キャットファイトin現実世界
とっさのいつきの行動に驚いたのか、博士の腕がゆるんだ。輝羽はその機を逃さず博士の手を振り払った。
「輝羽、大丈夫!?」
床にはいつくばってせき込む輝羽の身体を、いつきが支えた。
「私はへい、き…いつきにげて、あぶなっ…」
輝羽が言い終える前に、博士がいつきの身体を羽交い絞めにしていた。
「いつき…だめじゃないの…勝手に出ちゃあ」
博士は万力でいつきを拘束しながら―ごく小さな声で、そうつぶやいた。
「博士…離して!もうやめよう、こんな事っ…!」
いつきは必死で博士と話そうとするが、彼女の耳にその言葉は届いていないようで、いつきはずるずるともといた装置の方へひきずられていった。ところがその時、博士の足をつかむ者があった。
「だ、ダメよ、いつきを…はなして」
博士は忌々しそうに舌打ちしたあと、歩みを止めた。
「勘違いしているようだがね、君たち…私は何も、悪い事をしようっていうんじゃない。これは皆のためなんだよ。おとなしく装置へ戻ってくれたまえ」
抑えた声でそういう博士に、輝羽は足元からくってかかった。
「そんな事言ったって騙されないわ!さっき私を殺そうとしたじゃない!あなたは何が目的なの?!」
ぐっと博士は言葉に詰まった。が、それは一瞬の事で、その口からとうとうと言葉が漏れだす。
「それは申し訳なかった。つい動転してしまって…。私らはまだ地上に出るには時期尚早だ。万全を期すためには、あと少し時間がいる。君たちもここにいては危ないから、早く装置に――」
「でも、外にはもう出れるはずよ!ドローンの通達にはそうあったもの!あなたは何で、私たちの覚醒を阻止するの?あの魔法少女の世界を作ったのは、あなたなの!?何のために?」
どう説明するのだろう、といつきはとっさに博士を見上げた。
「それはもちろん、冬眠中に皆の脳が機能を停止しないためさ。いくら眠っているとはいえ、ずっと使わないでいれば脳はさび付いて、覚醒が困難になる事もありうるからね。くだらないゲームだったかもしれないが、寝ながらするにしては、なかなか上等だったろう?」
「でも…でも、私たちはもう覚醒すべきよ。今後どうするかは、皆を起こして、話し合って決めるべきだわ!」
博士の事をはなから信用していない輝羽は、なかなか納得しない。一方すでに博士の動機を知っているいつきは、口をはさむタイミングを見極めようとしていた。
「はぁ…せっかく命はとらないでおこうと思ったのに」
だがとうとう博士は説得をやめて、深いため息をついた。いつきをつかむ博士の手が緩む。しかし彼のまとう空気は、緩むどころかビリビリと帯電するように膨れ上がった。殺気だ。その手が白衣の内側にすっと伸びる。
(まずいっ…!)
博士の行動を察したいつきは、それに気が付いた瞬間に博士を止めようと跳びあがった。
「っ…!!」
振り上げられたナイフを、いつきは無我夢中で止めようと輝羽と博士の間に入った。その結果―――輝羽の心臓を狙ったナイフは、いつきの背中にずぶりと突き立てられた。
「い、いつきっ―――…!!!」
どさりと倒れ込んだいつきの身体を、輝羽が金切り声を上げて受け止める。
博士はあっけにとられたように二人を見下ろし――その手から、血濡れたナイフが滑り落ちた。かちんと床にナイフのあたる音がして、輝羽は血走った目でそれをつかんだ。
「て、輝羽…だ、め」
「よくも…よくもいつきを…っ!」
いつきを床に横たえ、輝羽はナイフを手に博士に突進した。しかし博士はゆらりとよろけるようにして、輝羽の渾身の一撃を避けた。その目にはいつきしか映っていない。よろよろといつきの横に座り込み、その傷口を確かめる。
「ああ…い、いつき…いつき」
博士は自分の白衣を脱ぎ、それをいつきの背中に当てた。しかし血はどんどん広がる。博士は傷口をぎゅっと押さえつけながら背後の輝羽に声をかけた。
「止血しないと…!そこの手術室からガーゼをたくさんとってきてくれ…たのむ!」
その声は、先ほどまでの博士とは違い、しっかりと芯の通った声だった。敵だけど―…いつきのために、今は従った方がいい。そう思った輝羽はうなずき、走って隣の部屋へと向かった。
現実のいつきが、白い背中をさらして手術台にうつ伏せになっている。何度も人の身体をいじくりメスを入れてきた自分なのに、白くて小さいその背中を見ると、博士の手は震えた。久々のオペだった。
「ちょっと!しっかりしてっ!」
傷の部分をライトで照らす輝羽が、博士にそう喝を入れた。逆上して博士に切りかかってきた彼女なのに、今は冷静に博士の脇で作業の手助けをしていた。ストレッチャーを運んできたのも彼女だった。
「…わかった」
輝羽の射るようなまなざしを受けて、博士は己を取り戻した。もう止血もすみ、やる事は決まっている。裂けた背中の筋肉と皮膚を、縫い合わせる。それだけだ。
(大丈夫、簡単な仕事だ。やれ。)
博士はそう自分に言い聞かせ、縫合針をにぎった。
いつきの背中に刺さったナイフは、肋骨に阻まれて臓器にまでは達していなかった。背中だったのが、不幸中の幸いだった。しかし大事ないつきに傷が――それも、ほかならぬ自分がその傷をつけてしまったのだと思うと、喉が締め付けられるような心地がした。息が止まってしまうのかと思うほどに、苦痛だった。
(いつき――ああ、いつき…)
しかし今は手術中だ。手元が狂えば大変な事になる。博士はとりあえずすべての感情を脇に置き、手先に神経を全集中させた。
いつきの骨。肉。その上に貼る薄い皮膚。他の患者を見た時と同じように、博士は冷徹に目の前の傷の状態を判断し、手を動かした。集中で五感が研ぎ澄まされ、背中の裂け目からいつきの血の流れる音、そして心臓の音までも聞こえるかのようだった。
(ああ―――終わった……)
天上を仰いだあと、博士はがっくりと床に膝をついた。落ちそうになったメスを、輝羽が受け取ってトレイに乗せる。
「いつきの麻酔が切れるのはいつ?」
疲れ切った博士を労わるでもなく、責めるでもなく、輝羽は淡々と聞いた。その冷静さは、疲労した博士の胸の内をかえって落ち着かせた。
「あと数時間は寝ているだろう」
「それなら私がそばにいてみています。あなたは休んだ方がいい」
輝羽はじっといつきを見て言った。その表情はずっと年下の少女と思えぬほど落ち着いて、大人びていた。博士は輝羽にわずかに畏敬の念のような物を感じ、それと同時に―自分が不甲斐なく感じた。
「いや…私も一緒についているよ」
「……」
否定するでも肯定するでもなく、輝羽はだまって部屋の椅子にこしかけた。その静かな横顔に、博士は絞り出すように言った。
「…すまな、かった」




