博士という人(3)
2896年 11月
ワクチンはまったく完成しそうにないというのに、少ない研究者たちがどんどん減っていく。皆、発症してしまったら冷凍装置に入れるようにしている。貴重な頭脳を持った人間だから、死なせるのは惜しい。こうして残った人間の肩に、ワクチン完成という荷物が重くのしかかってゆく。押しつぶされてしまいそうだ。
このまま最後の一人になってしまったらどうしよう―…そう思った時、私はふと思いついた。冬眠装置に入ってからも、頭の中で研究が続けられればいいのに。と。
ピンチにこそ、いいアイディアが浮かぶ。そう言ったのは誰だったか。
私はとりあえず、脳科学やVR空間のレポートや研究をアーカイブからありったけ集めて目を通した。そして思った。不可能ではない、と。
2897年 12月6日
今日は記念すべき日だ。とうとう最後の一人になってしまった私は、脳を仮想空間につなげる手術をドローンとAIを使って自分で行った。自分で自分を褒めてやりたい。
私がこの世界を作り上げて、今日で一日目。最初に言語があった。はは、まるで神にでもなった気分だ。プログラムコードによって作り上げたこの仮想世界に、私は思念体として存在している。この世界のシステムとビジュアルは、かつて地上で星の数ほど流通していたというゲームを適当に一本選び、そっくりそのまま流用した。イチから作るのは面倒だったから。箱庭みたいな架空の街だが、地下育ちの私には目新しくてなかなか気に入っている。これからやることはたくさんあるから、リストを作らなければいけない。
私は久方ぶりにわくわくしていた。ワクチンを作るだけではない―…この仮想世界には、無限の可能性があるのだ。この空間なら、私にできないことはない。
たとえば、そう、15歳の絵瑠と、また1からやり直す事だって。
2898年 2月14日
結論から記そう。私は絵瑠をこの世界に呼ぶことに、失敗した。私が立ち合いのもと成功無比なドローンと手術をしたのに、彼女の脳は電極を拒んだ。つないでもアクセスできないどころか―…彼女の脳は何の反応も示さなくなってしまった。まるで魂が抜けてしまったように、ニューロンもシナプスも働かない。仮想空間に移動するはずの彼女の意識はどこかへ消えて、私は永遠に彼女を見失ってしまった。今は心臓だけ動いている。
なぜうまくいかなかったのか、わからない。早急に原因を究明するべきなのに、私はそれをせずにこんな日記を書いている。
思えば、すべてをこの日記に書いてきた。仕事の事も、研究の事も、私生活の事も。わかっている。現実から逃げているだけなのだ。私は誰にも、自分の事を話せる人間がいない。家族も、友達もいない。だからこの日記に自分の気持ちを書くことで、それをコミュニケーションの代替行為としている。バカみたいだ。
脳は反応を失ってしまっても、絵瑠の眠る顔は前と変わらない。生きているような死人だ。自分のしでかしてしまった事は、とりかえしがつかない事だ。絵瑠はもう、冬眠から覚めても起き上がれないかもしれない。それなのに、私はいまいちそれが実感できていない。悲しみも責任も感じない。私の心はとうとう、冷えて凍って狂ってしまったんだろうか。
自分が彼女を殺したのに、そんな気がしないのだ。ただこう思う。彼女は私の作ったの仮想空間のどこかにいて、私を驚かすために死んだふりをしているんじゃないか、と…。
さっきから、口の中がいやにしょっぱい。私の意思に反して、目からは涙が出ているようだ。煩わしい。さっさとこの記録を切り上げて、仮想空間の中に戻ろう。別に日記はそこでだって書けるんだから。
2899年 8月30日
ワクチンの開発をそっちのけで、私は冬眠装置で眠る無数の脳に電極を埋め込む事ばかりしている。絵瑠が失敗してしまったので、他の人もそうかと思ってした事だったが、奇妙な事に他の住民は失敗することはなかった。なんで、絵瑠以外は成功したんだ!?驚きと怒りで意地になり、次々と何も考えず手術をし続けてしまった。もちろん本人の許可など取っていはいない。絵瑠の時だってそうだった。私は自分の勝手な欲望を満たすため、他人の身体にメスを入れているのだ。許されない行為である。
昔研究室のメンバーの会計係が、その年の研究費を使い込んでしまうという事件を起こした事があった。なぜ、いつかばれるのにそんな事をするのだろう?物資の限られたこの地下街には、貧富の差も、分不相応な贅沢品もない。よって欲しい物は申請すればたいてい与えられる。しかし、ときおり金に異様な執着心を持つ者がいるのだ。地上で経済が活発だったころの名残なのだろうか。だが、自分にはまったく理解できない。そのとき私はそう疑問に思った。彼の気持ちが全くわからなかったし、軽蔑してすぐに忘れた。
だけど今は、彼の気持ちがよくわかる。のどから手が出るほど欲しいと思っていたものが目の前に転がっていて、手を伸ばす事を我慢できる人間がどのくらいいるだろう。
少なくとも私はできなかった。会計係のあの男より、私はずっと下劣だったのだ。盗むのなら、金の方がまだましだ。もう私は、人間ではない。悪魔に魂を売り渡してしまった。
最初は罪悪感もあった。絵瑠の失敗が尾を引いていたからだ。だが自分の手術が成功し、日に日にこの街に人間が増えていくのを見て、だんだん研究者としてうれしい気持ちが勝っていった。ゲーム内のキャラクターに、実際の住民の意識をわりあててつなげる。あくまで「意識」だけで記憶はついてこない設定にした。混乱をきたさないように、「環境破壊」「地下街」「地球」等、もとの生活を思い出させるワードはロックをかけた。だから私以外、この世界が作られたゲームで、現実の自分が睡眠装置に入っている事は知らない。ウイルスで人類が絶滅しかけたことも、地上に出れず地下街に閉じこもって暮らしていることも。
だから彼らは、この小さな街で太陽の光を浴びて、幸せそうに暮らしている。まやかしの中で、自分はとてもいい事をしたのではないかという気持ちになってくる。そう、本当に神になった気分だ。
2900年 11月23日
この街には四季があり、日付ごとにそれが感じられるようになっている。今は晩秋で、少し肌寒い。ゲームとは大したものだ。私はすっかりワクチンの事など忘れて、日がな一日自分だけの研究所にこもって、好きな研究に没頭していた。ここに居る限り食べ物も睡眠もいらない。人と一切かかわらなくても、私はコマンド一つでこの世界のすべてを掌握し、支配する事ができる。本当に便利だ。
だけど時々は起きて、皆の肉体の方をチェックしなければいけない。ちゃんと電極が正常に作動しているかどうか、変化がないかどうか…。手術した人々の装置を一つ一つ確認していたら、ふと私の目に子どもの棺が目に入った。私はその子に―目を奪われた。そう、絵瑠の子だ。この顔立ち、髪の色。間違いない。私はその子の記録を見た。眠りについたのは97年の冬。という事は、この子は15歳だ。身長はあまり高くない。髪は短く切られているが、それを別にすれば、まったく絵瑠と同じ姿をしていた。もしかしてあの日、このカタコンベで見た少女は、幻ではなくてこの子だったんじゃないか―?と思うくらいに。きっと性格もそっくりなのだろう。3つ子の魂100までという。小児科の廊下を走り回っていた時のこの子の笑顔の屈託のなさは、まさに絵瑠と同じものだった。誰にも分け隔てなく笑いかけ、居るだけで周りの人間を幸せにする。この子もそんな子だったのにちがいない。
でも、この子は絵瑠ではない。見た目は瓜二つだが、それは覆す事はできない事実だ。
けれど―…その顔はまさに、少女だった時の絵瑠、なのだ。
15歳。それは彼女が私を捨てた時の年齢だ。私の中で、低い声がささやく。
仮想世界に送れば意識などどうにでもなる。自分で素材を用意して、あの時の絵瑠を写し取ったようなアバターを作り上げて、そしてこの子を繋げば―…
現実の世界でも仮想の世界でも、絵瑠とは失敗してしまったけど、この子となら、新しくやり直せるんじゃないだろうか―…。
そう、絵瑠じゃなくてもいい。彼女と同じ血を半分持ち、似ている魂を持っているこの子ならば。
こんな事まで考えてここに記しているくせに、私は何をためらっているんだろう。もうとっくに、良心も倫理も捨てた身ではないか。いまさら失うものなんて何もないし、この世界なら、何をしても許される。現実とは違う。だって私のための世界なんだから。




