で解していく。
「ぐっ……っ。ひっ」
「……?」
麗明の施術中、親指の付け根がずきずきと痛み、文字通り悲鳴を漏らし、涙目になる。流石に按摩師が唸っている中では寝てはいられなくなったらしく、彼女は目を覚ました。
「だ、大丈夫か……?」
「お構いなく。これが仕事ですので……ひぐ」
痛めた親指を酷使しながら大丈夫だと顔をしかめるが、麗明は半身を起こしてそれを制した。彼女はらんかの手を取り、観察する。
「もういい。どこの世界に唸りながら施術する按摩師がいるんだ。――見せてみろ。親指の付け根が赤く腫れている。腱鞘炎じゃないか? それに……よく見ると染みひとつない綺麗な手をしてるんだね」
「!」
らんかは顔に化粧を施して年齢を誤魔化しているが、手は二十代の滑らかな手をしている。
まじまじと観察されたら疑いを持たれてしまうと思い、さっと手を引く。
「ここに来る前に、仕事をこなして参りましたので」
「多忙なんだな。今日はここまでにしよう」
「……気を遣わせてしまって、誠に申し訳ございません」
「いいんだよ。いつもお世話になっているんだから。このごろは腰痛も治まっているし、身体の具合が随分といい」
麗明は椅子に腰を下ろし、両肩を回しながら筋肉が解れていることを伝えてくれた。
「皇帝陛下がおっしゃった通り、君は腕利きの按摩師なんだな」
「……」
素人のらんかの按摩に効果があるのか疑わしいところだが、施術を受けるようになってから、以前よりずっと調子が良くなったのだという。
(それって多分、思い込み……)
正直に言えば、父の肩を揉んだことがある程度の素人だ。彼女に按摩の腕を褒められ、なんともいたたまれない気分になる。しかし、後ろめたい気持ちは胸の奥にそっとしまい込む。
両手を重ねて前にかざし、最敬礼を執る。
「お褒めに預かり、光栄至極にございます」
「これからも頼むよ。君は私以外の妃のところへも施術に行っているのか?」
「ええ。――皇后陛下のところへ呼ばれております」
「それはまた……難儀だな」
彼女の声に、同情と憐憫が乗る。麗明は円卓に頬杖を着きながら、侍女に茶を淹れるように指示をした。
らんかの方は、今こそ樹蘭の話をする絶好の機会だと拳を握る。麗明が樹蘭のことをどう思っていたのか、彼女を殺害する動機がありそうか、聞き出していきたい。
「ええ。楊淑妃様に言っていいか分かりかねますが、とても大変な思いをしております。皇后陛下はお噂以上の方でした」
「怒鳴られたり……物を投げられたり、か?」
「はい。一度癇癪を起こすと、どうにも歯止めが効かないご様子といいますか……」
「彼女は――皇室の面汚しだと私は思っているよ。この国の国母があれでは、民の皇家への求心力も下がるだけだ」
翠花と違って、麗明は直接的に樹蘭への非難を口にした。
「だが、彼女は筆頭名家である周家のご令嬢。彼女が謀反でも起こさない限り、後宮を追い出すことはできないだろうね」
「で、では、楊淑妃様は、皇后陛下を恨み、追放すべきだとお考えなのでしょうか」
彼女を排除しようという考えが行き過ぎた結果、あのような事件を起こしたという可能性もあるかもしれない。
「恨んではいない。ただ彼女は、皇后の器ではなかった。そう思うだけさ」
麗明は、侍女に用意された茶をひと口飲んで続けた。
「後宮の者たちは、傲岸不遜で横暴な皇后陛下を疎み、批判する。だが彼女には同情すべき点もあるんだ」
樹蘭は悪女と呼ばれて孤立する前、貴妃として後宮に入ったときから、誹謗中傷が絶えなかったのだと、麗明は語った。
周家は、金と権力のために権謀術数を実行してきた一族。どれだけの血が流れてきたか分からないほど。手段をいとわずに勢力を伸ばしてきた周家を、四代名家だけではなく、後宮の多くの者がよく思っていない。
貴妃になった樹蘭の元に、毎日のように誹謗中傷の文が届き、その中には殺傷を示唆する過激な内容もあった。
「彼女は異常な猜疑心の強さだ。毒味が済んだ茶でさえも、『毒が入っている』と本気で決めつけ、凛凛が説得しなければ何も飲めなかったとか」
樹蘭はそうしていつも疑い、怯え、恐れていたという。しかし、その情報は凛凛から聞いておらず、らんかは他の侍女たちの前で普通に茶を飲んでしまっていた。
「確かに……心がどうにかなってしまっても、おかしくはない状態ですね」
「そうだ。私ならきっと、耐えられない」
それから彼女は、自分自身のことを語った。麗明も後宮に入りたくて入った訳ではなかった。四代名家の令嬢だった彼女は、生まれたときから後宮入りが定められていた。だからこそ、同じ境遇の樹蘭を、哀れむ気持ちがあるそうだ。
彼女が嘘をついているようには見えなかった。理屈が通っているから。
らんかがそれ以上踏み込めずにいると、彼女の方が口を開いた。
「あるいは、彼女の振る舞いを、何かに取り憑かれていたと考える者もいるようだ」
「怨念……というものでしょうか」
「ああ。彼女は恨まれていたからね。張賢妃が実際に、祓い師を紹介したことがあったが、それで大喧嘩になったらしい」
凛凛から、賢妃と樹蘭が仲違いしていたことは聞いていたが、恐らくそれが発端なのだろう。
「ど、どうして大喧嘩に?」
「余計な世話だ、とね。だが、噂によるとすでに皇后陛下は何人もの祓い師に浄化を依頼していたらしい」
その話を聞いて、らんかは思わず茶を飲む手を止めた。もし樹蘭が、自分の意思で横暴に振る舞っていたとしたら、祓い師に頼む必要などないから。
(つまり樹蘭様は、自身が異常であることを自覚していたということ……)
樹蘭は、ただ横暴に振る舞っていただけではなく、苦しんでいた。そしてらんかにも少し分かる気がした。
らんかが女優をしているときも、誹謗中傷は耐えなかった。知名度が上がれば上がるほど、否定的な意見も増えていく。時に、過激な言葉を投げかけられ、恐怖で外の道を歩くことさえ躊躇したこともあった。
凛凛や孫雁が慕っていた相手が、悪人であるとは思えない。優しかった樹蘭が、変わってしまう何かが、後宮で起こっていたのかもしれない。
麗明の話を聞いて、らんかは樹蘭に対し、初めて共感と同情を抱いた。