いつきと輝羽
――温かい海の底に、浮かんでいるような心地がする。輝羽は目を開けようとしたが、まだ体がそこまで目覚め切っていない。顕著に感じられるのは肌の感覚だ。腕に、軽い痺れを感じる。そうだ、そこから覚醒薬が注射器で注入されたのだ。起きるときには自動でそのシステムが作動すると、この睡眠装置に入る前に教わった。
(そうだ―…私、装置に入ったんだ、いつきと、別れたまま…)
物心ついたころ、この地下街はすでにさびれていた。ウイルスによるパニックが起こり、自分と同じ年齢の女の子は皆、牢屋みたいな隔離房に閉じ込められた。ウイルスに感染しないために、と。輝羽の暗黒の日々が始まった。だってその時まだ輝羽は13歳だったのだ。13歳の女の子にとって、独りぼっちで閉じ込められる事ほど辛いものはないだろう。ウイルスの不安の中、誰とも接触する事を禁じられて一人きり―…。悲しがっているのは輝羽だけではなかった。周りの女の子や女の人も、この生活がつづくにつれ精神的に不安定になっていった。けれど偉い人の決定に従わないわけにもいかない。皆で生き残るために、仕方ない事なのだ――繰り返しそう説明され、輝羽は子どもながらも事の深刻さを理解し、独りで耐えなければと思っていた。
しかし――いつきは、大人しく閉じ込められて、めそめそしているような性格ではなかった。
彼女は、不思議な子だった。同い年だけど、輝羽より背は小さい。性格は、猪突猛進、天真爛漫。思った事をなんでもストレートに言うのに、きつい印象は一切なく、皆に好かれていた。根が純心だから、言葉や態度をそのまま表しても一切の毒がないのだ。明るい色の髪に、睫毛の長い真ん丸な目。やんちゃな性格のくせに、お人形のように愛らしい顔立ちだった。
輝羽と彼女の出会いは、赤ん坊のころまでさかのぼる。2人は同じ日に生まれて、病院で隣り合ったベッドに寝かせられた。それ以来輝羽といつきは幼馴染としてずっと双子のように一緒だった。輝羽は内気で口下手、なのに意思が強く、いつきは反対に、誰に対しても明るく優しかった。だから成長するにしたがって、輝羽は彼女に対して引け目を感じるようになった。彼女の側にいると、わけもなく胸の中がざわついて、息苦しくなるのだ。
その理由を一言で言えば―…彼女に、嫉妬したからだった。誰の目も引く彼女は、自分以外にもたくさん友達がいて、求められている。一方で自分には、いつき以上に中の良い友だちなんてしない。それに気が付いた輝羽は、怖くなってしまったのだ。いつか彼女が、自分以上の親友を作って去ってしまったら、その時自分はどうしよう、と。
そこで輝羽は、彼女となるべく関わらないように、一緒の空間にいることを避けるようになった。先手を打って、自分のほうが先に彼女から離れたのだ。消極的で、卑怯な手だ。だけど輝羽には、そうする事しかできなかった。いつきのように強い精神を持たない自分は、多分傷つく事に耐えられないから。
すると、いつきは当然戸惑い、輝羽に詰め寄った。『私の事が嫌いになったの?』と泣きながら詰め寄るいつきに、輝羽は何も言えなかった。彼女の薔薇色の頬の上に、透きとおった涙がぽろぽろと零れて落ちていく。今でもあの時の彼女の顔をはっきり覚えている。自分はなんてひどい事を彼女にしてしまったんだろうという後悔と、そして、彼女が自分のためにここまで涙を流しているという、満足感をはっきりと感じた――。輝羽は醜い自分が、ますます嫌になった。
その時から、いつきと輝羽は『親友』をやめた。しかし、だからといって輝羽はいつきを目で追うのをやめられはしなかった。彼女はこの地下街でひときわ輝く、エネルギーそのものだったから。古の人々が地上でそうしていたように、青空に遠く輝く太陽を見上げる気持ちで、輝羽はいつきを眺めていた。そして時折、太陽からの気づかわしげな視線も、感じる事があった。そのたびに輝羽の頬は紅潮し、胸の中は苦しくなった。そしてつくづく、彼女と離れて良かったと思った。少し目が合っただけで、こんなに心が乱されるのだ。今だに隣にいて「親友」をしていたら、自分はどれだけ苦しんで、またいつきを傷つけていたことだろう。
地下街での四季を何度も繰り返す間、いつきはどんどん成長していった。子どもから女子へ、女子から少女へ。その愛らしさには磨きがかかり、彼女が美しい母の手によってつくられた繊細な服を着ている様は、まるで生きたビスクドールのようだった。けれど彼女自身はそんな服装を好まず、逆に颯爽と動き回れるような男の子のような服装を好んでいた。
一方輝羽は、そんな彼女の見た目にも、ひそかに惹かれていた。可愛らしいフリルのワンピースに、パステルカラーのリボン。けれどどれもこれも、大人顔で長い黒髪を持つ自分には似合わない。輝羽は飾り気のない、黒や灰色の服ばかり着て、自分の弱い部分をどうにかしたいと、走り込みやトレーニングに傾倒しはじめた。一人で静かに、もくもくと作業の手や身体を動かす。そんな少女へと成長していった。
そんな輝羽でも、ずっと独り閉じ込められて暮らすのは辛い事だった。一人だけだと、家事も掃除もすぐに終わってしまう。無為の長い時間、頭に浮かぶのは自己否定、過去の後悔の事――。それを払拭するために、ひたすらに独房のような室内で、ひとりでできる運動を繰り返していた。身体を動かしていれば、嫌な事なんて考えられない。限界までトレーニングを身体に課したその後には、頭が真っ白になる忘我の時間が待っている。輝羽はそれらを味わうのが好きだった。トレーニングや、料理に修繕に掃除などの、さまざまな手仕事。手間をかけた分、成果が目に見えるものたち。
そんな中、輝羽が仰天する出来事が起きた。
いつものように腹筋にいそしんでいたある日、ぱかっと天井に近い部分に嵌った通気口が開いて、カランカランと音をたてて落ちた。そしてその穴から――なんといつきが、顔を出したのだった。
「輝羽…やっと会えた」
話しかけられた瞬間、輝羽は固まった。
「な……なんで……」
「私、割り振られてずっと隣の部屋にいたんだよ。気が付かなかった?」
「えっ……」
予想外の事に、輝羽は固まった。彼女と話すなんて、何年ぶりだろう。緊張して、身体がカチコチに固まる。
「輝羽、背が伸びたね。私なんかより、ずっと大きいね」
そう言ういつきは、前とちっとも変っていないように見えた。淡い色の髪に、天真爛漫な笑み。
輝羽が何もこたえられないその様子を見て、いつきは少し眉を寄せてうつむいた後、輝羽の顔の横に手をつき、じっと覗き込んできた。
「輝羽……今でも、私の事、きらい?」
「そ……そんな、こと……」
近い、近すぎる――!その距離にとまどう輝羽は、切れ切れにそう言うのが精いっぱいだった。だけど、いつきはどいてくれない。
「……じゃあ、なんで……私と話さなくなったの? あの時……」
至近距離で、ぎゅっと辛そうに細められた目が、輝羽の目に信号を送っていた。どうして?おしえて!……と。しかし輝羽は、その距離におびえるばかりで、何か言おうとしても言葉にならない。彼女の吐息、そして身じろぐ衣擦れの音。甘いバニラのような彼女の匂いが鼻を通って、輝羽の脳に届く。その匂いを認識した瞬間、背筋が震えて、頭にアラートが響いた。こんなに彼女の近くに居ては、ダメだと。
いつきと一緒に行動しないようにしようと決めた幼い日の決意を、輝羽はとっさに思い出していた。
彼女に対する嫉妬、失う恐怖からの独占欲――。いつきと『親友』をやめたのは、それだけが理由ではなかったと。




