才加と絵瑠(2)
「そう言ったじゃない。でもあんな見つかりやすい所に置いておくのが悪いのよ?ちなみにいつきも読んだわよ」
血の気が引いたあとに、またかああっと血が上ってきた。才加は百面相しながら、起きてからのいつきが妙に優しかった理由に思い当たった。無理やり記憶を消され、命令に従わされていたのだ。彼女も怒っていいはずなのに、いつきはそんなわだかまりは一切見せず、現実世界でも朗らかに才加と接してくれていた。少し当惑もあったが、同時に彼女の優しさはありがたくもあった。
(怒りもせず、謝罪も要求しないあの態度はつまり、日記を読んで…私に同情していたから、という事だったのね)
恥ずかしいやら情けないやらで、肩が震えてくる。その肩に、絵瑠がそっと手を置いた。
「…日記を読まなくても、子どもの時から、私あなたの気持ち、知ってた」
「え、絵瑠」
「でもあなたは私に好きだとは一言も言わなかったし―…私もあなたとちゃんと話さないまま結婚してしまったわ。私たち、あの時ちゃんと話すべきだったのね」
しかしそこまで言って、彼女の顔は泣き笑いのようにくしゃりと歪んだ。
「でも無理よねぇ!15歳に、冷静にお互いの事を話しあえなんてさ!あのとき素直に自分の気持ちを言ったところで、わたしもあなたもどっちみち大喧嘩になってたわね。」
あっけにとられる博士に、絵瑠は気兼ねなく言った。
「だから今、言うわ。あなたを傷つける事になるかもしれないけど、もう私たち、大人だもの。」
彼女はすうと息を吸った。
「才加、ごめんなさい。あなたの気持ちに応えられなくて。でもずっと、大事に思っていたわ。友人以上の、家族みたいに。今でもよ。才加は才加の、幸せをつかんでほしいと思ってる。それがどんな形でも、毎日笑えるように過ごしてほしいって」
それを聞く才加の顔は、泣きそうに張り詰めていた。そんな才加を見て、絵瑠もまた悲しい顔になった。
「―ごめんなさい。私たちがこんな事になってしまったのは、地下街のせいもあると思うわ。始終狭い場所で顔を突き合わせて、噂が聞こえてくるのだもの。もっと遠くに離れていたら、才加はここまで苦しむ事はなかったんだわ」
「ちがう…そんな、これはそんな簡単に、忘れたり薄れたりする気持ちじゃないんだ」
苦し気にそう絞り出した才加に、輝羽は真剣に言った。
「そんなことない。離れれば、きっと忘れるわ。なくなる事はないかもしれないけど、どんな感情だって、ずっと同じままじゃないもの。変わっていくのよ。強くなったり、弱くなったり、別の形になったり」
才加は顔を上げて絵瑠を食い入るように見つめた。反論したかったが、できなかった。
「才加、考えてみて。自分はこれから、どうなりたいか。何をして、どんな人生を生きていたいか。あなたの未来を、私への思いに縛られるようなものにしたくはないでしょう?」
才加は首を振った。そんな事を言われても、何も考えられなかった。
「今の自分の姿も、人生も、自分ですべて選び取ったものなのよ。だから選んで。この先、あなたの思う通りに生きるか、過去に押しつぶされてしまうか」
「君を…忘れろと、言うのか」
絵瑠はきっぱりとうなづいた。
「そうよ。恋愛の情なんて、太らせるも消すも自分次第よ。それにもう―私と才加は、一緒に過ごしていない年つきの方が長いわ。あなたが求めているのは、現実の私ではなくて、あなたの頭の中にいる私なのよ。だからいつきが相手でも、あなたの気持ちは満たされていたでしょう」
いつきと過ごした時間は、たしかに満ち足りていた。ずっとこんな生活が続けば、と何度思ったかわからない。絵瑠はダメ押しのように言った。
「心さえ通じ合えば、私でなくとも幸せに暮らすことができるわ」
「でもそれは、本当に愛しているわけじゃない」
「一緒に居て幸せを感じるのなら―それが本当の愛である必要なんて、ないんじゃないかしら。そもそも本当の愛って、何かしら?」
絵瑠は笑みを浮かべた。いつきにそっくりな、無邪気で晴れやかな笑み。
「生きることは、時に辛い事もある。いいえ、辛い事の連続よ。そんな時、あなたが求めて、それを糧に生きようとおもうなら―それはもう、相手が誰であろうと本当の愛、なのではないの?」
博士―才加は、目を見開いた。そんな事は、考えた事もなかった。彼女以外の人間と―?だが、自分はいつきと過ごしている時に確かに思った。いつきは絵瑠ではないけれど、心が満たされると。絵瑠と似た魂を持っているからだ、とその時は思っていたが、今なら違うと言える。
(私は…ミルキーだったいつきが優しくしてくれて、頼ってくれて嬉しかった。絵瑠に似ているから、こんなに心安らぐのだと思っていた。けど―…人間だれしも、優しさは持っているんだ)
たとえば輝羽。最初は自分に切りかかってくるほど怒っていたが、博士が自分の事情を話すと怒りをおさめて、逆に自分の手助けをしてくれた。彼女は口に出して言いはしないが、自分の事を気遣い、労わってくれているのだ。それが同情から出た行為だとしても、今の才加にはありがたかった。
そして現実世界のいつき。彼女もまた、自分を刺して、母を実験台にした自分に、また微笑みかけてくれたのだ。彼女の天性の優しさは、現実でもゲームでも変わる事はないのだと才加は気が付いた。だからいつきと輝羽を見ても、もうゲームの中にいたときのような怒りは覚えない。胸の中に起こるのは、鈍い痛みと、そして温かな気持ち。仲良く寄り添う二人は、才加がかつて絵瑠となりたかった関係そのものだった。しかしその関係は、いつきと輝羽がお互い勇気を出して、傷つくことに恐れず向き合ったから手に入ったもの。
(私は……絵瑠とこうやって、分かり合う努力をしなかった。傷つくのが怖くて、逆に絵瑠を傷つけて、自分の気持ちを押し付けてばかりだった)
結婚が決まった時が、まさにそうだった。もし、あの時も、その前からも――もっと絵瑠と理解しようと、寄り添っていれば。いつきと輝羽を見て、そんな後悔が頭に浮かぶ。しかしもう、過ぎ去った時間は戻らないのだ。目の前のいつきと輝羽は、その時間の象徴でもあった。そしてその二人は、才加をも気にかけて、一緒に過ごしてくれている。
それを見て――才加はなんだか、肩の力が抜けたのだった。2人を見る事は、もちろん辛い気持ちもある。けれどそれと同じくらい、この二人の事を見守りたいという気持ちにもなったのだった。だってこの二人は、もしかしたら、そうだったかもしれない自分と絵瑠なのだから。
それで、輝羽にお節介を言ってしまった。彼女はどうやら、才加のアドバイスを真剣に受け取ってくれたようだった。それで才加は、ほっとした。
(そうか…自分の気持ちを、ちゃんと話す事が大事なんだ。それが好きな人であろうと、なかろうと。そういう風に、人と人はつながって、助け合って生きていくのか)
才加は全ての事を、人間関係までも0か100かで考えていた。相手が自分を選ぶか、選ばないか。そして自分は選ばれなかったのだから、誰も選ばず一人で過ごそうと。けれどそれは、間違っていたのだ。100でなくて、10をたくさん配るという生き方だってある。
輝羽に大きな顔で説教しておきながら、自分はぜんぜんわかっていなかった。博士は思わず苦笑した。
「私、本当に馬鹿だったのね…」
ふと顔を上げると、絵瑠の姿はもう消えていた。しかし代わりに、どこからか声が聞こえた。
「馬鹿なんかじゃないわ。才加は、とっても一途なだけ!きっとこれから、いいことがあるわ。……私は、体が戻っても戻らなくても、遠くに行くことにするね。あの子たちを、よろしくたのみます……」
その声は、天からの声のように、才加の耳に厳かに響いた。




