博士という人
2880年 2月14日
今日、私は16になった。最悪の誕生日だった。だって絵瑠が、結婚を決めたんだから。嬉しそうに私のシェルターにまで報告に来た。私がおめでとうと言うとでも思ったんだろうか。
ああ、でも嘘でもそういえばよかった。なんであんなことを言ってしまったんだろう。「あんな奴と結婚なんて、やめなさい」なんて…。今さら何を言っても無駄なんて、私が一番わかっていたのに。絵瑠はもうずっと前に、私よりもあいつを選んでいたんだ。私がいくら、絵瑠の事を思っていても――幼馴染の私は、彼女にとってはただの友達。とつぜん知り合って付き合い始めたあいつよりも、下の存在。それにしても、なんであんないけすかない奴がいいんだろう。声と体ばっかり大きい。地上世界を覗こうと竪穴をよじ登って大目玉をくらったようなバカだ。たぶんこの地下街で一番バカだ。それに空間の足りないこんな場所で、身体能力が良くたってなんの役にも立たないだろう。大事なのは頭なのに。なんで絵瑠はそれがわからないんだろう。
……本当はわかってる。私には絵瑠しかいないけど、彼女はそうじゃない。だから私は、選ばれなかったんだ。
6月20日
今日、私は飛び級した。私の書いたレポートが、先生たちに認められたからだ。水耕栽培で、もっと多く収穫を得る方法。LEDの力で育つように野菜の遺伝子を組み替えればいいのだ。今の塩基配列は、すでにもう古いと私は推察している。これが実現すれば当面の食料の不安が減るだろう。
テロ組織が衛星をジャックして落とすと予測した私たちの祖先は、十分に準備して地下に潜ったという。けれど現在地下街の人口は減少する一方だ。最初は10万人いたというのに、今は1万人。昔は地上に76億人も人がいて、それぞれ食べて生きて繁殖していたなんて信じられない。地下世界しかしらない私たちは、そんな話を聞くたびに作り話なんじゃないかと思う。いつか地上が、衛星が落ちる前の環境に戻るまであとどのくらいなのだろう。地上のドローンからのアラームは、もう何十年もなる気配がない。中継カメラに映る地上は死の灰に覆われていて、すべての生命は消えているように見える。LEDに照らされているこの地下シェルターよりも、よっぽど暗い。この分だと、私が生きている間にはとうてい出られないだろうな。そう思うと憂鬱なような、ほっとするような複雑な気持ちになる。
絵瑠もあいつも、きっとこんな気持ちなんて知らないんだろう。知る気もないに違いない。仕方ないから顔を出したけど、結婚式になんて行きたくなかった。バカみたいに笑うあいつの横でつられて笑う絵瑠。地下の生活は先細っていくばかりなのに、なんであいつらはあんな能天気でいられるんだろうか。帰り際、輝羽から受け取ったお祝いのお菓子を、私は見もせずゴミ箱に放り込んだ。食べ物を無駄にするなんて、この地下街では犯罪行為に等しい。けど、絵瑠が手作りしたそれを―私の好きなチョコレート味のクッキーを…私はもう、二度と食べたくない。チョコレートを食べるたびにきっと思い出してしまうから。彼女がいつも焼いていたそのお菓子の味を。焼きたての天板をもって、彼女がキッチンから嬉しそうに私を呼ぶ光景を。あの位置は、あの男のものになった。私が再びその光景を見ることは、永遠にないのだ。
次は冬眠装置の原理に取り掛かってみたい。精子だって生きたまま冷凍保存できるのだから、人体だってできるだろう。俗にいうコールド・スリープというやつだ。もし完成したら、私は喜んで被験者第一号になる。失敗して死んだって別にかまわない。あんなものをこれからずっと見せ続けられるんだったら。
2881年12月10日
ここの所、ラボは妙に忙しい。風邪が流行って、私も他の研究者も医者の真似事をさせられている。私は人体医学は専門外なんだけど…。ともあれ今日、やっと人心地ついて記録ができそうだ。毎年冬にはやるなんてことないウイルスだが、この地下で風邪が流行るのはごめんこうむりたい状況だ。患者たちの隔離と消毒を徹底し、なんとか拡大をまぬがれてよかった。しかし地上の季節など関係ないのに、人々は地下でも冬に風邪をひくのは面白い現象だ。
こんな事だから、冬眠装置の研究も進まない。理論はほぼ組み立てられているが、まだほとんど私の頭の中だ。これらをメモにおこして、そのあとレポートにまとめなくてはいけない。
…とはいっても、ただの趣味だ。理論的に可能だとしても、この地下で実際に冬眠装置の作成に取り掛かれる事はないだろう。でもやっと非番になった今日、私は何の役にもたたないそのレポートの作成をしたい。何かしていないと嫌な事ばかり頭に浮かぶからだ。
あれは本当に不意打ちだった。最近ラボでずっと寝起きしていたから、今朝戻って久々に絵瑠の顔を見た。彼女は変わっていた。高いかかとの靴を履くのをやめて、修道僧みたいな味気ない服を着て、長かった綺麗な髪を、男みたいに切ってしまっていた。予定日は来年の頭だと、笑っていた。
私はもう、このシェルターを引き払ってラボに引っ越そうと思う。
2882年 5月5日
遺伝子組み換え野菜の開発は順調だ。ただ、去年の冬から流行っている風邪は、まだ人々の間でじわじわと生き残っている。ほんの数名だが死人も出た。ずっと地下に籠って暮らしているから、やはり人類全体の免疫力が弱っているのだろう。何か改善する方法を探したほうがいいかもしれない。私は、積極的に患者たちの様子を見に行って、検査をし、状態を聞く。周りの先輩たちは、熱心なドクターだと私を褒め、年寄りの患者たちもありがとうと言ってくれる。そう言われるのはもちろん、嫌な気はしない。けれど少し良心が痛む。私が彼らと面会するのは…口実を作るためだからだ。絵瑠に会いにいかないための。
子どもは、1月に無事生まれたらしい。彼女はいまでも私の事を「親友」という。絵瑠が結婚するとき、あんなにひどい事を言った私なのに。だから私は、子どもの顔を見に来てほしいと言われたら断れない。だけど行きたくないから、重症患者と積極的に接触している。私は保菌してるかもしれないから、子どもや老人とは接触不可なんだ―…。と、何度彼女への言い訳に使っただろうか。そういうと、さすがの絵瑠も無理強いしない。最近は連絡も間遠になってきた。いい兆候だ。このまま自然消滅して、二度と彼女と顔を合わせずに済めばいいのだが。
2885年 8月3日
医者の真似事をするようになって数年。気を付けていたのに、とうとう私が発熱してしまった。熱に浮かされたような頭で、今これを書いている…。
この間、小児病棟で予防接種に来ていた絵瑠とその子どもを、私は偶然見てしまった。子どもはもう、走り回るほど大きくなっていた。廊下を走り抜けるその子を見て、私は驚いて書類を落としてしまった。あのパタパタ足の裏を蹴り上げるような走り方。すれ違う人誰にでも笑いかける底抜けの明るさ。桃色の唇に金色のくせっ毛…。魂消るとは、こういう事を言うんだろうか。生き写しなんてものじゃない。その子は―…小さいときの絵瑠、そのものだった。
しばらく私は、廊下に立ち尽くしていた。絵瑠に気づかれなくて、本当によかった。あとでカルテを漁ったら、あの子の名前は「いつき」で、年が3歳だと言う事がわかった。彼女の子どもが娘だったとは知っていたが、まさかあんなに似ているなんて。あの子を見て取り乱してしまった自分自身に、私はぞっとした。あんな小さい子相手に、私は一体何を考えているんだろう。
それから頭がじわじわ痛くなりはじめて、このザマだ。明日になったら熱が引くといいんだが…




