十一話 傷ついた顔をしないで
らんかが焼き芋を完食したころ、眠気に耐えかねた孫雁が眉間を手で押えながら言う。
「もう寝る。らんか、この後の予定は」
「特にありませんけど……」
なぜこの後の予定を聞くのだろうと小首を傾げつつ、そろそろ帰りますねと立ち上がると、孫雁に呼び止められる。
「待て。誰が帰っていいと言った?」
「えっ?」
「私は寝る。――が、お前もここにいろ」
「は……?」
孫雁は腰掛けに横になりながら、不躾に命じた。自分がいることになんの意味があるのだろうと思い、疑わしげな眼差しを向けると、孫雁が言う。
「子守唄を、歌ってくれるのだろう?」
「あれは冗談で……」
きっと彼はあの冗談を真に受けているのではなく、ただ単純にらんかのことをからかって楽しんでいるのだろう。不満に思いつつ、腰掛けの隅にちょこんと座る。
「もしかして、ひとりで寝るのが怖い、とか?」
からかうつもりで言ったのだが、彼は深刻な様子で沈黙した。
「あの、陛下……?」
「……樹蘭が死んでから、毎夜のように悪夢を見る。どうせ眠れないから、政務に没頭していた」
「そう……だったんですね」
夢の中に樹蘭が出てきて、全部お前のせいだ、と責め立てられるという。彼はこのままだと、本当に身体を壊してしまうのではないか。
らんかにも、そのような時期があった。部屋で一人寝台にに入ると、漠然とした不安感や恐怖が押し寄せてきて、寝付けなかったり、眠れたとしても浅い眠りを繰り返していた時期が。
彼は横たわり、らんかの腕を掴んだまま言った。
「お前が傍にいれば、眠れそうな気がする」
「分かりました。部屋から書物を持ってくるので、そのまま眠っていてください。お隣にいますから」
「ああ」
彼の心細さを察し、なんとなく放っておけなかったので、らんかは要求を承諾し執務室を出た。
らんかが本と大判の毛布を持って執務室に戻ると、すでに孫雁は眠りに落ちていた。よほど疲れていたのだろう。安らかな寝息を立てている。
(ふ。寝ていたら、子どもみたいな寝顔)
小さく口を開けた無防備な彼の寝顔を見下ろし、彼の身体に持ってきた毛布を掛けた。
それから、腰掛けに腰を下ろし、読書をして時間を潰した。しかし、しばらくして隣から小さく呻き声が聞こえ始めた。
「…………うっ」
それは孫雁の声だった。うなされているようだ。
彼の喉からくぐもった声が漏れ聞こえてくる。心配して書物を机に置き彼を観察すると、額に脂汗が滲み、整った顔を歪ませていた。
孫雁があまりにも苦しそうに顔をしかめているので、思わず彼の手をぎゅっと握って声をかけた。
「陛下、大丈夫ですか? 起きてください。陛下、」
何度か声をかけるが、孫雁は目を覚まさない。刹那、瞳から涙が一筋零れる。
「樹蘭、すまない……」
薄い唇から漏れ出た言葉に、はっとするらんか。毎日のように、樹蘭は彼の夢の中に現れて、彼のことを苦しめているのだ。
(どうして、この人のことを苦しめるの? 樹蘭様)
らんかは彼の名前を呼び続けた。肩を揺すると、ようやく孫雁は悪夢から目を覚ました。
「らんか……?」
「うなされてるみたいだったので、起こした方がいいかと思って……」
「……悪いな」
眠りながら泣いていたことに気づいた孫雁は腕を目元に乗せて、唇だけで答えた。
「樹蘭はよほど、私が憎いのだろうな」
「……」
らんかが沈黙していると、孫雁は上半身を起こした。
「……私も以前、よく眠れなくて悩んでいました。入眠時に胸が苦しくなったり、身体が震えたりして寝付けなくて。寝たら寝たで悪夢を見て目を覚ましてばかり。だんだん眠ること自体が怖くなっていきました」
「何か、悩みでもあったのか?」
「父が亡くなったころでした」
「……そうか。今は寝れているのか?」
「はい! 今日も快眠でした!」
「……一応、あの部屋は殺人現場なんだが。逆によく寝れるな」
父が逝去したのはらんかが高校生のころ。学校のこと仕事のことで忙しく過ごしていたときだった。
当時は相当な衝撃を受けていたが、弱った心と体に鞭打って仕事をしていたので、精神的な負担が溜まっていたのだと思う。
「そのときにね、悪夢対策を凄く調べたんです。根本的な悩みを解消するのが一番かもしれないですけど、生活習慣でも改善できました。例えば――沢山運動する、とか」
らんかはにこりと微笑みながら続ける。
「あとは、柑橘系の果物を食べるといいみたいですよ。焼き芋……は、どうかわかりませんけど」
「試してみる。気を遣わせたな」
「……いえ」
孫雁は、冷酷で偉そうな人。
そう思っていたが、この人も人間で、弱い部分を抱えている。先ほどのうなされ方は尋常ではなかく、昔の自分を思い出すようで胸が切なくなった。
「私は……樹蘭様が憎いです。陛下のお心をこんなに苦しめて……」
生前も、孫雁の好意を無下にして傷つけてきた樹蘭。死してもなお、彼のことを苦しめているのが憎らしかった。
この国の皇帝は、大勢の妃を持つことができるようだし、その地位があれば選り取りみどりだろう。たったひとりの、嫌われ者の悪女に固執する必要などないはず。
拒まれ、疎まれてもなお、慕い続けるのは、畏怖さえ感じる。
「樹蘭様はひどい人です。きっと、陛下にはもっと良い人がいるのでは……? こんな風にあなたを傷つけたりしない人が――きゃっ」
思わずそう呟いたところで、孫雁に押し倒されていた。
「陛下、」
「――お前に何が分かる」
彼がついさっきまで横になっていた場所に背中が当たり、残っていた彼の体温が伝わる。抵抗しようにも、両腕を押さえつけられていて身動きが取れ取れない。
彼の長い黒髪が重力に従って垂れ下がり、らんかの頬を無でる。
らんかを射抜く美しい双眸は、怒りに揺れていた。そして、その歪んだ表情から、傷ついた心が伝わってくる。
「黙れ。樹蘭を貶めるようなことを次に口にすれば――その口を二度と効けなくしてやる」
彼は片手をらんかの頬に添え、血色の良い唇に親指の爪を立てた。唇につめの先がくい込んで痛みを感じる。
ああ、この人は。心酔し、執着し、盲目になっている。たったひとりの愛した女に雁字がらめになっている彼が、哀れで、美しくも思えた。らんかはこんな風に誰かを愛した経験がないから。
らんかは彼に組み敷かれたまま、涙を零した。
「……っ。ごめん、なさい……っ。そんなに傷ついた顔、しないで……」
ぽろぽろととめどなく雫を溢れさせるらんかを見て、孫雁ははっと我に返った。
性急な動きで手を引き、らんかから離れる。
「すまない。つい怒りに任せて……」
「いいえ。何も知らないくせに、踏み込んで、ひどいことを言ったのは私です。傷つけるつもりなんて、なかったのに……っ」
らんかも半身を起こして、彼に向き合って座る。
(どうしてだろう。この人の傷ついた表情を見ると、傷ついた声を聞くと、心が掻き乱されるのは)
鏡の中で孫雁の声を初めて聞いたときからそうだった。彼が悲しんでいることが声から伝わって、胸が苦しくなって、なぜか泣きそうになった。
それに、彼にこうして会う度、昔から知っていたような懐かしさを感じる。
「お、おい」
「うう……ごめんなさい。陛下……っ。私、陛下のことを励まそうとしたんです……っ」
怒っていたはずの孫雁だが、らんかが子どものように泣き始めたのを見て、すっかり当惑の色を示している。
「分かったから。もう謝らなくていい。お前を許す」
次の瞬間、彼の腕の中にいた。床に押し付けられていたときの乱暴さが嘘のように、優しい抱き締め方で。
孫雁はらんかのことを、壊れ物でも扱うかのように包み込み、耳元で囁いた。
「だからもう、泣くな」
彼の腕の中は、温かくて、心地が良かった。強ばっていた肩の力が勝手に抜けてしまう。
顔をそっと上げると、彼は頬に手を添えて涙を拭ってくれた。その手つきが優しくて、胸の奥がきゅうと切なく締め付けられる。
彼はこちらを見下ろしながら呟いた。
「こうして見ると、本当によく似ている。……お前が時々、樹蘭にしか見えなくてやりずらい」
「私は樹蘭様じゃありません。樹蘭様と重ねないで――私を見て」
「え……」
その発言に、孫雁は眉を上げた。他方、思わず口から出た言葉に、らんかは顔を熱くなる。
(こんなの、陛下に好意があるみたいじゃない)
すると彼は困ったように、眉尻を下げた。
「そうだな。少なくとも、樹蘭はお前ほど泣き虫ではなかった。すぐ怒ったり、泣いたり喚いたり、感情を表すこともしなかったな。お前は本当に童のようだ」
「こどもじゃ、ないです」
「――だがなぜか、目が離せない」
そのとき、孫雁の目に熱が宿ったように見えた。彼が樹蘭のことを語るときに見せる表情。また、らんかの脈動が加速していく。
(駄目だ、私……この人のことを好きになりかけてる。どうしてこんな、厄介な相手を……)
らんかは自分の感情を自覚した。それはまるで、出会う前から恋をしていたようで。好きになったとしても、彼の目には樹蘭しか写っていない。絶対に振り向いてはもらえない相手なのに。
冷酷な一面を持つ皇帝。ふいに見せる笑顔や、ふいに触れる優しさに、なぜか心惹かれてしまう。
自覚した自分の気持ちに任せて、ゆっくりと、彼の肩に顔を埋めた。そして孫雁もらんかの背に腕を回す。そのとき。
がたん。
音がした方を振り向くと、扉の前に唖然とした文英が立っていた。直前の音は、手に抱えていたであろう書を床に落とした音だったらしい。
「ぶ、ぶぶぶぶぶ文英様!?」
慌てて孫雁から離れるが、文英は何かを悟ったように微笑を浮かべ、何も言わずに部屋を出て行った。
らんかは持ってきた毛布と書を抱えて、立ち上がる。
「私……内之宮に戻ります。文英様の誤解、解いておいてくださいね……! それじゃ、また何かあれば報告に来ますので……!」
「あ、ああ」
文英に孫雁と抱き合っているところを目撃され、ようやく我に返ったらんかは、逃げるように執務室を出た。
らんかは執務室の格子戸に背をもたれて、胸の辺りで拳を握る。そしてそのまま、床にへたり込むのだった。