二度目のキスは
保管庫にワクチンがいっぱいになったあと、宣言通り博士は仮想空間に旅だった。
「…私はあのゲームの中で、母さんに会えなかったんだよなぁ。どこにいるんだろうね」
「博士が見つけてくれるといいね…。」
ほぼ全快したいつきと輝羽は、いつきの寝室で朝食をとっていた。地下都市の機能はほぼすべて眠りについていたが、ここ数日、少しづつ復旧させている。無人のカフェテリアのキッチンを動かして、輝羽は玄米ブレッドとソイミートのパテに紅茶、樹はチョコレート味のシリアルに豆乳をかけほおばっていた。食料関係はほとんどオートメーションで提供されていて、かつては地下の水耕栽培の収穫高によって違うメニューが並んでいた。今は数種類を、試験的に復活させている。チェックの名のもと食事をひとりじめできるので、この状況はかなりの贅沢だ。
「うん、昔と同じ味だね、おいしい!」
「皆を起こす前に、こんなにやる事があるとはね」
食べ物だけではない。地下街の様々な機能を復旧させなくてはいけない。長らく留守になっていたシェルターの掃除もしなければならないし、覚醒した人を迎え入れる準備は山ほどある。
2人はとりあえずできるところを行い、一日中掃除やオートメーション機能の整備に明け暮れていた。
「それにしても…輝羽が機械をいじれるなんて、意外」
機器類の復旧操作は、ほぼ輝羽が担っていた。博士に基本的な事を教わったのだという。
「ん?そう?私はいつきの回復ぶりの方がすごいと思うよ。もうほとんど傷ふさがってるじゃない」
「ふふ、輝羽がそばにいて、看病してくれるおかげだよ」
少し恥ずかしいが――素直に受け取るべきだろう。輝羽は少し勇気を出して、ありがとうと言った。するといつきはにこっと笑った。昔から変わらない、人なつこい笑み。
「私たち…まだお互い知らない部分があったんだね。輝羽の怖い部分も、最近知ったし」
「え?どういうこと?」
少し顔を曇らせる輝羽に、いつきはからかうように言った。
「博士が私を刺した時…輝羽、博士を刺し返そうとしたじゃん?普段怒らない人ほど怒らせたら怖いって、ほんとなんだね」
その時の事を思い出して、輝羽は少しうつむいた。
「あの時は、無我夢中で――でも、後悔してる。博士がよけてくれて、本当によかった」
「そうだね。私も、輝羽が人を刺す所なんて見たくないよ。でも…ね、ちょっと嬉しかったんだ」
いつきははにかむように言った。
「輝羽はめったに怒ったりしないのに、私のためにあんなことしてくれたのかって思うと。」
いつきはいつだって、こうしてストレートに気持ちを伝えてくる。輝羽は思わず身構えた。けれど…博士の言葉が頭の中に響く。輝羽は固く閉じそうになる口を意識して開き、自分の気持ちを強いて口に出した。
「そうね。いつきが傷つけられたって思うと、止められなかったの。本当に、勝手に体が動いてた。それにね…」
自分の気持ちを、ちゃんと本人に伝える。輝羽はそう念じて、重たい口を開けた。
「隔離房であなたが…キスしてくれた次の日の事、覚えてる?」
「うん。冬眠装置に入った日だよね」
「そう。私、それを聞いて思ったの。もう、二度とあなたと会えなくなったらどうしようって。そしたら…耐えられないほど、不安になって。立ってられないほどだった」
輝羽は顔を上げ、じっといつきを見た。彼女は少し驚いたような顔をして、輝羽の話を聞いている。
「私――ずっと、いつきのことがす……好きだったの。怖くて言えなかったけど、こんな事なら、ちゃんと言えばよかったって、あの時すごく後悔したの。」
そこまで言い切って、輝羽は目を閉じて、やりきったように息をついた。一仕事した気分だ。
しかし、いつきは黙っている。少し不安になりながら輝羽が目を開けると、いつきは目を見開いたままぼたぼたと涙をこぼしていた。
「わっ…ちょっと、大丈夫!?」
輝羽は席を立っていつきの横へかがんだ。
「は…初めて、輝羽が…私に…そう言ってくれた」
「ごめん…私、臆病もので」
輝羽を見上げる樹の目は、涙の粒でめいっぱい光を閉じ込めたようになっていた。この愛らしいまなざしは―ミルキーだった時も今も同じだ。
「…いつきとずっと一緒にいたい。私も、そう思ってる」
そういって輝羽は、ぎゅっといつきを抱きしめた。いつきは同時にきつく輝羽を抱き返した。
「輝羽の心臓の音が、する」
「いつきの音も、聞こえる」
お互いに生きている。今、同じ場所で呼吸をし、相手の命を感じている。その事が得難い喜びであると、輝羽もいつきもわかっていた。同じ気持ち。
二人の腕はゆるみ…そして、お互いをお互いに与えるように、そっと唇を重ねた。
「輝羽…私、嬉しい」
唇を離して、いつきは少し辛そうな顔で輝羽を見上げた。
「でも、くるしいの――ここ、すごいドキドキして……」
いつきは輝羽の手を取って、自分の胸におしあてた。彼女の胸は本当に、早鐘のようにとくとくとくと脈打っていた。小鳥のようなその心臓。柔らかな胸のふくらみ。輝羽はかあっと身体のすべてが沸騰しそうになった。
「輝羽も、おんなじ……だよね……?」
いつきの手が、輝羽の顎にかかる。そして首筋から、もっと下へと――
指先で触れられているだけなのに、その境界線がとけて滲んで、ぐちゅぐちゅになってなくなってしまいそうだ。
そのくらい、身体が熱い。
「いつき……わ、私……」
「ね、私たち……どうしたら、苦しくなくなるかな」
少し掠れたいつきのその声に、輝羽は応えた。初めて、心の底に蓋をしていた場所を開いて――目の前のいつきに、触れた。
「輝羽……」
「ごめん……嫌だったら、言って」
「嫌じゃない――嫌なわけない、じゃん……」
いつきが目を閉じる。白い瞼に滲む紅色は羞恥か、期待か。お互いの心臓の音を感じながら、輝羽の口から抑えきれない気持ちがこぼれる。
「いつき、好き」
素肌が触れ合って、二人の境界が熱で滲む。いつきの白い肌。甘い香り。そして輝羽の秘めていた想い。ぜんぶまざってひとつになる。
「……熱いね、私たち……バターみたいに溶けちゃいそう……っ」
「……ふふ、そしたらどんなお菓子に使われるのかな」
クスクス笑いと、ささやきと、熱い吐息を道ずれに、二人は一歩踏み出した。
今まで知りたいけど知ることができなかった、近くて遠かった未知の場所へ。




