才加と絵瑠
ベッドの上で、いつきは閉じた目を開けた。その目はまだ、先ほどの名残で潤んでいる。
「私、嬉しい……輝羽」
横にいる輝羽も、そっと瞼を開けた。ひっそりと咲く白い花のようなその瞼が、今は少し紅い。素直になった輝羽は、思いがけないほど率直で、性急で、そして――可愛らしかった。美しい曲線を描くしなやかなその身体に抱きしめられると、いつきの身体は桃色の炎に包まれて、燃え上がってしまうような幸福を感じた。
いつきはベッドの上に乱れるその黒髪に触れた。輝羽はわずかに目を細めて、ふ、と笑った。いつきの胸を一目で撃ち抜くような流し目に、思わず胸を抑える。
「うっぐ……」
「どうしたの?大丈夫?」
身体をおこしかけた輝羽を止めて、いつきは首を振った。
「うれしいの。なにもかもが。輝羽と『これから』が考えられるのが。ねえ、輝羽は何か夢がある?」
「え…ゆ、夢?」
とつぜんの質問に、輝羽は少しうろたえた。
「そう。なんでもいい。外に出てやってみたいこと。ないの?」
明るくそういういつきの表情は、前向きな力にあふれていた。それが移ったかのように、輝羽も自然と笑顔になる。
「夢…そうね、そんな大きな夢はないけど…太陽の光を浴びてみたい」
「私もそう思う。あとね、森の中に行って深呼吸してみたい」
「わかる!風も感じてみたい。それに…本物の街を、歩いてみたい」
いつきは枕元から端末を取り出して、それらを書きとめた。
「全部さ、メモっておこう。それで…一つ一つかなえていくんだ!」
「いいね。いつきは他には?」
「そうだね…私も、街を歩いてみたい。輝羽と一緒に、デートしてみたい。本物の太陽の下で、本物のレモンスカッシュを飲みたい。一緒にね」
「ああ、うん、それは素敵…」
ゲームの中の、あのカフェの事を思い出して、二人の頬にせつない笑みが上った。もうあの場所には、戻れない。
けれど、目の前には新しい道が開けているのだ。より困難が多く、そして―より喜びの大きい道が。
何日留守にしても、この仮想空間は何一つ変わることはない。博士はぐるりとあたりを見渡したあと、研究所を出て西へと歩き出した。この世界の果てへと。果てなどない事はわかっている。なにしろこの世界を作ったのは自分自身なのだから。
けれど今は、輝羽の行った道を自分も行く必要がある。博士には予感があった。絵瑠はきっと、この世界のはざまに身を潜めているだろうという。
(私はデータばかり見て…実際にあそこまで歩くということなど、到底思いつかなかった)
そもそも絵瑠の意識は消えてしまったのだと思っていた。自分の手術が、彼女の脳を破壊してしまったのだと。
「絵瑠…どうか、私と話して。おねがい」
廃墟を抜けた先の「世界の端」で、博士は青空にむかって呼びかけた。
恐れる気持ちがないと言えば、嘘になる。自分は彼女に顔向けできるような身ではない。もし、彼女に厳しく否定されたら―…そう想像すると背筋が凍る。
しかしまた一方で、博士の胸中はふつふつと沸き立っていた。失ったと思っていた絵瑠が、生きていた。そう思うことは、今までの鬱屈とした年月をすべて打ち払うほどの強いエネルギーがあった。
「絵瑠…いないの?」
博士はもう一度、空に向かって呼びかけた。すると―
後ろから、声がした。
「才加」
博士が慌てて振り向くと、そこにはミルキーが立っていた。
「いつき…?」
混乱する博士に、彼女は薄く微笑んだ。
「いいえ、ちがうわ。わからない?」
そのいたずらっぽい声に、博士は雷に打たれたような衝撃を感じた。
「絵瑠…あなた、なの」
「そうよ。才加…久しぶりね」
まったく普通の態度で穏やかに接してくれる彼女を前にして、博士はがくんとひざまずいた。
「ごめんなさい、絵瑠―――私、私はあなたといつきに……ひどい事をした」
その言葉を受けて、絵瑠の微笑みはすうっと消えた。
「そうね。許せないわ。よくもやってくれたわね。」
博士は下をむいたまま、肩を震わせた。
「悪かった…謝って、許される事ではない…けど」
恐れるように、才加がそっと下から絵瑠を見上げて続けた。
「いつきの怪我は絶対に治す。住民全員の覚醒も、君をもとの身体に戻すのも―…力を尽くす。その後私は、しかるべき裁きを受けるわ。だからどうか、今私と話す事を許して…ほしい」
時々言葉に詰まりながらも、才加は言い切った。すると、絵瑠も彼の前にひざをついた。
「…反省しているかなって思ったけど…プライドの高い才加が、ここまで言うなんて。驚いた。」
「な…何を言うの。当たり前じゃない……」
「だって、あなたって本当、頑固で意地っ張りなんだから。だからまさか―私に謝るなんて」
そういう絵瑠に、才加はぐっと唇を噛んだ。やるせなかった。
「私を何だと思っているのよ。そんなわからず屋だと思っていたの? 私はずっと…絵瑠、あなたを…っ」
才加はそこで声を詰まらせ、うつむいた。絵瑠はその額を、そっと指先でつついた。
「実は私、たまにこの体の中にいたのよ。気が付いてた?」
「は!?」
思わず顔を上げた才加に、絵瑠は説明した。
「でもすごく不便だったわ。たぶん冬眠装置から移行した時に、移動が上手くいかなかったのね。それでなかなか思考する事も、いつきの代わりに体を使いこなすこともできなかったわ。この体の片隅で、ずっとうずくまってたのよ。でもそのうちには慣れて、少し話せるようになったけど」
「そうだったのか…」
「それに、最初はこんな事をしたあなたに腹を立てていたしね。なんとかこの世界の皆を助けて、目覚めさせなきゃって思ってたわ。アンゲストの人たちを誘導していたのも私。でも…」
言葉を切った絵瑠を、博士は不安げにみつめた。
「私だって鬼じゃない。あなたの気持ちを知ってたし―…日記も読んでしまった今となっては、もうあなたの事、怒れないわ」
才加の血の気が引いた。
「に、日記って…読んだの!?」




